2009.10.12

ア、秋

 気がつけば空気がしんとしたる秋の、左の、まえみごろだ、どの季節の変わり目にもよく似たにおいがして、冷たさとぬるさをこまかく行き来する瞬間がそれはもう満ちてある、それは信号が青になるのを待っているとき、バスを待っているとき──そういえばいつでも何かを待ってるとき──に、春から夏へゆくすきまに自分がいるのか、それとも冬から春へ、それからもちろん夏から秋へいるのか、そういうことが解けてわからなくなることがあって、戸惑うけれど、それでも数秒後には、いまは2009年、夏が終わって秋へ移行している最中だと、そういうことがどういうわけがすっかりとわかってしまうのだから、人というのはたいしたものだ

 今日はなにもせず一日を布団のなかで過ごし、本を読んではうたた寝をして、目が覚めればまた本に戻りを繰りかえす午後から夜、ペーパー・ランタン、小さな火事、気がつけばそれを見てる、まぶたをあけるたびに光の加減が違っていて、目に見えるこれがいつの、なんなのかが、わからない、明け方と夕暮れは少しだけ似ている色があって、それがどっちでもいいのだけれども、と考えて、けれどもさっき、意味がなかったあの瞬間を思えば自分が生まれたてのまぶたにでもなったような気がしてまた眠る、こうして一個のまぶたであるにもかかわらず眠りへ下半身を浸しにゆくことはいやなことから逃げるみたいでだめなことだという考えが背骨をひとつひとつつかんで大事なところへ登ってくるようだったけれど、そんなものは現実のこの指があればつまんでうっちゃれることも、もう可能だった、ことに気がついてしまうことの、うっすらとした淋しさ

 ハロー、ハロー、いろんなところに 
 汗をいっぱい かいてしまう 
 夏の影みたいな 冬の午後

 気がついてしまったあと、そこに残っているのは暮れる秋の、右の、まえみごろだ、確認するように柔らかだった生地にそっと針をうめてゆく、できあがる模様はきっとらくだかカンガルーの毛並みにそっくり、であればいいのになと触ったこともないのに無責任に思うこと


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2005.11.20

犬猫屏風と結婚式

洗濯物をはやく乾かしたくてコインランドリーに行く。コインランドリーはよそよそしい、普段音沙汰ないからや、狭くて音がどらんどらんとリズミカル、棚に詰め込まれた雑誌の一頁までもが完全に湿ってて蛍光灯がちりちりと震え、なんだか恐ろしい気持ちになる。あ、恐ろしい、と声にしてみるとあんがい間の抜けた形容詞でもって、一気にどっ白けて恐ろしくもなんともなくなった。

乾燥機はあと6分なんで待つ。しんとしてる音とどらんどらんを全背中で受けて黙って座ってる。動いてるのは私の洗濯物入れた乾燥機と誰かのを洗ってる洗い機がひとつ。

その洗い機にはまるで漬け物石みたく蓋のところになんか荷物が置いてあって息苦しく見てるだけでなんだか私が肺の上に鉄板を置かれてるようなよう。盗まれるの防止であろうなと乾け乾けと思ってたらその洗い機が突如ものすごい勢いでごんごんと暴れ出した。

洗い機の中、左右にごっらんごっらんと体をぶつけて中でもがいておるような暴れが洗い機の中で、それが脈絡なく繰り出されて私は唾を飲みじっとみていた。洗い機は動物が風呂上がりのようにぶるっとし暴れて蓋のうえの荷物が落ちそうになっていた。

私は猫か犬やと思った。猫か犬が洗い機に落とされて回されているのやと思った。猫と犬が回されてるところを考えてみた。犬猫、つながる犬と猫の顔、四つの目と無限の毛、八つの足とちいさいギザギザの歯、飛び散る茶色や白や黒、小さい脳の匂いや思い出が黄金色にたなびいて、台風一過の夕焼けみたくなんだか分厚い屏風になって。
洗い機の主を待って中をちらっと確かめようと私の乾燥機が止まってだんだん冷えてきてそれでも主は帰ってこないで私は帰ってこない主を待ったが犬猫はずっとどらんどらん、凸凹のどらんどらんを聴いてるうちに、犬猫の鮮やかな屏風の前で結婚式をあげるおばあちゃんとおじいちゃんの夢をみた、おばあちゃんは今のおばあちゃんで綺麗なお化粧で角隠しで笑ってた、おじいちゃんは上は軍服、すこぶる若く、下はフンドシ一丁で辛そうな姿勢でしゃがんでた。

投稿:by 未映子 10:14 PM [日記・コラム・つぶやき, 非・文] | 固定リンク | トラックバック

2004.08.18

あんたの脳ミソはわたしの脳ミソじゃないってことよ

色々なことがあって色々な時間が過ぎてゆくのかというとそうでもない。
では頭の中はいったい何に支配されているのかというと、からからころと瑣末な出来事云々かんぬん。私は怒っているのである。泣いているのである。それから全力なのである。喜んでいて、それでいて懐疑心が首を絞めるのである。そういう日常に名づけようものならそれは、「   」。どうせ削除されるものなら私が先に。


人との対話は疲れる。お喋りは疲れぬ。対話は疲れる。終始、言葉の不備を思い知らされる。言葉は通じるが話が通じないという不毛が怖いのである。やれんのである。しかし懲りないのである。何ゆえ私は懲りぬのか。いや、懲りていた時期は確かに長くあった。はあ、人を対話に走らせる衝動とはなにか。表現に足を浸けさせる時間とはなにか。
人々の快哉とはなにか。人生の目的とは、なにか。
ギリシャの大先生が仰るように幸せになることであるというのなら、それは量か。
私は「文章表現を、あるいは詩表現をなめている」という感想を人づてに戴いた。
人づてというのがミソです。どれもこれも難しいんですよ。
心当たりはないでもないけど。そういう風に、読めるのね。まあまあ。


ああそうも云えば、
私が表現において全幅の敬意を払う人。ああ、鼻水が溢れるほどに懐かしい。
私はあなたと、あなただけと、大事な大事な大事な、話がしたい。


生きている人間との対話。死んでしまって今はもう居ない人が残した書物との対話。
両者の相違点は何か。ないのである。同じである。


カート・ヴォネガットの最新コラムがサイト上に翻訳されて載っていました。
翻訳してくれた方、心から有難う。


新曲のデモを作った。ピアノと私だけで歌った。
気に入っていて、
頭の中は今この曲のことで満ちている。

私が子供の頃何度か繰り返し入院していた頃、
母親が買ってくれた絵本がある。ねこのジョン。2年くらい前、酔っ払ってふらふらどっかの商店街を歩いている夜に、本屋の店先でばったり見つけた。
ねこのジョン。物と心の結び目は、いったい誰の手によって作られるものなのか。
や、誰かが結ぶわけではなく、それこそは結ぼれてゆくものなんである。
私の未発表曲ではあるが、「結ぼれ」という曲がある。結ぼれ、これはR.Dレインの著書のタイトルでもあるが、もうひとつ、横光利一の「春は馬車に乗って」のある一場面の描写、それらと私の心の管が、どういうわけか結ぼれた美しい結果なのである。

美しい結果。人の思惑、人生。はっとするほど単純な嘘。
実はいやらしいことでがんじがらめの癖に、である。
人類はいったいもう。ほんとにもう。私ったら。

私は、つまるところ、
人生は冗談でしか語ることが出来ないというそのことを知っているのだ。

論理的にある議論をするとき、
論理を突き詰めているのではなく、ある「考え方」を突き詰めている。
これは人々がとかく陥りやすい罠である。
「論理に則ってする議論」と「論理的にする議論」はそれぞれ行く先が違います。
おまちがいなきよう、論理と信念は、別物ですよ。


言葉で表せることなんてないと、真顔で云ったら信じますか?

それを承知で言葉を使うしかないこの形態、自同律の大不快。

投稿:by 未映子 01:00 AM [非・文] | 固定リンク | トラックバック

2004.07.20

なんて、むずかしいの

先日は歯医者に行く。あの、型を採るピンクの柔こいのを噛む。
じっとしてたらすぐ固まるやろ?
で、もう要らんというのでそれをもらって帰ってきた。
先生に無理ゆって、必要ないのに下のも採ってもらって、今、手元に、両方。
うれしいなあ。うれしいなあ。
わたしは歯科医院でバイトをしてたことがある。
勿論助手。助手は帽子がないの。このピンクのやつも、よく煉っていた。
ゴムの容器がいい速度で回って、ナイフみたいなの入れて器用に水と粉で煉る。
でも、煉り始めてすぐ、それは固まりだすので、迅速な手さばきが必要となる。
わたしが治療台の傍らに座る品の良い先生にぱたぱたと慌て持っていくとき、
いつもいつもそれは固くなっていて、何度もやり直したね。
あんまりそんなことが続くので、ある日この仕事は無理ですね、と云われた。
それから青い光線の箱に金属を入れ、消毒がわたしの仕事になり、あとは点数計算。
これが難しくて、混乱して、よく給水のところで泣いていました。

分類が苦手で、涙が出て仕方なくなる。前に散らばった、分類の仕様のないもの、
例えば昨夜は、
爪きり、ドライヤー、色鉛筆、MDのケース、ご不在連絡票、瓶。
美容液のサンプル、なんかナイロン、手鏡、薬。あともう色々。
じっと見てると、
物言わぬ彼らに責め立てられて、わたしの心は行き場がなくなってしまうのです。
うろたえて唇を押さえます。


この部屋は突然ぱちぱちと音がよくします。
わたし、その音が嬉しくって。金縛りもほんとに嬉しくって。


サボコをベランダに出しています。天気がいいのが続くのよ。むちむちとし、
膨らめ、サボコ。わたしはあなたが大好きよ。


曲ができて、ギタリスト藤井氏と軽くセッション。楽しいね。
その後タイ料理を食べに行った。なべちゃんとは何回も来てる。藤井氏を初めて連れて行った。ほんとに美味しい。いつ食べても美味しい。海老が目に突き刺さるほど美味しい。選ばれてあることの恍惚と不安、ふたつ我にあり。これはすべての意識の宿命である。特別なことなどなにもない。どこにもない。そして今日はギターをもらった。ギターを弾く。わたし。


信じろこの世はすべてがステージ。なんですってよ。どう?


30日、31日と大阪でライブをして歌って、歌うのです。わたしはなんか籠め、そいで歌うのであった。人に向かって、歌って、
そしてなんかを投げて、返ってきたら、なんでか涙が出るやろう。じわっと。


放出されたどうしようもなく痛々しい感情は、
受け取った側、突き刺さった側は、
独りになって、しばらくしてからよく思い出す。
可愛そうに。辛かったんね。あんな怒らしてごめんね。馬鹿になんかしてないのに。
だからそんなに悲しまんと、昔みたいに、明るく、あなたはきらきらとし。
もっと出来ること、あったね。ごめんね。


わたしは泣いてる人をみたら、例えばスーパーで子供、うん、子供が多い。
そして先を歩く母親。げっげとなるまで泣いてる。かわいそう。泣いてる子供みたら胸をへし折られた気持ちになる。泣くな、泣かんといて。なあお母さん、だっこしたって。


理解しあえないのにも慣れた。大人の常識。人とは不完全なものである。
脳も体も思い出も別にあり。自分のことも判らぬのに、人を知ろうとするのはおこがましいんじゃないですか。互いの心のうちを知り合い尽くすことは無理なんだから、
そんなに熱く、なりなさんな。
この類の物言いにはすべてファック・オフ。

今から激辛ラーメン作ろう。どうよ。これってどうよ。

わたしの部屋にはもうひとつ部屋があってその中にもうひとつ部屋があって実はもうひとつだけ部屋があって。全部いやになったら、ここに来たらいいからね。
わたしがあなたを守ってみせるわ。

「ひとつに溶け合ったり、またほぐれたりして、

なんてとりとめのない、機能」

打ちのめされて、もう一度。

サーモスタットの波打つ音が女の人の恨めしい声に聴こえて耳障り。
あい〜あい〜わい〜あい〜あい〜うわい〜うわい〜うわい〜、てな調子。
あ、もう午前2時。明るくなる前に眠らなければ。


今日、なんでか、一瞬だけ、
自分の子供が欲しいような気持ちになったけれど、すぐ散った。ああ怖い。

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2004.03.19

春の強風世界

今日は風が強くて、昼過ぎに公園を横切った時に小さな砂嵐が起こって、
わたしはそれを遠くから見たんだけど、ああ、黄色い、と思った。


たとえば恋人がいて、その人をあんまりに好きになりすぎたら、怖いので、
もう幸せな浮かれムード満点の初めから、別れたりすること、ひどい事されたりすること、その他諸々の青天の霹靂、泥沼の結末を頭の中でイメージして育て、そしたらもしその時が来ても、死なずにすむというか、免疫をつくるというか、再起不能にならずに済むためにというか、そういう予防線を徹底的に張るという、何の役にも立たん長い年月をかけて培った厭な癖が、わたしにはあります。でも自分のことは全然気にならない。もし自分に好きな人が出来たら、なんていつも考えたことない。いっつもうまく想像できない。


今も引き続き風は止まぬ、ドワドワ、なんとか。名状しがたい音群が、
絶えずこのマンションを包囲している。なんなん。強風世界。わたし、すべての風って、
地球が回ってるから吹くんやと本気で思ってたんです。偏西風ってそうなんでしたか。わたし、知らんことばっかり。母親には「人は寝てるときは心臓は止まってる」って教えられたし。懐かしい強風世界。わたくしは耳的な感覚の欠如。
音、風、リズムで宮沢賢治を思い出すね。「畑ニ居マス」の字が好き。


こないだお風呂を掃除するときに洗剤をスプレーしてたら、その噴射の音が、
「ご主人ご主人ご主人ご主人ご主人ご主人ご主人ご主人」と聴こえてきて、気が滅入る。で、こんなことで気が滅入る道理がどこにある、と持ち直し、続けたけれども、一層ご主人ご主人ご主人ご主人うるさい。から放り出し、頭洗った。


物は物言わず、なのでして、そんなことは当然であるから日頃ちっとも反省はしないけれども、こう、独りの部屋で、ヘッドフォン、目薬、文庫本、マウス、ペン、カーテン、物は様々あるのに、いつまでたっても何もどれも一言も意志を発さないのは、これ、どういうこと?動かんし。


「燃え上がる水星、燃え上がる魔法瓶、燃え上がる交換日記、燃え上がる接吻・・・!
音はなくても保証はなくても、わたくしは燃え上がるものだけを支持いたします」


自分の仕事について書くのは苦手。歌入れのこととか、歌のこととか、そういうのについて書くのは、すごく苦手です。


好きな人ができると、わたしは、その人の過去まで欲しがって、すべてが気になって気が気ではなくなってた。今までどんなことをして、どんな風なお願いをしたとかされたとか、どこが一番好きでそうじゃなかったのは何かとか、それを喋らせるのが好きだった。怖い。今まで他人やった人の過去にも関わろうとするこの姿勢。情熱的っていうんでもないなあ。今はもう違うけど。友達にもそういう子がいて、「あー、わたしを愛するためだけに、生まれてきた人おらんかな」っておるわけないのに真顔で切なく云うの。でもそれが実際本音よね。さらっとした友達もいてるけど、わたしは想像や推測の自家中毒が苦しかったなあ。もう現実と想像の区別がつかんくなってきて、これがほんとの被害妄想よね。
それで自分の過去についてはどうでもいいから、どうなんだか。好きな人の色々聞いて、辛くなったり嫉妬したいだけなのかも。それもどうなんだか。わたしもその子も一種の陶酔系マゾヒストですね。


すっごい辛いことがあって、
親友に電話したら、
「みえこ、よう電話してくれた、あんな、今からみえこ、ベランダでて、でええっかい声で<しゃぼんだま>の歌うたいー。一番は泣いて歌われへんねん、二番もまだしんどいねん、でも三番行く頃には笑顔やー、うたいー」
って真剣にいわれて、歌詞思い出したら、なかなか奥深い内容で、歌ってみようかなあ、
とか思ったけど、歌えんかった。ごめんなキヨミ。でも面白かった。


ことあるごとに名前を挟まれるのが好き。
「何みえこ」「どうしたみえこ」「それとってみえこ」「そんなん言うなみえこ」ってな具合で。よくない?


「何もかもが不確かで、何もかもが、美しすぎるの、どうして、わからないの?」
「あなたはこの歌をただの春の夜の、気まぐれだって、どうして、笑ってるの?」


病気したら特に思うよね。わたしは人間ですけど機械と何が違うんかって。思い馳せるはデカルトの人間機械説。そんなこと思ったある日に偶然イノセント観にいった。冒頭の人形を作るシーンは素晴らしいね。押井氏つながりではないけど球体関節人形展も観にいった。ぼちぼち。これは人形がまず好きかどうかよね。でもほんとに、今日も病院行ったけど、メンテナンスですね。人が人をメンテナンスするのはちょっと滑稽よね。そりゃミスがあって当然よね。臓器に寿命があって、駄目になったら停止でしょう。機械とよく似てるねえ。自己治癒とかは出来ても基本的に寿命があるからねえ。クローンで臓器の代用も、よく神の領域に、とか冒涜、とかゆうけど、基本的なことは変わりようがない。寿命が延びたからってそれが何。から可能なことは可能なんであって、どうぞ、という気持ち。機械は人が作るけど、人は製造主が知れないのよね。だから神とか云いたくなるのはわかるけど。そんな人間って特別かしら。人間だけに限らず、「存在」は何が作ったか。わたし大事にしてるぬいぐるみがあるんですけど、それをあんまり大事にしてる様をみて友人が揶揄して、「でもそれはただの熊の形をした繊維の塊なんですけど、ご存知?」っていうから、「あんたもわたしもただの肉、主に炭素の塊っつうのはご存知?」。
物と人の差はなんかしらね。物と心。もっかい読むわ。


春が、夜の、しっぽを、つかんだ。

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2004.03.01

曖昧な、あまりに曖昧な

わたしはとても毎日夢を見るので、それにはもう慣れたんですが、
ほんとに濃ゆい感覚でみるので、
人生がふたつ、現実がふたつ、ある。
違うのは、ルールが違うのと、死んだ人や会ったこともない人に会うとか、
まあそんなところ。非論理。いや、そうでもないか、
しかして、何でもできるところ。飛ぶのがいいわ。
だいぶん前の脳内遊園地のなんとかってとこでも書いたけど、そういうこと。
好きな夢をみる訓練というのも体得して、14歳のころはハマッてた。
結末が気に入らんかったらもう一回続きから入って、
それから納得いくラストにしたりしてたわ。

で、まだ学生の頃に、友達とふたりで海にいったことがあって、
疲れたし塩水でべたべたやし、もう帰ろかということになって、
夕方やで、とかゆって砂はらってたら、ちょっと犬がね、けっこう大きめの雑種の犬が、
狂ったみたいに、波にぶつかっていってんのん。ざばーんと走ってって。
で、またぶわーって浜に戻されて、それでまたぶつかりにいってんのんよ。それを口から泡吐きながら一匹でなんでかようわからんけど、ずっとやってるわけ。で、なあなああれみてみーとかゆうて、
ちょっと離れたとこから二人でみててんけど、終わる気配がないのよ。
あれ飼い犬?有り得んやろ、まあな、とか言いながら、
ちょっとしばらくそこからみててん。で、そうやって見てるうちにな、
なんかちょっとかわいそうっていうか、
怖くはなかってんけど、ずっとそんな風にやってるしな、なんか苦しそうやねん。楽しんでるっていうか、遊んでるっていう雰囲気じゃなかってんな。犬がな、なんかわたしらに頼むわ止めてくれ、ってゆってるように見えんくもなくて。それでうーんって二人でゆって、近寄ってってん。
で、犬、波に押し戻されて砂浜に転がり届けられたところをキャッチして、
友達とふたりでがしいと抱きかかえてん。そしたら初めはぐうぐうゆってちょっと暴れててんけど、だいじょうぶだいじょうぶー、とかゆって体をさすってたらちょっとづつ落ち着いてきて、静かになってん。

で、おなかがなんか異様な形に膨らんでんのに気がついて、
えーなにこれ、とかいいながらさ、何入ってんのよう、だいじょうぶかあ〜とかゆっておなかをさすってたら、グエココ、グエココ、って犬が吐く前のあの音がしてな、
あ!吐くわ、この子なんか吐くで、とか言いながらさすってたら、
皮ごとぶつ切りにしたバナナがコロコロ出てきてん。
えー、みてみ、これなに、このまま食べさせられたんやわー、ほんまやわ、
マジで、噛んでないってゆうか消化してないで、無理やりに喉に突っ込まれたんかもよ、ってゆって、
全部吐きー、全部吐きーってゆって見守ってたら、
またぼとぼとっと皮つきバナナの塊が落ちてきて、
全部で6個ぐらい出てきて、うわー、そら苦しかったはずやわー、波にぶつかって吐こうとしてたんかな、とか、よう窒息しやんかったなあ、よかったなあってゆって、
それでやっと犬も楽になったみたいで、あー、全部出たみたいやわ、よかったなあ、うん、よかったなあ、あんときやっぱこっち来てよかったんちゃうん、とかで、
ほんならもう行きーって犬にゆって、犬もどっかひょろひょろ歩いて行って、
でももう波にぶつかりにとかはいかんくて、ちゃんとどっかに行って、
ほんまによかったよかった、で、
わたしらもほっとして、それで宿に戻った、
っていう、そんなことがあったのよ。ちょっと長かったけど。

で、この前その友達となんか話ししてて。
あんときな〜って話になったのよ。
そしたらその友達がさ、
そんな事実はないってゆうのよ。

え!ってな感じで、
わたしびっくりして。は、何ゆってんの。なにゆってんのよおったやん、バナナ吐いたやん、っていくら説明しても、そんなこと知らんってゆうのよ。
えー、どこまで本気、ってゆって、そんなんで嘘ついても笑えるとこちゃうし、友達もマジで知らんみたいやねんなあ。

けれども、
わたしはもうずっと長くその海でのこと、犬のこと、吐いたバナナのこと、思い出せへんくらいに当たり前に、普通の過去の出来事、
全部わたしのちゃんと経験した思い出として今まで取り扱ってきたわけ。
「なんなん、なかったってゆうけど、わたしにはちゃんとあったことやねんけど」、
ってゆっても、そのときわたしが確かに認識してたその友達に知らんってゆわれたらこれ、もうまったくぐらぐらな話で、わたしは今、非常に心細く、困ってます。

白昼夢を、独りでその砂浜でみたのか(でも友達は海にも行ってないってゆうし)、
いつか夢見てそれを現実の思い出として混ぜて記憶しちゃったか。
それにしても。それにしてもよ。いくら濃ゆい夢見ってゆっても。
これはヤバイやろ、わたし。
自分でちょっとひいたもん。

でもね、これって、すごいマジで、大変なことなんよ。
「そう、思い出や記憶は、曖昧なもの」、とかしたり顔でよく言ってるけれども、
これって怖いことなのよ、驚異的なことなのよ。判っていただける方にはわかっていただけると思いますが、それならいったい、・・・・・。

・・・・まあ生きてること自体がそういうもんだといえばそうであるから、
もういいか。どっちでもいいのかも知らんけれどもさ。

いったい何処までが他人と共有できてる記憶で、何処からがそうじゃないのか。
なんかもう、諸星大二郎の漫画の世界みたいな気分になってきた。

とにもかくにもそうやって、今後も発覚する可能性大です。

あの思いでも、あの風景も、わたしの頭にある以上、それはちゃんと経験したことだと言おうとすれば言えるけれど、いちいちちゃんと確かめたら、事実ではないのかも知れないですね。もう知らん。

曖昧な、あまりに曖昧な、現実のわたしであります。

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純粋悲性批判