川上未映子

雑感

2014.08.22

まんまんちゃん、あん!

 少しまえから、オニ(2歳・息子)のおむつを替えているときや入浴しているときなどに、オニが自分のおちんちんに手をやって、「ちんちん!」などとうれしそうに言うようになった。おお、これも身体の発見だのう、と微笑ましく、「そうだね、オニのちんちんだね」などと言って笑っていたのだけれど、最近はそれにくわえて、わたしの股間をじいっと見つめてから「……かあか、ちんちん、ないっ!」とつけたすようになってきた(かあか、とはわたしのことです)。

 そうだよ、かあかはちんちんないよ、と最初は何の気なしに答えていたんだけれど、入浴するたびに、自分のおちんちんを楽しそうにさわりながら、「ああ〜、かあか、ちんちん、ないっ! オニ、ちんちん、あるっ!」と言うので、またもや「そうだね」と相づちを打って笑っていた。しかしさらなるオニの質問は、「なんで、オニにちんちん、あるの〜?」というもので、「……それはオニが、男の子だからかな。気持ちはともかく、いまのところ、体がね」とか答えていたのだけれど、そのすぐあとで、またわたしの股間をじっと見て、「かあか、ちんちん、ない……」とつぶやくのだった。ないねえ〜など答えながら、しかしわたしは、「まちがってことは言ってないし、2歳の息子のなんの意味もないふるまいなのだから深く考える必要はまったくないけど、でも、これって受け答えとして、なんか十分じゃないような気がする……」と、頭に泡をつけたまま、10秒くらい考えこんでしまったのだった。

 そう、わたしには、おちんちんはない。しかし、おちんちんでないものはついている(というか、ある)。しかし、こういうとき、わたしはオニになんと伝えればよいのだろう……。すぐに「まんまん」という言葉を思いついたのだけれど、しかしオニがそれを覚えて、保育園で女の子の股間を見つめて「まんまん」と笑いながら言うことを想像すると、そしてそれをその女の子たちの保護者のかたが聞いたりなんかしたら、それってなんかちょっとあれなんでは……というような気持ちがさっとよぎってしまったのも、本当のところなのだった。

 そう。女性器って、あらゆる意味で、奪われた存在というか、ないことになってるものなんだよね。これだけ日本中いたるところでつねに消費されまくってるのもかかわらず。いや、ないことになっているから消費されるものでしかないというべきか。

 この問題については、色んなところで色んな人がそれはもう昔からくりかえし指摘しているし、改善しようとしてるし、つい先日も、アーティストの象徴的な逮捕事件が起きたばかり。
2歳の男の子や女の子が「ちんちん」と笑って言ってそれをまわりも笑って受け流すことができるのなら、2歳の男の子や女の子も笑って「まんまん」と言っていいのだし、そしてそれを受け流すことができなければおかしいやないの。でも、そういうのって頭ではわかっていることなのに、わたし自身、「オニがまんまんというのは、ちょっと、あれなんではないか」ととっさには思ったわけだし、こういうときに自分の性器を名指す言葉を今もって持っていなかった、というのも、じっさいのところなのだった。
 
 そう、こんなのどこにでもある他愛もない話でしかないのだけれど、しかし。
「ちんちん、ある!」というさっきのオニの声が、なんだか頭に残るのである。

 これって何かと思ってみたら、「ある」と「ない」では、やはり「ある」が優位であるという実感で、そこにひっかかっていたのである。
オニからしてみればあって当たりまえの「ちんちん」が、かあかには、ない。オニにちんちんがあるのは、オニが男の子だから。で、かあかにちんちんがないのは、かあかが、女の子だから。もちろん2歳のオニがそのように「ちんちん」や「ある」とか「ない」といった概念や価値めいたものを今の時点でとらえるということは考えにくいけれど、しかし三つ子の魂なんとやらというではないの。「男の子である自分にあってあたりまえのものが、女の子にはないんだ……」というふうな淡い認識が、いつのまにか、「……女の子って、大事なものが最初から欠けてるんだ」みたいなあんばいに、ゆくゆく変化し、刷り込まれないとは限らないではないだろうか。
 しかも、三つ子の魂どころか小学校高学年あたりになるまで、ほとんどの場合は、「まんまん」の存在は隠されたままなのだ。女の子には「ちんちん」に相当するものがまるでないかのような具合なのだ。
まあ、外から見えないという形状の問題も多いに関係しているとは思うけれど、例えばおしっこなんかも、なんか、不思議でよくわからないところからしゃっとでることになってるし、わたしが子どものころだって名称はなかったし、それについて何かを話していいような雰囲気なんていっさいなくて、完全に「ないもの」として、女の子たちは自分の「まんまん」を抱えていた。
欲望されるものだから「ないもの」にされているのか、それとも「ないもの」だから欲望されるのか。おそらくそれは同時にあるのだろうけれど、しかし、いまも昔も、女性の性器が「ないもの」になっていることには変わりはない。

 ついこないだも、男性の老議員たちが「われわれの世代は、どうしても女は下、女のくせにという発想から自由になれない」みたいな発言をして、「だから引退します」でも「だから認識を改めます」でもなく、「わしら変わる気ないしいまさら変われんし、今後もこれでいくからみなさんヨロシク」みたいな顛末でまじで暗澹たる気持ちになったけど、この無根拠かつ腐った差別の認識のはるか根っこには、社会的な構造とか単なる勘違いとか体力や身体の大きさの差異や色々あるだろうけど、さきに述べた、「ちんちん、ある!」の優越感が、あまりにベタで恥ずかしいけれど、しかしほのかかすかにでもあるはずなのだ。挿入する者はされるものよりも優位である。そして挿入できるのは、ちんちんがあるからなのだ。

 世界において家庭というユニットはあまりに小さく、また非力なものではあるし、こんなん焼け石に水っていうか砂漠で針を探すっていうか喩えが間違ってるような気もするし世界の荒波&常識においてはひとたまりもない心意気でしかないかもしれないけれどでも、男を生んだわたしにいまできることをわたしはやるしかあるめえ……ってなぐあいで翌日、「ほな、お風呂はいろか」とオニの服を脱がせおむつを脱がすと、でてきた、かわいらしい、ちんちん。オニはまたもや自分のちんちんをさわって、「ちんちん、ある!」と楽しそうに遊び、そしてわたしの股間をじっと見つめ、「かあか、ちんちん、ない!」とこれまたうれしそうにくりかえすのだった。しかしわたしはもう、昨日とおなじような返事はしない。いいですかオニ。そこからは何も見えないけれど……

 わたし「かあか、ちんちんないけど、まんまん、ある!」
 オニ「?」
 わたし「オニ、ちんちんあるけど、まんまん、ない!」
 オニ「……」
 わたし「かあか、まんまん、ある!」
 オニ「ま……」
 わたし「オニ、ちんちん。かあか、まんまん。おなじ」
 オニ「まんちん……」

 みたいなあんばいで、まだ何も理解してないであろうオニに、「まんまん」という存在のちょぴっとだけは伝わったような、そうでもないような……。
 ともかく、ちんちんが許されるなら、まんまんも許される。ちんちんだけがだるだるに甘やかされるということはないのだということをまずは我が家の常識として、一緒に入浴しているあいだはやっていこうという所存である。このささやかな革命の姿勢が、保育園の保護者のみなさまにどれくらいご理解いただけるかはまったくもって未知数ではあるのやけども……でも、変えたいんなら自分のとこから変わるしかないですしな……って、思い返せば。「ちんちん電車」はよくても「まんまんちゃん、あん!」を言うとちょっと笑われる、笑われてきたあの感じ! まあ方言による慣れ不慣れってのもあるけども……ともあれ、色々なものを正しい場所にもどしたり、とりもどしたりするのは、それが形のないものであればあるほど、時間がかかり、また困難であるものよな、と思いしる暑すぎて息をするのも何かしらの危険を感じざるをえない残暑なのだった。

 

 ところでところで、『きみは赤ちゃん』、みなさんに楽しく読んでいただいてるみたいで、激烈うれしいです!! ほんとにほんとにありがとう。でも、発売してから半分以上の日数、ネット書店では品切れがつづいて、ほいで都内の書店にもほとんどどこにも在庫がない状態で、申し訳なく思っています。重版しているからじきに回復すると思うのだけれど(ただいま4刷!)、でも読みたいって思ったときにこういうのって読みたいですよね……うう、ごめんなさい。どうか、もうちょっとだけ、お待ちになって。それまでは、こちらママ友対談をお読みくださればさいわいです!っていうか、すべての在庫、はよ回復して、お願い!!!

2014.07.23

歯と、夏のはじまり

歯の定期健診に行ったらば、新たに小さな虫歯があるということで治療。ぜんぶでみっつ。歯は強いほうなのになぜ……と思うも、妊娠期間と産後、カルシウムが面白いほど子どもにとられてしまうわけで、たしかに生んだ直後も、何気に奥歯がぱきんと欠けたりした。もはや、子どもを生むまえの自分や世界というものは存在せず、まったく別の世界の住人になったのだと思い知るしか生きていく方法はないのだけれど、厄介なのは過去の記憶や人間関係や仕事のあれこれも継続してたりするわけで、この二重責務めいたすべてが、子育てのしんどさのエッセンスなのだろうと思う。生んだあと、いったん記憶喪失とかになっていれば色々話は早かったのかもしれない。けれど、それは無理な相談ね。

ともあれ歯医者。
最近は麻酔をするにしても針をさすところをまるめたコットンで麻酔してくれるので、何もひとつも痛くない! ありがたい。こちらのことは何も気にせず、思う存分に徹底的に削って治してくださいと、まるで太平洋みたいな気持ちになる。けれど、ここでも頭をよぎるのは息子(通称オニ、おにぎりのオニで、アクセントは、オの部分)のこと。
あーんと口をあけるとすでに石臼のように立派な歯が生えており、何でも食べるし、親の責任として、日夜、歯磨きをせねばならない。しかしこれが大変に面倒、かつ、しんどくて、相手が子どもであれ何であれ、泣いて厭がる者にたいして何かを無理やりしなければならない、ということは、端的に、ものすごく、心が折れる作業なんである。

歯磨きだけでなく、もはや永遠にイヤイヤ期をさまよう準備ができていそうなオニ。
機嫌の悪いときはすべてを拒絶し、「そんなに、なにが、イヤかー!」と聞くと、「ぜんぜん、ちがーう!」とかわけのわからぬ返しをよこし、それでも人間として健康に生きてゆくために、さまざまな人たちと共存してゆくために、いろいろなこと刷り込んでゆかねばばならない。
でもそれは、生成そのままである子どもにとってはストレス以外の何ものでもなく、薄汚れた大人になってしまったわたしにもその気持ちは想像できるので、そのたびに気持ちがどんどん暗くなるのだ。喉のあたりが「ウッ」となる。できれば、何も教えたりしたくない。けれど、それも無理な相談ね。

しかし。家の、アットホームで甘々な、こちょこちょした歯磨きですらあの絶叫&拒否。もし虫歯ができて、このように仰向けに寝かされて口をあけて治療せねばならなくなった場合、オニはいったいどうなるんだろう。そんな現場につきあうことだけはどうか勘弁してほしい。想像するだけで寝込んでしまいそう。しんどすぎて。一度、レントゲンを撮ったことがあるのだけれど、暴れるオニはずっしり思い鉛でできたような網で固定されて「大漁」みたいな感じになって、親は退場、廊下にまで響き渡るその断末魔の叫びはこちらにとっても軽いトラウマになったほど。
それが……歯医者に連れてゆき、泣き叫ぶオニ寝かせて押さえ、歯を削ったりする……そしてそれを何回も繰り返すことになるのかと思ったらぶるぶると寒気がして、それに比べたら毎日の「ウッ」がなんであろうか……今日もせっせと歯を磨く日々なのだった。先取りすることで何かを回避できていると思いたい、そんな夏のはじまり。そして「歯というのは、どのような力によって生えてくるのか今もってわからないのだ」という説を思いだして、ああ、そういうところ、子どもと似ているな、と思ったり。エネルギーのでどころの不思議。生成の不思議。子どものくちの中にいつのまにか生えてきてひしめく白い歯を見ていると、入れ子感が炸裂して、なんだかそわそわしてしまう。

 

 

そして今日は、都内のいくつかの書店へお邪魔して、『きみは赤ちゃん』のサイン本を作成させていただきました。男性の方からは、
「これを読んだ知り合いが、夫にたいして、本当に腹がたっていたことをあらためて思いだして、家出したんですよ……」とか、
「妻がそんなに大変だったことを、この本読むまで知りませんでした……」とか、
「この数年間、なぜ妻の機嫌が悪いのか、なぜ妻がずっと怒っているのか、初めてわかりました……」とかとか、そんなご感想をいただいて、いやあ、出産&産後の家庭には、ほんとに色々ありますよね。
基本的には、妊娠、出産、育児における具体的なこと(出生前検査とか、無痛分娩のこととか)、女性の体と心の変化について、赤ちゃんという存在のあれこれについて書いた本なんだけれど、夫婦関係の変化や、その対策にかんしてみなさん興味を持ってくれる人も多いみたい。
いっぽう女性の方、とくに出産を経験された方からは、
「当時はうまく言葉にできなかったけれど、妊娠中とか、産後のあの日々って、ほんとにそんな気持ちだった。懐かしい」とか、
「わたしの乳首はタイムマシーンにはならなかったけど、でも似たような感覚、あった」とか、
「とにかく夫に読んでほしい。いまのわたしの気持ちのすべてが書いてある」とか、
「子ども生んでみたくなった。迷ってたけど、やってみるか」とか、
「あらためて、ほんとに子どもがいとしく思える」とか、
そんなご感想をきけたりして、うれしかったです。
そして現在発売中の『LEE』にインタビューが、日曜日の読売新聞にもインタビューが掲載された模様です。そのほかも、追って追って。

そして、19歳のときからの友人、『きみは赤ちゃん』にも登場するヘアメイクのミガンとわたしとの「ママ友対談」が掲載されています!
前編後編を合わせてどうぞ!!
なんか、大阪弁なので「うどんのうーやん」みたいなノリになってるけれど、どうぞよろしくう。

しかし今日は暑かったですね。息をするだけで、瞬きするだけで、何かを無理矢理に飲まされるようなそんな暑さだった。7月でこれ、8月は、どんな。

2014.07.16

赤ちゃんの登場と、この世界からの去りぎわ

 妊娠していたのはもうまるまる二年前のことになるけれど、ときどきぼんやり思いだすことがある。それはわけもなくやってくる安堵感というか、茫洋感というか、そういうような感覚。人によっては妊娠初期からそういうのを感じる人、あるいはまったく感じない人ももちろんいるみたいだけれど、わたしの場合は、臨月のころだった。体やホルモンの変化のせいで、うまく頭が働かなくなって、なにもかもをだんだん束ねられなくなってゆく、あの感じ。思考じたいが、どんどんだるーく、にぶーくなっていってゆく、あの頃の感覚を、ときどき思いだすんですよね。

 子どものころ、おばあちゃんとかおじいちゃん──そう、もう歩くのもゆっくりゆっくりで、話しかけてもこちらの言葉がちゃんと伝わってるかどうかもちょっとわからないような、そんなおばあちゃんやおじいちゃんを見るたびに、みんな、毎日が、こわくないのだろうかといつも不安に思っていた。
 正確な年齢はわからなかったけれど、たぶん85歳とか90歳ぐらいに見えるおばあちゃんたちは、このさき最大に生きたとしても、あと数年も経ってしまえばおそらく死んでしまうわけであって、そしてそのことは本人たちがいちばんよくわかっているはずなのだ。あと数年のあいだ、そんなにさきではないいつかに、必ず自分は死んでしまう。死んでしまうってわかっているのに、なぜ、おばあちゃんたちはそんなことに耐えられるのかが、子どものわたしにはまったく理解できなかった。もし、わたしがあと5年しか生きられないと言われたら? そう言われたら言われたで受け止めるしかないにせよ、でも、あんなふうに毎日を過ごすことってできないような気がする。なんでおばあちゃんたちは、平気なの? そんな、生きているよりも死に近いといえるようなおばあちゃんたちを見ると、いつもいいようのない不安と恐怖に包まれていたのだった。

 で、少しさきにやってくるものに対しての不安と恐怖といえば、妊娠と出産も、もちろんそうだった。
 スヌーピーの横顔かってくらいに巨大にせり出したお腹のこの中身を、あんな小さなところから出さねばならないのだ。出す以外にはもう、道はないのだ。出すしかないのだ。ぜったいに逃れられないのだ。あらためてそう思うと、妊娠してるあいだは ヘイッ! っと頭がどうにかなりそうだったのに、臨月に入ったころから、なんだか急に、何も考えられなくなっている自分に気がついたのだった。

 まるでふかふかのあったかいお布団でできあがったベルトコンベアーにのせられてただ横になっているようなそんな感じ。行き先もまったく気にならない。何かを考えようとしても、はしから思考がほどけてしまう。感情の粒立ちはやさしく均質化されて、すべてはゆるやかにかきすてられて、これまで味わったことのない、多幸感というか、安心感というか、そういう穏やかな繭みたいなものにくるまれたような感じ。
 なんか、脳の具合がそんなふうになっているとしか思えないような感じだった。このあいだまでたしかにあった焦りも、不安も気がつけばなくなって、ただただベッドで干し芋とかをくちゃくちゃ食べて、過ぎてゆく時間をなんとなーく、ただ眺めている日々。ただ、何もせずにそこにいるだけの、ある意味で満ちたりてるっていってもいいような、そんな日々だったのだ。

 で、わたしはそんな茫洋&茫漠とした頭で、なんとなく、ぼんやりと、子どものころにさきに述べたような不安とこわさをもって眺めていたおばあちゃんたちのことを思いだしていた。ああ、おばあちゃんたちも、もしかしたら、こんな感じだったのかもしれないなあ。こんなふうに、なっていたのかもしれないなあ。さきのこととか、こわいとか、自分がどうなるとかそういうこと、もうべつに何も思わなくなっていたのかもしれない。言いようのない穏やかさというか、鈍さというかに包まれて、だからあんなふうに過ごせていたのかもしれないなあ、と。

 もちろん、わたしは85歳にも90歳にもなったことがないので本当のところは知るよしもないけれど、この世界から退場するとき──もちろん事故やら病気やら退場の仕方にも色々あるだろうけれど、しかし少なくとも老衰的な大往生であるならば、そのときにはもう、不安やこわさというのはないのかもしれない、穏やかで、何も考えられなくなっていって、ただ毎日の時間をやり過ごすだけでいいような、そんな存在になるのかもしれない、ああ、だとしたら、これはあんがい大丈夫かもしれんなー、と、なんともいえない安心感を得たのだった。死ぬの、あんがい、いけるかもなと。

 とはいえ、今だってゆるやかに死にむかっているといえばそうにちがいないわけで、しかしなんとか日々発狂せずに生きているわけだから、人はそもそもそういうつくりになっているのかもしれないけれど。こんなような臨月の日々──だけじゃなくて、妊娠&出産&育児の2年のあいだに、心とからだに起こったことのすべては『きみは赤ちゃん』に書いたのだけれども、新たな生というか、人間というか、人生を世界に送りだすきわきわのところ、もはや赤ちゃんの登場のためだけに存在しているような自分が、退場するそのときのことについて、死について、あんなふうに感じてたなあ、などと、ときどきぼーんやり思いだしたりするのだった。だからみんな、場合にもよるけれど、この世界からの去りぎわは、あんまりこわくないかもよ!

2014.06.19

制圧するまで戦うしかないのって、しんどいよね

 さっきの夕方、息子を保育園にむかえに行ったらば、タイミング良くというか悪くというか、発熱しており顔面蒼白&白目(わたしが)。仕事から帰ってきたあべちゃんもふらふらで発熱しており、そしてわたしも追いかけるように発熱した。
 激しい関節痛……、目やにで視界が白く曇ってる……っていうか、わたし先月、扁桃腺炎で40°の熱をだして、それからこないだも病院へ行って薬のみきってなんとか大風邪を乗り切ったとこじゃなかったのか……それでまたこのめぐり合わせとか……。

 ウイルスは薬が効かないので発病したら最後、制圧するまで戦うしかないのだけれど、これがつらい。核家族にとってはもうこういう事態になるとちょちょぎれる涙もないのである。明朝、病院へ行くまで確定はしないけれども、おそらくこれはプール熱。そう、アデノウイルスで一家全滅まであと少し。これが毎年6月の慣例になったらどうしよう。っていうか、来年のことより、みんながいっせいに40°の熱にうかされたりするこれからの一週間のことを思うと泣けてくる。真剣に泣けてくる。おそろしくって泣けてくる。

 そんななか、今夜はこれからお知らせがありまして、日付が変わった頃にまたもやブログをアップします。どうぞお読みくださいませな、そしてみなさま、くれぐれも夏風邪にご注意くださいませな。

2014.06.12

小さく、無力な、子どもたち

 今朝、週刊新潮の連載コラム用に、厚木の5歳児餓死事件についてのことを書こうと色々なことを調べていた。数年前にあった大阪での二児の餓死事件との報道内容の違いについて書くつもりだった。事件後、交友関係や異性関係、職歴やSNSでの書き込みの記録、そして家族関係のみならず、それぞれの職歴、プライバシーのほぼすべてが報道された大阪の母親への追及と、厚木の父親へのそれとの違いについて。こういった犯罪が起きた場合の、男女、あるいは、母親と父親における非対称性について、書こうと思っていた。

 たとえば、厚木の事件では家を出た母親は県警による事情聴取を受けた。そして見落としているかもしれないけれど、大阪の事件では元夫・子どもたちの父親は取材は受けても事情聴取はされていない。たとえばこういった差を作っているのは何なのか。前者はDV被害による家出で、後者は離婚が成立した状態だから、ということなのだろうか。

 それもあるかもしれない。しかし、「母親と父親への責任追及の差」は、それとはべつのところにも存在している。

 たとえば厚木の事件にかんしては「どうして母親はひとりで逃げて、子どもを連れてゆかなかったのか。DVが息子に向かうことを考えなかったのか」と多くの人が思ったはずだ。
 そして大阪の事件にかんしては「どうして離婚した父親は、子どもたちを引き取らなかったのか。養育費はちゃんと支払われていたのだろうか。ネグレクトは予想できなかったのか」と多くの人は思わなかったはずだ。
 また、大阪の母親の元夫・子どもたちの父親は、インタビューで「(母親を)子どもたちとおなじめに合わせてやりたい」と語った。もし今回、夫のDVが原因で家を出た厚木事件の母親がおなじようなことを発言したら、どう受け止められるだろうか。

 子どもにかんする責任の所在は、世間の心情的にはどうしたって母親にあり、また、そうでなければならないのだ。子どもを最終的に守るのは母親じゃないと困るのだ。だって母親なんだから。母性ってそういうものなんだし。母性って母親のものなのだから。このふたつの事件の母親と父親は、自分の子どもよりも異性関係を優先したというおなじような背景があるのに、前者には多くの人が「母親のくせに」と思い、そして後者には多くの人が「父親のくせに」とは思わなかったはずだ。父親が男であることは何の問題もなくても、母親が女であることは許されない───そういった、今に始まったことでもないお馴染みの世間の常識と心情への指摘と批判を、今回も書くつもりだった。

 でも、厚木の事件や大阪の事件のその状況をあらためて追っていくうちに、書けなくなった。
 
 何もできない小さな子どもが、部屋に残され、数ヶ月もの時間をかけて、餓死したのだ。ひとりきりで死んでいったのだ。電気や水道もとめられ、食べるものもなく、ただひたすらに親を待ち、たまに与えられたおにぎりを貪るように食べ、真っ暗な夜を過ごし、誰も帰ってこない、何も食べるもののない朝を、ひとりで迎えていたのだ。
 一分一秒がどんなに怖かっただろう。5歳だから、鍵を開けたり、外にでることだって、どうにかすればできたかもしれない。でもできなかった。父親に言い含められていたことに加えて、衰弱して、動けなかったのかもしれない。2トンのゴミのつまった部屋のなかでひとり、小さな子どもは何をしていたんだろう。どんな気持ちでいただろう。たまに帰ってきた親が、すぐに出ていくためにバタンとドアを閉めたとき、その絶望はどんなだったろう。虫の息で横たわり、最後はそれでもパパ、パパとすがった小さな子ども。そして置き去りにされて、ひとりで死んでいった子ども。誰にも知られずに死んでいった子どもたち。どんなに怖かったことだろう。ひとりきりで。どれだけ泣いただろう。かわいそうでしょうがない。胸がつぶれそうになる。悲惨すぎる。

 そんなふうに死んでいった子どもたちのことを思うと、自分たちで動くことができ、話すことができ、食べることができ、眠ることができ、そして今も生きている親たちについて考えることなど、どうでもよくなってしまった。
世の中にまかりとおってることについて考えることは大事なことだけれど、でも、そんな親たちにまつわることなど、書けなくなってしまった。どうしたって、死んだ子どもたちは帰ってこないのだ。子どもたちが味わった地獄は、もう、なかったことにはならないのだ。これは本当のことなのだ。そんなふうに死んでいってしまった子どもたちが存在したことは、なくならない事実なのだ。

 今も、おなじような状況にいる子どもたちがどこかにいるのかもしれない。
少しでも所在が不明瞭な場合や虐待の可能性がある場合は、その幼児たちの情報把握に、保健所や区役所、児童相談所、福祉事務所といった行政機関は尽力してほしいと切に願います。

2014.05.30

熱につぐ熱

 これを書いているいまはれっきとした金曜日のはずなのだけれど、この一週間の記憶がほとんどない、というのも、この月曜日から昨日まで息子がアッツアツの高熱を出していたためで、朝も昼も夜も看病の連続だ。薬の効きのあれこれをしっかりやるために一週間に4回も通院することになり、わたしの仕事の大部分は麻痺して現在に至るというわけです。

 2歳になってさすがに高熱といえども少しは慣れた、というのはあるけれど、しかし39°〜40°の熱を数日にわたって出されると、このままどうにかなるんじゃないかとなんだかまったく落ち着かない。体の調子をまだ言語化できないのでお互いというかわたしが一方的にもどかしく、そういえば去年の今ごろ、6月は、保育園に通いはじめたばかりのためか、毎週熱をだしていて、そのたびに大人ふたりに感染し、二ヶ月がまるまるものすごくしんどかったことを思いだす。
 
 息子も去年よりは強くなった感じはするけれど、これから夏にむけて、アデノウイルス、手足口病、ヘルパンギーナ、などなど、病気目白押しのシーズンだ。世界にはこんなにもカジュアルに感染するウイルスがこんなにも存在するなんてこと、息子を生むまで知らなかった。ひとりが感染するとみんなに感染り、わたしが倒れ、家人も寝こみ、そして息子が高熱を出したりしたら、ここはいったいどうなってしまうんだろう。どうすればいいのだろう。去年の今ごろはそんな状態になってしまって、心細くて、息子からうつった病気の熱にうかされながらそのおそろしさに震えたけれど今年もそんなのをくりかえすのだろうか。きっとくりかえすのだろうなあ、なんてったって、そんなシーズン、子どもは病気して強くなって(大人は病気して疲れ果てて)ゆくものだもの。
 
 とにもかくにも連載以外の仕事はストップ。何もかもの予定がずれる初夏。

2014.04.30

中也、春春春春、連呼して

 きのうとおとといは、中原中也記念館開館20周年記念行事と、第19回中原中也賞授賞式に参加するために山口市におりました。
 ひとつまえにアップしたのは、帰ってくるときの写真。
 
 記念行事のほうでは中也の記念館にある中庭で谷川賢作さんのピアノで歌をうたせていただき、授賞式では穂村弘さんと中原中也とその作品をめぐる対談に参加して、街にはホテルでも部屋でも道路でもタクシーでも中也の顔写真と名前みることができるムードにあふれ、そして前日に山口市入りしたこともあってまる2日間、場所でも目も文字もどこまでもそれはとても中也めいた時間だった春の終わり。

 穂村さんとの対談ではいろいろな話をしたけれど、中也の創作のなかにある無音について。テクニックとして中也以外の人も使うことのできる技術と、そうでない部分について。中也の作品個々にみられるリフレインと、全体を覆うかたちで存在しているリフレインの関係について(たとえば、なんで中也は、あんなにも春春春春と連呼せずにはおられんのか)。
 
 ほかには、それぞれいくつかの作品の読解をしたりして、それが印象に残ってます。穂村さんは「夏の夜の博覧会はかなしからずや」、「春と赤ン坊」などについて、そしてわたしは「春の日の夕暮」、「月夜の浜辺」、そして息子の文也が亡くなって数日後に書いた、「暗い公園」について。どこかに収録されるかもしれないので、そのときはまたお知らせします。それまでに、ちょっと時間を見つけてここでもかけたらよいな。とにかく、授賞式や対談が終わってからも、なんだかずっと中也のことを考えていた二日間だった。今もまだそうなんだけれども。

 ところで山口に来るまえの日の大阪、そして山口市での数日は雨が降ったり寒くて夜は冷たくて、その前々日の東京が初夏みたいに爽やかだったために着るものやつめてきた洋服を完全に間違えてしまって寒かったよ。赤のボーダーT×ハイウエストのペンシルスカートサスペンダーつき、というどっかマリン調の浮かれた感じの組みあわせも調子でず、どころか心細くっておおげさじゃなくってなんやったらコートがあってもいいくらいの気候だった。

 40°を記録したちょっとまえの扁桃腺炎からこっち、なんか体調がしゃきっとせず、しかし病院行く時間がどこにもないので葛根湯を飲んでかろうじてなにかをつないでいる感じでいるけれど、しかし明日の早朝にはわたしはジュネーブへゆかねばならないわけで、半分白目でこれからあらためて荷物をパッキン。

2014.04.30

ばいばい山口

 

imageいまから飛行機

2014.04.30

四月の底、あらためましてのご挨拶

 いつか自分が小説を書いたりするようになるなんて思ってもみなかった二十代のなかば、ブログで日々のことを書くようになって、あっというまに時間が経って、これまで書いてきた日記は拙著「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」にまるっと残すこともできたし(こちらにはみっつだけ残しました。今後も増えるかもしれません)、そろそろサイトを新しくしてみようかなあ、以前のようにできるだけ日々の記録をつけるようにしてみようかなあと何となく思って、こんな具合になりました。
 とはいえ今はあんまり時間がなくていっせいに充実したさまをお見せしたかったのだけれども今の時点ではそれも叶わず、少しずつ、ちょっとずつ、進めてゆけたらと思っています。まずは日記から始めたいと思います。あらためまして、どうぞよろしくお願いします!

 四月は、マームとジプシーのリーディングという名の、女優、青柳いづみさんの一人芝居の舞台のアフタートークに出るために大阪へゆき(わたしの詩が使われているのです)、とても幸せな時間を過ごすことができました。
 ユニバースという元はキャバレーだった場所での公演だったのだけれど、「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」「冬の扉」、「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」、そしてマームのために書き下ろした「まえのひ」という演目と奇妙にきらきらと響き合い、とくに二日目、最後の一回は、音楽、光、見え隠れする言葉の発光、過ぎてゆく一秒一秒、観客の眼差し、そして何よりも青柳いづみさんの身体が、どこを見てもどうじにすべてを見ているとしかいいようのないあらわれかたをして、何もかもが現にそこにあるのに、現実には起きようのないものを目撃しているような圧倒的な体験でした。マームとジプシーについては、こちらで主宰の藤田くんと対談をお読みいただけます。
 マームとジプシーのツアーは5月4日までつづきます。くわしくはこちら

 四月も終わり。このあと連休は仕事でジュネーブと新刊のプロモーション(「すべて真夜中の恋人たち」がフランスで刊行されました)のためにパリに出かけます。あちらからも日記書けるだろうか。そうだこのあいだ、インフルエンザかと思いきや扁桃腺炎で人生初めて40°の熱を出しました。どんなにがんばっても減らなかった体重が3キロ減って、治って三日後には4キロ太ってた。ひっさしぶりのいかれこれ。

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