川上未映子

2017.07.06

ウィステリアと三人の女たち、そして詩のことなど

 

 

 しっかし暑い日がつづき雨が降って植木鉢は湿っている、のを見てほっとする、そんな7月そんな午前11時、わたしはこれからヤムウンセンを食べにでかける。

 

 そんなわけで、小説「ウィステリアと三人の女たち」を書きまして、七夕に発売の文芸誌「新潮」8月号に掲載されます。小説を書く動機は無数にあるけれど、この小説を書き始めたときはどうしても「瓦礫」を書いてみたいという気持ちが沸き立って始まったすべての色々だった。読んでいただけるとうれしいな。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

 そして、同日発売の文芸誌「すばる」8月号には、5月13日に日本近代文学館で行われた鼎談が収録されています。伊藤比呂美さん、平田俊子さんと「詩人と朗読」をテーマにお話しました。

 

 わたしは今も昔も、なんだか朗読というものがよくわからないままここまできていて、その日は少しだけ、そのことについて話すことができたけれど、まだまだひきつづき考えたい。朗読をするのも聴くのも好きな人は多いという印象があるのだけれど、朗読とひとくちに言っても、おなじ文字で書かれたテキストとはいえ小説と詩では、それはおそらく違う行為なんやろう。詩にとって朗読って、何かいいことあるんかいな。わたしはまだよくわからない。

 

 「詩の朗読にはとても意味がある」という考えかたより、

 「詩の朗読にはまったく意味ない、むしろ悪」ぐらいの考えかたのほうに、

 

 わたしの知りたいなにか大事なことが潜んでいるのではないかいなと、この4年くらいずっと思っている。ぜひお読みくださいませ!

 

 

※追記

 きのうは「小説すばる」にリンクを張ってしまっていたみたいなんですけれど、掲載誌は「すばる」でした。間違えてごめんなさい。

 今日はゆげゆげになるくらい暑くて3回くらいめまいしましたわ、しかし入る熱いお風呂。

 

 

2016.09.08

試す

 

 

本を試す。つめを試す。それから水曜日をうんと試して、まぶたのうえのくせ毛も試す。ペンを試して、鏡を試す。約束を試して、全音符をしつこく試して、牛乳の薄い膜まで何度も試す。帯を試して、帽子を試す。取っ手を試す、襟足とアキレス腱と誤字脱字と十二歳の夏を試して、書き置きを試してドアを試す。腰を試して抱きしめを試して唇からでてくる言葉を試す、すごく試す、写真を試して嘘を試して、それからまた抱きしめを試してふたりきりで泣くのを試す。死んでしまった悦びを試して虹を試して銀行を試して薄暮を試してハンガー、まくりあげたそで、シーツの冷たくなった場所を試して遡ることを試してみる。わたしの知らないあなたのこれまでの時間の縫いかたのぜんぶを試す、匂いを試す、やさしかった昼寝を試してゆるしを試して笑顔を試す、それからまた抱きしめを試して接吻を試す、ああ接吻を試す。五年のあいだ試しつづけて、いちばん最後に別れを試す。

 

  *

うえの「試す」はわたしの詩で、もちろんノラとは関係ないけれど、しかしどこかで何かが繋がっているような気がしないでもない、2016年・夏と秋の境目なのだった。というわけで、ノラ・ジョーンズの新しいアルバム『Day Breaks』を訳しました。楽しかった。ぜひ聴いてみてくださいませな。

 

2014.05.15

朔太郎はんの、うろうろ

先日は萩原朔太郎忌にいらしてくださったみなさま、どうもありがとうございました。マンドリン演奏、合唱、朗読、そして三浦雅士さんとの対談、吉増剛造さんと三浦さんとの対談などで会はみっちりしつつも和やかで、なんとも贅沢な時間を過ごすことができました。

わたしは詩人の知りあいや友人がほとんどいないので、詩、といえばひとりで書いてほかの詩人の詩をひとりで読むだけで、詩をやってる人と詩について話をする機会がほとんどないままきたのだけれど、この2年くらいのあいだで少しずーつ、そういう時間をもつことができたりして、詩人たちと、あるいは詩が中心にある人たち、詩歌のことを考えている人たちとそれらについて話しすることがとても新鮮で、そしてとてもうれしいのだった。

それは今回もそうで、三浦さんとの対話、それから三浦さんと吉増さんの対話によって、朔太郎とその作品にもっていたわたしのイメージがぐらぐらになって、手元でひらいて目にしてた詩が対話の最中にみるみる変化&変質してゆくのを目の当たりにしておおおおおこれはすごいな、文字のほうはなーんにも変わってないまま記されたままやのに、まったく違う詩になっていってるな、わたしいまそれを見てるのやなというあんばいで最高だった。この日はわたしにとって朔太郎との出会い直しの意味をもつような、そんな忘れられない日になりました。

韻文であれ散文であれ、それを読むときにはそれだけを読まなあかんのに、たとえば学校で詩を習ったときにくっついてくる三つ子の魂的ムードのせいで、詩にはいつも何かしらメッセージが必須であると、素朴に私小説的文脈というか、詩人はいつだってその人の人生や苦悩や境遇をうたうもの・あるいはうたってしまうもの、であるかのような、そんな了解がやっぱりあるようにも感じていて、そういうのをみんなでそれぞれそれなりに一生懸命がんばって無効にしてきたのが現代詩の無数にあるがんばりのひとつでもあるはずなのにしかしこれがなかなかにしぶとく、なんのことはない、わたしも朔太郎を読むとき、読んでいたときに、その了解からは自由ではなかった、あるいはこれからだってなれないのかもしれないのだと、そんなことをあらためて思わされもしたのだった。

哲学者が真理っぽい何かに到達するために論理をもちいるように(あるいは論理を信じるように)、詩人がもちいるのが(信じるのが)言葉だとして、たとえば中也などの詩にはそれをときどき感じるけれど、朔太郎の詩には公共的な使命や立身出世の緊張感がみなぎりすぎるほどにみなぎって、若いころは、それがどうも、こう、重要でないような気がして、のれなかったことを思いだしてそれを話したりもした(もちろん、当時のわたしがただ見たいものを見ていただけの話なのかもしれない)。
しかし中也と朔太郎は、年齢がちがう。
少しの差かもしれないけれど、生における滞空時間がちがうということが、創作に関係しないわけがないのだよね。
やっ、詩じたいに年齢は関係ないといえばそういう面もあるけれど、それが出てくる精神については頓着するが肉体についてはそうしない、という道理はないのであって、年齢をささえる <時間> というのはやはり創作と作品においてはべらぼうに巨大なルールなのだとそういうこと、思いしらされることばっかりだ。

ところで今回、朔太郎を読み返していて、定型詩もいいけれど散文詩は気負いがないように思えるところもあっていいね。
檄文や、構えた論や説明よりも、朔太郎のした<仕事>をそのまま表しているような、そんな読み方もできるような気がする。

たとえば「坂」。ここに書かれてるような幻想と覚醒とのあいだのうろうろが、朔太郎の仕事にとっての脳髄にして臓器のような、そんなような、気もする。

2014.05.05

ところで前橋での対談のことなど!

パリは晴天で気温も20度くらいまであがるみたい。
ひきつづき時差ぼけに悩まされていて真夜中の3時に必ず目覚めるというあんばいだけれど、あと数日。帰ってからはどうなのかなあ。時差ぼけって本当につらいよなあ。おととしだったかな、イギリスから帰ってきて一週間以上も夜眠れなかったし、今回もそうなってしまうのだろうか。

そして日本に帰ってすぐさま!
「第四十二回朔太郎忌 朔太郎ルネサンス」にて三浦雅士さんと対談します!
このような記事もあったりなどして。

 

 

第42回朔太郎忌「朔太郎ルネサンスin前橋」
期日:2014年5月11日(日)13:00~17:00
会場:前橋テルサ 8Fけやきの間
定員:180名(入場無料)
内容:マンドリン演奏、詩の朗読の他
対話:朔太郎の誘惑
ゲスト 川上未映子
聞き手 三浦雅士
映像と対話:朔太郎を見る/朔太郎を聴く
ゲスト 吉増剛造
聞き手 三浦雅士
共催:萩原朔太郎研究会・水と緑と詩のまち前橋文学館
問合せ 前橋水と緑と詩のまち前橋文学館(電話027-235-8011)

 

 

みなさまぜひおこしくださいませ。
中也の話につづいて、色々なお話できるの楽しみにしています。
今日はこれから打ち合わせと取材など。しかしパリは子供服がかわいいなあ。


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