2010.07.16
「わたくし率 イン歯ー、または世界」の文庫化とサイン会のお礼です
お昼間に雨が降って、夕方やんで、そんなだった昨日は六本木の青山ブックセンターで『夏の入り口、模様の出口』のサイン会を開催していただきました。たくさんの方々に来ていただいてうれしかったです。本当にいつもありがとう。これを書いている今はサイン会が終わって開けて真夜中の3時なのだけど、いただいた花は花瓶に入れて冷たい水のなかでひっそりと膨らむよう、楽器、チョコレートやお菓子もありがとう。CDも、手作りの小物も、ありがとう。帰りぎわにもどってきてくれて、まるいスイカをプレゼントしてくれた女の子(スイカ持たせてやろうと思ってくれたのだろうなあ)、色んな質問、思ってることなどを直接うかがえて、わたしはサイン会がとてもすきです。それから、手紙。なんといっても。わたしはうれしくて、大切に読みました。住所を書いてくれてる人、白紙の人、混ざっているけど、おひとりおひとりになかなか返事が書けないけれど、本当にうれしく思っています。みんなが色々なことを感じていて考えていて、それを思っているだけでなく伝えようとしてくれて、これはきっとわたしに伝わっているとわたしは思い、わたしのこの感謝の気持ちも手紙をくれたあなたや来てくださったあなたや、どこかで本を読んでくれたり歌をきいてくれている人に伝わってると思いたい、そんな真夜中の3時なのだった。本当にありがとうございました。また、小説やそのほか色々な作品などでお目にかかれるときまでどうかみなさまお元気でいてください。ありがとう。
そしてわたしにとってはじめての小説「わたくし率 イン歯ー、または世界」が早いもので文庫化されました。ありがとうございます。
この小説は2007年の4月に早稲田文学0号に掲載されました。もう3年、まだ3年かあというなんだか感慨深い気持ち、このあいだゲラチェックでひさしぶりにじっくりと読んだとき、色々とセンチメンタルな気持ちになりました(きっとみんなそうだよね)。処女作は全部がありったけでつまってるとはよく言われるものですがこの本も例によってきっとそうであって、わたしの作品のなかでもイン歯ーがいちばん好きといってくれる読者も(イン歯ーだけが好きって言ってくれる読者も!)いて、「またイン歯ーみたいなの書いてよ!」とか言われると、ありがとう、ってほんとに思います。ありがとう。
はじめての随筆集を出すとき、詩集を出すとき、それはまったく簡単なことではなくて、わたしは「ただ一冊の詩集を出せたら!」と念願していました。表現物や作品はなんでもそうかもしれないけれど、一冊の本やひとつの音楽を世に出すということがどんなに大変なことなのか、心底から痛感したながい時期がありました。そしてそもそもこんな作品を作っています、こんな作品をつくりたいと思っているんです、ということをまず他人に知ってもらうこと、それからそれを手にとってもらうことがどんなに大変なことなのかも。それが、いま、おなじ作品が二度べつのかたちになって読者に届けられようとしているなんて、夢みたいで、なんだかうまく信じられないな。これはいつも眠る前に思うことのひとつです。
これからは出したいときに自分が出したいものを人に読んでもらえるように、出せるように状況はどんどん変わってゆくのだろうけれど、そしてそれはある部分で本当に素晴らしいことだと思うけれど、今回の文庫化にあたっては、なんだか当時の気持ちを鮮明に思いだしたりして、何に向かってなのか誰に向かってなのかわからないけれど、ありがとうという気持ちでいます。ありがとう。そして何より、大切に読んでくれる人がいてくれるからこそ、また書いて見ようと、えいえい、そんなふうにがんばれます。これからも楽しんでもらえるといいな。がんばります。
ありがとう。
投稿:by 未映子 09:44 PM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2010.06.26
「夏の入り口、模様の出口」刊行記念サイン会のお知らせ&近況なぞ
しかしそれにしても、どういうわけか、梅雨なわけか、しかしだからといって順調に日々、蒸しますねえ。ああこんなに蒸されていてはチーズ蒸しパン思い出すけどしばらくまったく食べてない。
週刊新潮で連載しております「オモロマンティック・ボム!」が一冊にまとまり刊行されることになりました。やっほい。連載のタイトルは変わってないんだけど、本にするときにどーしても「夏」という字を入れたくなって、こういう按配になりました。がしかし、連載のちからというのはすごいねえ。生きていること以外のなにかを連綿と続けられるというのもわたしにとっては驚異的なのだけれど、知らない間に本になるくらいに原稿が溜まっているというのもこれまた驚異的なことでありまして、そのときどきのシーズンに何を書いていたのかをべらりんと順番を入れ替えずにそのまま収録しました。随筆めいた文章は本にするときは気に入らないのを外したり、世界クッキーのように分野にわけたりもするのだけれども、今回はそのまままるっと収録いたしました。表紙も、これまでにない感じ&なんとも儚げ&不思議な雰囲気がするもので絵は川口伊代さんに描いていただきました。
つきましては青山ブックセンター六本木店でサイン会をさせていただく運びとなりました。やっほい。最後のサイン会はあれはいつだったかしらん、そうだ世界クッキーの刊行のときだったから秋だったかしらんにおなじく六本木店で「川上未映子の本棚」をやらせていただいたのですが、あのときにご好評いただいたみたいで「もういっかいやろうぜ」と言ってくださり、あのラインナップに加えまして読売新聞書評でご紹介した本も書評とともに展開する次第でございます。この機会にみなさま、またもやのひとも初めての人もどうぞ。
『夏の入り口、模様の出口』(新潮社)刊行記念
川上未映子サイン会
日時:2010年7月12日(月)19:00~
会場:青山ブックセンター六本木店お問い合わせ電話:青山ブックセンター六本木店 03-3479-0479
受付時間:月~土・祝10:00~翌朝5:00
日10:00~22:00
(※時間は、お問い合わせ店舗の営業時間内となります。御注意ください。)
参加方法:2010年6月30日(水)朝10時より、青山ブックセンター六本木店の店頭にて『夏の入り口、模様の出口』(新潮社 1260円・税込)をお買い上げの方、先着100名様にサイン会整理券を配布いたします。
整理券配布開始日:2010年6月30日(水)10:00~
ということで詳しくはこちら!
大阪の甥っこがおたふく風邪にかかり写真を送ってもらったらば、顔がぱんぱんにふくらんでおり、ほかは何も変わってないのだけれどもなぜなのか肌のきれいな二十代後半みたいに見えて驚いた。つまり二十歳は老けてみえたとこういうわけで、年齢というのはいったい顔のどの部分にこのように反映させるものなのだろうか。堂々とした感じがたんにそうだということなのだろうか……。
それでもって、なんだか唐突ではありますがかねてより連載の情報をまとめてくれというお願いというか苦情もあったので、この機会に載せておきますので、こちらもどうぞよろしくお願いします。
◇「オモロマンティック・ボム!」
週刊新潮 イラスト・多田玲子さん 毎週木曜日発売です
◇「りぼんにお願い」
Hanako イラスト・東ちなつさん
隔週で発売しています。巻末に掲載しています
◇「スノードーム前夜」
ダ・ヴィンチ イラスト・渡辺ペコさん
毎月発売です
◇「おめかしの引力」
朝日新聞 月に一度、ぐるぐるやってるので明確にいつといえないけれど、今はたしか月の初めのほうの日曜日だと思う
◇「発光地帯」
読売新聞web 毎週月曜日に更新です(日記に近い内容です)
そして、町田康さんとのトークショウも満席御礼になったみたいで本当にありがとうございます。
うーむ気合いはいっちゃうぜどうしよう。気合いも大事だしそれはそれでいいんだけど、とにかく現実的に体もしっかりがんばろう。そんなわけで7月は2度、お目にかかる機会がございます。毎日何かを埋め立てるようにこりこりと小説を書いています。でも全然埋め立てられてくれなくてまったくもって終わりそうにありません。なぜヘヴンとおなじ轍を踏むのだろう。またもや千枚近く書いて半分削るコースに突入の予感しかないよ。まじかよあれとおなじことするのかよ、連続する毎日はボーヨーボーヨー中也の口癖、みなさまいいのかわるいのか夏までもう少しなので適度な具合にがんばろう。海とか山とか行くのかな?ハヴァナイス毎日、わたし、この仕事が終わったら、つぎの仕事あるんだ……じゃなくて、この仕事終わったらまじで生まれかわるんだ……。とまれ、みなさま、お会いできるのを楽しみにしていまーす!バヨナラ!
投稿:by 未映子 05:26 AM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2010.02.25
2月退場、さよなら毛布
冬がもうすぐに息絶えてしまうのでしっかりと目をあけて見つめていなければならぬなきっと、切れはしの、折りたたまれてゆくさまを、しかし気の毒といえば気の毒でどの季節も命は短くわれわれ呼吸をなぞってる、何も一切が変わらずにただ一切が流れてゆく日々、均等はもはやこんなところにしか落ちてない3月は、歩いて散らす気を散らす、熱いお茶など飲んでみる。
「中原中也詩集」と「ドラえもん 5巻」の巻末に、エッセイを寄せました。それと、ただいま発売中の『新潮』3月号の「小説家52人の2009年日記リレー」に日記を寄せました。
わたしは基本的に小説の文庫本などについてる「解説」というのがなぜなのかあまり好きじゃなくて、芝居などによくあるトークセッションみたいなのもたぶんおなじ理由で好きじゃなく、以前、本編は最高に素晴らしかったのに、どうにもいただけない解説がついてあったことがあり、そこにその文章がくっついてあるというだけで気がおかしくなりそうだったのでホッチキスで留め、しかし綴じたあともその文章が合わさった隙間でうごめいている気がして気が気じゃなくなりそうだったのでカッターで切り離したことがあり、人にそんな思いをさせるかもしれないのも厭なことだから、解説は基本的には(とくに小説……)お受けしないのですが、担当者が解説ではなくエッセイですと熱心に仰り、そして中也とドラえもんはわたしにとってやはりとくべつな詩人で作品であったのでエッセイを寄せました。なので、巻末に寄せる文としては、「薔薇は生きてる」が最初で、ずいぶん先に刊行される予定の、ある哲学マンガ(約束しているので)を除けば、これで最後になりそうです。どうぞよろしくお願いします。
この数週間にはたくさんでかけて人に会い、そのぶん色々なことがあったように思うけれど、どうだろう。どうだろって、どうだろう。一泊だけどひさしぶりに実家へかえって、祖母の顔をみてきました 。89歳とかなので、いつも、これで会うのはもう最後かもしれないなあと真剣に思いながらしゃべっています。これが最後かも知れない、つぎに見る顔は死に顔で、そのときはもう目を見れないのだ、覚悟しておかなきゃいけないのだとあまりに真剣に思ってしまうので、吐き気がしてしまうほどです。でも顔色もよく、どこも悪いとこもなく、すごく元気そうだから、あと10年くらいは生きていてくれそうな気もしますが、いくら元気でも健康でも、常識的に死が近い老人や病人と会って話をすると、いつも少しだけ混乱してしまいますね。もっととるべき態度や言葉があるような気がしてならなくなります。比較的まだ若く、健康な我々も、まだまだ膨らんでいる最中の子どもも、死とは隣合わせでいつだってこれが最後、という可能性はぬぐえないけれど、そうはいっても、やはりまったく違うものが、ありますね。ぜったいに死ぬ、という真実のなかの濃度勾配。
投稿:by 未映子 11:05 PM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2010.01.29
サリンジャー死去
例えばレストランでイライラしながらスノッブな彼氏に向かってフラニー
「ちゃうねん。張り合うのが怖いんじゃなくて、その反対やねん、わからんかなあ。むしろ、張り合ってしまいそうなんが、怖いねん。それが演劇部辞めた理由やねん。私がすごくみんなに認めてもらいたがる人間で、誉めてもらうんが好きで、ちやほやされるのが好き、そんな人間やったとして、そやからって、それでいいってことにはならんやんか。そこが恥ずかしいねん。そこが厭やねん。完全な無名人になる覚悟がないのが自分で厭になったんよ。私も、ほかのみんなも、内心は何かでヒット飛ばしたいって思ってるやろ。そこがめっさ厭やねん」
例えば居間の床に寝転んで引き篭もりのフラニーに向かってゾーイー
「そやけど俺の気に入らんのはな、こんなもんシーモアもバディも気に入るわけないけどな、さっきゆうてたやつらの話する時のお前の喋り方や。つまりな、あいつらが象徴してるもんを軽蔑するんやったらわかるけど、お前はあいつらそのものまで軽蔑しとんのじゃ。個人的過ぎるんじゃ。フラニー、ほんまやで。
たとえば教師のタッパーの話した時もやな、お前の目普通ちゃうで。人殺すときみたいにぎらぎらしすぎや。光りすぎや。あいつが教室に来る前にトイレ行って髪の毛わざとばさばさのぼさぼさにしてくるゆうあの話。そら全部お前がゆうたとおり間違いないと思うけどさ、でもそんなもんお前に関係なくないか?あいつが自分の髪の毛をどうしたこうしたってええやんけ、あいつなにを気取ってんねん、ププ、ダサイやつやなー思てたら済む話やんけ。悲壮美なんですねーゆうてそんなもんいちいち演出しなあかんほど自信ないんやなあゆうて、同情したったらええんとちやうの。そやのにお前は、ええか、これだけはゆうとくけどおちょくってるんやないで。お前が喋ってんの聞いとっら、あいつの髪の毛自体が、なんかお前の仇みたいになってて、それはちゃうやろ。んでお前がそれをわかってるっちゅうのがもっと気に入らんわ。
あんな、フラニーな、制度を相手に戦争でもおっぱじめたろかゆうんやったら、頭ええ女の子らしい鉄砲の撃ち方を、せえや。敵はそっちやろうが。あいつの髪の毛がどないしたとか、ネクタイがどうしたとか、んなもん関係ないやろうが」
出版しないことはいいことだ、僕は僕自身の喜びのためだけに文章を書いている、ってサリンジャーがどこかで言ってて、読めるのか読めないのかわからないけど、でもいまもどこかで書かれてるかもしれない小説のことを文章のことを思うと、それだけでいいような気持ちにもなった。それは公式には最後の本になってるハプワースを読めばとても戸惑うことも関係していて、だって誰もいないんだもの。本人たちも退場して、そこにはもうシーモアとサリンジャーの思念の問答しかないのだもの。書き言葉がこんな事態を連れるなんてな、すごいことだな、でもな、と読んでるあいだ、これもまた少々淋しい気持ちでいたのだった。ハプワースは、つらかったな。とても大事な本だけど、本を閉じたときに本当に何かを閉じてしまった気になったよ。
コメント依頼がいくつかきたけれどうまく答えられなかったな。どうなんだろう。何にどこに影響受けたのか、どこか小説家として優れているとあなたは思うか。質問の意味はわかるんだけれど、何にもうまく言えないや。うまくわからない。でもわたしはシーモアがとても好きで、わたし、ほんとにシーモアが好きだったな。初めから死んでる人だったけど。
思えばすべてはバナナフィッシュ。シーモアが頭を撃ち抜いたところから始まったのだけれども、いまサリンジャーが死んでしまって、それから本当の意味でシーモアが死んで、そういうことで、シーモアはいま、やっと、完全に、死んでいることができている。いよいよの本当のはじまりは、じつはここではなかったか。そういうわけでグラスサーガはいまから始まるのではなかったか。百年の孤独は一冊のなかで完全なそれをわたしに見せてくれるけれど、サリンジャーは自身と彼がうみだしたシーモアのふたりきりで、それを見せてくれている。だからいつだって挨拶は、こんにちはシーモア、ようこそサリンジャー、なんだけど、だけどやっぱり、さよならだ。
さよならシーモア。さよなら、サリンジャー。
投稿:by 未映子 03:48 PM [本] | 固定リンク | トラックバック
2009.11.09
そらすこん&世界クッキー、登場
すっかり秋がおもくなり、瞬きしてるまに冬ですね。みなさんいかがお過ごしですか。
年末はまだ少し先ですが、仕事上は年末進行というのがそろそろ効いてくる時期で、
毎日毎日(当然ですが)仕事をしてる毎日で、なんかに似てるナアこれ、と思ったら学校でしたよ。
しっかり生きねば(励ましというか、あきらめというか)。
2007年から2009年まで色々なところで発表したエッセイがきゅっとまとめあげられ、一冊の本になりました。
この二年間は尋常じゃない数のエッセイを寄稿してきた記憶がありますが、こうしてひとつになると「あ、ひさしぶり!」みたいな感じで、
でもいまのムードとも合わないものもあることはあるので、選りすぐって、チームに分けて、編集しました。
名前を「世界クッキー」といいます。11月13日発売です。
全般にわたって東ちなつさんのおきゃんな絵を拝借して(もともとあった絵だから知ってる方もいるのでは。わたしもはがきで拝見して一目惚れしました)、
中身にもとってもかわいらしいドローイングがちりばめられていてうきうきします。
そして装丁は「乳と卵」でもお世話になった大久保明子さんが担当してくれました。
「ヘヴン」が非常にクールなぱきっとした顔であるので好対照で、いいねいいね。
とても明るくかわいらしくてすこぶるに気に入っています。
そして「世界クッキー」のサイン会があります。もう整理券予約が始まってるみたい!いま知った!
11月19日(木曜日)
有隣堂 アトレ恵比寿店
18時30分より~
世界クッキーのサイン会は、この一回だけですので、
どうかふるってご参加くださいませ!
それからもうひとつ。
2006年にこのブログをまとめた、「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」(略して<そらすこん>)という初めての単行本を刊行したのですがあれからなんと3年の月日が経とうとしていて、なんとこのたび文庫化される運びとなりました……。もちろんこれも初文庫。単行本とはまた違った感激があって、
なんというか、なんというか、初めて感じる感情だったです。ああ、はじめての、本だった。気持ちの色々を思いだしはるかな気持ちになりました。あとがきにそのあたりの心境などを書いています。どうかみなさん、お手にとってごらんくださいませ。装丁は世界クッキーとおなじ、大久保さんにお願いしました。
本家、というか単行本の表紙は野中ユリさんの絵を拝借したこちらもすてきなものなので、ひきつづきどうぞよろしくお願いします。
そしてさらにもうひとつ。
永井均さんの「道徳は復讐である~ニーチェのルサンチマンの哲学~」、これもすでに刊行されていた「ルサンチマンの哲学」の文庫ヴァージョンなのですが、こちらの巻末対談にお呼びいただき語りおろしをしています。題して「ニーチェと、ニーチェを超えた問い」。ご興味もたれましたらばぜひに。
以前テレビで、スズメバチのすごい怖い番組をみたのだけれど、
それってたかだか数ヶ月まえの出来事だと思ってたまたま日記を読んだら丸二年前の今頃の話だったということを知って、
ごく控えめにいってわなないたよ……。こんなんだったら、一生なんてすぐにおわってしまうよね。
33歳、じっさいにもうカウントダウンなのではないのかという気持ちで過ごしている2009年の秋の終わりであるのだった。
投稿:by 未映子 11:51 PM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2009.09.01
ヘヴン
「ヘヴン」がでました!
どんな仕事もそうだと思うけれど、途中で何度ももう駄目だろうなあと思ったり、当初考えていたよりも時間がかかったりしたこともあり、こうして一冊の本になってみなさんに届くかたちとして完成することができたこと、信じられない気持ちと、本当にうれしい気持ちでいっぱいです。そして今回はじめて長いものを書いてみて、いっぱい反省もあるけれど、長編のおもしろさとおそろしさの一端にふれることができ、今回は忘れられない仕事になりました。
各インタビューでもお話させていただいたのだけれど、今回の小説は文体にはじまり、枚数、語りなど課題が山積していて、それから「これだけはやりたい!」と思ってあたためてきたこと……、様々な問題が同時多発的にあって何から手をつけてよいのかわからない状態からスタートしました。
小説は読んだ人がそこに読んだものがぜんぶですから、書き手があれこれ言うことにあんまり意味はないのだけれど、過酷な状況に身を置く、14歳のひとりの男の子の目を通して立ちあがるこの物語に入ってるたくさんの問いや感情は、現実を生きる読者のみなさんの日常にもきっと深く関係していると思います。信仰、友情と同情、強者と弱者、正しさと誤り、善と悪……、どこからやってきたのかもわからない、この強大な「ルール」に組み込まれて生きているわたしたち個人はそれらに対してどう向かいあえばいいんだろうか。どう戦えばいいのだろうか。そもそもそんなことに意味はあるんだろうか。どうなんだろうか。簡単に答えはでそうもないけれど、書きながらうんうんと考え、そして書き終わった今も考えつづけている小説です。どうかこの物語と問いがそのまま読んでくださった人の物語と問いになりますように。どうか心に残る作品になりますように。祈ってやみません。なんだかうまくいえないけれど、すごく、そういう気持ちで、いま。
今回、書籍化にあたって加筆修正をしました。目に見えてわかるようなそんなに大きな変更はないけれど、わかる人には「!」みたいな、一行で小説が変わってしまうような重要な作業だったと思います。あとは細かな調整などなど。しかし小説は手元にあるうちはほんとにまったくきりがないね。あれもこれもになっちゃうね。
そして書店さんや群像を読んでくださったみなさんからサイン会をやりませんかというお誘いをたくさんいただき、版元さんがたくさん組んでくださいました。みなさんの反応やいただく感想が、なんというか「小説がひとりで動いていってる感」にみちみちていて、とてもうれしく、また、緊張する思いでいます。じかにみなさんにお会いできる機会、とてもうれしいです。さまざまな地域のみなさま、お近くにお寄りの際は、ぜひ、いらしてください。お待ちしております。
新しい情報はこのエントリに追加していきますので閲覧くださいますようお願いします。
○『ヘヴン』(講談社)刊行記念サイン会
・2009年9月10日(木)18:30~ リブロ池袋本店
・2009年9月11日(金)18:30~ 三省堂書店有楽町店
・2009年9月12日(土)15:00~ 大垣書店烏丸三条店
・2009年9月13日(日)14:00~ ジュンク堂書店千日前店
申し込みが必要みたいですので、各書店までお問い合わせくださいませ。
仙台や福岡、北海道にも行く予定です。こちらは詳細が決まったらまたこちらでお知らせいたします。
あと、インタビューにかんしてですが、詳細のわかっているのを申し上げますと近々に発売の「群像」に沼野充義さんによるロング・インタビュー、もうちょっとあと発売の「小説トリッパー」で阿部和重さんとロングな対談(だいすき和子!和子の部屋に出演です)、9月12日発売予定「週刊読書人」は栗原裕一郎さんによるロング・インタビュー、ほかにも新聞は全紙インタビューしていただいたのだけど、しかし新聞はどの面に、そしていつ掲載されるかわからず五月雨式になってしまうし、雑誌も追いつかないのでじゅうぶんな告知ができないと思いますが、どこかでお読みくださったら、どうぞよろしくお願いします。あとテレビも、放送日をわたしはいまいち把握していないのだけれどいくつか出演させていただいて「ヘヴン」のお話をさせていただく予定でいます。あと「文學界」に随筆、「恍惚と不安のふたっつ、我にありあり」(映画特集)を寄稿しました。そいでもってリブロ渋谷店で「著名人の本棚」担当しました。だいすき&ナイスな本、コメントもいっぱい書かせてもらいました。こちらもぜひにー。
ああ、ヘヴンはほんとにでたのだなあ(しみじみ)。
※追加情報
『ヘヴン』刊行記念 川上未映子×永井均 哲学対話
2009年10月5日(月)19:00~20:30(開場:18:30~)
青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
定員:140名様
2009年9月2日(水)10:00より、青山ブックセンター本店および六本木店にて『ヘヴン』ご購入のお客様に、イベント参加整理券をお渡しいたします。
サイン会
・9月25日(金) 18:30~ 三省堂書店 札幌店
・9月26日(土) 16:00~ 丸善 仙台アエル店
・9月27日(日) 16:00~ 紀伊國屋書店 福岡本店
『ヘヴン』インタビュー掲載誌
「ダ・ヴィンチ」 2009年10月号
「SWITCH 2009 SPECIAL ISSUE「NEW FRONTIER 開拓者たち」
ジェイヌード 78号・2009年9月3日号
THE BIG ISSUE JAPAN126号
「Numero TOKYO」 2009年11月号
投稿:by 未映子 12:45 AM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2009.08.26
amazon、bk1などでの予約はじまった模様です
9月1日発売に先駆けてネットで予約できるようになったそうですので、お知らせしまうす。
パソコンでみると書影がちょっとくらいグレーに見えるけれど、じっさいはなんともいえぬ色あいで、ヘヴンの文字も美しく、きりきりしゃんとしています。好きだなあタイポグラフィーなの。ぜひお手にとってごらんください。装丁は鈴木成一さんです。
最近は家で仕事をするほかは版元さんへでかけていって色々と取材を受けたりしている日々です。一日に多いときで5件も受けたりする=7時間くらい作品についてしゃべるので、チョコレートが不可欠です……。でもうれしいね。新聞などはいつ掲載されるかわからないし、雑誌やテレビもぜんぶ告知できないかも知れませんが、出合い頭的に出合ってくださったときには、どうぞよろしくお願いします。サイン会の告知なども、決定しだい告知しますので、そちらもどうぞよろしくです。せっかくだから色々なところへ行きたいね、と版元さんと話しています。
というか、今日いちにちですっかり秋になりましたね。この夏の巻き上がって去ってゆく感、ついこないだ体験したような気がするのだけれども……。こうして一年が冗談のごとくしかしこれ以上はない真剣さでもって巡りゆくのだからなあ……。
投稿:by 未映子 12:08 AM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2009.03.29
尾崎翠シンポジウム、閉幕!
27日、28日と近代文学館で開催された尾崎翠シンポジウム、無事終了とのことで、ご来場くださったみなさま、本当にありがとうございました。
なんというか愛あふれる、というとなんだかあれですけれども、本当に有意義なひとときでした。ありがとうございました。そしてたくさんご質問くださり、時間オーバーでうかがえなかったみなさんすみません。メールもたくさんいただいていて、みなさんの反応から改めて尾崎翠の作品のちからというものを感じることができました。本当にありがとうございました。
我らが主人公、小野町子さんの「ふたつ以上の感覚が重なったときの哀感」というつかみを手がかりに、「言葉」とそれが指し示す「存在」、このふたつに注目して、第七官界というものがなんでありえるか、について迫りたいと思い臨みましたが、いかがだったでしょうか。
そしてその次に、そんな「言葉」を使用して制作される「小説」と「詩」というさらにふたつのものの対比で、第七官にさらに近づきたかったのですが、結局いっこだけになってしまいました。でも、時間的にはあれぐらいがよかったのかも知れませんね。
講演が終わったあと、聴きに来てくれてた編集者が「結局、第六感までは(聴覚、味覚、とおなじ意味で)パーソナルなものなんだよねー。七感になって、はじめて外部に出るというか、それ以外ものになるわけねー」
とぽろっと感想をこぼしてくれたのですが、その文脈でいくと、七官というのはやはりそのまま他者を存在させるのに必要不可欠な「言葉の機能の世界」そのものであり、町子さんが家から出て、別の場所へ行きはじめて他者と触れ(その意味での言葉を手に入れ)、そしてひとつの恋をする……、というのがこれまた美しい祝着をえたようで、うれしかった。
国会図書館にて初出雑誌である「文学党員」を調べてくれた友人の話によると、第一回だけ「第七 官界彷徨」という誤植か意図なのかわからないけれど、そういう表記だったそうです。
当日も友人と「官界」の官、について色々話し合いながら帰ったのですが、この官は「官界」という以上、「感覚」よりもシステムな雰囲気を醸すわけで、さっきの話とつなげて考えてみれば、「第七官」というのがやはりパーソナルな感覚のことではなく、そういったシステム(他者=言葉)に関わることを前提した世界であることが間違いないような、そんな気がしてきます。七つ目の、官界ですね。だからどうだって話なんですが、講演の話のオチとおり、今、われわれが生きているこれが、そのまま第七官なのだ、ということなのですね。おまけにやっぱりこれは彷徨しているとしかいいようのないわけで。
今回のシンポジウム、半年以上も(もっと前だったかも)前にご依頼いただいたとき、まだまだ先だと思ってみれば本当にあっというまで、びっくりです。個人的なことをいえば、去年にご依頼いただいてる分の仕事を今年終えてしまえば、きっともう今後、特定の作家や作品についてあんな感じでみなさんにお話したりすることもないと思いますので、そういう意味でも本当に記念になりました。みなさんと最後に交歓できた作家が尾崎翠でうれしいかったです。
実行委員のみなさま、本当にありがとうございましたそしてお疲れさまでした。素晴らしい会でした。ちらしに印刷された大島弓子さんのメッセージも、本当にぐっときましたね。素敵な機会をありがとうございました。
投稿:by 未映子 02:52 AM [本] | 固定リンク | トラックバック
2008.09.07
九月、登場
っていってももうだいぶ過ぎてますが、いかがお過ごしでしょうか。わたしは何とかやってます。いえ、何とも出来ていませんが、生活しております。どうも最近個人的に防備録的な日記をつけてるせいか、なかなかブログに書けないのですが、たまに書いても告知になってなんだかなあ。それでも毎日毎日読み来てくれる読者のみなさま、ありがたいことです。
最近は書けない&ぼんやり、な毎日で先日は生まれて初めて洗顔フォームで歯を磨いてしまったい。電動歯ブラシを買って三日で飽き、こんなことではあかんよなと思って使ってみたらば口の中からきめ細やか、かつ変な味すぎる泡が蟹のように溢れだしてびびったい。しかし苦くはなかったよ。しかも32才になりました!
八月に原稿を終わらせる予定が未定に終わり、しかし九月はまた別の仕事が迫りつつあり秋もいったいどうなることやらか。イン歯ーを書いてたときとよく似た状況になりつつあり、書けないのならば起きてるだけではこれ意味がなく、目に入るものすべてがしんどくしかし自力じゃ眠れないので睡眠薬で騙し騙してこの覚醒世界とおさらばするも、起き抜けのあの最低加減ってないよな。地獄を毛布ようにかぶったまま目覚めるようなそんな具合で悪循環、おまけになかなか脱げんのやも。
まあ文章は好きでやってることでもあるから仕方ないのだけれども、しかしやっぱりこれはどの業種にも共通するとは思うけど、仕事というものは好き嫌いとは関係がないな。やらなあかんからやるだけだ。まあ好きだったらそれはある面でラッキーだけれど、いくら好きだからと言ってそれは苦しさとは関係ないのだから、仕事というのはたいへんなものだ。そして体もたいへんなものだ。
早川文庫、カート・ヴォネガットの「ホーカス・ポーカス」、「スラップスティック」、「母なる夜」に帯を書きました。もう書店に並んでると思われますので、ぜひお手にとってくださいませ。タイタンから、クロノのあの名台詞を引用しました。
今書いてる小説はなまら平たくあることが要請される種類のもので、そのせいで、文章を書いていないときは目に映るものすべてに描写の言葉が炸裂する。物の形状が文字に見えるのではなくて、物から少し遅れて言葉がどっと咲いてんでからすぐに散ってゆく。隙間という隙間に言葉がみなぎってある。あそこにも、ここにも何もかもに言葉が咲くきらめく、言葉が衝突して発光している、わたしはそれを見ているすばらしい、すばらしい、目だけではもったいないので思い切り息を何度も何度も吸いこんだらばいつかの春の夕暮れのごとくそれらが静脈管を前進するのをわたしは完全に完全に理解する。ああこのようにして絶えず駆り出される前進のあれも言葉だこれも言葉、言葉が消沈する鉢にあふれ洗濯ばさみの皺に揺れ光の輪郭から漏れて手すりから滴ってさらなる模様を編む最中をわたしは残らず理解する。夕方・べランダ・薄暮の終わり、目をこらせば空に無数にひしめく言葉のそのどれもをどんな風にでも組み合わすことが出来るのだと思えばこの恍惚とかっと目を見開いたまま消えてしまいたくなるのは何か。
投稿:by 未映子 07:32 AM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2008.06.15
アセンブリーアワー講演会 対談 川上未映子 × 千野帽子
夏が来ても春のワークショップの熱さめやらぬわたしではありますが、おなじく京都で公開対談だッ!お相手は文藝ガーリッシュ、文學少女の友、の千野帽子さんだッ!
対談内容は、<文体と「私」>であります。
千野さんは俳句もやってらしたので、個人的には定型の内部にもざくざく入っていきたいところ!あれもこれも話したいことが色々だ。7月とゆやがりがり君どまんなか。体が冷えるよ!気持ちは熱いよ!どうぞみなさまふるってご参加くださいませ!
日時:7月3日(木)16:20~17:50
会場:京都精華大学 黎明館201教室
費用:無料 申込:不要(先着順)
問い合わせ先
京都精華大学文化情報課
〒606-8588 京都市左京区岩倉木野町137
Tel:075-702-5343
Fax:075-705-4076
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投稿:by 未映子 11:27 PM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2008.04.24
大阪ブックファースト梅田店で「川上未映子の本棚」開催中
4月13日から5月14日まで、なんと1ヶ月間も本棚を設置してくれてはるのです。ありがとうございます。
色々挙げたなかから20タイトル、揃ってます!一部はこれ!
「おともだち」 高野 文子
「壁」 安部 公房
「空中の茱萸」 荒川 洋治
「ことばの食卓」 武田 百合子 野中 ユリ
「死霊」 埴谷 雄高
「新ハムレット」 太宰 治
「葬儀の日」 松浦 理英子
「ドグラ・マグラ」 夢野 久作
「私たちがやったこと」 レベッカ ブラウン
「わがままなやつら」 エイミー・ベンダー
「容疑者の夜行列車」 多和田 葉子
「論理哲学論考」 ウィトゲンシュタイン
ほいでもって、私物である野中ユリ、稲垣足穂、種村季弘、
三人で作った「コリントン卿登場」も、展示中!
中も見れたらいいのになあ。
お近くにお寄りの際はぶらりとお立ち寄りくださいませ!
なにとぞよろしくお願いします。
投稿:by 未映子 12:45 PM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2008.02.24
「乳と卵」サイン会のお知らせ!!
授賞式も無事終わり、なんかひと段落したようなしていないような。
選考会から約一ヶ月、本当にたくさんのみなさんからメールやお手紙、お祝いも本当にありがとうございました。
受賞もろもろについてはそのときどき、たくさんの新聞で随筆を寄稿させていただいので、読んでくださった方もいるかもですが、
そんなだからこれまでやってきたブログとはちょっと変わって告知がメインになりつつ、とはいっても追いつかず、すまんことです。
一日に数件の勢いで、「乳と卵」についての取材などなどしていただいたので、どこかでぱらりとお目にかかることありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。
授賞式は楽しみで、ミュウミュウのイカス・ドレス&コートを着ていって、なぜかペチコートというものはこう、テンションあがるんよなー。んで二次会でだるだるのパーカーに着替えて三次会は朝の5時までだった。しかしまったく飲まず、水の飲んでのたたずまい。もうわたしは金輪際酔っ払うことはないんではないかと思うくらいお酒飲んでないので(酔うほど飲んでないの意)、コーヒーも飲めず、グルメでもなく、ほんならおまえの楽しみっていったいなに?みたいなこと感じてます。ほんらいパーティのほんわか&うきうきした様子はひそまって、最後は作家、編集者交えてのかなり真剣な文学談義になってしまって、や文学っつうか、書き物談義っつうか、今がなにかお祝い会の三次会であることをすっかり忘れてて白熱、笑った。帰り道々思うこと、いっぱいあるよな。んでそれそうした書くの、むずかしいよな。
で!サイン会のお知らせです!
3月7日 東京 三省堂書店 神保町本店 (整理券配布終了!)
3月8日 名古屋 星野書店 近鉄パッセ店
3月8日 大阪 田村書店 千里中央店 ※整理券配布終了!
3月9日 大阪 ジュンク堂書店 大阪本店 ※整理券配布終了!
3月9日 福岡 紀伊國屋書店 福岡本店
以上の日程で行いますので、どうぞよろしくお願いします。で、東京三省堂さんは、わたしが告知するまえになくなってしまいました…。まことにすみません!あとの場所はどうかしら!詳しくはそれぞれのサイトでご覧くださいませ。
いろいろ書きたいことあるのやけれども、時間がおへん。なむー。唇が乾燥して乾いたお鮨のマグロのような具合になって痛い。
今日は一日家にいて予定の整理とゲラチェックだけで一日がまんべんなく終わってゆく。部屋が片付かず、本も読めず、保湿しているのに空気も乾燥して強風世界、5月はドイツに、6月は辺境の土地へ行く予定。こんなこと初めてだ。
投稿:by 未映子 11:38 PM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2008.02.16
サイン会のお礼と告知もろもろん
横浜、六本木と、サイン会にはたくさんの人に来ていただきマジ感激しました。イン歯ーにいたってはマジ去年の夏の本であるにもかかわらずマジたくさんのみなさん手にとっていただき、マジありがとうございます。マジマジ。
乳と卵に関しましては大阪、福岡でもサイン会をさせていただく予定でいます。詳しくはまた!
どうぞよろしくお願いします。
色々な取材を毎日受けさせてもらっていますが、
それがどこでどうなっていつお目見え、ということの把握がもうできなくなっておりますので、漏れ漏れもご容赦いただきたくすみません。わかってるのは、日曜日の朝8時にNHK-BS2の週刊ブックレビューに出演いたしますこと。わたしは竹熊健太郎さん35才のときの驚異的な大仕事、ものすごく名著「篦棒な人々」をレビューさせていただきました。
時間の制限があって全魅力に全迫りすることはかなわなかったけれど、共演した今村楯夫さんも南伸坊さんも本当に面白かったんだ!!と仰って「教えてくれて、ありがとね」と収録後も箆棒話で大盛り上がりで、とてもよかったです。ダダカン師匠をめぐって浮き彫りになる「表現」というもののこと、ひいてはこの驚くべき完成度でなされたインタビュー、それを貫き見えてくる竹熊さんの姿勢とか、本書は読めば読むほど読むところ考えることがざくざく。(あと、はじめての人に手紙を書く、とてもよい
お手本としても重宝したり…。それにしても竹熊さん文章がうますぎ…)箆棒な人々、そしてこの本における竹熊さんのお仕事については書きたいことがたくさんあります。時期をみて書けたらと思っています。ぜったいに、読んでみてほしい。
(個人的には、この本で取り上げてはる庚さんを、ときどき目撃したりしてお話したこともあったけれど、いまいちどういう人なのか、その見た目のインパクトで満足してしまう節もあり、誰に聞いても「うん、なんていうか、すごい色々なことしてる、すごい人」という説明しかしてもらえなかったのですが、このたび竹熊さんのおかげで明るみになりました)。
あと、23日の朝22日(金曜日)の朝の放送の間違いでした!NHK「生活ほっとモーニング」で舞踏家の森山開次さんとチェロの坂本弘道さんとわたしとでセッションします。色々。
んで同じ23日の「王様のブランチ」にもVTR出演します。初めて樋口一葉記念館にいってきましたえ。
投稿:by 未映子 05:45 PM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2008.01.29
<先端で、>サイン会いたします!みなさまふるって!!
ということで、
2月10日(日)
「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」
前回はトークショウでお目にかかりましたが、今回はサイン会というとてもなんていうか、そういう感じでよろしくお願いいたします。
お買い上げくださった先着100名さまにご参加いただけます。詳しくはお店のほうにお問い合わせくださいませ!
なにとぞ、よろしくお願いいたします。お会いできるの、楽しみにしております。
ACADEMIA 港北店
045-914-3320
横浜市都筑区中川中央一丁目25-1
ノースポートモール3F
横浜市営地下鉄・センター北駅 徒歩1分
仕事では初・神奈川だッてことで、すごく楽しみにしております!
頂戴していますメールも拝読してます。ありがとうございます。
投稿:by 未映子 01:29 AM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2008.01.07
「乳と卵」(チチトラン)が第138回芥川賞候補にノミネートされました。
というわけで選考会は16日だそうです、うひー。
タイトルは同時に二大アレルギー要素。乳も卵も食べられないと、それは困るであろう。
「乳と卵」は文學界12月号に載っていますので、どうぞ読んでみてください、新刊の爆誕詩集「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」ともどもよろしくお願いいたします。
そして6日の読売新聞朝刊で、<空想書店>というコーナーで色紙&空想&色々書かせてもらいました。わたしがもしも書店主だったらばどうするのか、ということで。
わたしの空想書店のテーマは「素敵な文章に素敵な絵がついてある本」です。
なので武田百合子「ことばの食卓」(絵は野中ユリのコラージュ!素敵死する)、をメインに、山岸涼子「日出処の天子」(←1日に一回はページを開いてる)、アーシュラ・K. ル=グウィン「いちばん美しいクモの巣」(絵はジェイムズ・ブランズマン)、多和田葉子「溶ける街 透ける路」(挿画は溝上幾久子)、高野文子「おともだち」、そして拙著「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」の装画でもお世話になりました美術家・鴻池朋子さんの「みみお」を、空想の棚にばっちり面出ししましたえ。しかし空想とはいえ、東京・丸善さんではこの空想書店がまるまるコーナーとして再現されるみたいなので、よかったらチラ見などして、お手にとってみたりしてください。色紙も飾ってくれてはるそう。
先日めずらしくどこかの喫茶店に入ったときに、入ったがいいけどカフェインがあかんわたしは飲むものがない。さらに先日、「では、これこのハーブティーで」などとさらりと注文したのはいいが、いざ飲んでみるとわたしにとってはまるでヤギのおしっこのような具合であったから、もう無理なのであった。だから「蜂蜜ミルク」という、材料の両方に一応の気心は知れてある飲み物、それを頼んで飲んだら飛びあがるほどおいしく、おいしいおいしいと云いながら飲んだ。この温かみ、冷たい体をほっと抱かれた感、を再現したくて家に帰ってさっそく乳は乳でも豆乳でやってみたら口がむにゃむにゃと波打つほどにまずく、流しの枠に手をつき「まずい」と声にして感想を述べてしまった。しかしあの飛びあがるほどのおいしさ&安堵はあきらめきれないので即座に牛乳を買いに走り、蜂蜜をでゅるんでゅるんに思い切り垂らして、一日で気がつけば2リットル飲んでいた。
投稿:by 未映子 03:20 PM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2008.01.03
「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」について!
「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」の発売から10日ほどが過ぎました。色々な本屋さんで平積みになってるのを見ると、わあ、本になったのや、と感激します。四角くて。ご感想など色々なお便りをありがとうございます。初めてユリイカに寄稿した作品をタイトルにして、それからユリイカに発表したのと、書き下ろしが3作品、この本には全部で7つの物語が入っております。
表題作、ユリイカに発表したときは、小説でもなし、短編でもなし、まあ大きくゆやこれはむろん散文であるやろうけど、しかしこれは自分でも枠組みがはっきりせぬままに書いてお渡ししたので苦し紛れに絶叫詩なんて言ってましたが、その後、ユリイカに発表したものはどんどんとさらによく自分でもわからなくなって、まあ書いたものが何とカテゴライズされるのかはカテゴライズが必要な人やカテゴライズする人が決めてくれるのが一番いいしねえ、とか思いつつ、で、結局、こうして一冊にまとまったときに例えばこの本はなんと呼べばいいのかさらにわからなくなって、別に何と呼ばなくてもいいのだけど、作品集とか爆誕詩集とか言ってますが、これというのが、ないのです。詩は小説のなかに飄々と現れるし、小説も詩のなかに時折顔を出すもので、なにもかも、読んでくれはった感じがあらゆるすべてであります。どうぞよろしくお願いいたします。語り手の少女、あるいは女性が、銭湯、部屋、図書館、教室、電話、渋谷、といったそれぞれの場所から物語を思弁を、言葉と言葉にならぬものを渾身で発信します。わたしにとっても大切な一冊になりました。読んでくれはった方にとっても、なんというか、いい一冊になってくれれば本当にこれ以上に嬉しいことはありません。念願です。
そして、この本の刊行記念・穂村弘さんとのトークショウもそろそろと定員に近づいてる様子ですので、興味あられましたら!なにとぞお早めによろしくお願いいたします。
それから年末のある日にサインをさせてもらいに都内の本屋さんへお邪魔しました!ポップも書かせてもらいましたえー。
紀伊国屋新宿本店さん・紀伊国屋新宿南店さん・渋谷ブックファーストさん・ジュンク堂新宿店さん・青山ブックセンターさん・LIBROパルコさん・有隣堂恵比寿アトレさんです!見かけましたら、よお、みたいな感じでひとつごひいきに!
「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」収録作品
○ 先端で、さすわ さされるわ そらええわ (ユリイカ05年11月号)
○ 少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ (ユリイカ06年9月号)
○ ちょっきん、なー (書き下ろし)
○ 彼女は四時の性交にうっとり、うっとりよ (ユリイカ07年7月号)
○ 象の目を焼いても焼いても (ユリイカ06年2月号)
○ 告白室の保存 (書き下ろし)
○ 夜の目硝子 (書き下ろし)
投稿:by 未映子 10:52 PM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2007.12.14
1月12日 「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」刊行記念トークショウ、穂村弘×川上未映子!!
「ユリイカ」にこれまでに発表した散文・詩・作品に、書き下ろしを加えての刊行と相成りました!装画は、美術家の鴻池朋子さんのべらぼうにかっちょいい絵です。なんつうか、まさに先端。
12月22日ごろから発売されます作品集「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」(青土社刊)の刊行記念的に歌人の穂村弘さんとトークショウをします!みなさんのふるってのご参加、心より念願いたします。
参加方法は、三省堂神保町本店で、購入いただいた方、先着100名様に整理券を配布いたします、ということで、トークショウに参加してくれはる皆様は、三省堂さんでぜひ!電話で予約しつつ、当日購入でも整理券確保は可能かどうか、というようなことは、三省堂さんに電話をして、詳細をお聞きくださいませ!三省堂さんの公式サイトにはまだ情報が出ていませんが、きっと、じきに。どうぞよろしくお願いいたします。
言葉について、もろもろについて、穂村さんとここでしか出来ないようなトーク(べらつき)を、ゆるやかーに炸裂させたいと思います。みなさま、ぜひ、この機会に遊びに来てくださいませ。2008年の初めは力みなぎる、はりきっちゃん。 ※三省堂さんの方で、電話でもう予約ができるみたいです。
投稿:by 未映子 10:41 PM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2007.10.05
《イン歯ー》が第29回野間文芸新人賞候補にノミネート。
《イン歯ー》が第29回野間文芸新人賞候補にノミネート。野間文芸新人賞てなに、と云う方はこちらでん。わたしもさっきぶるりとお電話いただいて、検索してみました。そうか、この時期だったのな。ふむふむ。選考会は11月初旬らしいです。
んでんでここで紹介する意図も意味もないけれどもいま世界で一番見られているらしい動画なり。
これがけっこう気持ちよくて何回も見てしまう。
人によっては映像でも画像でも「オリジナルの黄金比率」があったり、修正できぬところはなく、それはそれでいいと思うが、見るだけでしんどくなるような修正のあからさまなのは、こう、見てて肩が凝るよな。でもな。どうせ印刷されたり配信されるのは拡大されたり切り取られたイメージであってそもそも実物とは関係がないとも云えるのやから、そうあればさらにそこにフィクションをふりかけ、フィクションを塗りこみ、フィクションを徹底するのもその延長、といえば素直な延長やしな。肌は平ら、色は白く、黒い部はくっきりと、どこまでも。という気持ちはわかるしな。難しいとこ。まあ何でもやりすぎには注意しようぜ、お互いに。といった感じかしらん。そういや画像修正・リタッチのド・エキスパートは「黒人を白人に変えることもできるぜ。逆も可。年齢も自在で」なのらしい。自分の目で見たことしか信じません!という物言いがあまり好きではないというかそれとて信用できるものか?という姿勢なのやけど、まあ、そういうこと考えると認識の真贋なんて今に始まったことじゃないのだし。ああ眠い。眠くて眠いが連れ添ってえんえんと眠いわ。単に。10月?
投稿:by 未映子 12:41 AM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2007.09.06
≪イン歯ー≫の近況、と、それにしても鳥肌が。
そして、イン歯ー、の近況です。
投稿:by 未映子 08:58 PM [本] | 固定リンク | トラックバック
2007.08.29
焼肉パニック、《イン歯ー》の近況など
誕生日おめメールありがとうござります。お返事なかなかかけませんが、うれしく読ませていただいております!31歳だでー。こんな調子ではあっという間に41歳になるので、おっとろしいのー。
で、誕生日にわたしは何をしておるのかというと、なんとか秋に出そうぜ!と云ってる、そう、ユリイカさんにこれまで発表してきたのをまとめた作品集を考えてるのですが、それに書き下ろす分をやってて、まさに今月末のこの数日はユリイカ・ブート・キャンプ。先日の対談のときに、詩集はどうなってるのか、と質問いただいたときには、〆切のことが頭をよぎって、うわうわと、あんな体たらくになってしまってすみません。がんばります。
829は焼肉の日でもありパニックの日でもありつつ、サクっと肉でも躁んなって焼きにいったるか!とは思ってるのですが、皮膚科の先生に「川上さんはお肉とインスタントラーメンとから手を切って、お願い」といわれてしまったのを思い出して、も、朝起きたら、ゆ、油田?というくらいに、てっかてかなので、そうか、もう肉も思う存分食べられぬ年齢になったといえばなったのだなあとまあ感慨もあるわけで。体は変化するのだなあ。
《イン歯ー》を取り上げてくれはってますえ、と版元さんからファックスや掲載誌をいただきました。送ってくださってありがとうございます。なんかこういうことを自分のサイトで書くこと、これなんかに似てるなあと思ってたら、ラーメン屋が、どこそこの雑誌で美味しい店に選ばれたぜ!というようなことを自分の店でやってるようなあれに似てるのであるが、《イン歯ー》の近況ってことで、色々を省みずにご紹介。
サンデー毎日9月2日号に中野翠さんがエッセイで触れてくれてはり、中野さんとゆや尾崎翠!つうぐらいのもんで、数年前のマガジンハウスの鳩よ!での特集は大事な本だ。東京新聞8月26日号に仲俣暁生さんが自己と世界と穴をめぐる小説ってことで取り上げてくれはり、穴といえば顔にいっぱいピアスをつけてる人を見ると、よしんばストリートなどで喧嘩になったときに「ここ狙ってください」と云ってるようなもんでないの…とわたしなんかは震えるのですが、どうですか。そんな心配はいらんのかしら。そしてただいま発売中のインビテーション10月号に佐々木敦さんが「言語派」という見出しで評論を書いてくださり、ほんまですえ、まじ言語はどこからくるのですか、というようなことを今日のお昼間カレー食べながらぼーと考えて、んで帰ってきて本よみながらまた少し考えてたら知らぬまに完全にぐーぐー眠ってて目覚めて暗くて焦る。なにが言語。そしてミュージックマガジン9月号に(いまだに8月売りの雑誌が9月号、10月号に分散される線引きがわからない…)栗原裕一郎さんが評論を書いてくれてはるのですが、キチガイがたくさん出てきましたが、これってオッケーなんですね…。たのもし…。講談社の担当さんも震えてましたよ…。わたしはキ印一発だけでアウトでしたよ。そして毎日新聞8月28日夕刊に川村湊さんが注目の一冊で、取り上げてくれはりました。冴えてるとき以外は眠っていたいし、眠ってるとき以外は冴えてたい。睡眠薬みたいな、集中薬とかって、ないかなあと友人に漏らせばそれっていわゆる覚せい剤ですから、といわれて、そっか、昔の人は目をかっぴらいて様々な運動をするために、飲んだり打ったりしておったのだなあ。わかるぜ。ひろぽん、猫目錠とかのネーミングもグー。
そして最近、ご恵投いただいた本もご紹介!ありがとうございます。仕事あるのに読み始めたらオモロくてやばいなあ…っていう「甘美なる来世へ」T.R.ピアソン・柴田元幸訳。わたしは柴田元幸さんがきっかけでレベッカ・ブラウンに出合ったしミルハウザー
にも出合ったし、
「夜の姉妹団」大ファンなので、思いがけず、イン歯ーを読んでくださったことを知り、でら感激しました。
そしてトランスビューさんから文化人類学者と編集者の四十年を一冊にした「山口昌男の手紙」大塚信一。実生活では交わることのない無数の人生の間隙に言葉という手段で滑り込んでゆく快感をじっくり体験したいところ。ふむ!(←鼻息)
投稿:by 未映子 11:54 PM [本] | 固定リンク | トラックバック
2007.08.27
出版記念対談来てくれはってありがとう!!
出版記念対談、サイン会も無事終わりました、みなさま本当にどうもありがとう。すごくうれしかったです。トヨザキさんはお話がプロよなあ、というほどに時間もばっちり、ぐんぐん話をすすめてってくれはるので用意していった対談メモが嬉しいことに出る幕もなく、一時間、まさに対談あっという間でした。朗読も、わたしは自分の書き言葉は朗読に向いてないんじゃないのかなあと思うんですが、どうでしたでしょうか。聴いてくれはってありがとう。
質問って対談ではあんまり出ないのらしいけれど、たくさんいただいてうれしかった。
なんか、話の流れから、作者の意図、を語りすぎたような気も少ししたんですけど、やっぱり書かれたものである以上、それがどんな持続を持つにせよ大きさを持つにせよ意図、というのは絶対的にあるのですが、それは原理的に、読み手に関わるものでは、ないですよね。
だから、《この小説の本当の意味》とかってのは、他者が読む瞬間から、やっぱり唯一客観的なものとしてはどこにも存在しないわけで、これは不思議なことやなあ。
そこらの物とおんなじで、その物は光の作用によって浮かび上がり我々はその像を見ているだけであって、ではその時にその物を見てる、ということになるのかならないのか。その本当の物は、あると云えるのかどうか。
でも、読書という欲求は、何かを知りたいという欲求は、その《本当のもの》があるんじゃねえの、という根拠のない祈りに近いようなものがその原動力であって、なぜかそのような想像力に支えられてるわけです。
今回は入れ子式にというか、小説の内部においても作品と読書のそんな関係においても、本当のこと、と思いたいそれが、思いたいそれによって浮かびあがって、ただあるしかないようなそういう《物語の作用》も、書きたいなあと思った。
ご感想いただいた中に、誤読でした、本当の意味はこうだったんですね、ということじたいに正誤はありませんが、わたしのブログでのこの書き言葉に対するのも含めて、それぞれの、無数の光のあて具合がやはりすべてですから、あんまりそれだけを信じないでほしいなあ、という気持ちでいます!
何にせよたしかに言葉にならないものがあるのだということを端的にそれぞれが知ってるからこそ、言葉を書かせるのだし読ませるのだと思います。総じてこの運動はドーナツの穴なのだ。ドーナツ(言葉)があるから穴が見え、言葉(ドーナツ)がなければ穴はない。たくさんのご感想ありがとうございました。
それから移動してお疲れさま会をして、そこにもたくさんの人が合流して、同時に同場所でSFの会もあったらしく、あと色々ご挨拶したりされたり、初めてお会いする方々とも熱い話で盛り上がりました。ずっと文章の話をみんなでしてた。起きたらちょっとだけふつかよい。写真はサインしてるところ。見えないけど裾んところに白い歯みたいなのが飛び出てて、じゃあ赤い服でないと駄目だったね。
投稿:by 未映子 11:39 PM [未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2007.08.25
8月25日の朝日新聞・夕刊「culture & entertainment」にインタビューで登場!
や、昨日は精神分析医の藤田さんとの対談にお越しくださいましての長丁場、みなさんほんとうにありがとう&おつかれまさでした。ぎゅうぎゅうでしたが文字通り濃くって、なんかそれぞれのあれに何かしらが残りましたらば幸い!またこのような機会がありましたら、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
や、それにしても最後の30分はけっこう熱かった。何をどう話したかをここに書くのは困難ですが、テーマに掲げた、「言語、そして母と子」については一般論から始めたものの、それでもなにか、思おうと思えば手がかりになるそれが、発見できたと思っております。むう。言葉が物語である以上、そのうわものはすべて物語なのだから、すきな物語を、選択すればよろしいのや。根拠の根拠をつめてって、誰が根拠の首ねっこを押さえられるというのだろう。根拠があればそれの根拠が必要だ。というよなことは言葉遊びと思われがちだが、我々が使ってるのは、そんな具合の、言葉です。がんばろう。がんばりたい。
そして、あすの朝日新聞・夕刊「culture & entertainment」面に、インタビューが掲載されまーす。もし朝日新聞読んでらっさる方はよろしくお読みくださいますよう、何卒よろしくです!これは三軒茶屋でインタビューしていただいたのですが、繰る途中に靴が半分に割れたのだよ。いきなし。まじで。かかとを失くしたというわけです。お気にいりのプラダの靴でした。なむー。んでかかとのあるふりして帰りました。
で、版元さんから、色々な書評や評論で色々な方が言及してくれはったり取り上げてくださったのを、ファックスで送ってくれるのですが、やっぱ人に向けて書いたもの、ご感想は是非問わず嬉しいことなので、それを読みたいと思ってくれるかもしれないこのブログの読者の人にもー、とか思って、教えてもらったらこちらでご紹介してましたが、知らぬことも増えて参りましたので、きっと漏れます…。すみません。もしもどこぞで出会い頭的に色々と出会ってくれましたらば、ふむふむー、ってな感じで、どうぞよろしくお願いいたします。チャオ。
でもって26日はいよいよ、イン歯ーの、た・い・だ・んッ!みなさんいらしてね!どんなに暑くなってもよ!きっと!きっとよ!つって今日、編集さんから三省堂のポスターみましたで、という写メールが来て、これ誰、と云われました。つくづくどえらい修正が入ってるなあ…結果的に人のテンションを上げるのか下げるのかわからぬ技術…しみじみしちゃうぜ。もうすぐ31歳だぜ。バカボンのパパも31歳だぜ。(うそ、ご指摘があり、41歳でした)わたしはマイケルジャクソンとぺヨンジュンと元ベイブの二階堂ゆかりさんと同じ誕生日だぜ。
投稿:by 未映子 12:10 AM [書籍・雑誌, 未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2007.08.21
《イン歯ー》出版記念対談、満員御礼!!
みなさまありがとうございます。ってなわけでもう昨日の時点で席が埋まってしまった模様で、連絡遅くなってすみません。で、当日いらしってくださっても席がもうないのらしく、立ち見でのご参加、キャンセル待ちも無理っぽくて、ま、これからぼっつら電話したろうかいなしらん、と思っていてくださったみなさま、マジどうもすみません。そしてこんなに暑いのにご予約してくれはったみなさまありがとうです。当日は歯のような服を着てまいります。噛むぜ!うそだぜ噛まないぜ!
あと、イン歯ー、昨日の朝日新聞夕刊で、「わたくし率イン『千の風』」というタイトルでコラムに取り上げていただきました。それから週刊朝日という雑誌の「文芸予報」というページで評論家の斎藤美奈子さんが取り上げてくださいました。もしよかったら是非お読みくださいませ!
早朝6時半ころに友人と電話で、もしさ、もしさあ、コ、コスプレとかできるんやったらさ、な、何とかやってみたい…、みたいなまったく慣れぬ話を素人がなんだかぺらっこくどきどきしながら小さな声で、えー…、えー…、とか考えつつ何故か友人は寄生獣のシンイチくんで、わたしは色々あるけどやっぱ…覚悟のススメの、…散…かなあ、やっぱ、とかいいながら、(はらら、と読みます)、とくに散が父親である朧(おぼろ、と読みますよ)にまたがって首をとるあのね、あのひとこま…あのせりふ…(今度画像アップ、するね…)。っていうと、あーあそこねえ、とか云ってて、えーでもそれって本当は朧のほうに興味があるんじゃあないのかおまえ、とか自分を突っ込みながら、でも散ふうのメイクってどんなかなー、淡い色味でやっぱ髪の毛の色は薄くてふわりと短髪…、とか考えながら、原稿書きつつゲラチェックしてたらいい感じの時間になって今からご飯たべる。1日に3回は水浴びてる最近。するとちょっとの間涼しい。文章書くのはとても難しい。
投稿:by 未映子 08:20 PM [書籍・雑誌, 未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2007.06.06
STUDIO VOICE 7月号 佐々木敦<絶対安全文芸時評>に、イン歯ー、が
こないだの小説、個人的に、わたくし率、と略していたのですが、ご感想おくってくださるほとんど皆さまが、イン歯ー、と略してくれてるので、イン歯ー、ってな感じでひとつ。今まさに発売中のSTUDIO VOICEの佐々木敦さんによる、絶対安全文芸時評に<わたくし率 イン 歯ー、または世界>についてのコメントが掲載されてます。 この時評は、今月の十編、と称して順位が設定されております。色々な作品が取り上げられていて、ふむふむって参考になります。イン歯ーは3位でありした。1位の諏訪哲史氏の<アサッテの人>も読んでみたいと思ってたところ。4位に挙げられた円城塔氏作品は、単行本のほうは版元さんから献本いただきいま読んでる最中でありますが、大きさも装丁も黄色で重さもとてもええ。ここで紹介されてる文學界新人賞受賞作の<オブ・ザ・ベースボール>は未読。今回の時評には早稲田文学0号に掲載された作品が多く登場し、でもなるほど非常な作品がとっても多かったので個人的にとても多いになるほど感がばっつりであります。9位の仙田学氏の<肉の恋>と2位の荻田洋文氏の<ユキチ・コード>、6位の青木淳悟氏の<日付の数だけ言葉が>のこのみっつ、わたしもとても楽しく読みました。実験小説だなあこら。走ってるなあこら。オンザエッヂだなあこら。どきどきするぜ。イン歯ー、も、このみっつの作品もがっつり早稲田文学0号で読めますので、ぜひともお手元にないかたは、なんとか手に入れていただければと思います!表紙がくるくるんなっちゃうけどな!そこがまたあれなあれでー! この<絶対安全時評>のページの題字とイラストを漫画家の西島大介氏が描いてはるのだが、このあいだお会いした折に、「ポッドキャスト聴いてるのですが更新はどうなってるのですか」と聞かれてやります、と答えたのでやります、のだが、録音する方法をもうすっかり忘れてしまったなりよ。思い出そう。メールも戴いております。いいかげん再開せえよこら的な。とてもありがとう。思い出します。原稿が書けず、キョエエエッーーーっとなりつつ新曲もやりつつ、明日はリハで、日曜日はライブだなあこら。みなさんいらっしってください。詳細は右サイドに載ってます、どうぞよろしくです。そしてわたしはこの際にはっきり云っておくが流行とははっきりいって関係ないままに友人から頂き物のあれですが、噂の<ビリーズ・ブートキャンプ>に入隊したわけですが、あれはいいよ。ベッドに代わるかっこうの逃げ場…、ではなくかっこうのなんか激しい汗かき場であり、ブート・キャンプ入隊前のはるかなはるかなヨガ時代、こないだ久しぶりにお会いした穂村さんに「それにしてもも痩せましたねー」を連呼されたのでうしし、調子に乗っているのである。でもってビリー!今日も行くぜ!絞るぜ!!そして先日観劇したシベリア少女鉄道の<永遠かもしれない>がオモロすぎて大変だったぜ!だいたいわたしはなんにつけ高度なてんどん技にああっと心奪われてしまうのだが、メタが永遠かもしれぬあいだ続いてゆくてんどん、まさに激しくも美しいシベ少のメタ丼は間違いなく最高でありました。舞台でしか出来ぬことを実践してゆくことの矜持たるや溌剌、ああいまわたしは本でも映画でも詩でもなく間違いなく舞台を、観ているのだと、ほとんど泣きそうなきもちにさせてくれることのなんかわからんが共謀。投稿:by 未映子 06:06 PM [書籍・雑誌, 未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2007.05.29
本日の東京新聞・夕刊で、<わたくし率〜>が。
スタニスワフ・レム『ソラリス』『完全な真空』、『ナボコフ短篇全集』なんかの翻訳もしてる文学研究者の沼野充義さんによる、<わたくし率 イン 歯ー、または世界>のなんやかやが、読める模様ですー!お手元にある方は是非ー!! 今からヨガに行ってきま。あー。でもって、メールや手紙で、小説の感想をおくってくださった皆さま、本当に本当にありがとう。全部だいじに読ませていただいてます。ありがとうー。でもって、ヨガも機会があればぜひ。もうすぐライブだー。
投稿:by 未映子 06:02 PM [本] | 固定リンク | トラックバック
2007.05.28
毎日新聞・28日・夕刊・文芸時評に<わたくし率 イン歯ー、または世界>が。
明日の毎日新聞の夕刊で、文芸評論家の川村湊氏による<わたくし率〜>についてが読めるそうです!文芸時評です。まだ28日じゃないからわたしももちろん読んでないけれども、あした、おてもとに毎日新聞のある方は是非、読んでみてくださいー。どうぞよろしくです。
最近は毎日のように人に会い仕事もしてるが飲酒をしているのでむくむ。翌日ヨガをする体に非常に申し訳なく思うのだが、もともとすぐに酔うしそんなに飲めないのですが二日酔いは律儀に必ずあるのがマジで恐怖ですが皆さん。知ってますか。ウコンの力。ドリンクです。あれは本当に。あれは本当に。あいつだけは本当に。よう効く。マジ効く。激効く。ウコン効く。飲んでごらんよ。次の日ふつうだから。朝方ふらふらになって歩いてると、道に何個も何個も空き缶が転がってるから、ああ、ほんとうにあなたがたありがとうねという気持ちになる。
昨日は友人が出るので楽しみにしてた、東浩紀×笠井潔×海猫沢めろん、の鼎談に池袋まで出かけた。駅から会場までなんでか巨大な食料品売り場をふたっつをぶち抜かなければならず遠く激しく混雑していて困難だった。<新本格からセカイ系へ、そしてゲーム的実存へ!?>っていうテーマに関してはまったくの丸腰であったがすべて表現に関しての話であるのは話であるのでまったく面白かった。打ち上げ後、さらになぜかそこから分散して新宿ゴールデン街に移動して朝方までいる感じになり、話は尽きず、頭も痛くて、酔ってて、これは明日大変なことになるであろーと帰りしなに震えながらウコンの力を買って飲んで、眠って、起きたら、まったくなんもあらへんのやものー。すっごいでウコン。結果、起きてから駒沢公園までの往復一時間を有酸素運動と銘打ってちゃっちゃと歩いたりできるという、いつもより健康な仕上がりの始末。
千葉大学から日本大学に永井均氏が移籍されたので聴講生の申請をするが出遅れた。最近のいちばんのショック。来春に再度申し込み。待たれへん。迂闊やった。今月と来月と人間化科学アカデミーで開催されてる永井均氏の講義、<言語はなぜ可能か>に参加してるのですが、講義の中盤、そして質問に答える永井均氏の世界に対するスタンスに感動してぐわっと涙ぐむ。講義受けながら泣いてるのもこわいので堪える。これが興奮というもので、家に帰って講義のノートを整理してるとその興奮が甦って蟹のように口の端っこから泡がたまる。この講義については全部終わったらレポートを書くつもりです。
投稿:by 未映子 02:22 AM [文化・芸術, 未映子情報, 本] | 固定リンク | トラックバック
2007.05.25
足を回す、砂漠のちから
図書館へ行かねばならないのであって、返す本もあったのやった、ので、世田谷区の大きな図書館は家から自転車で7分くらいのところにあって、自転車はあまり得意ではないのやけど、まあ乗って、行くことにして、んで本を持って走ったら、今日はなんだか焼けてるでないの。なんかコンクリも空気もからっと焼けてて、足を回してると熱で胸がぱんぱんになっていくでないの。あーこれー、とか思いながら私は足を回してると、前に進むわけ、確実に進んでるわけ、移動するわけよ全身、これはこれ自体えらいことよなあー、とかまじで思いつつ、足を回してたら、私めさんこ方向音痴なもので、わからんことなるわけよ、なんか色々が、しかし方向音痴についてはこれ、単なる甘えか、それを明言するのってなんか免罪符ちらつかせ系でいややなあとか思ったりもしたけど、平たく云えば、興味が持てないということであって、辿り着く、ということにたぶん興味が持てないのであった。辿り着かねばならぬのを前提にして移動しているにもかかわらず阿呆なことよ。んでそこには他に悪意も特になんもなく、色々が入ってこんのやよ、だからどこそこに行くまでの目印やとか、最低限、覚えておいて損はない色々な情報とて、頭において置くということが端的に出来ないのだから、応用なぞがきくわけがなく、なんかいつまでたってもどきどきのくるくるな始末であって、それはそれで慣れたが自他ともにすこぶる鬱陶しいものでもあるでないの。
んで世田谷中央図書館に着いたら、休館日でやんの。んで返却ボックスにいれー、とか思うとこれまた調整日なんとかで非・受付。わーとか思いながらも世界は確実にからっと焼けておって3時半ごろ、そっからどうやって行けるのかわからへんけど、下馬図書館にいこーとか思って、案の定激しく迷いまくったが、また足を回す、子供のころ、悲しいことがあって、自転車でいけるところまで行こう、とか思ってそのとき、しかし私はまっすぐに行くのや、まっすぐにしか行かんのや、というキメをあらかじめしたら、五分足らずで文字通りほんまの壁にぶつかって、んでキメがあったもんやから、右にも左にも曲がれず、暗くなるまでそこにいて、んで帰ってきたことを思い出して、でも今の私は三十路でやっぱ自転車で、んですっごい熱くて、首を皮膚に午後の光がじるじる沁みてて、世田谷はまるで砂漠みたいで、人が少なくて、私はそこをただ走ってるんであって、なんかそわそわした気持ちになってて、んで走りながら高校生の時に学校に行きそびれてそのまま休んで図書館に行って、階段のとこでひやっとして一日中を本読んだある日のこと、このそわそわはそのときと同じ感覚やーとか思いながら、砂漠を私は走り続けて、あのとき、本を読むということは、すごいことやなあってほんまに思ったときのこと思い出して、人は生きててほんで死ぬ、ほとんどなんか泣きそうになって、本は、本は、とか思って、あのとき思ったことをたった今この偶然に私は完璧にもう一度経験することが出来て、あの言葉嘘じゃないわよ、ああ、私、どこにでもいけるわ、って、思ったんやった、たった今、タイヤと重力とコンクリートが支えてる、世田谷は熱くて砂漠で真っ白ですっごい光って続いてたんやった。
投稿:by 未映子 12:47 PM [本] | 固定リンク | トラックバック
2007.04.13
カート・ヴォネガット
追悼ビデオ
わたしがトラルファマドール星人から学んだもっとも重要なことは、人が死ぬとき、その人は死んだように見えるにすぎない、ということである。過去では、その人はまだ生きているのだから、葬儀の場で泣くのは愚かしいことだ。あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのである。たとえばトラルファマドール星人は、ちょうどわれわれがロッキー山脈をながめるのと同じように、あらゆる異なる瞬間を一望のうちにおさめることができる。彼らにとっては、あらゆる瞬間が不滅であり、彼らはそのひとつひとつを興味のおもむくままにとりだし、ながめることができるのである。一瞬一瞬は数珠のように画一的につながったもので、いったん過ぎ去った瞬間は二度ともどってこないという、われわれ地球人の現実認識は錯覚にすぎない。
トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、『そういうものだ』
<スローターハウス5 p39>
単時点的な意味において、さようなら
<タイタンの妖女 p282>
わたしに物語の贈り物をありがとう。さようなら!ありがとうありがとうありがとうヴォネガット。ありがとう。
投稿:by 未映子 11:09 AM [本] | 固定リンク | トラックバック
2006.12.10
日出処の天子の髪形でずるずる
こないだ「日出処の天子」の大先輩であるへアメイキャッパー・ミガンとずる天の話になって、胸がきゅうっと痛くなる。盛り上がって嬉しくってスキップして家に帰る。平和なことよ。ずる天はもちろんずっと昔に読んだことあるのだったが、まるではじめての出会いのように我々はぴったしになってしまったのであって、何がいいって、そらいいところはようさんあるが、母子関係とか恋愛とかそういう心理部よりも分析よりも、私が特に好きなのは、髪形であるのよな。うーむ。素敵すぎる。私はこの数ヶ月、寝る前に斑鳩、起きて斑鳩、日中斑鳩、斑鳩で斑鳩、小学校んときの牛乳は「ほもげ牛乳」と「いかるが牛乳」やったわけで、私は斑鳩なわけで、斑鳩は私なわけで、最近テレビでも奈良奈良ゆうてるし、髪の毛をもうそろそろ切りたいと思っているのだが、厩戸の髪形を一回でいいからやってみたいのであって、なんつうの、私まったくわからへんねんけど、コスプレとかをやる広場とかがあって?そこに行けば?厩戸とか毛人のコスプレしてる人々に会えるのかしら、ってずる天はちょっと古いのかしら、少し前に水道橋の遊園地に行ったらそらもうコスプレ市場になっててさ、一番おもろかったのが、宮崎駿監督のコスプレしてる人やったわけであるが、ほかはガンダム以外にわからんかったからあれやってんけど、ずる天ってどうなん、私これがいわゆる適当なコスプレ欲かどうかはわからないんですけど、髪の毛をうんと伸ばして、ヘアメイキャッパーであるミガンにお願いしてがんばって、ずる天の主要登場人物の髪形をね、もう全部やりたいわけ、ぜんぶやってみたいわけ、山岸涼子さんも髪形には並々ならぬ思い入れがあるというではないの、んでばっつり髪形完コピしてやな、ばっちり写真にとりたいって思うわけ、フツ姫はこれもう滝川クリステルにすっごい似てて、髪形も一番やりがいがありそうで、フツ姫をやる場合はつけまつげを下にも上にもつけなあかん。でもフツ姫がみなさんと同じくどーもね。どーも好きになれぬっつうのがどうもどうにもいかにもベタすぎるのであと5回読み終わるまでには好きになりたい。こないだずる天の色々をサイトで見てたら、ずる天クイズがあってやな、それをやってみたが、オール百点でさ、うっしし、しっかし一番最後の砦、最後の階級では80点しかとれへんかったわけで、きー!だってさ、ほにゃららんときにほにゃららんしてたときの来目王子の着物の柄。なんか覚えてへんって!でも悔しかったなー。ううむ。冬ですね。奈良には<喫茶うまやど>があるらしい。行かねばなるめえ。なにを飲むねん。っっつっても、あの大海後ろにしての最後の厩戸の問答な、あれやな、あれやで。
※これ読んだミガンが「おまえ終わってんな」ということで電話あり、密かにおんな二人斑鳩ツアーを画策していたのもすんなり断られて、こないだは厩戸の1,000円札を1,200円円で購入したと告げると「おまえ神保町くんだりそんなことしにいってんの、まわりにおらんの、そんなことしてたらあかんてゆうてくれる人」と云われ、なんであんたもめっちゃすきなんとちゃうのん、と同調を促すも、「私はな、もうな、好きで好きでな、好きすぎてな、読みすぎてな、何回も何回も絵え描いてな、描かれへんとこ完璧に描けるようにやってな、姉ちゃんといつなんどきも場面場面の台詞を言い合いしてな、いつなんどきもな、やってたんや、そんなんを何年もやってきたんや、完全燃焼したんや、でもな、今読み返してもな、ハマんの完璧にわかってるんや、それがあれのすごいとこや、…あんたなかなかフツ姫うまいやん、見て描いたんちゃうやろな」ということで、見てかいてないよ。フリーハンドで描きました、つって、「んでゆうとくけど、あんたの髪質やったら厩戸は無理。無理無理。ええとこ毛人、ってか発想が、なんていうの、さむい」ということで色々が玉砕。ずるずる。
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2006.11.02
随筆集「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」 11月21日、はっ、発売です!!
永きに、とゆうても3年くらいですか、作ったアルバムのことや作ってる音楽のことををひとりでも多くの人に知ってもらうだけは知ってもらいたいぜ!という欲だけでこの日記をえっちらおっちらしかしながら一生懸命に書き進めて参りましたが、読み返してみるとこれはもはや日記というのかなんというのか、自分でもなんかよう判らんもんではありますが、そのほかにノートに書き綴っていた文章、書き下ろしのものなどを、「本」という、この世で類を見ない摩訶不思議なもののなかへ、ぎゅっと詰め込むことが出来ました。そうです、日頃皆さんに読んでもらっておりますこの文章が、徹底的に叩き上げられ、新たな地平を目指すべく、この度書籍化されることになりました!どっきんどっきん!
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2006.06.08
フォントについて、連絡乞う 至急!!
このあいだ、少しの待ち時間のあいだに村上春樹「羊をめぐる冒険」を読んでたら、
面白いのでずるずるとまた最後まで読んでしまった。で、全国の「羊をめぐる冒険」読者にお伺いしたいことがあるんですけど、
私に手元にあるのは、上巻、講談社文庫、1993年12月16日第24刷なんであるが、125頁と126頁だけフォントが違うのである。うむ、違うのである。見れば見るほどインクも濃いように思えるし、ひらべっちゃく、明らかに異なるのである。私は十年前からこれが気になって気になって仕方なかったのですが、今回もやはり気になってしまい、思い出すのであった。なんでここだけフォントが違うのでしょうか。それとも私の目の錯覚であろうか。否、違う。明らかにフォントが違うんや。文脈的にいえばまったく問題ないのだが、それが私の問題ならないとは限らないのであって、すっげい気になっちゃう。意図的であるならばなんでこんな面倒くさいことをするのであろうか。意図的ではなく単にミスなんであろうか。この件について、お心当たりある方はよかったらメールください。も十年前からときどきですけど気になってます。
投稿:by 未映子 10:30 PM [本] | 固定リンク | トラックバック
2006.05.19
フラニーとゾーイーでんがな
風邪が停滞してついに鼻水が出てくるので、寝起きがとてもつらい。蒸してきた最近、熱のこともあり、アイスノンを枕にして眠っているのですが、すぐに溶けてしまう。例の立派な冷蔵庫の瞬間冷凍室には肉ではなく、アイスノンを入れて、なんかサイズもぴったりで、そんなことのくりかえし。
明日はMTVの年に一度のなんとかアワード、という派手で豪奢なお祭りが、27日にあるらしくって、そのイベントのテーマ映像みたいなものがあって、それに歌を吹き込みに行く、歌っていうか声な。こんな鼻が詰まっていてはどうするんだろうかなあ。ああ。27日に、もしお祭りに行かれる方あったら、是非聴いて下さいね。まだ歌ってないからどんな感じになるのかはまったく想像もつかぬが。
熱のせいか、連続して現実が連なり、そのどれもが夢だった、っていう夢をぎょうさん見てなんかうんざり。
サリンジャーの「ゾーイー」、これってズーイーがほんまもんなんですかね、ゾーイーの兄妹喧嘩のあの台詞のやりとり、私好きやねんけど、ゴッホんときみたくいつか舞台で大阪弁でやったら面白いやろうなあってそこはかとなく思ってたら、なんと昨日たまたま読んでた本で村上春樹氏が「ゾーイーを関西弁で翻訳したい」つって書いててここにもひとつの共時性が。や、関西弁の人はけっこう思ってる人おるんかもね。
そうそう、なんか、標準語、っていうか、あの場合は翻訳調が、ってことになるのかな、ゾーイーの鬱陶しさとか真剣さとか優しさとか、フラニーの駄目駄目っぷりとかさ、自意識と若さの「不毛さ」から「太っちょのおばさん的救い」へ一気に駆け上がるあの素晴らしい素晴らしいくだり、その救いが観念的であればあるほどこんなにも素晴らしく、こういう文章に出逢うと「虚構」と「観念」の出自と効果の鮮やかな一致が、私をとてつもなく喜ばす!のだが、会話というよりもおのおのの独白の端々の素敵なところが、もひとつなんか、こう、爆発、する必要もないのかも知れんけど、開花というか、爆発して浸透する、っていうもっとそのための風景があるんではないかなーと思うわけで、んで関西弁。
例えばレストランでイライラしながらスノッブな彼氏に向かってフラニー
「ちゃうねん。張り合うのが怖いんじゃなくて、その反対やねん、わからんかなあ。むしろ、張り合ってしまいそうなんが、怖いねん。それが演劇部辞めた理由やねん。私がすごくみんなに認めてもらいたがる人間で、誉めてもらうんが好きで、ちやほやされるのが好き、そんな人間やったとして、そやからって、それでいいってことにはならんやんか。そこが恥ずかしいねん。そこが厭やねん。完全な無名人になる覚悟がないのが自分で厭になったんよ。私も、ほかのみんなも、内心は何かでヒット飛ばしたいって思ってるやろ。そこがめっさ厭やねん」
例えば居間の床に寝転んで引き篭もりのフラニーに向かってゾーイー
「そやけど俺の気に入らんのはな、こんなもんシーモアもバディも気に入るわけないけどな、さっきゆうてたやつらの話する時のお前の喋り方や。つまりな、あいつらが象徴してるもんを軽蔑するんやったらわかるけど、お前はあいつらそのものまで軽蔑しとんのじゃ。個人的過ぎるんじゃ。フラニー、ほんまやで。
たとえば教師のタッパーの話した時もやな、お前の目普通ちゃうで。人殺すときみたいにぎらぎらしすぎや。光りすぎや。あいつが教室に来る前にトイレ行って髪の毛わざとばさばさのぼさぼさにしてくるゆうあの話。そら全部お前がゆうたとおり間違いないと思うけどさ、でもそんなもんお前に関係なくないか?あいつが自分の髪の毛をどうしたこうしたってええやんけ、あいつなにを気取ってんねん、ププ、ダサイやつやなー思てたら済む話やんけ。悲壮美なんですねーゆうてそんなもんいちいち演出しなあかんほど自信ないんやなあゆうて、同情したったらええんとちやうの。そやのにお前は、ええか、これだけはゆうとくけどおちょくってるんやないで。お前が喋ってんの聞いとったら、あいつの髪の毛自体が、なんかお前の仇みたいになってて、それはちゃうやろ。んでお前がそれをわかってるっちゅうのがもっと気に入らんわ。
あんな、フラニーな、制度を相手に戦争でもおっぱじめたろかゆうんやったら、頭ええ女の子らしい鉄砲の撃ち方を、せえや。敵はそっちやろうが。あいつの髪の毛がどないしたとか、ネクタイがどうしたとか、んなもん関係ないやろうが」
なんか色々の象徴的な台詞ですな。って関西弁で書いたって、関西出身の私に近しくなるだけで、それやったら頭ン中で勝手にやればということになるね。なんか基本的にキャラと合ってないような気がしますな。
やっぱ標準語でいいかも。いや、でも関西弁でやってみたいなあ。装置もあんまいらんしな。あー。
投稿:by 未映子 09:59 PM [文化・芸術, 本] | 固定リンク | トラックバック
2006.03.07
大島弓子を読めないで今まで生きてきた
大島弓子。きっと、すごい、どうせ、面白いんでしょう。あらゆるみんなにとって特別な、みんなが目をきらきら輝かせて語り、語りたい、でも語りつくせぬ、みんながそれぞれに生きてきた思い出そのもののようなきっと大島弓子なんでしょう。素敵な絵で。言葉で。うん。きっとわかる。でも読めないなあ。なんでかな。ずっとまえ、漫画喫茶に一冊だけあった大島弓子。本屋でもあればいつも目を反らしてた。こんな場所では読めないなあ。じゃあいつ買うの。いつ、結局どうするの。男の人に「中高生のときに大島弓子を読んでないことは、未映子さんにとって最大の不幸です。読め。読め。大島弓子を読め。大島弓子を読まずして何を語れるというのだ」とか云われたりもした。そしてどんどん大島弓子が遠くなる。いっそもう、読まずに、だって読まずに来たのだから、読まないで生きて、死んでいこうか。そう思ったりもした。大島弓子。
そして私はこの冬に「バナナブレッドのプディング」を読んでみようと思った。そして読んだ。
私は生まれてきたことがいっつもなんでかわからなかった。子供の頃から毎日はこんななのに、いくら働いたって働いたってお母さんはちっとも楽にならんのに、なんで3人も子供を生んで、それで朝も夜も毎日働いて、お母さんはそれでいいの。しんどくないの。3人のうち私がいなくなれば、その分お母さんの働く時間が減るのになあ、って思っていた。お母さんのために死んであげたいと思っていた。3人のうち全員が大人にはなれないだろうと思っていた。食べるものがなくて死んでしまうだろう。だったら私がはやいとこいなくなればいいのかもと思っていた。いつも生きてることへの後ろめたさがあった。思春期になれば鬱の性格も手伝って毎日がしんどかった。生まれてくるとはどういうことか。誰が人生なんてこんなものを作ったのか。気持ちの底はいつも暗かった。そうやってずるずると、知らない間に私は大人になって、今度は子供を生む年齢になったけど、新しい世界をないところにつくる。
悲しむ苦しむそれだけじゃないけど、いいことだってたくさんあるだろうけど、私みたいに悲しむ癖のある子だったらきっと世の中は生きにくいだろう。世界を増やす。人を増やす。
それがいいことなのかどうかがずっとわからなかった。生まれてきた子供が私に「なんで私を生んだのか」って泣いて訊けば私はかわいそうに思うし、答えられないやろうと思った。だからもう、考えないでおくことにした。生まれてきたことも生むことも。でもずっと自分が間違ってるような気がしていた。全部が。ここでこうしてることも、依存してるだけなのに愛しあってると都合よく考えてしまうことも。もう、見ないように、見ないように。
それからずいぶんと時間がたって、「バナナブレッドのプディング」を読んだ。
沙良の最後の手紙のところで、私のなかの水門が予告なしに開かれて、とめどなく流れ出て、自分がふちだけになるような感覚に襲われて、思わず床に突っ伏した。
暗い部屋で、べたっと身動きできず、口のなかから巨大な熱い円錐の何かが出てくるみたいに涙が出た。
私は、正しいとかまちがいとか、人間関係とか表現とか、そういうことを知らなかったときのただの子供に戻って、わんわんと、ごろごろと転げまわって、ただただ、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになって、おかあさーんと叫んだ。
車が走っていく音にまぎれて、夜やのにカラスが何羽も鳴いてた。
生まれてきてよかったとか、生んでくれてありがとうとか、それは絶対に云えない言葉だったけど、そういう言葉ではなくて、今まで生きてきた言葉じゃないほうのぜんぶが混ざった、おかあさーんだった。
大島弓子を今まで読めずに生きてきた。
肩に力が入ってたのか、なんか怖くて、読めずにきた。でもそんなこととっくに見透かされていて、大島弓子は笑っていた。
そしてこんな風にも思う。今まで読めなかったのは、この冬のためにあったのじゃないか。
中高生の頃の私ではなくて、「生まれてきた自分」と「生む自分」の両方がある29歳の今の私に、大島弓子の物語が会いに来てくれたのでないか。「生きててもいいし、生んでもいいんやよ」って胸の中でひびいた。
大島弓子は読んだ人をひとり残らず抱きしめる。
なんも喋らずにひとり残らず抱きしめる。私はすっごい抱きしめられていっぱい泣いて、気がつけば眠っていた。まるでケープをかけられてるかのようなその眠りは安堵そのものだった。
このことは、私が28歳になって、27歳になって、10歳になって、5歳になって、0歳になっておぎゃあと生まれて、あかあさんの体に戻って、うれしいやかなしいやさようならがなくなるまで、私は忘れないと思う。
投稿:by 未映子 03:59 PM [アニメ・コミック, 本] | 固定リンク | トラックバック
2006.03.01
世界から出て、野中ユリと本の世界へ
野中ユリ!野中ユリ!
野中ユリのことを思うと突然夜眠れなくなってからもう1週間近くがたつ。この作品群の中に入れたら!なはんてことを本気で、ええ本気で。三十路まえの私が毎晩思っておるのです。まったくもう、野中ユリの画集は殆どが絶版で、これはいかなる理由によるものか。解せぬ。よってタイトルだけが頭の中で共鳴しつつ、実際は古本屋で高値がついているのばかりであって、そしてなかなか古本屋でもお目にはかかれない本もたくさんある。たとえば幻と化した「彷徨引力」。どうこれこのタイトルどうこれ。
野中ユリのコラージュを見てると、私のなかのささやかな「個性問題」がいつも揺さぶられる。
我々の<表現する手段>、<手法>の出自について思いを馳せてしまう。
ぼんやりとやけど。そうなれば認識のすべてはすべてコラージュであり、どんなアイデアもどんな考え方も、誰かのいつかの表現の寄せ集めなんであって、そういった影響下以外に生まれてくるわけがなく、つまり我々の思念はコラージュでしかないっていう話もあるけど、私が野中ユリを見て思うのはそういう頭の中の個性問題ではなくて、例えば文字などにそれを思う。
それ一文字では意味のないひらがな文字、あるいは漢字であればつくりや部首など、それらを組み合わせて意味を構築してゆくさまが映像となって浮かんでくるのや。左の長めの棒に対して右に短めの棒をくいっと書く、すれば「い」が浮かび上がり、ちょっと右下がりの長めの点の下にくにゃとした図を書きえいと払う。したら「え」。
それが二つ並んで「いえ」になって「家」になってゆく、逆細胞分裂のようなそんなまどろみ。
それのみでは意味のないものをルールを決めてコラージュして、我々はぐるぐると回っておる。うーむ。
そんなもともとは棒を模したひとすじの「個」と共通のルールに則ってコラージュされて現れる「共有」が、共存しなければそれぞれに意味がありえないっていうこの世界の不思議を感じる。あらゆる個性が共有されて(非個性となって)始めて意味が光り出す世界の中で、なんで意味を保ちながら個性を追求するなんてことが出来るだろうか。個性をなくすことこそが、その個性に意味を持たせる唯一の方法であるのになぜに我々は「個性」というものにここまで幻想を抱くのであろうか。個性が重要とされている「芸術」だってけっきょく誰かが認めなければ、「共有」されなければ、成立しないのであって、んでは人間が作り出すものに個性というものはそもそも存在しないのではないか?と、こうきて、これってば養老孟司がいっつもゆうてることやなあと、まあそんなとこではある。個性ってなにか。養老氏はすかさず「個性があるとしたらそれは体だ」っていうけれど、
私は「どこにあってもそれは単なる言葉」って云いたいな。体でもいいんやけど。
けれども「個性」という「単なる言葉」と思いたいその言葉が指している、あるいは指そうとしているそのものは、やっぱ実は恐ろしいくらい孤独なものである、という本質を知ってか知らずか、だから我々は「個性」という言葉をあんまり軽々しく使わないような気がする。例えば結構決心したような時に、何かを賭した場面かなんかで、「それは、…個性だ」なんて云うことはあっても、例えば「あの人は個性があるね」なんていわずに、多くの場面に「的」をつけて、「あの人は個性的だね」っていうふうに使ってるような気がする。個性とはいえないが、それっぽい、ということですな。そんな2重に隔てられた「個性的」って言葉をきくと、いつも人間の限界を感じるのは私だけであろうか。人間の限界っていうか、「言葉を使うようになってしまった人間の、言葉を使ったコミュニケイションの限界」かも知れん。「個性」、厳密にいうと「言葉」そのものに対する「完敗」と「悲しみ」と「畏怖」が感じられるのだよな。って感じるのは、私が言葉の人間やからか。
ま、私のぐちゃぐちゃしたキリのねえ話はさておき、野中ユリ!
今月号の雑誌「アイデア」にも野中ユリの仕事の一部が掲載されておって、ああ、たった今、初めて野中ユリの作品を見た人はどう思うのだろう、私だってもう一度、や、一度といわず何度でも出逢いたい!
私が初めて野中ユリの作品と出逢ったのは、17歳の青春の初め、新潮文庫の倉橋由美子モノの表紙である。あの一連の作品である。またこれが倉橋由美子の内容と憎らしいほどマッチングしてさ、
そこには稀代の相思相愛がある。んで国書刊行会から出てる黄色い本な、バーセルミの「帰れ、カリガリ博士」、に時を同じくしてやられたんである。そうそう、いい忘れていたけれど、名編集者、稲垣真実さんが編集して出された、私にとって寄る辺なき宇宙の数少ない寄る辺、あるいは点である2冊、すなわち「尾崎翠全集」、「定本・薔薇は生きてる」どちらも今はなき創樹社から出版されていたのだが、その両方も野中ユリの装丁なのであった。「尾崎翠全集」の表紙は雑誌「アイデア」にも紹介されているのでみなさん是非見て見てください。んで次はあの本も、あの本も、ってキリがねえくらいあるんだけれども、たまらん。
んで野中ユリの装丁本を見ながら思うこと、私は本そのもの形が好きなんである。あの形態が。
そして先月、私はもうひとつの私の目に出逢うことになった。
「ユリイカ・ニート特集」の巻末の小澤英実氏の書いた「読むのが怖い」という文章の中で私はもういっこの目んたまが見せる風景と出逢ったんである。
これも短い文章であるのに、こう、読書を好きな人が読めばこう、なんか母なるでっかい本そのもの、や、人はこういう時にたまらずイデアって言葉を使ちゃうんじゃねえの!
もうイデア!本のイデアって云っちゃうぜっていうその本のイデア!に抱きしめられているような気持ちになる文章なのですが、全文引用してしまいたい衝動に駆られるが、是が非でもこれもどうにかして読んでいただきたい。で、その中から失礼してすこし引用をば。
「(前略)…両手で本を持って俯いた姿勢は祈る姿に似ている。右手と左手が本を介して繋がると、私と本の間には、小さな空間を抱く輪ができる…(後略)」
このあとに続く文章がもう、…なんつうの、も、絶対に読んでくれな。
私はこの文章を読むと、私は本の形態だけに惹かれていたわけではなくて、見つめようとすれば去り、見つめようとすれば逃げる、何かしらの風景が、読書の最中にいつもあったのを思い出す。
それは自分では決して俯瞰できない、「本を読んでいる私」であった。いわゆる「自分の背中」的な「本を読んでいる私」と、この文章でとうとう出逢ってしまったのやった。私はなんだか胸がわーとなって、
ああ、と思って、そうか、そうやったのかと、ほとんど泣き出さんばかりにじんとしてしまった。個人的な話でごめんね。
小さく頁を開き、本を読んでいる私。私は本を読んでいる。
部屋の隅っこのスペースで、無茶苦茶な環境から逃れるために口を結んでいる。物語を読み終わって、本を閉じる。本を両手で挟んで持ってみて、あっと息を吐く。そうやって背中を丸めて小さな世界の終りと始まりに俯いてる私自身を、私は活字を追いながら、物語にのまれながら、いつも見ていたのである。それは小澤氏がいうように「祈る姿」とそっくりな姿勢で本を読み、読み終えた私で、また読もうとする私であった。祈ったことなどない私が図らずとも祈り続けていたとはな!宗教のように死後の保証も、与えられた倫理観も、後ろ盾も、番長も親方も大儀もなく、何のためにでもなく!何を祈ってるのかもわからない、これほどに純粋な祈りがあるだろうか!そして祈りを意識せずとも知らぬうちに人を祈らせてしまっている「本」の魅力とは一体なんであろうか!そして多くは語らずとも、野中ユリ氏もまた、その「本」の「内容」はもとよりその形態、そのご自身を含んだ本の存在に、心惹かれておのずと発露して流れだし凝固した愛が、あの作品群なのであろう。
あーもーとにかく小澤英実氏に「君が見てたの、それだったのよ」と告げられ、わーとなり、野中ユリの世界にうっとりとして気がつけばあまりのうっとりさ加減にぱっくり死んでた、なんてことがしょっちゅうあって、大変だ。
んで月曜日、21万円という値がついている野中ユリ「私家版」がやっぱどうしてもどうしてもどうしてもどうしても欲しくて、欲しくてさ、見に行ったわけ、神保町に。中身は見たことなかったからさ、したら葉書大の作品が何枚か。ウーム。粋。21万円。「定本・薔薇は生きてる」に使われた表紙のホンチャンが入ってる…。しかしそれは70部しか作ってない完全なる私家版で、つまりその私家版は野中氏のごく親しい人たち、今はなき薔薇十字社関係の方たちや友人に贈られたらしいわけで、私が見た作品には贈った人、つまり受け取った人の名前がちゃんと直筆で記されており、それってどうなのか。
や、それをどんな事情でか売った人のことをどうこうゆうてるのではなくて、あくまでその人に贈ったものを、なんで私が、金を払うとゆうても、赤の他人の私がそれを所有するってどうなのか。ってんで、やっぱそういう真心に値はつけられんってんで、店頭で見せてもらえたし、目に刻み込むように見てきたし、結局買わないことにした。私はコレクターじゃないし、
でもやっぱコレクターじゃなくても野中ユリの作品が手元にあるのとないのではやっぱなんかが違うというのも実際あるが、買わなかった。んで10万円の澁澤龍彦との「狂王」の初版、と2万の再版モノが店頭にあって、じっくり見た。これも迷った。「狂王」は持ってないし、噂だけでちゃんと読んだことがないから。
で、ま、これについてはちょっと澁澤シュウもあるので考えてからにしようと店を出て、んで結局逃してた「ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記」と古屋信子の「黒薔薇」を買って帰った。欲しい博物誌を見つけたがお値段68万円であった。無理無理。森鴎外の毛筆でドイツ語のメモ書きが150万円。無理無理。これってやっぱこういうの、買う人おるんやろうか、おるんやろうなあ、
んで足穂のナマ原稿が30万でこれも無理無理。うーんすげいなあ、大体こういう古本屋さんやるのに、どれくらいお金って必要なんでしょかね。だってまずは買うわけでしょ?1万でも高く値をつければまあ、元は絶対とれるやろうけど、まず資金がいるのだからしてもともとお金持ちがする商売なのか?
んで家に帰って、寝転んで野中ユリ「妖精たちの森」の鳩の絵にびびりつつも見入って、これまた野中ユリ画の種村季弘の「ナンセンス詩人の肖像」にデレデレして、そんな休日であった。日が休んでおった。呼吸しておった。何もなくても本当に休まる日というのは稀である。
そして野中ユリ氏は今もとっても元気でいらっしゃるようで、それがなんだかすごく嬉しかった。
※追記です。
そして2006年11月、この記事がきっかけで、野中さんと繋がることがなんでか出来て、わたしくし、川上未映子の随筆集「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」の表紙・装画を野中ユリさんで万歳の、なんとゆうかそんなド・素敵なことになりました!
邂逅、奇跡、思いつく限りのどってん綺羅綺羅とした嬉しい巡りあわせ、表紙は是非こちらから見てくださいなー。
投稿:by 未映子 09:59 PM [文化・芸術, 本] | 固定リンク | トラックバック
2006.02.13
日日雑記
武田百合子の<日日雑記>をトイレに置いてあって、何度でも飽きもせずページを繰るのが日課になっている。日課。日課ではないが、同じところも丁寧に読む。写真では美人で気が強そうでいかにもハキハキとした印象があるのに、文章はたおやかで、飄々としていて、やさしい。写真家の神蔵美子さんの写真集、<たまもの>のあるページで、写真家のアラーキーさんの奥さん陽子さんが亡くなられたときの葬儀でのことが書かれてあって、そのとき神蔵さんのご友人が「わたしは文章を書くのにつまるといつも武田百合子さんと荒木陽子さんの文章を読むの」というのを思い出す。やさしく、何をいうでもなく、気持ちをゆっくりどこかへ動かしてくれる文章。神蔵さんの<たまもの>という写真集も特異な作品で、そこで神蔵さんが凝縮したいと思ったであろうことがらの方向が、私はたまらなく好きだ。作品でしか想像できなかったけど、神蔵さんと初めてお会いしたとき、どんな激しい人だろうと思っていたけど、すごく丁寧で、可愛くて、とても気を遣ってくれる方で、すごく丁寧。もちろん激しい人であるには違いないだろうけど、でも初対面の人に対する接し方になんだかすごくいい気持ちになれた。それからまた写真集を見返してみると、もっともっと立体になって、その写真集がもっと近づいてきたように思えた。そんな写真、文章、武田百合子、やさしさ、トイレの渦、想像上の葬儀、別れ、ゆっくりと気持ちを動かす文章。何度でも読む、早川義夫さんの文章を思い出す。
私は文章や作品をつくったりにつまっても駆け込みたいと思うことがない。作品にとりかかるまでの何気ない毎日が、もういつもどこかへ駆け込みたいと思ってるのかも知れず、作るのにつまづく、というよりも、生きるのに既に毎日つまづいていて、作れる段階にいけるときは既に前の状況に比べてほんとうにほんとうにしあわせに近いような気がする。比較してるだけだけど。や、作ってるときも、やっぱしんどいけど。
ヨーレン菌も引越しも落ち着き、今日やっとインターネットを我が家で接続することが出来た。ああ。最近の日記は携帯電話で書いたりしていたので、なんだか暑苦しくって、私はネチネチと指を駆使して、や、駆使でもなく、何をやっているんだろうかと思いながら、やっていたので、でもま、パソコンといってもキーボードといっても、ブラインドタッチなわけもなく、右では中指しか使えない始末なもんで、今日は晴れたな、いい天気だな、洗濯物を干すぜ、でも、サボコの調子がすこぶる悪く、これはきっと環境の変化だろうとは言い訳しつつも、私にだって思いあたる節がふたつあって、それを思うと暗い気持ちになる。今は冬ゆえ、植え替えは出来ぬから。せめて滋養のある土を足したりなでたりしてみる。
しかしながら部屋がまだまだ散乱していて、これはきっとこのまま一年などを過ごすということも、よくある話であろうから、なんとしてもとりあえずとにかく、ダンボールをあけてしまわなければなるめえ。生活、生活とは何であろうか。それは取り立ててこれだということでもない。このゆるやかな、やるせない、そいでもって長く、時には短く磨耗したり輝いたりしながらのこれ、これを名づけただけのものに過ぎぬのだと思う、名前からの詮索は無意味である。私が三枝子という名前で、その名前から私にむけての解釈には何ら意味はないように。
ベランダからは屋根が屋根が光っておる。
白くうろこみたいに光っていて、私は旅行をあんまりしないけれど、いろんな地域にはいろんな光がいろんな光り方をしているんだろなと思う。たとえば地中海。例えばエジプト。例えばアイスランド。それもこれも私にとっては記号でしかないが、それに実体を持たせるためにはどうすればいいのだろうか。でも例えば日本。日本に住んでる私にとって日本に実体はあるかといえば、ないような気がする。ではやっぱり名づけられたものは名づけられたもの以上ということはなく、それとして理解するしかない。名づけられるものは、それだけのことだ。そして、名づけようのないもの。名づけようのないものことを我々はちゃんと知っていて、それを目指して、それを愛でたくて、そのまわりを言葉を使ってぐるぐる彷徨しているだけなのだ。
そして今日のこのベランダから見える、この冬のお昼の瓦などの光り方。これに実態がなくてもあっても、もうよろしい。私がどこかの単時点で、このように光をみたということだけで、別にそれは悪くも何ともなく、感動からは程遠く、本当はこんなことに名づけられるはずもなく、無理やりにこれに名づけたものが生活というものなんだろう。
投稿:by 未映子 12:59 PM [本] | 固定リンク | トラックバック
2006.01.03
頑張れ、いつか死ぬ
こないだMIGANGの家で数人で鍋など食していたときのこと。完璧な夜であっておなかも減っていて、たくさんの野菜、山盛りのネギの丼がどんとおかれ、嬉しいな、薬味が際限なくあるように思えるくらい充実してるのは、嬉しいな、マロニーもあるな、嬉しいな、ポン酢もあって、たらもあって、牡蠣がある。ビールもあって、これはいったい、なんだろう。ふわふわと浮かんでは我々の食欲と時間をくるんでゆくまあるい善意しかないような湯気、実のある笑い声、いい程度のテレビの音、「穏やか」が充満していたそのせつな、私はふっとあからさまに無記名の不気味な不安と目が合った。
笑いも睨みもせず、そいつは会ったことのない不安だった。不安はいつだって少々可愛げのあるものであるのにそいつの退屈な無表情さったら。ただそこに、ぼーとおるだけであった。そして私は箸をもって茫然とすること少し、これからも人生が続いてゆくということに、心底ぞっとしたのだった。死ぬまでは人生が続くということが私を強烈に、ごん、とノックし、心底脱力したのだった。
そんなことは幾らなんでも知ってるけれど、
それとおなじくらい知り得ないことであるのもまた真なり。私は私にとって本当に切実なもののことは、防衛本能からかその事柄の性質なのか長い時間そのことを思い続けることが出来ない。自分が捕らえた、あるいは捕らえられた謎から出来るだけ離れずに向かい合う人間が哲学者なのでしょうが、いや、なにごとも一色であることはありえない。シッダルダの頭の中はどうだったのか。彼は何も書いてないから物理的な境目がみえにくい。私にはシッダルダは座っているように見える。
カントはどうか。カントもこうしてご飯を食べてる時、はたまたセックスなんてしてるとき、ほんの少しぐらいは、やはり認識の謎から逃れていたはずなのだ。体があるってそういうことだ。ヴィトゲンシュタインは戦場の防空壕の中で論考を書いた。とても真剣に長く長く考えたに違いはないが、多分戦場の方が物を考えるのに彼にとっては自然だったのやろうと思う。
でもドアを作ったり建物の設計なんてしてるとき、土星と金星ごっこで興奮してぐるぐる走り回ってるとき、「言葉の使われ方」から逃れていた瞬間がやっぱりあったはずなのだ。
<考えることから逃れざるを得ない部分の自分>っていうのは、彼らの書物のどこにあるのか。
書かれなかったところに、哲学という性質であっても、真理のもう半分があるんじゃないかと私はいつも思っていた。
やっぱり書かれてあることがすべてではない。凝縮したものではあっても全部ではない。人生の全部なんて書けないから、
人は自分の得意とするところ、これだと思うところ、気に入ってるところを一生懸命に書く。
私は、行間のちょっとの隙間に、眠っているカント、きゅっきゅと研磨してるスピノザ、セックスしてるデカルト、肉を食べるヘーゲル、などなど言葉にはされない、ならない、もう片方の真理を想像してみると、どの本もわりかし楽しかった。
人が生まれて生きてただ死んでゆく、っていうだけのことを、みんなそれぞれのやり方で、考えてる、あるいは感じてる。
赤ちゃんは泣きながらただ生きてる。掃除婦は掃除をしながら確実に哲学者とおなじように一時間を生きている。
母親は子供を世話しながら時間を過ごしている。感じるだけは簡単か。考えることは難しいから偉いのか。そしてそれを言葉にするということは、もっと難しいから、もっと偉いことなのか。困難なことをしてるということが人を感動させるのだろうか。そうかもしれん。
だから私には時々彼らとは逆のことが起こって、時々今日みたいにノックされると「考える」というところまでなかなかいけなくなってしまった。書くなんてもっと出来なくなった。
全部を感覚と観念でどうにかしようという癖がついてしまって、けれども「考える」ことと「感じる」こと、どちらが私にとって幸福なのかはわからない。選べるものではないかもしれない。真理数で語れる世界を(そういう解釈もあるよって例だとは思うけど)私は世界とはやはり思えない。世界って何か。ヴィトゲンシュタインに訊いたら笑われるやろう。斎藤くんに訊いても笑われるやろう。そんな問いを持てるなんてすごいねって笑われるやろう。
死ぬこと、論理的にいえば、両方が同じことであると思うとき、いったい私のこれ、は何なんだろうか。これ、があるのは事実のように思える。
言葉を使ってるのに、いろんなところに感覚が顔を出す。論理と非論理が混在してる。
それぞれの配色で生きている。一色で在るなんてありえない。
でもってそのせつな、(せつな、なんていう言葉はなんだかぺらくて厭だな、なんて思っていたけど今使ってるのは多分意味はないやろうけど、何かが作用してるのかも知れん)降参、に近いような、あきらめのような、どっちかっつうと嬉しくは決してない気持ちが体の内側みひたひたとみなぎり、涙さえにじんだ。箸を持った手がじっとしていた。あ、じっとしてる、と思った。
そして「今、これからも人生が続いてくんやと思ったらぞっとしたー、あはは」っつってみたらみんなも、あははーなんて言って笑って、それからまたお鍋を食べた。
投稿:by 未映子 04:29 PM [心と体, 本] | 固定リンク | トラックバック
2005.12.13
どーどー
食べ物屋で何かを食べるのは当然だとしても何かを読みながら食べる人がたくさんいるのはなんでだろうかと思うと、私は短絡的な人間性なのでひとつのことで頭がいっぱいであるので何かしながらというものがなかなか得意ではないが、そんな私でも時々食べながら本を読むことがある。
それはとびきり楽しみにしている本を持っているときなどがそうで、
もーこの本のページに、そこに書かれているであろう物語に、
こう、情けなくもいかつい形をしている頭の形ではあるが、こう、ぶつかって飛び込んで行きたい気持ちに、おかしなくらい心焦らされるのであります。
例えば最近なんか食べながら読んだのは講談社文芸文庫の戦後短篇小説再発見の、表現の冒険編だったのやが、小島信夫の「馬」のことを思うと私は何をしていてももぞもぞ落ち着かず、何回読んでも面白いなあ、なんという、ひー、人ごみを歩いていても、君を早く読みたくて仕方がないっていうのをこの短編に知られているようで、なんか焦る。なんか照れくさく主導権がその短編にあるというのを短編に知られているようで、素直になれない。
なので、何か食べようというのはいわゆるポーズであって、
椅子に座って注文をして、食べ物が来る間に何気に本を手にしてみても、
いったいなんなのか、(ま、食べ物来る間にちょろっと読むぐらいのものよ、あーでも君は食べ物を食べながら読むくらいで丁度よろしい、君なんていうのは私にとっては実際)って感じでそんなに夢中になってるのを、認めたくないのです、その短編に。あー。
で、食事がきて、(ま、食事のついでに読んでやっても良いですわ)って言い訳しながら読むのであります。なんて不自由な私と素晴らしい物語とのこの関係。完全に物語の、表現の、奴隷である。んで結局ずるずるにされるわけですよ。まるで「馬」の亭主のようであります。
でも何かで読んだけど、松尾スズキ氏なんかは、食事の時も待ってる時も本を読むらしいのですけど、それっていうのは食べ物をこう、ただひたすらに待ってるっていうのが見え方としてこう、何だかさもしくってっていうか、そんな感じでいやなんだって。
こんなふーに<食事をしながら本を読む>という傍から見れば同じに見える行為であっても、理由がまったく違うなんてま、気にしているものがまったく違うっていうのがま、なんかここにも認識の因果の片鱗というよりも真相をみたよなみてないような、そんな気がしたりして。
私よ、本は大好きでいいけど、もっと堂々と生きれないものか。
投稿:by 未映子 10:30 PM [本] | 固定リンク | トラックバック
2005.06.14
倉橋由美子、その死と永劫完成
倉橋由美子氏が亡くなったのを、私は今朝知って、なんとも云えんなんとな気持ちが。
そうか、亡くなったのか。心臓の病気で、亡くなったのか。
知人から聞いて、今、調べてみたら、心臓の鼓動が聞こえる原因不明の病気だったそうな。
異常のない私の心臓でも、夜中ベランダの手すりに胸をあててもたれてたら、
それだけで世界が吐き気のするほど波打ち揺れるというのに、鼓動そのものが耳に届くとは、
いったいどんな世界の揺れ方。
寂しいか。あんまし寂しくない。
誤解を恐れずに云うと、倉橋氏は私にとってあんまりにも肉体のない作家やった。時代を共に呼吸している実感などもなかった。
パルタイは飽くまでパルタイであり、反悲劇は反悲劇のまま、
何にも減らぬし何にも増えぬ、
生き死にでは左右されぬ事実が背表紙から発光しております。
でもただ、倉橋氏の死の印象を喩えるならば、
ひとつのひっそりとした植物のある体系の消滅というか、精巧な空中庭園の崩壊とか、精緻で無意味なまでに巨大な無人宮殿の設計図の焼失、そんなような、異動。
生きていようがいなくなろうが、空中庭園や設計図は完成されしきっていると思い込んでいたけれど、倉橋氏の死によって、いよいよにそれらは磐石の極み、左脳に響きわたる地なりをもって地を発ち、もはやこの世のものではない存在の仕方で我々を見下ろし始めたというか。
そんなとりとめない印象が午前中ずっと、頭のなかをぐるりぐるりしてました。
倉橋由美子さま、あなたの作るお話は、どれも素敵でした。
私が生きてる限り、いつでも何度でも読めます。これも、素敵なことです。
十代の私は初めてあなたの小説を読んだとき、すごくすごく興奮しました。すべての毛穴を中心として内側からめくりかえる思いでした。
そして私にとってあなたほど絶対的に、「遠い」作家はいませんでした。俗にいう、
「好きになってはいけない人」というような。
ありがとう。
倉橋由美子 第九感界彷徨も読んでみてください。
投稿:by 未映子 11:45 PM [書籍・雑誌, 本] | 固定リンク | トラックバック
2005.06.11
ああって動く心、あそこの動き
ぐっとくるときにああって動くわけよ。どこがよ。心のあそこがよ。
このアルバムのどこを切っても、
ほんっまに何処を切っても、
感動したときの心、あそこの動き。
今はずっと、
7月のシングルよりかは先やけど、
9月のアルバムの制作してますよ。
アルバムですえ、アルバム。
アルバムは、未映子プロデュース、
ほんで佐藤研二氏と、彼率いる、
COTUCOTUともようさんやります。
あー、今、太宰の、「晩年」の、
能書きではなく後書きを思い出したぞ。
太宰がいったい何をゆってるかとゆうと、
この晩年っつう短編集を書くのにした、自分の苦労を、自分でねぎらいつつ、
どんなけの地獄、
どんなけのどえらい自意識地獄をば練りに練り歩いてきたかっつうの述べつつ、ま、書いた原稿用紙は5万枚超えましたよ、でも全部。破ったもんね、破りましたもんね。俺自分で。俺はそういうこと出来るし。みたいな。
んでま、晩年、この晩年、そんな自意識の魑魅魍魎から選ばれたこの短編たちは精鋭なんだよんということです。
「・・・・そうして残ったのは、辛うじて、これだけである。これだけ」
とか結構重い調子で語ってんのが目に浮かぶけども、
今にも踊り出しそなほどハイなんが痛いくらいに、や、微妙に痒いくらいにようわかる。わかりますえ。嬉しいもんよ、完成は。
「けれども、私は信じて居る。この短編集、晩年は、年々歳々、いよいよ色濃く、きみの眼に、きみの胸に浸透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊創るためのみに生まれた」
もうなんかスペクタクルな神託ノリ、
何のために生まれてきたかっつうのを限定しちゃえるような気持ちになれるわけなんであって。
「さもさらばあれ、「晩年」一冊、君のその両手の垢で黒く光って来るまで、繰り返し繰り返し愛読されることを思うと、ああ、私は幸福だ」
ってまあ、最後はぼくすごく幸せです、幸せですっていうことで、
思わずこっちが照れるがね、っつうくらいの言い回しで、
ま、素敵、ほんとに素敵ですけど、書き写してて思うんがやっぱ太宰、文章うまいなー。
物を作る人間に限らず、
これじゃ!って力を形にし切ったあと、恋愛でもなんでもな、
思える束の間の幸福、これのみを体験するために生まれたんす。
つって叫び出したい、意味はないがもうとにかく叫び出したい境地が確かに、あるのであって。決してこれはだらだらと続きはしやんが、
そういうものが人生の点々にあるから、
生きてゆけるのやと思います。
私と、それを聴いてくれた人のそれが、
もう見分けのつかんようになって、
噴出し飛び出し去来する、そんなアルバム作ってるよ。
詳しくはまたのちのち。
っつうかこれ以上詳しくっつって、何があんねんな。
投稿:by 未映子 03:14 PM [書籍・雑誌, 本, 音楽] | 固定リンク | トラックバック
2005.05.31
宮沢賢治、まるい喪失。
なんでか「永訣の朝」の茶碗が浮かんでまうわ。
夕暮れはなんだか青いぼんやりが、
ぴりぴりと震えてて、
コンビニに行ったはええが、街が震えてるわ。
空がモネ調やった。
とっさに、や、別にとっさでも全然なかったけど、
私はなぜか、宮沢賢治は賢治でも、
春と修羅のほうが青い感じがぞんぶんにしてさ、
そういう電飾の震えて揺れる、空気がちりちりと青く燃えて、
そういうもの、
そのものやのに、
永訣の朝の茶碗が浮かんでしまうわ。
あれって青い茶碗やったけか。
なんかしーんとしてなあ。
ちょっと前に、
NHKで子供のすごい達者な子が、
ちゃんとプロデュースされた空間で、
「風の又三郎」は小錦とで、
二つ目は「永訣の朝」を、
朗読っつうか、芝居っつうか、
雪降らしてやってたの見ました。
宮沢賢治の詩には子供の声が合いすぎて、
この世のものとはちょっと違う発光をしていた。
独特の光り方をして、
それを見止めたときに、
懐かしいでもなく、悲しいのでもなく、
降って来る雪の玉と自分との境目が、なくなるような、
そんなまるい喪失があった。
子供の死と、
子供の詠う詩って、
なんか同じところから来て同じところに帰っていくみたいで
そやけどそれはもう、
絶対私らにはもう、わからん場所で、
永遠に私はそれを失ったような実感がしたんやなあ。


















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