川上未映子

2014.05.22

「WOMEN EXPO TOKYO 2014」@六本木ミッドタウン

 東京ミッドタウン(港区赤坂9)のミッドタウンホールで、5月24日・25日、女性を対象にしたセミナーや展示、トークショーなどを行う「WOMEN EXPO TOKYO 2014」が開催されまーす。
 キャスターの小谷真生子さん、女優の観月ありささんや、シンガーソングラターの岸谷香さん、メイクアップアーティストの藤原美智子さんたちも、それぞれ登壇される予定で、わたしも出演いたします。
 ほかにも、ティータイムや、5人の占い師による無料の占いコーナーとか、フォトブースではプロのカメラマンによるあなたの勝負写真を撮影とか、毎日先着1000名さまへのプレゼントとか。
 講演、セミナー、トークショウ、展示…の内容も、美容、育児、起業etc、にかんするさまざま&イベントが盛りだくさんで、なんか女性のためのお祭のような感じです! あっ! と思うのは、『ぐりとぐら』作者の中川李枝子さんによる「子どもは働くママが好き!」トークショーなどがあったり!(←これは聴きたい……涙) とにかく「女性」についての、大きなイベントであるらしく、みなさん、ぜひふるってご参加くださいませ。

 わたしの出演は、5月24日(土) 13:55~14:45 の予定で、すっかりお知らせが遅くなってしまったけれど、どうぞよろしくお願いします。

 テーマは「仕事と育児――不安と心配を超えた先にあるもの」ということで、入場は無料です。こういうテーマをはっきりおいてお話するのは、はじめてです。
 お申込みはこちらから。
 スクロールしてわたしのところを見つけてください! 
 それにしても、直前のお知らせになってしまってごめんなさい!大阪、山口、ジュネーブ、前橋、そして神奈川と続いてきたトークや講演も、この六本木でとりあえず一区切りです。ぜひこの機会に、女性のあれこれ何やかやについての色んな話を、聞きにきてくださいませ。
 入稿もぶじ終わり、7月には刊行できる「きみは赤ちゃん」(いま、一時的になぜかバックナンバーが読めなくなってるけどすぐに回復すると思います!)についての話も、たっぷりしたいと思います!

2014.05.22

スペイン語の「乳と卵」、そして伝説のコスメ@FRaU

 そういえば少しまえに、「乳と卵」のスペイン語訳が刊行されました。
 表紙がなんともかわいくて、よく見ると無数のおっぱいがデザインされています。

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 なかを見てみると、

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 こちらにもさまざまな時期&かたちのおっぱいがならんでおり、「自分はどれに近いだろうか」的なあんばいで楽しんだり…はしませんか。しおりもついていたりして、おしゃれな一冊になりました。これで「乳と卵」は何カ国で刊行されたのだろうかな。10とかそんなだったろうか?

 

 

 そしていま発売されている「FRaU」で、コスメについてエッセイを書くという連載がはじまっております。みんなも一度は使ったことある&名前やうわさは耳にしてきたであろう、ほとんど伝説になった有名なコスメを毎号とりあげて、それについて書いてゆくという感じ。もうエッセイの連載はしないぞと決めていたのに、コスメと聞くと「ほわん」となってしまいました。第一回目は、ココ・シャネルの赤リップについて書いています。どうぞよろしくう。

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 そして日々のお昼ごはんのスパゲティーなど。
 ボンゴレのスパゲティーはせっかくの貝なので貝だけでいくのがスジ、みたいな考えもあるけれど、わたしが最初に読んだイタリアンのお料理本ではなぜかベーコンが入っており、それ以来、ボンゴレには必ずベーコンを入れるようになってしまいました。塩気はベーコンでってことで。
 ふたつめはナポリタン。フライパンをなるべく動かさないで具に焦げ目をつけるといい感じ。ケチャップの水気を飛ばしてからスパゲティーを投入するといい感じ。最後にバターを入れるといい感じ。

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2014.05.20

ところでパリでのお買い物

 朝日新聞で7年も連載していたファッションにかんするコラム「おめかしの引力」も今年になって終わり、や、べつにその連載があったから買い物をしていたというわけでもないのだけれど、もう今年は買い物するのやめよう……だって服も靴も増えるいっぽうやし、かといっていろいろをちゃんと整理するための時間も根気もないわけで、そんなふうに言い聞かせてわたしはこの春を迎えたのだけれど、なぜそうなってしまうのか……外出すればいつもいつも買い物をしてしまう。何かしらを買っている。や、そのすべてが本当に欲しいものなのだけれど。そしておかしなことを言うようだけれど、これは本当のことなんだけど、しかしクロゼットをひらいてみても、なぜかあした着る服がない。こんなに服がたくさんあるのに、いったいどうなってるんだろう! 悩んだすえに数年前に買ったのとかをクロゼットからひっぱりだして見慣れたような組み合わせを着るというような、もうわけのわからない具合になっています。

 で、「ぜったい買い物なんかしませんえ。まじで、とくに、自分のものは」と決心してパリに到着して、二日目まではそれを守った(体調もあんまりよくなかったし)。

 しかし、つぎの日、お昼に日本食&おそばを食べたらなんかテンションがあがってしまって、ふらっと入った子ども靴店に入るやその可愛らしさに圧倒され、「や、そうはいっても靴は要るしなあ……」などとつぶやき、そしてボンポワンに行くや伊勢丹や二子玉高島屋の店舗を6〜7っつくらいくっつけたようなその大きさに「!」っとなり、そこから何かがおかしくなって(いつもの調子になって?)、買うつもりのないもの、想定外のものばかりをいろいろ買ってしまった(そもそも何も買う予定ではなかったのだ)。

 たとえばわたしはエディ・スリマンの愛用者でもなんでもないけれど、あべちゃんの買い物にサンローランについていって待っているあいだ、感じのよい店員さんと話しつつ、「……そういや日本では完売やったトレンチの36とかってあったりするのかしらん……ま、ないよなあ、あっても関係ないしなあ……」と何となく思ってしまい、そして何となくきいてみたら「ある」というのでこれも何となく着させてもらうと、なんかすごくいいような感じがして(そしてその日が寒かったってこともじゅうぶんあると思う)、そして手に入りにくいとなるときらめきはいっそうきわだってしまってうれしくなって、そしてそのすごく感じのいい店員さんがそのときにさらりと赤のバッグを持ってきてくれてそれがなんともタイミングがよくてそのこともなんだかうれしくて、おまえうれしかったら何でもいいんかというようなあんばいだけれども、けっきょくそのふたつを購入。

 しかしこれは衝動買いというほどの衝動買いではなく、去年から使ってる黒のバッグの色違いで、まーなんというのか、これが本当にまじで感動的なほどに使い心地がよくて、フェミニンなかっこうにも激オフのときにもかっちりのときでも、とにかく、いかなる! いかなるかっこうのときでも似合ってしまう、魔法のように優れたバッグであるのだった。去年はずっとこのバッグを使いながら「……エディ・スリマンって本当の天才なんじゃないんだろうかぶつぶつぶつ……」とまじでひとりごとのようにつぶやいてしまうほどで、とにかくふたつをまんべんなく持ってバッグの寿命を二倍に伸ばし、長く使ってやろうという魂胆(と言いつつほとんど外出しないのだけれども)。
 

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花がらのワンピースなどに合わせるとそれだけで秋は余計なこと何も考えずとも生きて行けるような気がするトレンチコート。軽くてよさげ。

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 こちらは息子の靴たち。ぜんぶサイズがちょっと大きいんだけれど、このサイズしかなかったのよね。履けるようになるのは来年の夏でしょうか。
 

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 ほいでこれはふらりと入ったお店で見つけたポエット・セーター。カシミア&ウールでちくちくもせず着せやすそう。なにしろ、ポエット! 一目惚れで、2歳用のと4歳用のを購入。大人用もあればいいのに思ったけれどしかし子どもだからいいような気もする。
 

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 パリのボンポワンは大きさはもちろん東京とは違う品揃えでみてるだけで楽しいけれど(わたしは似合わないので着ないけれど)、息子の洋服のほかには何といっても靴下を購入。子ども用にしては高いけれど、しかしこれが使ってみるとどれだけ洗濯機&乾燥機で無頓着に洗いに洗って洗おうとも、これがもうぜんぜんへこたれないのである! 一年中、毎日履いて洗っても色褪せもせず、かたちも崩れず、つねにしっかりとしていて、なにしろ現在、履かせようとするたびに20分とか余裕でかかるイヤイヤ期のまっさかりである。「時間ないよ、はよ履きなよ!」「ヤ!」「履くといいことあるよ、履きなよ!」「ヤ!」「履くと楽しいから履いてみなよ!」「ヤ!」「じゃあもういいよ、はだしで行きなよ!」「ヤ!」……毎朝のこんなやりとりに放っておくとだだ下がりに下がってゆくこちらのテンションをボンポワンの靴下は食い止め、そして気持ちをあげてくれるのである! もちろんやっぱりそもそもの色もいいし、なによりも丈夫にできていて、ほんとうに重宝しています。そしてほかにはぬいぐるみ。息子がまだ赤ちゃんだったときから見つけたら一匹ずつ家に連れてかえってきた猫シリーズで、今回は豹がらの子がいたので仲間入り。
 

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 ほかにはKENZO、V&R、セルジオ・ロッシ(マノロはなかった!)etc、そしてセントジェームスの欲しかったボーダー・カットソーはすべて売り切れだったけれど、しっかし何がもう今年は買い物しやんだよ、けっきょくはあいかわらずの呆れた展開に無言になりながら、しかし多分に漏れずパリは買い物的にちょっとやばいなと思える街であるのだった。空のスーツケースを用意してでかけたという知人の話を何の感慨もなく聞き流していたけれどその気持ちがちょっとわかる買い物の楽しさで、時間があったらヴィンテージのワンピースもみてまわりたかった。買い物って楽しいよなあ、すっごい、楽しいよなあ……でもこの楽しさっていったいなんなのだろう……と、わたしのなかのどこかの部が冷静になろうとするのを「そう、わたしはお酒も飲まないしごはんだって何でもいいし、倒れるなら着倒れで、いいよね!!」と妙なテンションでさえぎりつつも、しかしすぐあとでやってくるトカトントンには要注意、なのだった。

 

2014.05.20

拝啓、太宰治さま、とりかえしのつかないあなたが見たい

 国立でのポールのコンサートはなくなってしまい、立てていた予定はいろいろとあれになったけれど、でもまあこういうこともあるわけで、武道館と大阪は無事に開催できるといいなと思う。この週末はそんなことがあったり、神奈川近代文学館での太宰治についてのトークがあったり、そして映画を觀たりした。

 神奈川近代文学館に行ったのは2008年の埴谷雄高展以来のことで、当時わたしはとても楽しんだけれど人はそんなに多いという印象もなく(行ったのが閉館まぎわだったということもあるんだろうけれど!)、しかし太宰治展はなんとも大賑わいで、衰えぬ人気というか若い人の姿が目立っていた。十代の初めか真ん中あたりに、じゃ何か日本の小説、いま生きてる人たちが書いてるのじゃなくて死んだ人、死んでしまっていまはもういないちょっとまえの人で名前も聞いたことある人のを読んでみようかなーってなときに太宰治を読んで能動的な読書の面白さを知ってそこからたくさん読む、っていう人がとても多いのだろう。とにかくみんな大切そうな顔でもって展示物、ガラスに目を近づけて見入っていた。

 当日は山本充さんとあれこれいろいろな話をしたけれど、小説であれ約束であれ告白であれ、それが言葉というかたちをとってしまう以上、それはただの言葉である。
 たとえば、「本当に」と言っても書いてもそれは本当の「本当さ」を何もひとつも保証するものではないからで、そのような「ほとんど嘘と同義であるような言葉」を使うことでしか生きられないわれわれは、わかっているけど、どうしようもないけど、やめるわけにもいかなくて、しかし何かがうわ滑っている、インフレが加速している、ということはわかる。言葉だけがどんどんまわってどんどん厚くなって、そしてそのぶんだけ虚しくなる。その虚しさやインフレを一瞬だけでも停止させるというか、無効にするためには「武田鉄矢がトラックのまえに飛び込む的な行為」(©山本充)、つまり身体をともなった一回性を賭けた行為が必要なわけで、太宰においてもそれはそうであって、ほとんどパフォーマンスにように続けられた心中未遂などもそういうあんばいだったのではないか、というような。

 そしてその行為を必要とするのは書き手だけにとどまらず、読み手だって必要とするのだよね。

 言葉で書かれたテキストをただ読んでいるだけでは飽き足りなくなり、何度も再生が可能で無限に増えていくような言葉のようなものではなく、一度切りの、一回しかない、かけがえのない、「本当のようなもの」を見たくなる。そのすべての言葉のでどころの責任を求めたくなってしまう。「本当に、とりかえしのつかないもの(その代表的なものは死)」を見て、「ああ、これは本当のことなのだ」と思いたくなる。

 太宰の時代に、作家と読者のコミュニケーションがいったいどれくらいの質と量だったのかじっさいのところはわからないけれど、現代ではほぼ無効になっている、そんな「作家と読者、双方からの要求の相乗効果」の結果として太宰の「生きかた」みたいなのがあって、デフォルメされたその物語がのちのちにまた作品のある部分の強度を高めつづける、というあんばいになっているのだよね、とそういうふうな話をしつつ、あとは、たとえば太宰の好きだった翻案とかちょっとしたメタ構造とかあれらの手つきって批評性とみていいのか単なるサービス精神なのかとか。
 ほかにはエッセイと創作の関係と、彼の得意とする「ですます調」についてなど。
 おなじ尊敬語&丁寧語であっても、それが話し言葉と書き言葉になると効果が反転するという話。や、書き言葉における「ですます調」というのは効果絶大&お手軽なぶん、技術的には鬼門なところも大いにあるね。

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 今日はこれからお昼ごはんを作りにキッチンへ。海老といんげんのアーリオ・オーリオというあいも変わらず365日のうちまじで300日くらいお昼にはスパゲティを食べていると思う。でもおいしいんだよね。簡単で失敗もなくて、作ったものが予定どおりおいしくできると、なんか、いい気分で過ごせるのだよね。

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 2008年に来たときにはなかった、元町・中華街駅すぐにあるアメリカ山公園の、ばら。ほかにも花がたくさんあって、ちょっとした橋のうえをパラソルをさして歩く女性たちの姿はまるで印象派、どこか中也的なかんじもして。いっぱい撮りたかったけれど時間がなくってこれだけ。こんもりふくらんできれいなアーチ。

 

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2014.05.16

最後から何番目のP、そして日曜日の晩年

 今日は夏のような一日で気分がすっかり明るくなる。や、いつもが暗いというわけではないけれど、外側から明るさがやってくるというかなんというか。土曜も日曜もとくに休みというわけではないのだから、せめてこんな日は何もしないでぼうっとして昔みたいに布団をかぶって「安静」にしてみたいものだけれどそうもゆかず、ところで窓っていいものだな、おなじ四角でもパソコンとは何もかもかもがこうも違って何が違うって光りかた。

 しかし明日はでかける日で、どこに行くってポール・マッカートニーを聴きにいくのだけれども、きっとみんな思ってるだろうけれどポール来日早いよね。10年前に行ったときも「もうこれで最後だろうかな」的ムードがあって胸に押し寄せるものがあったけれど去年無事にやってきて、しかし「さすがにこれで本当に最後、だろうなあ」とドームにいたたぶん2万人くらいがしみじみ思っていよいよ極まり、奇跡的な「サムシング」のアレンジを思いだせるだけでなんかもう、こう、自分がどこにいる誰なのかわからなくなる思いだったけれど、半年もたたずにまたもやポールの演奏が聴けるなんてまったくもって思ってなかった。そしてチケットを手配したあとに武道館の追加公演アリーナチケット10万円の発表があったりして、なんかもう流れ的に行くしかないような気持ちにもなるけれど仕事の都合でそちらは無理で、とにかく明日はどんな曲、どんな演奏なんだろう。何が聴きたいとかもうないけれど、そう、何が聴きたいとかって、もうないんだけれども。

 明日のつぎは明後日で、チケットは完売してしまったみたいだけれど、神奈川近代文学館で太宰治について話をしにでかける日。「待つ」「古典風」「女の決闘」、ああ翻案の手つき懺悔の目つき。面白い話になるといいな。

2014.05.15

れもんらいふ

サイトが新しくなってちょっとたつけれど、デザインしてくれているのは、<れもんらいふ>の千原徹也くんなのだった。
「LOUNIE」でお仕事をご一緒したのきっかけに、つづけてHanakoで連載中の「りぼんにお願い」の装丁を担当してくださり、昨年は蔦屋代官山でトークショウに来ていただいたりなど。そして今回、サイトのデザインでもお世話になりました。おなじ大阪出身で、年もほぼおなじで、これからも色々なこと一緒にやっていきたいのう&きっとやってゆくだろう、千原くんなのだった。そしてサイトは、わたしのいろいろが追っつかず、まだブログの更新だけになっているんだけれども、今後は色々とメニューを着実に堅実に増やしていく予定なのでみなさまどうか末長くよろしゅう……。

 

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2014.05.15

朔太郎はんの、うろうろ

先日は萩原朔太郎忌にいらしてくださったみなさま、どうもありがとうございました。マンドリン演奏、合唱、朗読、そして三浦雅士さんとの対談、吉増剛造さんと三浦さんとの対談などで会はみっちりしつつも和やかで、なんとも贅沢な時間を過ごすことができました。

わたしは詩人の知りあいや友人がほとんどいないので、詩、といえばひとりで書いてほかの詩人の詩をひとりで読むだけで、詩をやってる人と詩について話をする機会がほとんどないままきたのだけれど、この2年くらいのあいだで少しずーつ、そういう時間をもつことができたりして、詩人たちと、あるいは詩が中心にある人たち、詩歌のことを考えている人たちとそれらについて話しすることがとても新鮮で、そしてとてもうれしいのだった。

それは今回もそうで、三浦さんとの対話、それから三浦さんと吉増さんの対話によって、朔太郎とその作品にもっていたわたしのイメージがぐらぐらになって、手元でひらいて目にしてた詩が対話の最中にみるみる変化&変質してゆくのを目の当たりにしておおおおおこれはすごいな、文字のほうはなーんにも変わってないまま記されたままやのに、まったく違う詩になっていってるな、わたしいまそれを見てるのやなというあんばいで最高だった。この日はわたしにとって朔太郎との出会い直しの意味をもつような、そんな忘れられない日になりました。

韻文であれ散文であれ、それを読むときにはそれだけを読まなあかんのに、たとえば学校で詩を習ったときにくっついてくる三つ子の魂的ムードのせいで、詩にはいつも何かしらメッセージが必須であると、素朴に私小説的文脈というか、詩人はいつだってその人の人生や苦悩や境遇をうたうもの・あるいはうたってしまうもの、であるかのような、そんな了解がやっぱりあるようにも感じていて、そういうのをみんなでそれぞれそれなりに一生懸命がんばって無効にしてきたのが現代詩の無数にあるがんばりのひとつでもあるはずなのにしかしこれがなかなかにしぶとく、なんのことはない、わたしも朔太郎を読むとき、読んでいたときに、その了解からは自由ではなかった、あるいはこれからだってなれないのかもしれないのだと、そんなことをあらためて思わされもしたのだった。

哲学者が真理っぽい何かに到達するために論理をもちいるように(あるいは論理を信じるように)、詩人がもちいるのが(信じるのが)言葉だとして、たとえば中也などの詩にはそれをときどき感じるけれど、朔太郎の詩には公共的な使命や立身出世の緊張感がみなぎりすぎるほどにみなぎって、若いころは、それがどうも、こう、重要でないような気がして、のれなかったことを思いだしてそれを話したりもした(もちろん、当時のわたしがただ見たいものを見ていただけの話なのかもしれない)。
しかし中也と朔太郎は、年齢がちがう。
少しの差かもしれないけれど、生における滞空時間がちがうということが、創作に関係しないわけがないのだよね。
やっ、詩じたいに年齢は関係ないといえばそういう面もあるけれど、それが出てくる精神については頓着するが肉体についてはそうしない、という道理はないのであって、年齢をささえる <時間> というのはやはり創作と作品においてはべらぼうに巨大なルールなのだとそういうこと、思いしらされることばっかりだ。

ところで今回、朔太郎を読み返していて、定型詩もいいけれど散文詩は気負いがないように思えるところもあっていいね。
檄文や、構えた論や説明よりも、朔太郎のした<仕事>をそのまま表しているような、そんな読み方もできるような気がする。

たとえば「坂」。ここに書かれてるような幻想と覚醒とのあいだのうろうろが、朔太郎の仕事にとっての脳髄にして臓器のような、そんなような、気もする。

2014.05.09

猫のジョルジュと、なんて、むずかしいの

あっというまに時間が過ぎてパリともさらば。
『Seins Et Oeufs』(「乳と卵」)『De toutes les nuits, les amants』(「すべて真夜中の恋人たち」)、そしてつぎは「ヘヴン」を刊行してくれるフランスの出版社Actes Sudのお招きによるプロモーションのための滞在だったわけですが、取材も含め時間がやっぱり少なくて今度はもうちょっと長く予定を組みたいと思ったり。

ル・モンド紙のインタビューでは、創作活動や作品の内容についてはもちろん、日本における女性の立場や活動について関心があるみたいで、そのあたりの質問をたくさん受けた。逆にどんな情報がありイメージを持っているのか、わたしはフランスの女性の立場についてこのようなイメージがあるけれどじっさいのところはどうなのか、などなど逆取材みたいな感じにもなってインタビューというよりは対談みたいにもなったのだけれど、出産育児と就労の関係やむずかしさ、あるいは増えたかのようにみえる選択肢の問題点などなど、制度の違いはあれ双方に大きなズレはなく(もちろん、とくに出産育児にかんしてフランスの制度を見習うべき点はたくさんあるけれど)、本質的にはどこもしんどいな、という手ざわりだった。

とくに日本では、たとえば子育てをする女性が自立できるだけの収入を確保するために働くには、それが祖母でも祖父でも誰でもいいけれど、専業主婦的に献身的に24時間対応で子育てにむきあってくれる存在がなければ不可能なのだよね。

子どもは急に熱を出すし、日々アクシデントの連続だから、保育園やシッターさんという環境だけで母親が単身者とおなじように仕事をこなすことはできない。24時間態勢でめっさ働いてめっさ稼いでいる女性が「すべての女性が手に職をもって、いつでも自立できるように自分たちとおなじようになるべき」という理想をときどきいうし、みんながそうできるならどんなにいいだろうとわたしも思うけれど、そしてそういう理想をいう女性がすべてそうだとはいわないけれど、しかしたいていの場合、24時間、親身な立場でフレキシブルに対応してくれる人が自分の母親だったり身内だったりにいる場合が多い。くりかえしになるけれど、全力でばりばり働こうとする人がいるところには、常に専業主婦的役割を引き受けてくれる人が必要な(もしくは、いる)のである。男女問わず、日本の就労システムは専業主婦を必要とする、飽きもせずそんなあんばいになっているのだよね(ためいき)。もちろん、わたしだってもれなくそうで、単身者だったころの半分しか仕事ができていない現状だけれど、しかし今回のような海外出張などの場合に息子を預かってくれる大阪の姉がいてくれるおかげで、精神的にも実際的にも、「半分しかできていないな」って感じる程度で済んでいるのだと思う。ああ、色々がどこまでもむずかしいことよのう。

 

 

「乳と卵」「すべて真夜中の恋人たち」、そして「ヘヴン」を翻訳してくれているパトリック・オノレさんとわたし。

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ホテルはなかなかに女の子が好きだろうな!というインテリアで素敵だった。

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素敵な階段。

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そしてActes Sudのすばらしいお庭。

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向こうからやってくるのは…

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Actes Sudの猫、ジョルジュ。

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ジョルジュとわたし。

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2014.05.05

ところで前橋での対談のことなど!

パリは晴天で気温も20度くらいまであがるみたい。
ひきつづき時差ぼけに悩まされていて真夜中の3時に必ず目覚めるというあんばいだけれど、あと数日。帰ってからはどうなのかなあ。時差ぼけって本当につらいよなあ。おととしだったかな、イギリスから帰ってきて一週間以上も夜眠れなかったし、今回もそうなってしまうのだろうか。

そして日本に帰ってすぐさま!
「第四十二回朔太郎忌 朔太郎ルネサンス」にて三浦雅士さんと対談します!
このような記事もあったりなどして。

 

 

第42回朔太郎忌「朔太郎ルネサンスin前橋」
期日:2014年5月11日(日)13:00~17:00
会場:前橋テルサ 8Fけやきの間
定員:180名(入場無料)
内容:マンドリン演奏、詩の朗読の他
対話:朔太郎の誘惑
ゲスト 川上未映子
聞き手 三浦雅士
映像と対話:朔太郎を見る/朔太郎を聴く
ゲスト 吉増剛造
聞き手 三浦雅士
共催:萩原朔太郎研究会・水と緑と詩のまち前橋文学館
問合せ 前橋水と緑と詩のまち前橋文学館(電話027-235-8011)

 

 

みなさまぜひおこしくださいませ。
中也の話につづいて、色々なお話できるの楽しみにしています。
今日はこれから打ち合わせと取材など。しかしパリは子供服がかわいいなあ。

2014.05.05

またねジュネーブ、かわいらしきすずらんのことなど

これを書いていたのはジュネーブで早朝の六時だったけれど、ばたばたと移動して、もうパリに着いて一日がたってしまった。

きのうのジュネーブ。午後からとても晴れて、それはもうすばらしい景色だった。森も湖もれんがも輝き、ロール地方へ行くチームについていきたかったけれど、時間が微妙にあわず、仕事もちょっとあったので対談の仕事を終えたあとホテルにもどって連載原稿を書きながら過ごした。

ジュネーブの街については、ホテルで書いた原稿(週刊新潮)に書いてしまったので、発売されたあとにでも、こちらでもっと詳しく旅行記めいたものを書きたいな、と思うくらいジュネーブはどくとくの強さと美しさと掟と自信をもって、それらにみなぎる街だった。石畳を歩きながら、石畳ひとつひとつ踏みしめて歩くにもすごく緊張したために、撮れた写真も数枚というあんばいになってしまった。

しかしそのまにまに街ではすずらんの花をみかけて、何でも5月1日には男の子が女の子にすずらんの花を贈るという習慣があるのだそう。すずらん、なんとかわいらしい花だろう! いつだったか、東京のハイアットリージェンシーだかセンチュリーハイアットだかシャングリラホテルだかのロビーにとてもたくさんのすずらんが飾られていたことがあったけれど、たくさんのすずらんを眺めながらとてもしあわせな気持ちになった。タワー状に積まれていてもすずらんはすずらん然とし、思わず耳を近づけたくなる。すずらんは葉の色もどくとくで、全体の大きさも曲線も、それから花びらのかたちは髪形としてもナイスナイス、ヴェリナイス。

そんなわけで数日の滞在だったけれど、初めて感じる種類の名残惜しさも。
でもそれは、ジュネーブでお世話になった方たちが大きいのだと思う。もちろんわたしたちは仕事でやってきたわけだけれど、でも、色々なところを案内し、楽しい話をしてくれ、さらには体調やこまかな変化へのお気遣いなどもいただいて、とにかくその滞在を少しでもすてきなもの、よいものにしようとしてくれるみなさんの愛情がひしひしと伝わってきて、本当にうれしかった。そういう記憶と訪れた街というものがひとつにしっかりと束ねられてゆくのだと思う。また、ジュネーブはまた来てみたい。できれば夏に花火のあがるころ。

 

 

とても青いレマン湖。

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そして旧市街地でみたたくさんのドアのなかからアンナカヴァン的なひとつ(ジュネーブは関係ないけれど、でも)。

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