川上未映子

2014.05.20

拝啓、太宰治さま、とりかえしのつかないあなたが見たい

 国立でのポールのコンサートはなくなってしまい、立てていた予定はいろいろとあれになったけれど、でもまあこういうこともあるわけで、武道館と大阪は無事に開催できるといいなと思う。この週末はそんなことがあったり、神奈川近代文学館での太宰治についてのトークがあったり、そして映画を觀たりした。

 神奈川近代文学館に行ったのは2008年の埴谷雄高展以来のことで、当時わたしはとても楽しんだけれど人はそんなに多いという印象もなく(行ったのが閉館まぎわだったということもあるんだろうけれど!)、しかし太宰治展はなんとも大賑わいで、衰えぬ人気というか若い人の姿が目立っていた。十代の初めか真ん中あたりに、じゃ何か日本の小説、いま生きてる人たちが書いてるのじゃなくて死んだ人、死んでしまっていまはもういないちょっとまえの人で名前も聞いたことある人のを読んでみようかなーってなときに太宰治を読んで能動的な読書の面白さを知ってそこからたくさん読む、っていう人がとても多いのだろう。とにかくみんな大切そうな顔でもって展示物、ガラスに目を近づけて見入っていた。

 当日は山本充さんとあれこれいろいろな話をしたけれど、小説であれ約束であれ告白であれ、それが言葉というかたちをとってしまう以上、それはただの言葉である。
 たとえば、「本当に」と言っても書いてもそれは本当の「本当さ」を何もひとつも保証するものではないからで、そのような「ほとんど嘘と同義であるような言葉」を使うことでしか生きられないわれわれは、わかっているけど、どうしようもないけど、やめるわけにもいかなくて、しかし何かがうわ滑っている、インフレが加速している、ということはわかる。言葉だけがどんどんまわってどんどん厚くなって、そしてそのぶんだけ虚しくなる。その虚しさやインフレを一瞬だけでも停止させるというか、無効にするためには「武田鉄矢がトラックのまえに飛び込む的な行為」(©山本充)、つまり身体をともなった一回性を賭けた行為が必要なわけで、太宰においてもそれはそうであって、ほとんどパフォーマンスにように続けられた心中未遂などもそういうあんばいだったのではないか、というような。

 そしてその行為を必要とするのは書き手だけにとどまらず、読み手だって必要とするのだよね。

 言葉で書かれたテキストをただ読んでいるだけでは飽き足りなくなり、何度も再生が可能で無限に増えていくような言葉のようなものではなく、一度切りの、一回しかない、かけがえのない、「本当のようなもの」を見たくなる。そのすべての言葉のでどころの責任を求めたくなってしまう。「本当に、とりかえしのつかないもの(その代表的なものは死)」を見て、「ああ、これは本当のことなのだ」と思いたくなる。

 太宰の時代に、作家と読者のコミュニケーションがいったいどれくらいの質と量だったのかじっさいのところはわからないけれど、現代ではほぼ無効になっている、そんな「作家と読者、双方からの要求の相乗効果」の結果として太宰の「生きかた」みたいなのがあって、デフォルメされたその物語がのちのちにまた作品のある部分の強度を高めつづける、というあんばいになっているのだよね、とそういうふうな話をしつつ、あとは、たとえば太宰の好きだった翻案とかちょっとしたメタ構造とかあれらの手つきって批評性とみていいのか単なるサービス精神なのかとか。
 ほかにはエッセイと創作の関係と、彼の得意とする「ですます調」についてなど。
 おなじ尊敬語&丁寧語であっても、それが話し言葉と書き言葉になると効果が反転するという話。や、書き言葉における「ですます調」というのは効果絶大&お手軽なぶん、技術的には鬼門なところも大いにあるね。

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 今日はこれからお昼ごはんを作りにキッチンへ。海老といんげんのアーリオ・オーリオというあいも変わらず365日のうちまじで300日くらいお昼にはスパゲティを食べていると思う。でもおいしいんだよね。簡単で失敗もなくて、作ったものが予定どおりおいしくできると、なんか、いい気分で過ごせるのだよね。

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 2008年に来たときにはなかった、元町・中華街駅すぐにあるアメリカ山公園の、ばら。ほかにも花がたくさんあって、ちょっとした橋のうえをパラソルをさして歩く女性たちの姿はまるで印象派、どこか中也的なかんじもして。いっぱい撮りたかったけれど時間がなくってこれだけ。こんもりふくらんできれいなアーチ。

 

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