川上未映子

2017.06.21

ケサランパサラン、魔法のような

 

ケサランパサランさんのサイトで、ショートストーリー&インタビューが掲載されております。ぜひ、お読みくださいませ!

ケサパサという愛称で、思えばはじめてメイク用品に手をのばした16歳のあの春らへん、忘れもしない大阪の天王寺駅にはラ・セレナという、いくつものお店が集まった場所があって、毎日毎日色々なものを眺めていた。あのときのケサランパサランのきれいな色、魔法がひとつひとつ小さなかたちになったみたいな色の羅列、わたしは今でもはっきりくっきり覚えてる。あーあ思いだすなあ、女ともだち、学園祭、制服とかそれはもう色々、あれからどれくらい時間がたったのかわからないけれど、今も、あのときとおなじ気持ちで、こうして愉しむことができるのはすごいことだね。

2017.04.25

みみずくは黄昏に飛びたってどこいくん

mimizuku『みみずくは黄昏に飛びたつ──川上未映子 訊く、村上春樹 語る──』が刊行されます。
 わたしによる村上春樹ロングロング・インタビューでして、4日間、十数時間にわたって行ったものを収録しました。 村上さんの新作長編『騎士団長殺し』を中心にしたインタビューというかたちで始まったのだけれど、結果的に作品を通して村上さんの全仕事をめぐりにめぐる内容になりました。

 2015年に一度、柴田元幸さん責任編集の『MONKEY』誌上で、このときは村上さんの『職業としての小説家』にかんするインタビューをさせていただいたのですが、「このようにインタビューするのは一度きり」と思っていたので、網羅的&駆け足的にぎゅぎゅっと凝縮した内容でした。それで今回の語り下ろしというかインタビュー下ろしの部分はそこからさらにさらに分け入って、しぶとくしつこく、ぬらぬらと、あれもこれもみっちりふんだんに村上さんにお話を伺うことができました。

 ご存知のように、村上さんはこれまでたくさんエッセイを書かれ、また数え切れないほど取材を受けてそれが一冊になっていたり、また、『村上さんのところ』のように読者のみなさんからじかに質問を受け取って回答されていたりして「ここに、わたしがいったい新しく何をぶっこめると言うのだろう……」という懸念もあったのですが、終わってみると、ここでしか読めない一冊に仕上がったのではないかと、そう感じています。

 ちなみにタイトルはわたしが考えたのですが、ベースはもちろんヘーゲルのミネルヴァの梟で、今回『騎士団長殺し』にみみずくが出てくるので、合体しました。みみずく、かわいいですよね。梟と何が違うのかというと、みみずくには耳がついているのだと。木菟。木にいるうさぎってことでなるほど漢字もすごくかわいい。秋にゲラをちょうだいして読んでから、ずっとみみずくがわたしの頭の中にあったので、みみずくをタイトルにつけることができて本当にうれしい。そして今回は、なんとKindle版も同時発売。紙で、電子で、お好きなほうでぜひぜひお読みくださいませな。

2017.04.17

「声のライブラリー」で朗読の、春と夏のあいだ

 「若いとき、桜は大変なものだった。今でもその理由はわかるけど、しかしこのあいだ猛烈に咲く桜の樹の下を車でくぐり抜けたとき、やられる感じはもうしなかった。この花の、どうもこの世のものではないような雰囲気を、時間の柔らかな底をすっかりさらって胸にそっくり移し変えるその手つきを、今やわたしは堂々と無視し、そしてうたた寝さえしてみせたのだ」

  これは去年の今頃に書いたものだけれど今年は自分がうたた寝をしたことにも気づかない。桜は一年ごとに記憶と見分けがつかなくなってゆく、来年はもっと遠くなり、やがてそれが誰の記憶であるのかも問わずに流れてゆくんだろう。桜とわたしの距離がそんなふうに膨らむのに任せていたら、町にひとつだけ咲いている立派な桜の樹の下で交通事故に遭ってしまった。体は無事、心も無事、桜はもっと静かに無事(自転車は廃車)。

  こちらに出演します、これまで刊行した2冊の詩集『先端で、さすわさされるわ そらええわ』『水瓶』のなかから読みたいと思います、でも不思議、いまだに朗読ってほんとに不思議。何をしているのかがわからないからそれも合わせて楽しみにしています。お申込み方法がちょっとお手間ですけれど、みなさまふるって、どうぞよろしくお願いします。

おかげさまで定員に達しましたため、応募を締め切らせていただきます。ありがとうございます。当日を楽しみにしています!

第89回「声のライブラリー」
自作朗読と座談会
2017年5月13日(土) 2:00~4:00
会場 日本近代文学館 ホール
司会:伊藤比呂美氏。平田俊子氏、川上未映子。
参加料2100円(学生1600円)。先着80人。
申込方法はこちらのページでご覧ください。

2017.02.21

「女の子、登場」の登場

ワコール「ウンナナクール」のコンセプト&コピーを作りました。

アート・デレクションは「れもんらいふ」の千原徹也さん、イラストレーションはエド・ツワキさん、そしてモデルはペティート・メラーさんです。

新しく変わるウンナナクールのコンセプトを、と今回ご依頼をいただいたとき、

女の子の、女性の、体とか気持ちとかぜんぶひっくるめたものをとにかく肯定できるようなものにしたいと思いました。

「女の子の人生を応援する」、これからのウンナナクールのテーマです。

ポスターはもちろん、フィッティングルームの壁でも文章が読めたり店頭ではクリアファイルやポストカードなども展開していますので、ぜひ足をお運びくださいませな。

 

 

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2017.01.13

短編小説「シャンデリア」を書きました

 

 みなさまあけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。わたしは年末も年始もないような状態で、まず第一に牡蠣にあたって地獄のクリスマスイブとクリスマス、過去にあたったのは牛肉のたたきで忘れもしない17歳のとき。二度とごめんだと思っていたけれど二十年後にかたちを変えてやってきた。牡蠣、大好きな牡蠣・生牡蠣。つるんとしててさあ、最高だよね。

 

 しかしほんとに辛かった。でも当然のことながら牡蠣を恨む気にはならないしなれない、これまでいい夢みさせてもらったのだもの。そしてきっとまたつるつると食べるような気がする。しかしこれって花粉とおなじ原理なのだろうか。つまり花粉というのは個人に花粉リミットみたいなものがあってそれがフルになると花粉症を発生すると。牡蠣もおなじなのだろうか。つまりわたしの牡蠣リミットはすでにいっぱいになってしまったのだろうかとかそういうこと。

 

 そして小説を書きました。短編小説で「シャンデリア」といいます。いつか書いておかねばと思っていた買い物小説というかデパート小説で、50枚くらいです。そして今回はデジタル配信というか、kindle single というかたちで発表することになりました。みなさんどうぞお読みくださいませな。しかし、大好きなデパートについて書き始めたのだけれど、なぜ、いつも、このような展開になってしまうのだろうかわからない。デパートだっつうんで色んなブランドがたくさん出てくるのだけれど、しかしこの小説の情熱の核は何と言ってもトム・フォードのアイシャドウ「ココア・ミラージュ」なんである。かつてこんなに、よくもまあこんなに素晴らしいアイシャドウがあっただろうかと思う真に素晴らしい逸品なんである、って何のことかわかりませんよね……どんな小説なのか続きはどうぞ本編で、よろしくお願いしまーす。

 こちらからよろしくお願いいたしまーす。

 

 そして、年末から、またもや「日経Dual」でエッセイ「びんづめ日記2」の連載が始まっております!そしてご挨拶が遅れましたが、長らく連載してまいりました週刊新潮の「オモロマンティック・ボム!」も無事に完結し、このふたつに関しましてもまた、改めてご挨拶をば!

 

2016.12.21

池田晶子さんへの質問についての話から

 池田晶子さんについてお話します。
 じつは、わたしは生前に聴衆のひとりとして質問をしたことがあり、そこからささやかな発展がありました。当日はその質問についての話から始めたいなと考えています。
 どうぞよろしくお願いいたします。


※予約は満員となりました。ありがとうございます。
「池田晶子の言葉と出会う」 トークショー
第1回講演者・川上未映子
2017年1月16日 (月) 19時00分~(開場:18時30分)
八重洲ブックセンター本店 8Fギャラリー
参加費 500円(税込) イベント当日 会場入口にて整理券をご呈示の上、参加費をお支払いください。
募集人員 80名(申し込み先着順) ※定員になり次第、締め切らせていただきます。
1階カウンターにてお申込みください。参加整理券を差し上げます。
また、お電話によるご予約も承ります。(電話番号:03-3281-8201)
※詳しくはこちらをご覧ください。

2016.12.20

響きあっているなと感じました

2016.11.18

雨宮まみさんのこと

 10年前に、吉田アミさんと開催したイベントのゲストに来ていただいたのが雨宮さんとの出会い。当時わたしは音楽をやっていて、詩を書いていたけれどまだ小説は書いていなくて、30歳になるかならないかの頃だった。

 薄暗い会場で誰が誰かわからないのに、客席の後ろのほうでまあるく浮かびあがるきれいな女の人がいた。座席って暗いし、当日も長丁場だったし、みんなそれぞれリラックスできる姿勢でゆるゆると座っているものだけど、黒い服を着てショートボブの髪型をしたその女の人はひとりだけ異様なほどに背筋がぴんと伸びていて、ほんとうにぴくりとも動かないで、まっすぐ舞台のほうを見つめていた。それが今でも目に焼きついている。登壇されたあとで、それが雨宮さんだとわかった。
 
 それから、ときどきメールをするようになって、たまに電話をするようになった。当時も今も、わたしには電話して話をするような友だちがほとんどいないから、最初に電話でしゃべったときの雨宮さんの声をよく覚えてる。そのとき座ってて今はもうないソファの柄なんかもはっきり覚えてる。

 最初はなんだったっけ。そうだ、小説が新人賞を授賞してばたばたとしている時期で、某男性週刊誌からすごく失礼な取材の依頼がきたことがあったんだった。でも、わたしはその雑誌がどういう雑誌か知らなくて、それで雨宮さんに電話して教えてもらったんだった。雨宮さんは「**かあ。微妙だねえ。受けなくてもいいような気がするなあ」と笑って、それからヴォネガットの話とか、ペン回しの動画の話とかしたんだった。あれはなんであんなにどきどきするんだろうね、みたいな話。

 そんなふうに、「髪型、ツーブロックにしました」とか、「出産して生活が変わりすぎて白目」みたいなメールや電話はほんのたまにするけれど、じゃあわたしは雨宮さんの友だちだったのかというと、なんて言うのが正しいのかわからなくなる。

 おなじ歳で、本を贈りあったり、時々ラインをしたりするけれど、わたしは雨宮さんの個人的なことは何も知らないし、ふたりでお酒を飲みにいったこともないし、考えてみれば数えるほどしか会ったことがない。でも、わたしは雨宮さんの本を読んでいたし、ウェブの連載を読んでいたし、インスタグラムで写真を見ていたし、雨宮さん本人にふれている時間よりそっちの時間のほうが多くて、だから、読者だったというのがやっぱり正しいんじゃないかという気がしてしまう。

 物を書いている人同士の付き合いには、ちょっとした緊張感と難しさがあると思う。

 それは、どうしても、その人との純粋な関係の前に、というか、あいだに、作品(その人の書いている言葉)が存在してしまうから。
 「作品と人、どっちが重要か」とか、そういう話じゃなくて、なぜか自然に、作品が先にあってしまうようになる。「書いている物がその人」みたいになってくるところがある。だから、その人にとってつまらない本を書けば、自分はその人にとってつまらない人になるような気がするし、駄作を書けば、その人にとって自分が駄目な人であるような気がする。
 
 これはある意味でまっとうなことで、どんなかたちであれ物を書いて署名して世に問うってことは、それがどんなに仲のいい人からでも、気心の知れた人からでも、つねに厳しく判断されるのは当然のことだからだ。そうすると、お互いの作品を読んで、さらに会って、なんてことは、そのつどにすごいパワーと緊張を強いられることになるから(物書き同士が会えば、作品の話は避けられない)、だんだん会えなくなっていく。日々の忙しさのうえにそのプレッシャーが加わって、自然に距離ができていってしまう。だから、それがどんなに好きな人であっても、仲良くしたいなとふと思ってしまう人でも、文章を書いて生きている人に、友だちとは言っては(思っては)いけないんじゃないかとそんなふうに感じてしまうところがある。最初はわたしも混同することがあったけれど、それは正しくないんじゃないかと思うようになった。だから、小説を書きはじめてからできた小説家の友だちというものがわたしにはいないし、知り合いという程度の間柄じゃないと、作品にたいしてフェアではいられないような気持ちがあるから、仕事以外では誰にも会わなくなっていく。

 でも、逆のことも起こる。物を書いている人であれば、その人が書いている物を読んでいることが、なんだか、会うことや話すこと以上に重要な行為になっていくような感覚もしてくるのだ。
   だから、雨宮さんと会ってなくても、雨宮さんの連載をリアルタイムで読んでいると(雨宮さんの書くものがおそらくは雨宮さんの実感に多く拠るものだからかもしれないけれど)、雨宮さんに会ったり話したりする以上の濃さで、何かが、そこにあるような気がした。大勢の人に向けて書かれたフィクションにふれているだけなのに、どんどん好きになってしまう。彼女が今考えていることとか、感じていることとかを知ることができているような、そんなような、一方的な、実感がありました(それは同時に錯覚でもあるんだろうけれど)。

 そんなふうな仕方でだけど、わたしが知ることのできた雨宮さんという人は、気遣いの人でした。なんてことない数行のメールから、会話のひとことからにじみ出ていました。
 「大変だよね、しんどくないですか」みたいなことをさりげなくきいてくれて、自分もしんどいだろうに、すごく気を遣ってくれる人。

   そして、とても聡明な人でした。うっかりすると、いつまでも、何でも話して聴いてほしくなってしまうような不思議なちからと、優しさを持った人。

 礼儀正しい人でした。相手がどう感じるかを察する人、そしてフェアな人でした。自分が傷ついてきた色々なことを人には味わわせないように、慎重に言葉を選ぶ人。

 いつだったか、わたしの作品がかかわった舞台を見に行ってくれて、その感想を電話できいたらあんまりよくなかったみたいで、わたしはしゅんとしてしまったけれど、でも正直で、あと、それから、ときどきネットのやりとりでみせる気の荒いところも好きだった。真面目で。読者のことを本当に大切に思っていて。情が深いけど、押しつけがなくて。「穴の底でお待ちしてます」なんて、あれはもう本当にすごかった。毎回ため息をつくほど見事で、あんな回答は誰にもできない。

 読者のみなさんが、彼女の文章から受け取ってきたものを、わたしも読者としていつも受け取っていました。技術も感情も総出で、雨宮さんは書いていたよね。それが何かなのかはわからないけれど、彼女はいつも、彼女が惹かれて振り回されてどうしようもなくて、それでも抗えない強い何かに、尽くしているようにみえました。
 
 初夏に、『おめかしの引力』という本の書評をしてくれて、すごくうれしくて、ありがとうって連絡しようと思ったんだけれど、書評は仕事なんだし、そんなふうに個人的にお礼を言うのはかえって失礼なんじゃないかと思って結局、そのことを言えないままでした。

 それから、今月のファッション雑誌に雨宮さんが載っていて、赤いドレスを着ていて、それがすごく素敵でそのことを伝えようと思っていたのだけれど、じつはわたしが企画している別の仕事で正式にお願いをしようと思っていたときだったから、そのまえにそういうメールを出すのは失礼じゃないかと思って、そのことも結局、伝えられないままでした。


石

 これは、『ヘヴン』という小説を書き終わったときに、雨宮さんがくれた石。
 わたしはすごくうれしくて、届いたその日から、引っ越ししても、ベッドが変わっても、ずっと枕元においてある石。フランスで見つけてくれたんだって。素敵だよね。つるつるしていて、すごくかわいい。数ヶ月前、なにかのメールの返事に、ずっと伝えたかったそのことを「そういえば雨宮さんがくれた石、大事にしてますよ」とあんまり重たくならないような感じで書いた。書いてよかった。


 わたしにとって雨宮さんの文章は、わたしが初めて見た、あの薄暗い客席のなかで浮かびあがる雨宮さんの印象そのものです。

 きりりとしていて、目がそらせなくて、一生懸命で、強くて、でも臆病で、すごく緊張していて、まっすぐ。それから、雨宮まみっていう名前がすごく好きです。暖かいのや冷たいのや、しとしとのや激しいのや、明るい日に悲しい日に、いろんな雨が感情みたいにいつもいつまでも、降っている場所。

 まだまだ、雨宮さんの文章をたくさん、いつまでも読めると思ってた。どうか、安らかに。

 

 

 

 

 

2016.09.21

トークショウ@渋谷マークシティ

 今年の夏は雨と台風でいっぱいだったようなそんな日々が過ぎて気がつくと秋、ニットかねそろそろ。

 近づいてきたのでお知らせします、みなさまにお会いできるのを楽しみにしています。ファッションについてやし、何きていこ。なお今回のイベントは無料になっておりますので、みなさまふるってー。

 

川上未映子スペシャルトークイベント
2016年10月1日(土)16:00~16:40
渋谷マークシティ 1F イベントスクエア

2016.09.13

世界の秘密に指がふれたり

 

 SWITCHインタビュー・達人達、新海誠さんとの対談をたくさんの方に観ていただけたようでうれしかったです。わたしはばたばたとしていて未見なので対話のどこがどんなふうに使われたのかわからないのだけれど、『いい雲はどのようにして生まれるか』、『ここではない、もうひとつの世界が存在しているという実感』のお話がとくに印象深くて、でもどっちもあんまり時間がなくて、もっとお話を伺いたかったんだけれど……。

 

 映画であれ小説であれ写真であれ何であれ、優れた作品には必ずフィクションとしての強度が最大限に発揮される、その作品に固有の瞬間がある。『君の名は。』には、見終わったあとに「もしかしたら、自分のこの現実の人生にも、あの映画の中で起きていたようなことが、本当は起きているのかもしれない」と思わせる不安と恍惚の手触りがあるんですよね。

 

 つまり、今、自分が誰かといるとして、あるいは誰かといないとして、その誰かとのあいだに──三葉と瀧くんのあいだで起きたようなことがもしかしたら起きていたのかもしれない、我々はそのことを確認する術をついぞ持たないけれど、でもそれがなかったなんていったい誰に言えるのか、というような  ”そわそわ” を、言葉にしてもしなくても、受け取るんだと思います。フィクションと現実の結び目は作品の数だけ、人の数だけあるけれど、その実感こそが、現実の一回性を否応なく生きるしかない我々が飽きもせずフィクションを求める理由のひとつではないかと、そんなことをあらためて思いました。確かめることはできないけれど、それでもやっぱり世界の秘密に指先が少しふれたような、一瞬だけ横切るその影を認めたような、そんな瞬間がこれ以上はない物語のピークで炸裂していて、素晴らしいことだと思いました。

 

 人がある作品に出会うとき──そこには作品と自分以外の多くのものが立ち会うわけで、何歳で、どんなことが苦しくて、どんなことが不安で、どんな場所をふうに歩いていたか、どんなふうに風が吹いて、何がどんなふうに光ったり光らなかったりしていたか、何が遠くて、なにをさわって、何を感じていたか──何年も時間が経って、もしその作品と再会することがあるならばそのとき、それらがひとつのかたまりとなって、匂いとも思いとも記憶ともいえないような「体験」として、またその人にやってくる。

 

 今、十代、二十代の方々に『君の名は。』がすごくたくさん観られていると伺って、いつかずっとさき、彼らのなかで、時空をひょいっと飛び越えて、いつも何度でもふれることのできる特別な体験として保存されればいいな、素晴らしいことだな、と心から思っています(わたしの場合は、その筆頭はもちろん銀色夏生さんなのですが(笑)詳しくは、わたしが銀色夏生さんについて熱く語っている穂村弘さんとの対談『たましいのふたりごと』をお読みください!)

 

 とまれ、たとえば少年少女が出てくる 『あこがれ』『ヘヴン』が、もしそのような体験として誰かのなかに残るのだとしたらそれは本当にうれしいことよなあ……みたいなことをしんしんと感じつつ、次回作も一生懸命、書いて書いて、かたちにしていきたいと思います。がんばります。

 

 再放送は、9月15日木曜 午前0時(9月14日水曜深夜)だそうです!

 見逃されたかたはぜひ、ご覧になってくださいね!……しかし、初めてお会いした新海誠さん、何が驚いたって、ちょっと驚くぐらい人格というかそれこそ精神というかが安定していらっしゃる感じがすごくして、後日もその印象について考えていました。それで、「新海監督、パイロット感あるな……」と。機長です。わたしは飛行機が苦手なんですが、新海さんみたいなパイロットだったらもうしょうがないかな、と思わざるをえないような、それはもう破格の安定ぶりでいらっしゃいました。あとやっぱり医者ですね。しかも、現実に存在している医者よりも医者らしいというか、もはや概念上の医者というか。またお目にかかりたいです。

 

 

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