川上未映子

2006.03.07

大島弓子を読めないで今まで生きてきた

大島弓子。きっと、すごい、どうせ、面白いんでしょう。あらゆるみんなにとって特別な、みんなが目をきらきら輝かせて語り、語りたい、でも語りつくせぬ、みんながそれぞれに生きてきた思い出そのもののようなきっと大島弓子なんでしょう。素敵な絵で。言葉で。うん。きっとわかる。でも読めないなあ。なんでかな。ずっとまえ、漫画喫茶に一冊だけあった大島弓子。本屋でもあればいつも目を反らしてた。こんな場所では読めないなあ。じゃあいつ買うの。いつ、結局どうするの。男の人に「中高生のときに大島弓子を読んでないことは、未映子さんにとって最大の不幸です。読め。読め。大島弓子を読め。大島弓子を読まずして何を語れるというのだ」とか云われたりもした。そしてどんどん大島弓子が遠くなる。いっそもう、読まずに、だって読まずに来たのだから、読まないで生きて、死んでいこうか。そう思ったりもした。大島弓子。

そして私はこの冬に「バナナブレッドのプディング」を読んでみようと思った。そして読んだ。

私は生まれてきたことがいっつもなんでかわからなかった。子供の頃から毎日はこんななのに、いくら働いたって働いたってお母さんはちっとも楽にならんのに、なんで3人も子供を生んで、それで朝も夜も毎日働いて、お母さんはそれでいいの。しんどくないの。3人のうち私がいなくなれば、その分お母さんの働く時間が減るのになあ、って思っていた。お母さんのために死んであげたいと思っていた。3人のうち全員が大人にはなれないだろうと思っていた。食べるものがなくて死んでしまうだろう。だったら私がはやいとこいなくなればいいのかもと思っていた。いつも生きてることへの後ろめたさがあった。思春期になれば鬱の性格も手伝って毎日がしんどかった。生まれてくるとはどういうことか。誰が人生なんてこんなものを作ったのか。気持ちの底はいつも暗かった。そうやってずるずると、知らない間に私は大人になって、今度は子供を生む年齢になったけど、新しい世界をないところにつくる。
悲しむ苦しむそれだけじゃないけど、いいことだってたくさんあるだろうけど、私みたいに悲しむ癖のある子だったらきっと世の中は生きにくいだろう。世界を増やす。人を増やす。
それがいいことなのかどうかがずっとわからなかった。生まれてきた子供が私に「なんで私を生んだのか」って泣いて訊けば私はかわいそうに思うし、答えられないやろうと思った。だからもう、考えないでおくことにした。生まれてきたことも生むことも。でもずっと自分が間違ってるような気がしていた。全部が。ここでこうしてることも、依存してるだけなのに愛しあってると都合よく考えてしまうことも。もう、見ないように、見ないように。

それからずいぶんと時間がたって、「バナナブレッドのプディング」を読んだ。
沙良の最後の手紙のところで、私のなかの水門が予告なしに開かれて、とめどなく流れ出て、自分がふちだけになるような感覚に襲われて、思わず床に突っ伏した。
暗い部屋で、べたっと身動きできず、口のなかから巨大な熱い円錐の何かが出てくるみたいに涙が出た。
私は、正しいとかまちがいとか、人間関係とか表現とか、そういうことを知らなかったときのただの子供に戻って、わんわんと、ごろごろと転げまわって、ただただ、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになって、おかあさーんと叫んだ。
車が走っていく音にまぎれて、夜やのにカラスが何羽も鳴いてた。
生まれてきてよかったとか、生んでくれてありがとうとか、それは絶対に云えない言葉だったけど、そういう言葉ではなくて、今まで生きてきた言葉じゃないほうのぜんぶが混ざった、おかあさーんだった。

大島弓子を今まで読めずに生きてきた。
肩に力が入ってたのか、なんか怖くて、読めずにきた。でもそんなこととっくに見透かされていて、大島弓子は笑っていた。
そしてこんな風にも思う。今まで読めなかったのは、この冬のためにあったのじゃないか。
中高生の頃の私ではなくて、「生まれてきた自分」と「生む自分」の両方がある29歳の今の私に、大島弓子の物語が会いに来てくれたのでないか。「生きててもいいし、生んでもいいんやよ」って胸の中でひびいた。

大島弓子は読んだ人をひとり残らず抱きしめる。
なんも喋らずにひとり残らず抱きしめる。私はすっごい抱きしめられていっぱい泣いて、気がつけば眠っていた。まるでケープをかけられてるかのようなその眠りは安堵そのものだった。
このことは、私が28歳になって、27歳になって、10歳になって、5歳になって、0歳になっておぎゃあと生まれて、あかあさんの体に戻って、うれしいやかなしいやさようならがなくなるまで、私は忘れないと思う。

 

 

 

 

そらすこん

※この文章のような過去ブログの傑作選は、
「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」
というタイトルで一冊にまとめていますので、
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