2010.06.05

町田康×川上未映子「無垢にして攻撃的なー 野坂昭如単行本未収録小説集成刊行記念」

今日は公開対談のお知らせです。
みなさまふるってお越しくださいませおおおおおう興奮&うきうき愉しみ当日はどんな話になるのだろうか。

『20世紀断層 野坂昭如単行本未収録小説集成』(幻戯書房)
出版記念対談 町田康×川上未映子
7月20日 午後7時 紀伊国屋本店にて
※チケット完売いたしました!

詳細はここ
ニュースはここ

野坂昭如大好きっ子もそうでないっ子も是非ともこの機会に20世紀の断層をじかのまなこで目撃すべく、
お手にとってお読みください&なんていうかもうすごい

投稿:by 未映子 10:21 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2010.05.25

フニクリ・フニクラ、早稲田大学の講演について

雨のなか、早稲田大学の講演に来て下さったみなさま、ありがとうございました。
ものすごく並んで下さったのに、結局、ぎりぎりで入場規制になってしまって入れなかった方が100人以上もいらしたと後でうかがいました。
廊下や壇上にまでつめて座ってもらってなんとか全員に聴いてもらおうと関係者・設営のみなさんもがんばってくださいましたが、すみませんでした。関西や地方からせっかくいらしてくださった方もいらっしゃったと聞いて、申し訳ない気持ちと感謝の気持ちでいます。
ずっと某所に籠もっていて、久方ぶりに人と話し、さらぶたくさんの方々にお目にかかるということもあり、いつになく非常に緊張して少々ナーバスになっていたのですが、みなさんのつくってくださった雰囲気のおかげで色んな話をすることができてうれしかったです。
ありがとう、ありがとう。
どんなことを話したかの内容をここに再現することはできませんが、
だいたいこういう話をしました&この曲うたえばぜんぶがまるっと済むような!

あと、女の子ふたりの演奏でこれも……

みなさん、今日は本当にありがとうございました。とりいそぎ、お礼と、そしてお詫びまで、失礼します。

講演実況まとめ

投稿:by 未映子 02:31 AM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2010.05.11

5月薔薇の5月、早稲田大学で話す予定の5月

ヨリモと週刊新潮で毎週色々書いているので書いていない気がしないのだけれどブログは書いていなかったので書こうと思って書いています。がしかし、あなたがいつこれをお読みになるのかはさておき今日はとっても晴天で、でも空気、冷たいのどうなの冷たいの、模様ばっかりが見えている。
冷たくて寒かった4月、こんなめちゃくちゃな気分の4月はじめてだったよって言いながら、つぎの季節がきたら何もかもすっかり忘れてしまういつもの4月だ、Bungei1005「文藝」の表紙のアラーキー、色も笑顔もすてきだったね、アラーキーはとてもすごくチャーミングでわたしは対談に参加しました、トップランナーというNHKの番組にも出演して反響をいただきました・ありがとう、収録時には多和田葉子さんの「聖女伝説」を朗読したのでしたけど時間の限りに漏れたみたいでどうやら放送されなかったみたいですね、読売新聞に「星星狭」という掌編を書きスノードームを買い、すれちがう犬を撫で本を読み、それからたくさん眠っています、これがうわさの4月の四角さ。

そんなだから来る5月24日は早稲田大学で話をします。詳しくはこちらで、演題は「なぜわれわれの読書はこんなにも素晴らしいのか」といったものです、聞くところによると学生も、そうでない一般の人も入れるみたいです。どんな話になるのかわかりませんけれど、どうぞよろしくお願いします。どんな話ができるかわたしも愉しみにしています。

それにしても向日葵は夏の口、薔薇は4月の眼、5月はなんの耳だろう?
気持ちはあるけどところどころが痛いので仕事はいっこうにすすまぬ2010年の初夏であることを記す&記す。

投稿:by 未映子 12:55 AM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2009.07.18

尾崎翠のイベントが西荻であるらしいよ!

2009年7月25日(土)
第34回西荻ブックマーク
「ガルボのように」 ――1920-30年代東京・モダンガールとしての尾崎翠
第1部 2525稼業ライブ
第2部 トークセッション(小澤英実×平山亜佐子×木村カナ)
会場:こけし屋別館2階
開場16:30/開演17:00
料金:1500円(会場でお支払い下さい)
定員100名 要予約


興味あるかたはぜひこの機会に足を運んでみてください!
尾崎翠、じわじわ広がっていますねえ。うれしい。

投稿:by 未映子 11:13 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2009.05.20

金沢21世紀美術館でパフォーマンス

まだちょっと先だけれども、金沢21世紀美術館の「愛についての100の物語」という展覧会の一環で
チェロの坂本さんと、ピアノの清水さんと3人で、言葉と音楽のパフォーマンスをします。
まだ少し先だけれど、
あっという間に時間は過ぎるので、告知しておきます。
金沢はけっこう遠いですが(マシュー・バーニー『拘束のドローイング』、友人と車で行ったけれどまじで遠かった。運転もできなかったので、まさにお荷物)
もしよかったら、お立ち寄りくださいませ。よろしくお願いいたします。作品展示も、あるみたいです。

今回の展覧会は、実に色々なアーティストが参加しています。空間、音楽、造形、たくさんのかたちに触れることができる模様。言葉では、5月頭に谷川俊太郎さんの朗読があった模様ですね。サイトでいろいろ、見てみてください。舞台ではチェルフィッチュも。主宰の岡田さんとお会いしたとき、一緒の時期だったらいいのにねえ!と言ってたのだけれど、違ってしまいました。その時のお話では新しいのをおやりになるということだったし、これは残念。そして金沢 21世紀美術館はとてもすてきな場所なので、食べ物もおいしいし、ふらりと旅行なんて、いいね。そういうの、出張、とかじゃなくてできれば、これは素敵なことだろうね。

この日記、著しく日記性が失われていますが、毎週一回、ヨリモで日記らしい日記は継続されているような感じになっていますので、もしよかったら、そちらも合わせてお読みください。

相変わらず、眠い毎日。何をしていても眠いので、困ってしまう。
とはいっても人はみんないつでも眠たいもので「人はコーヒーで起きている」説があるようで、
コーヒーが飲めないというのは、ちょっとした難儀ですね。


6月28日(日)19:30~20:30 ゾーン2
川上未映子+坂本弘道+清水一登-言葉とピアノとチェロのパフォーマンス
★整理券が必要です。整理券はレクチャーホール前で開催当日午前10:00から配布します。
※いずれも参加費は無料です。ただし、本展観覧券が必要です。
※共通観覧券(ゾーン1+ゾーン2)<当日>一般=1,700円
※ゾーン1<当日>一般=1,000円
※ゾーン2<当日>一般=1,000円

投稿:by 未映子 10:45 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2009.01.11

尾崎翠シンポジウム、受付開始です!

2日間に渡ってのこのシンポジウム。わたしにとってきらきらしい謎でしかない大切なこの作家について何を語ることが結果、何を語ることになるのかを、この機会になんとか発見できればと思っています。
シンポジウムの詳しい内容については後日に!まずは受付開始のお知らせです。みなさま、ふるってご参加ください!


シンポジウム
「尾崎翠の新世紀 ―第七官界への招待―」

日時:平成21(2009)年3月27日(金)、28日(土)
会場:日本近代文学館・講堂

* 3月27日(金)
12:00開場
o 13:00 開会挨拶
o 13:15- 【講演】川上未映子(作家)
o 15:00- 【朗読】澤登翠氏(活動弁士)
「朗読 『アップルパイの午後』」
ギター伴奏:湯浅ジョウイチ氏

* 3月28日(土)
9:30開場
o 10:00- 【上映】映画「こほろぎ嬢」
(原作:尾崎翠「歩行」「地下室アントンの一夜」「こほろぎ嬢」)
浜野佐知監督トーク
o 13:00- 【講演】池内紀氏(ドイツ文学者・エッセイスト)
o 14:45- 【パネルディスカッション】
「尾崎翠文学によせて―〈少女〉と〈幻想〉の交差」
司会:菅聡子氏(お茶の水女子大学教授)
パネリスト:
吉野朔実氏(漫画家)
高原英理氏(作家・評論家)
木村紅美氏(作家)

入場料:1日500円
*28日の映画は入場料別途1000円(映画パンフレット付き)

投稿:by 未映子 09:38 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2008.10.23

どうせすぐ終わってしまう秋のまじ到来&告知のいろいろ

や、みなさまお元気ですか。秋はどこか、行かはりましたか。どうですか。
わたしは仕事をし、ごはんを食べ、お風呂に入り、そして眠るというそのような積み重ねであります。組み立てであります。髪の毛がとても伸びてしまいました。眉毛も生えっぱなしです。そんななかで「乳と卵」が中国・台湾・韓国で出版されることになり、そのほかにもヨーロッパでの翻訳もお話が進んでいたりして嬉しい限りであります。その関連で熱心な取材もしていただきあれこれと忙しく過ぎてゆく日々であります。
来年はそれ以外にもいま用意&準備してるだけでもたくさん本が出る予定ですので「本まだやのかー」という熱心なおメール日々送って下さるみなさま、ちょっちお待ち下さいませ。すべてを鋭意制作中です。年明けには長編だ。ところで中国語に翻訳されるとむろん紙面は漢字だけやので極端に薄い本になるのらしい。ふうむ。

ほいでもってずっと前から決まっていた講演というかいわゆる講演というのでしょうかの日程が迫ってくると、時間のはやさにいつもながらにびびってしまうけれども、しかし事実、迫ってきましたので、お知らせいたします!
劇的3時間ショウは、学生さんやクリエイター志望のみなさまに「プロフェッショナル」をキーワードにお話をするというものでしたが、今回はポスターや告知に反映されておりませんが、内容はいまわたしが考えていること、周辺の問題、母子問題や人生、創作あれこれ総まくりなことになりそうです。そんな話にくわえて質疑応答を交えて色々をやりたいと思っておりますので、どうぞいらしゃってください。この頃には小説もすべて終わっていることを信じて、明るい気持ちでみなさまとお会いしたいと念願につぐ念願。日大に少し関係あるけれど、わたしが東京で一番好きな場所は、あまりに好きすぎて年に一度も行かない・行けないけれど、中央線が聖橋にむかい、お茶の水に到着する寸前の、濡れるようなあの深い緑のなか。

東京では、年内はもちろん、この先もしばらくこういう形で「講演」をする予定はもうなく、ゲストで参加したりはあるかもしれませんがたぶんおそらくおおむねよほどのことがない限りにおいてこれが最後になると思いますので、ぜひお立ち寄りくださいませ。


日 時  2008年11月15日(土) 14時~15時30分
場 所  日本大学法学部 本館3階大講堂  詳細はこちら!!!


そのほかの近況としてはこのあいだは10時間早稲田シンポジウムを聴きに行きました。10時間はあっというまでこれではまるで足りんというのがまず感想。ほいでいわゆるエビデンスにまつわる様々や実作と批評の周辺に関して色々と思うことありましたが、ここで皆さまの発言のうろ覚えを引用しても始まりませんので、シンポジウムの内容は晩秋に刊行される「早稲田文学2号」に収録される模様なのでそれを読み、そのときにまた何か書ければとか思っております。
そしてクヌートを育てた動物園の担当の方がお亡くなりになったそうで…。少し前のことだったらしいのですが、つい最近知りました。
生きていると色々なことがありますしどうせすぐまた終わってしまう秋ではありますが、みなさま出来ればおいしいものなどをお召し上がりになりつつ、ぬくいふうをし、愉しくお過ごしくださいませ!

投稿:by 未映子 09:12 AM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2008.10.11

秋だから、催しですよ

わたしは登壇しませんが、告知です。
下記内容に少しでも興味がおありであれば、どうでしょうか。
劇的3時間ショウの後半の話が激しく濃ゆく展開されること大請け合いです。
ちなみに出入り自由・予約不要・ぜんぶ無料です。


文芸批評と小説、メディアの現在と未来をめぐる10時間シンポジウム

日時:10月19日(日曜日) 10時30分~20時30分
場所:早稲田大学国際会議場 井深大記念ホール 新宿区西早稲田1-20-14 地図

入場:無料
予約:不要


プログラム(予定、一部変更の場合があります)

10:30-12:15
ポッド1「文芸メディアの現在」――批評的メディアはどうありうるか

東浩紀宇野常寛佐々木敦中森明夫山本充前田塁

12:30-14:15
ポッド2「日本小説の現在」――現在時の日本小説をめぐって

東浩紀、渡部直己池田雄一新城カズマ大森望、前田塁

14:25-15:00
エクストラ・ポッド1(または時間調整・休憩)

15:10-16:55
ポッド3「文芸批評の今日的役割について」

東浩紀、宇野常寛、福田和也、前田塁

17:10-18:55
ポッド4「読者と小説」――批評と書評、文学賞

東浩紀、千野帽子豊崎由美芳川泰久、中森明夫、前田塁

19:05-19:40
エクストラ・ポッド2(または時間調整・休憩)

19:50-20:30
ポッド5「総論」(または時間調整)


主催・お問い合わせ先
早稲田文学 TEL/FAX 03-3200-7960 Mail wbinfo@bungaku.net

投稿:by 未映子 08:48 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2008.05.08

日本文学再生会議

昨日の夜はけっこうゆれた、朝起きたら色々と物が落ちてた。
今日は公開対談のお知らせ、わたしは関係ないけれど、ものすご面白い内容になること必至なので、お知らせします。


日本文学再生会議

宇野常寛×市川真人
■2008年5月18日(日) 18:30~
場所* ジュンク堂新宿店 8階喫茶にて
定員*40名
入場料1000円(1ドリンクつき)
ご予約方法 7階カウンター
もしくはお電話03-5363-1300で承ります。

今日の文芸/思想メディアおよびそこに生まれる作品・批評、あるいはそれらをとりまく言説は、どこに修正/発展可能性を持つのか。東浩紀、大森望ら先行世代と切り結び、いまや商業文芸誌を凌駕する勢いで若い読者の支持を獲得しつつあるインディーズの雄「PLANETS」と、定評ある批評路線に小説家・川上未映子の誕生によって創作もトップギアに入った復刊第十次「早稲田文学」--今、最も高濃度の紙面を誇る二大雑誌を率いるとともに、先鋭的かつ挑発的な批評の書き手でもある宇野常寛氏と市川真人氏をお招きし、文学・思想・メディアさらには言葉・社会……に至るまでを挑発的に語って頂きます。

<講師紹介>
市川真人(いちかわまこと)
1971年生。「早稲田文学」の批評路線やフリーペーパー「WB」創刊等00年以降の全企画を手がける。刊行たちまち増刷された『小説の設計図』(前田塁/青土社)の主たる執筆者でもあり、媒体・批評の両面から現代文学の可能性を提示し続けている。

宇野常寛(うのつねひろ)
1978年生。企画ユニット「第二次惑星開発委員会」主宰、批評誌「PLANETS」編集長。「戦後文学からラブワゴンまで」幅広い評論活動を展開する。近著に「SFマガジン」連載中から大きな反響を呼んだ『ゼロ年代の想像力』(早川書房)。


宇野さんはご自身の雑誌で、乳と卵を発表してすぐぐらいに、丁寧なインタビューをしてもらったことがあって、そこから面白いなあと常々思っている人物。
文學界6月号(※この号に掲載されてる西村賢太さんの小説おもろかった。っていうか西村さんの小説が載ってたら、絶対に一番に読んでしまう)に寄せた「文体の消滅について」というエッセイで、宇野さんは東浩紀さんが小説を文芸誌に発表したことに触れ、「小説を取り巻く状況」に呆れ、「能天気なサークルというか(強いて言うなら「文壇」とも言うべき)沈みかけた護送船団の空気」、「いまだに高橋源一郎に無害な極論を(極めてマッチポンプ的に)説かせたり、口先では既存の文壇を批判しながらも、その一方で中原昌也あたりにキャラ萌えして仲間褒めばかりしているような連中には、一生かかっても埋められないような距離が発生していることを」具体的に憂い、怒っているというよりかは、まあ呆れたと言ってるわけです。
いわゆる「文体」に拠って成立しているこれまでの小説がまったく読まれず、携帯小説やライトノベル、キャラクターとプロットさえ練りこめば誰にでも小説が書けてしまいそれしか読まれていない現在において、「文体」小説にいったいいかなる意味があるのかしら、文体が見せてきた幻想とはいったい何か。どっちにしろこんな問題に気づいてさえいない馬鹿ばっかりの出版業界、どうにかならんの、というわけで、今回は「文体」の話を中心に、色々の再生を図るかなにかするのでしょう。まあ宇野さんの文脈にそって「小説家ではない人が書いた文体のない小説には売れる読まれるという価値がある」と解釈するなら、そのまま「職人が書いた文体の肥大した小説には、売れない読まれない価値がある」とわたしは思うのだが、まあ宇野さんが言いたいのはこれまでし尽くされてきたこういう話でもないんだろう。(田中弥生さんの純文学F1説思い出す)

まあ「文体」とか「会いたい」とか、そういうものが指すものの背後にあるものってつまるところいったい何かということについて考えるのはわたしにとっても有意義だ。ほいでもって対談の相手には市川真人。うひー。これはとっても面白そう。文章や小説や現在に興味のある人は行かなきゃもったいないと思うので、みなさん是非。面白くなると思う。わたしも行く。


投稿:by 未映子 12:08 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2008.03.02

3月3日、お雛さまはオールナイトニッポンだ!&京都でワークショップ満員

3月3日、お雛さまはオールナイトニッポンだ!ってことで一部に出演でーす。二時間たっぷりよろしくお願いします。
スポーツ新聞などではお悩み相談をメイン風にかいてありましたが、これはやっぱ京都のアルファを思いだすなあ。お悩み相談というのは解答というものはないもので、違う人にいったん問題を移動させて、それから違う出所の感覚を言葉で知るだけのことなのだ。ゆえに、悩みでなくてもなんでもオウケー。そのつどのムードを大事に、っつうか人生はほとんど気分の要請なのだから、お気軽&気ままにお便りくださいませ!どしどし。一回っていうのが、またすこぶるいい気分。この番組へのお便りはこちらまで!mieko@allnightnippon.com

ひっさしぶりのラジオ、しかし埼玉・仙台・大阪・京都とこの5年以上、ラジオのいわゆるDJにはご縁ありありだったので、楽しみだなあ。(ポットキャストはあかんかったが、すみません…)
京都アルファステーションのときに聴いてくれてたみなさんからいまだにメールもらってるの、とってもうれしいのだぜ。
西のどこか、一日限りの放送を、うまく聴いてくれはることを願ってやまないのです…。
ということで、明日は深夜からどうぞよろしくお願いします。うしし。

そして、京都shinbiでワークショップやります。がしかし!すでに定員オーヴァーとなってしましました。すみません。詳細はココ
キャンセル待ち、ということになっておりますが、そのあたりもぜひチェックしてみてくださいませ。
ワークショップといっても色々ございますから、話し言葉・書き言葉の色々を丁々発止で和気あいあい、をモットーにできたらと思っております。言葉に興味ある人もない人も、当日はどうぞよろしくお願いします。


日記が下がって見えなくなったらあれですので、年には念を、告知を再度。
3月29日のライブの詳細&お申し込みはこちらで!

投稿:by 未映子 11:54 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2007.10.06

《イン歯ー》が朗読されますイン素敵な音楽

10月14日に行われるこのコンサートはなんだか素敵な様子になる模様。
現在ペンシルバニア在住のパーカショニスト・中谷達也さん、コントラバスの河崎純さん、あと9月に行われたワークショップに参加された皆さんの演奏とともに、<イン歯ー>が朗読テキストとして参加することになりました。
わたしが朗読するわけではないのですが、なんとか仕事をきりぬけて、観に、聴きに行きたいところです。

コンサートの詳細はこちらで

河崎純さんはおなじみの坂本弘道さんとも競演してはったり、中谷さんは今回初めてお会いするけれど、サイトの映像を見て(このページのMovieでみてね)かっちょええわあ。トップページも素敵やわ。まるがいっぱいや。みなさんもぜひ、遊びにいらしてね。ほかに採用されるテキストは、諏訪哲史さんの「アサッテの人」も。どうなるんやろうか、うきうき。

どうぞよろしくお願いします。

投稿:by 未映子 04:47 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2007.10.01

坪内逍遥賞奨励賞を受賞しました

雨が降ったりやんだりしてますねえ。お元気ですか。わたしは不元気。ぜっ不調。底の底。
ということで、もう1日。おっそろしー。まじですか。

ということで、早稲田大学が125周年を記念して設立した坪内逍遥賞の奨励賞のほうを受賞しました。
いきなりお電話いただきびっくし。大賞は村上春樹さん。授賞式は11月だそうです。
これは作品に贈られる賞ではないらしく、人の、活動に対してだそうで、ありがとうございました。
記者発表にも行ってきましたが、受賞の言葉で、健康に気をつけて、がんばります、としかいえず、あれやった。

明日の産経新聞に、ちょっとしたアンケートに答えております。
ので、見つけたら、往生際が悪いねつって、ください。

投稿:by 未映子 03:46 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2007.05.28

毎日新聞・28日・夕刊・文芸時評に<わたくし率 イン歯ー、または世界>が。

 明日の毎日新聞の夕刊で、文芸評論家の川村湊氏による<わたくし率〜>についてが読めるそうです!文芸時評です。まだ28日じゃないからわたしももちろん読んでないけれども、あした、おてもとに毎日新聞のある方は是非、読んでみてくださいー。どうぞよろしくです。

 最近は毎日のように人に会い仕事もしてるが飲酒をしているのでむくむ。翌日ヨガをする体に非常に申し訳なく思うのだが、もともとすぐに酔うしそんなに飲めないのですが二日酔いは律儀に必ずあるのがマジで恐怖ですが皆さん。知ってますか。ウコンの力。ドリンクです。あれは本当に。あれは本当に。あいつだけは本当に。よう効く。マジ効く。激効く。ウコン効く。飲んでごらんよ。次の日ふつうだから。朝方ふらふらになって歩いてると、道に何個も何個も空き缶が転がってるから、ああ、ほんとうにあなたがたありがとうねという気持ちになる。

 昨日は友人が出るので楽しみにしてた、東浩紀×笠井潔×海猫沢めろん、の鼎談に池袋まで出かけた。駅から会場までなんでか巨大な食料品売り場をふたっつをぶち抜かなければならず遠く激しく混雑していて困難だった。<新本格からセカイ系へ、そしてゲーム的実存へ!?>っていうテーマに関してはまったくの丸腰であったがすべて表現に関しての話であるのは話であるのでまったく面白かった。打ち上げ後、さらになぜかそこから分散して新宿ゴールデン街に移動して朝方までいる感じになり、話は尽きず、頭も痛くて、酔ってて、これは明日大変なことになるであろーと帰りしなに震えながらウコンの力を買って飲んで、眠って、起きたら、まったくなんもあらへんのやものー。すっごいでウコン。結果、起きてから駒沢公園までの往復一時間を有酸素運動と銘打ってちゃっちゃと歩いたりできるという、いつもより健康な仕上がりの始末。

 千葉大学から日本大学に永井均氏が移籍されたので聴講生の申請をするが出遅れた。最近のいちばんのショック。来春に再度申し込み。待たれへん。迂闊やった。今月と来月と人間化科学アカデミーで開催されてる永井均氏の講義、<言語はなぜ可能か>に参加してるのですが、講義の中盤、そして質問に答える永井均氏の世界に対するスタンスに感動してぐわっと涙ぐむ。講義受けながら泣いてるのもこわいので堪える。これが興奮というもので、家に帰って講義のノートを整理してるとその興奮が甦って蟹のように口の端っこから泡がたまる。この講義については全部終わったらレポートを書くつもりです。

投稿:by 未映子 02:22 AM [文化・芸術, 未映子情報, ] | 固定リンク | トラックバック

2007.02.26

週末で半年分くらいの移動が

 このひと月ほどラジオの仕事で大阪以外、ほとんど外出をしてなかったせいで、お金を遣うことがなく、また人にあんあまり会うこともないので、でも一稿があがったこともあって、ずいぶん前もってから約束したりご招待いただいてた催しに二日連続で出かけてきた。家から出るとびゅんびゅんってお金がなくなってびっくりする。えー。ほかにも行きたいお芝居や展覧会がこの二日に集中しており、行けなかったのもあり無念。しっかしこの二日間は非常に寒かったね。午前四時ごろ死にそうになったよ。世田谷で凍てつきそうになったわ。

 土曜日は、青山ブックセンターでの森達也氏×斎藤美奈子氏の出版記念トークショウ、晩は下北沢タウンホールでのいとうせいこう氏×奥泉光氏の文芸漫談<テキストは野火>、んで日曜日は横浜でチェルフィッチュ×ほうほう堂の<耳かき>、続いて身体表現サークルの<しんぱい少年>を観劇。このよっつについて感想を書くのは頭的に無理なので記録のみ。全部が全部何もかもが違ってて、その場その場に行けばその場になるのであったからそれもとても面白かった。移動に聴いてた音楽は坂本弘道の<零式>。うーむ美しい。今バスに乗ってるみんなにまんべんなく聴かせて一緒にうっとりしてはおうかと笑顔で提案したいようと思ってしまう。週末は色々な人に会えて、ほんで久しぶりに長い時間を一日を、人とベタづきで喋ったので、どれくらい喋るのが適切なのかどうかを逐一見失いつつも楽しかった。大阪では百発百中のおもっしろネタも東京では5回に2回は外すのでこれもどきどきする。振った話の面白さが伝わってないとき、いわゆる滑ったというようなとき、顔が真っ赤になる思いじゃなくてじっさいにくわって赤くなる。なんの宿命。明日からまたしばらく原稿の毎日。曲をまとめねば。家に帰って湯につかってから赤すりをしてると恐ろしいほど垢が出てどうにも止まらず止められず、どこまでもどこまでもこすってるとどこまでもどこまでも垢が出るから、全部だしたろやんけと意気込みが意気込みを呼んで気がつくと酸欠のようになって白い風呂場が壁が目の前が真っ暗になって、椅子に座ってんのにぐらっとよろけてつるてん、頭打って焦って、どきどき音が文字で見えるくらいにどきどきした。今、髪の毛乾かそうか乾かさんとそのまま寝よか考え中。平和な週末。今日の帰り道、さんざんこの日記でも話してる<明晰夢>こそが来る格差社会(もう十分来てますね)において金のかからぬ最高の遊びであるから、これからは、も、これやで。と力説。みんな<明晰夢>をちゃんと検索して、なんとか見れるようになってみよう。起きてたくなくなるのが正直つらいところではあるが、がんば。

投稿:by 未映子 01:20 AM [文化・芸術, 日記・コラム・つぶやき, 書籍・雑誌] | 固定リンク | トラックバック

2007.01.31

巨大少女が見る夢、生む機械

巨大少女がみる夢ってタイトルで友人の日記で紹介されてたこの映像、すてきやで。

 頭が変わったところでそのまま内実がかわるというわけではないのやし、政治家の出処進退にはあんまり興味がもてないのやが、生む機械発言の生む機械、言葉だけみればなかなか詩的であることな。それを云われた側の心性に、女性は生む機械という発想がなければ、生む機械だと云われても心当たりがないのやから腹を立てる道理もなかろうと思いもするが、政治においてはそういう個人的な解釈は有効でないのやろう。ある女性議員がテレビにおいて、問題の政治家には辞任してもらわなければ女がすたる、と云っていたのを聞いたけどそこで女がどうのこうのと云ってしまうと結局女のヒステリになってしまうのではーとも思った。逆になんかの局面で男がすたるって云われてどうよ。沽券にかかわるとか。面子とか。そんなことで騒ぐなと云ってしまいたくなるやろう。だいたい老人の一言で流行ったり廃れたりするもんでもないような気がするが、まあこの個人的な解釈も、政治的、あるいはテレビ的には無意味であろう。私が個人的に捉えている女性性にまつわる色々と、政治における女性性にまつわるあれこれというものは当然のことながら前提が大きく違うのであって。ま、個人的にはヒステリ上等ではあるけども。

 件の政治家は昭和10年生まれということやし、時代が与えてきた価値観自体は彼独自のものでもないからまあ長生きもある種気の毒、と思わないこともないのだけれども、彼の発言は今の時勢、道徳とは基本的に添ってないのであるから、うっかりでもなんでも発言するということはやはり個人的に女性ってもんは生む機械であると思ってることには間違いなく、そこはもう仕方ないんでないの。それがなんでか今の風潮とは相容れぬ、その責任をとるとかそういう段取りではなくて、政治家でもある自分の倫理観の現在の社会における限界を知って、さくっと辞めるのが誰よりも本人にとっていいと思うのやけれども。

ところで同じうむはうむでも、個人的に生むと産むでは明らかに印象が違うなあ。生むはどこまでいってもファンタジー、男女ともに使えるが、産むはその余地がない。思えば私は産むという字を日頃から避けている。

ああ一月が終わってゆく。さくっと終わってゆく。家に食料がもうない。

投稿:by 未映子 04:58 PM [文化・芸術, 経済・政治・国際] | 固定リンク | トラックバック

2007.01.28

薔薇薔薇サンキュー

070127_23450001 第3回目、トークイベント・「薔薇生み薔薇愛で」、無事終わりました。関係者各位、そしてゲストのみなさま、ありがとうございました!

本日は女子をめぐる文化のあれこれ、急ぎすぎず、定員も少なめ設定ということもあり、個人的にはなんというか非常にリラックスして臨むことが出来て、楽しかったです。始めに吉田さんと私のパフォーマンスがあったのですが、私は「そらすこん」から朗読と、そして歌をうたったのですが、生まれて初めて、これけっこうびっくりしてるのですが、生まれて初めて歌詞を忘れて、歌いなおしました。歌詞を忘れるって、ああいうことなのかー。でもなんかはじめてのどきどきで、や、悪い気がしないのがなんていうかなんていうか。吉田さんの発声の実際のところはわからないのだけど、その音を聴いて判断するに、それは凡そ歌唱のボイストレーニングでは、絶対に出してはいけない喉の音、してはいけない声帯の動き、声帯を著しく痛めてしまって歌声の寿命を短くする発声とされてるのであって、その吉田さんのパフォーマンスを私は数回体験しているのだけど、歌をうたう喉ではありえない発声の仕方でもって、歌ではないものを徹底してやり続けているというそのこと、歌手の私からみればそういう意味からも、また、意味が生まれてくるのであった。興味深い。そして今日の吉田さんのパフォーマンスはとてもとてもエレガントだった。

070127_23530001 イベントは最後に金巻ともこさんも仰ってましたが、とりとめなく、答えを急ぐこともなく、語り合うことそのことが語りの目的であるような、そんなひとときの連続だったと思います。ゲストのみなさんとも世代としてはおなじくらいなのだけど、細かな話題になると2年3年の差で驚くほど文化のコマが違ったり、あと同じものに対しても、例えば同じアニメや漫画と出会っているわけなんですが、あたり前のことながらその後の発想が違うのであって、とても面白かった。バラエティこそが美しく、またそのバラエティを知る、バラエティがあるのだと知ることが、自分が選んだことやものの、もうひとつの顔、可能性を知るということそのままであるような気がしました。お話のなかで、結局ぜんぶを云えぬが、なんでかこれが好きだ、としか云えなくなるような場面が幾つかあって、じつはこっそりそこに感動していたりしたのでした。

070127_23530002 写真は、今日、急に来られなくなったという予約戴いていたお客様から薔薇の花束が届いたのと、そして司会のふたりと、ゲストのお二人にも薔薇の花束が届いていて、嬉しくて、さっそく飾りました!!寝間が花や!これで目覚めはええはず!ジョンの顔にうまいぐあいにかかる薔薇。ちなみに右は小野洋子、左はミックジャガーなのであった。薔薇の花束しっかりと受け取りました。ありがとうーう。本当にありがとう。これで極インドアな私も、なんか乙女部の充足。うれしい。

そして、今回を持ちまして、吉田アミ×未映子での薔薇薔薇イベントは、いったん終了となります。みなさまどうもありがとうございました。勢いと好奇心だけで始めたこのイベントでしたが、好奇心のまま物事を計画して行動するというのはやっぱり面白かったしそれしかないしそしてとても勉強になりました。そして半年を終えて、吉田さんと話し合って、見えたこと見えてきたこと色々ありますが、ここでいったん仕切りなおしてみようではないか、という結果になりました。またいつかどこかで形を変えたり変えなかったり、お目にかかれますのを楽しみにしております。お力添えくださいました皆さま、応援してくださった皆さま、そして、足を運んで下って、参加してくれた皆さま、本当にありがとうございました。心より、お礼申し上げます。

投稿:by 未映子 12:49 AM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2007.01.24

獅子文六!野中ユリ!稲垣足穂!種村季弘!漫画喫茶!新幹線!

070124_15440001朝の六時に起きた火曜日は、品川で新幹線に乗って大阪に着き打ち合わせをして生放送して、んで、大阪の家にはパソコンがないしどうせ始発で戻るのやからと漫画喫茶へ行けばパソコンがあるだろうよとそこで原稿を書き、思いのほかはかどってこれは何かの間違いではないのかと書きながらこわくなる。「真夜中の手紙」状態であって朝この文章を見たれば死にたくなるのでは、もしそうなら、うふん、むごいことよな、とか思いながらもキーをたたく音がでかいので気を遣う。この漫画喫茶は個室で3帖ほどもあって広すぎるのやないの。キレイし。女の人専用やし。けれどもものすごく何回か行ったトイレはどこもかもが何故か水浸しで何があったのだろうかと思う。一睡もせず始発で一席分しか切符を買ってないにもかかわらず、向こうふたつ分の手すりを上げて横になって眠った。気がついたら一瞬で品川。

 友人が譲ってくれるという獅子文六全集の詳細は、昭和43年の朝日新聞社発行の獅子文六全集全十六巻プラス別巻、状態は最高、というもので、12,3年前に古本屋さんで5万円ほどしたんやって!ということで、友人も、この別冊に収録されてる読み物がお目当てだったらしく、ここに千野帽子さんが書いてくらはった情報をありがたく読む。うーむ、そうなのね。っていうかじゃあやっぱり別冊つきで1万円っていうのは、とてもありがたい価格なのですなー。感謝。しかもものすごく重いらしいので車で運んでくれるというのもとても感謝。来月は車の免許をとろうと思う。

 実は私は少し前に、余分があれば貯めればいいものを私は本当に貯蓄の耐え症がないもんだから、そしたら実家にあげればいいのだが、やっぱそれとこれとは別もんであって、んで現金を握ってたところで、出会いがあって、放出があって、色めき立って、いやん!興奮して、んで、野中ユリ・稲垣足穂・種村季弘の、三者のサイン、足穂のあの印鑑つき、、なんか限定豪華特別装本、なんかスイートなブルーの函で、幻の30部しかない「コリントン卿登場」を、いましかないよ!っつうんで、まさかの大幅6桁越えで、なんか記念にと思って、買っちゃったのだよね…。070124_15570001

野中ユリさんの硝子に閉じ込められたパステル画も入ってて、今も見てたら、やっぱりいい。うん。っていう話を野中さんに数ヶ月前していたら、まあ、と仰ってた。落ち着いたらお招きいただいてる野中さんの家にお邪魔して、絵を買おうと思うのだけど、銅版画も素晴らしいのだが、私が欲しい欲しいものは、やっぱりコラージュであって、いいよな、コラージュ、だいたい野中さんのコラージュ、私の欲しいのとかは、60万円くらいするらしいので、大阪の友達の経営してるギャラリーに数点ばしっと買ってもらって、んで私の家に展示するというのはどうかなー。



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写真はコリントン卿あれこれ。みにくいですかねー。







投稿:by 未映子 04:12 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2007.01.20

予約チケット受付終了しました!第3回「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた」

 1月27日の薔薇薔薇イベントですが、定員数に達したため予約終了いたしまーす。みなさんどうもありがとうございます。というかすでにちょっと多く受け付けているのですが、当日券も、立ち見になってしまいますが、若干用意する予定でいます。当日はお並びいただいた方からご入場いただくことになりますので、開場の時間に遅れますと、お席をご用意できない場合がありますので、みなさま、時間通りにきてくださいね、どうぞよろしくお願いいたします。27日、来週や…。ということは月末はもうすぐや…。

投稿:by 未映子 01:30 AM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2007.01.10

第3回「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた」開催告知だよーん!!

 とゆうことで、今回も定員25名ということで、みなさまご応募お待ちしております!今回の現場は、私は馴染みのない池袋ですが、池袋は私が育った大阪の京橋という街あたりをなんでか思い出してしまうので、すなわちハードな感触でして、今回を機に色々探索したいと思います。池袋はユニクロに一回だけ行ったことがあります。
 今回のテーマも、ものづくりの現場からのアレコレ。ということで、金巻ともこさん、野中モモさんのお二人にゲストで登場していただきます。ガッツ!いわゆる<腐女子>のなんたるかに対して私は丸腰なのですが、齢30にして色々に興味津津です。楽しみ。金巻さんには経営についてのアレコレや漫画の話などなどから腐女子にまつわるアレコレ思いっきりきけたらいいなと思っております。野中さんにはインディペンデントな活動と雑誌の色々をめぐる歴史、アレコレをがんがん伺いたい。独立して自分がやりたいことをぐんぐんやっていらっしゃるお二人との、現場から困難と希望をめぐるトークショウ!是非お待ちしております。そして漫画読みのエキスパートでもある司会の吉田アミさんのお話も楽しみやなー。私は山岸涼子さんの漫画のことでこのイベントで個人的にみんなに聞いてみたいことがあるの…。質問したいことがあるの…。みんな来てねー。

予約受付開始

1月13日正午より、先着25名限定!!

受付はこちらの公式サイトで、
お名前・メールアドレス・人数(3名まで)
をお書きになって申し込んでください!
定員になりましたら受付は終了させていただきます!

日時 2007/01/27(土)
    16:30開場/17:00開始
    ¥1,500(1ドリンク付)※女子は500円引き。

場所 @江古田 飛茶瓶洞 Cafe FLYING TEAPOT
 〒176-0006
 東京都練馬区栄町27-7榎本ビルB1
 tel:03-5999-7971

−司会−
未映子 + 吉田アミ

−ゲスト出演−
金巻ともこ野中モモ

投稿:by 未映子 05:21 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2006.12.31

純粋を設計する人々、この世の暮れ

○大晦日といえばドラえもんだった頃も確かにあったわけですけど、昨今はやっぱりそんなことない。大晦日にイメージがもうない。テレビのうえに鏡餅もないわけで、でも昨夜、走りこんでくる車の顔にみかんがぶらさがりくっついていて、ああ、あれは、あれの名は、とじっとみるついでに轢かれそうになった。この数日は仕事で大阪におって帰ってきて、また2日に大阪で仕事、と思うと、何を思い出すかというと新幹線を思い出すからそれがたまらない。ラグビーをしてる弟が二酸化炭素のことについて家に電話してきた。携帯電話が何十時間か見えなかったりして、でも紛失したわけではないやろうとぼんやり焦る。一年間に色々な人に出会った。

○今年はいつもと変わらぬ同じような一年であったけど、お芝居を観たり出たりライブ行ったりやったりして、お芝居では岸井大輔さんの「ポタライブ」がとても印象に残ってる。で、すぐにこのお芝居についてなんか書こうと思ったりもしたわけやけど、なんも書く気が起こらなくて、それはうまく書けないとかそういう懸念ではなくて、なんていうか、あの体験に関してはべつだん何も書かんでええやんか、という至り。およそライブとかお芝居とかイベントとかは、私たちの体がその場所を訪れなければ体験できないという「流通」出来ないものであることは周知なわけで、「流通」の最たる手段である言葉やネットなんかとは往来、相性が悪いはずなのに、そこで起きた様々なことをああだこうだと書き散らしては語るに落ちるを繰りかえすのも悪くないけれど、ときどきやっぱしんどいものよ。書くなら大げさで適当なことは書けないから本当のことを書こうとしてどんどん文字数が増えてってぐだぐだになるわけで、いっそ感想などは黙ってしまうというのが私には向いてるのかもしれないなあとときどき思うのであった。書いても書かなくても体験はあるのだったから。しかしそれとて今現在の私の気分であって。そのときどきに書きたかったら書けばええんやないの。そういう調子でもあっるわけで。要するに、自分が感じる正しさやまっとうさや色々なことは70パーセントぐらいで真に受ければいいのだということになるのであった。残りの30%は余白、あるいは未知の希望、最善と思い込む70パーセントをひっくり返す楽しい可能性。

○で、劇作家・岸井大輔氏の「ポタライブ」はまさに非流通中の非流通、そうとしか云えない、そんな体験であった。吉祥寺の町すべてが舞台で、その中を岸井大輔氏のあとを歩きながら語りに耳を渡しながら、歴史を地形を由緒を、紐解き町を巻き込んで再構築してゆくというお芝居なのやが、この年になって、誰かのあとを無根拠に耳をかたむけ、小さな約束だけで誰かについて歩いていく、という状況にけっこう感動したし動揺した。とかく人間は偶然性に意味を見出したがるものやけど、それはそれでええではないか。意味があると思えば確実にそこにあるもんなんやろう。あのとき発光した幾つもの偶然性が今でも時おりきらきらする。私はあの不思議な体験が終わったことのように思えなくなる夜がときどきある。最後、商店街のアーケードと雑踏のうえのピアニカの音と一直線になった岸井大輔氏の体が、美しく確かに変化したそのさまは、魔法のようで、そこだけ違う時制なわけで、ときどき思い出す。すっと。何ゆってるかわからんでしょう?こんなん読んでもさっぱわからんと思うんです。実際にそこにいなければわかりようがないものやねん。そこんとこ、決して流通できないそこんとこ。今年、言葉から一番遠い体験やった、とか云いもってこうして言葉でもって書かずに終われないこの無粋の極みと言葉の引力の恐ろしさ。

○来年はどんな年、とかいわれても真実、全然そんなことわからぬのやからなんとか生きていけるわけで、自分の仕事が出来るかどうかだけな気がする。一生懸命、自分の仕事をしようと思う。一月末までに、100枚以上無限数の小説依頼があるのでそれを書く予定。何枚になってもいいという恐ろしさ。そのあとも来年は小説がつづいてゆく。詩もつづいてゆく。ねちねちと埋めてゆく。歌も、つづいてゆく。ぼーと思い巡らせても本当に行きたいところも本当に食べたいものも、本当はあんまりないように思う。そんな中、自分の仕事をすごくしたいという気持ちだけが本当にあって、しかしながらこの本当というこの要も、70パーセントぐらいで真に受けることにしようと思う。しかしながらときどき発光したりするこの発熱はそれだけで精神は生きていけそうで、体のほうも、いっぱい食べて、熱を出してがんばろう。私は生まれてから十代、二十代の中頃まで、思えば本をほとんど読まなかったにひとしく、ああ、これからはたくさん本も読もうと思う、この世の暮れ。

投稿:by 未映子 10:30 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2006.11.03

11月30日 「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた」 VOL2!! チケット予約完売しました!

「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた」 VOL2”薔薇生み・薔薇愛”vol2 の色々ですー!

チケットの入手方法は以下の通りです!さあ!どうなる2回目!今回のゲストはオール男子!高円寺・円盤主宰の田口史人氏、オタク文化考察家の加野瀬未友氏、そしてネットワーカーのばるぼら氏!仕事の色々を聞くぜ!人生の様々をきくぜ!今回は、人数の少なくという設定で、前回のアップリンクとはこれまた一味違った空間になること必至!声の手の顔の届く距離で、真顔で真に迫りたいと思います。迫真。是非とも薔薇の生成の機会を目撃されてはどうか!よろしくです!

ゲストのそれぞれのお仕事&プロフィールはオフィシャルサイトでチェックしてね。皆さんそれぞれの現場で猛者ばかり。猛者には猛者で猛者返し。や、楽しみ。

先着25名限定!←予約終了しました。
11月5日(日) 正午より、円盤にて前売り予約受け付け開始いたします。

受け付けが終了しましたら、円盤より受け付け完了のメールが届きます。
□先着25名限定!
□応募要項:
受付はメールのみの対応となります。
予約を希望される方は下記の情報を送信して下さい。
送信先 info@enban.org

・メールの件名: 【前売り予約】薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた。
・氏名:
・電話番号:
・申込み人数:(3名以内)

*応募が多数あった場合は予約先着順とさせて頂きます。
*来られなくなった場合は速やかに連絡してください。(キャンセル待ちの方がいる場合がございます。)
どうぞよろしくお願いいたします。5日は正午!

投稿:by 未映子 01:38 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2006.10.14

秋、尾崎翠が映像で登場

 色々なことがあるが季節はいわゆる秋で、まあ私の近況などはともかくとして、皆さん!以下に告知しますのは…、や、…もう、何も申しますまい、観にいきましょう。とにかく!!仕事の都合で試写を逃したのですがそれが膨れあがって燃えるに似たり、考えるだけで、わくわくするなあ。うまくいえませんが、こういうのがきらっと贈り物というか、魔法というものではないでしょうか。是非。見逃さないでくださいね。


第19回東京国際女性映画祭
10月26日 木曜日 午後3時
「こほろぎ嬢」
原作:尾崎翠
監督:浜野佐知
東京ウィメンズプラザにて
チケットは、前売り1,000円、当日1,200円
前売りチケットを「こほろぎ嬢」製作上映委員会でも予約販売を受け付けています。
(旦々舎HP) からお申し込みいただきますと、郵送にてお送りいたします(郵送料サービス)。お支払いは、郵便局の振り替え用紙を同封いたしますので、郵便局よりお振込みください(振込み手数料はかかりません)。

 
↓以下の文章は、ミクシイの<『こほろぎ嬢』製作上映>コミュニティから↓


 尾崎翠が筆を擱く直前に執筆した、最後の短編3作品「歩行」「こほろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」を併せて映画化します。監督は『第七官界彷徨・尾崎翠を探して』(98年)の浜野佐知。前作では、謎とされていた尾崎翠の後半生と、代表作「第七官界彷徨」をモザイク風に描きましたが、今回は尾崎翠の作品世界のエッセンスを映像化します。
 「歩行」と「地下室アントンの一夜」は、登場人物も重なり、あきらかな連作ですが、「こほろぎ嬢」は独立した短編です。しかし、わたしたちは「こほろぎ嬢」を、小野町子の成人後と解し、少女時代の町子と、詩人となった後の「こほろぎ嬢」を、合わせ鏡のように描きたいと企図しました。
 前回は、鳥取県内でもほとんど尾崎翠の存在が知られていませんでしたが、今回は鳥取県が製作費の一部を助成しての映画化です。資金面では非常に苦しい自主映画ですが、県下の各市町村のロケ協力も熱意にあふれるもので、浜野監督も大きな手応えを感じています。
 原作の3作品を多くの人に知ってもらうために、鳥取県倉吉市の洋画家で、尾崎翠研究家でもある渡辺法子さんが、まんが版を制作されました(定価:千円)。売り上げは製作資金にカンパされますが、旦々舎でも扱っています。HPを通じてお申し込みください。

投稿:by 未映子 06:20 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2006.09.30

コリントン卿登場

 お世話になっている編集者でもある美術家の方から、野中ユリ氏の作品の数々が届く。必要があってしばらくお借りする。「夢のある部屋」、「狂王」「彷徨引力」、そして「コリントン卿登場」。どれも初版。野中さんと懇意でいらっしゃることもあり、署名入りで、以前ならば署名がなに、という質であったのに、実際の署名はやはり紛うことなき「字」そのものであって、書かれたもの、というのは単時点的に完成しているのであって、静止しながら発動しているのであって、そんななんやかやを含むものが部屋にあって、気になるどころの話ではない。

 どこから浮き上がってきてどこを目指しているのかはまったく未知の、なんつうの、鋭い、とっきんとっきんに鋭い、そうとしか掬えないような感覚に私自身が満ち満ちになって、非常に落ちつかん。

 その慣れへん「鋭さ」に無理くりに形容を与えるならば、「殺意」であるような気がどんどんしてきて、なんで殺意。でも、確かに瞬間的に尖って、瞬間的に貫通するものはあてのない純粋殺意であるような気がしてならない。何に向かっての殺意やの。意外で戸惑う。送られてきた本が、刺すように何かを放つ。部屋で物が食べられない。
「意識は愛ではないが、愛は意識である」キルケゴールが耳打ち。応用、意識は殺意ではないが、殺意は意識である。

 字も函も、形態も色も経過する時間も、これら作品の属性はすべて、すべてが危険なものだ。芸術はやっぱり人を生かすも殺すも自在やで。それがはっきりわかる。本の形をした「    」が傍らで、鎮座。沈思。彷徨。なんと云ってよいかわからないけれど、ほんまの危険だ。作品からは声も聴こえない、死んでるのか生きてるのかわからない、得体が知れない。あなたたちは何やの。静かであるということはこんなに恐ろしいものか。

投稿:by 未映子 10:28 AM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2006.09.24

イベント追記

 イベントが過ぎてからこっち、どうにもうまく眠れず、何をしていてもまったく手にくっついてこない。頭にあるのはイベントでの自分の反省点と、前回の日記で自分で書いたイベントへの感想文です。

 想像していた半分も、私は自分の仕事が出来なくて、その能力の低さに驚き辟易しました。
 そのために、個人的に私が想像していたイベントの内容とはまったく異質のものになってしまい、最初にブログでその気持ちを正直に書く事も出来たし、終わってからまる二日間、逡巡したけれど、お金を頂いて、ゲストの皆さんを招いてわざわざ来て頂いた立場の私が、言い訳じみた反省をブログで書くのがそのときは正しいことだとは思えなかったので、何度も何度も何度も書き直して無難な前回の感想の形をとりましたが、あの日記を冒頭に置いておくことがゲストの方々やお客様や拘わってくださった方々に対する失礼であるという考えに至ったのと、私自身がどうにも致し方なく、勝手ながら感想を追記することにしました。

 ここをこうしたらよかった、ああしたらよかった、本当はこうする積りだった、とか、具体的な反省点をここで書いても仕方ないことなのですが、まず、私の一番の反省は、提案されたコンセプトについての逡巡が致命的に足りなかったことです。
 言葉を使って人前で話をするのならば、そこから始めていかなければならなかったということです。このイベントを始めようとした動機をまず明確にして、コンセプトに対する私の態度をまず提示するべきでした。それこそがまず、それまでの創作人生を賭けて私があの場で最初に語るべきことでした。それから「薔薇」や「生む」や「愛でる」について、私がゲストの皆さんに語りかけるべきでした。

 語るうちから薔薇が眼前に現れる…のは創作そのもののことであって、すでに日常で行われてる行き来のことであって、人前でその創作の密についてあえて「語る」ということはもっと綿密であり自覚的で具体的で客観的で厳しくあろうと努めることなしにはしてはいけないことでした。私の認識が甘かったです。語ることの恐ろしさを本当のところで判っていませんでした。
 言葉ではない「薔薇」として、冒頭でパフォーマンスをしたのですが、「語る」ことを「聴いてもらう」ことへの認識の甘さゆえに、そのパフォーマンスの「意味」ではなく、そこでパフォーマンスをするという「意図」さえ、イベントが終わったあとでは残すことが出来なかったと感じています。

 勿論来て頂いたゲストの方々のお話はとてもとても興味深く面白く、それを楽しんでくださった方々もいらっしゃってそれは本当に嬉しいことなのですが、せっかくゲストの方々に投げていただいた球を想像していた形で受けて投げ返すことが出来ませんでした。性別や商品や作品というカテゴリを飛び越えた「純粋創作」の話へ展開できる箇所が幾つもありました。私の反省はゲストの皆さんに対してのものが本当に大きくて、そこで出た話題がいわゆる高尚であるとか猥談でないとかレベルがどうとかそういう「印象」や「分類」の話ではなくて、皆さんの命懸けの仕事でのお話をあらゆる意味で「深める」ことが出来なかったこと、いわゆる飲み屋や化粧室や自室でなされる女子の日常会話的な「ガーリートーク」に解決にしてしまって、申し訳ありませんでした。どこの部分がどうだったからこうなった、とか、雰囲気がこうだったから、の話ではなくて、「人前で創作について語る」ことへの私の能力不足と認識の甘さが原因です。あそこでもっとこうすればよかったとか、頑張ったんだから仕方ない、などのレベルの話ではなく根底の問題です。これは私の個人的な反省というよりも後悔です。

 イベントに限らず、ライブでも何事も、常にやることは最高の一回でなければならないと考えています。そこは人数とかキャパとかは関係ないし、結果的に失敗したとしてもそこを狙ってやるのでなければする必要がないと個人的に思っています。大切なのは次であるという同じ意味において私には次はないです。傲慢に聴こえるかもしれませんが、その場に居合わせる人たちみんなを私は同じ気持ちにしたいという無謀な希望で表現をしています。結果的に相対的な感想になってしまうことは避けられないけれど、私は私のどうしようもない恥や自意識や行動をひっくるめて何かを期待してくれて、ある場所へ来てくれたり、舞台に上げてくれたり、手にとってくれるのならば、その場所に居合わせるすべての人をどんな種類のものでもいいから感動させたい、その気持ちで、誰もが日常的にしている文章を書いたりや歌を歌ったりをわざわざ人前に出てやらせてもらっているのに、今回も、現場で最大限出来ることはやったのですが、もともとの認識が甘かったと云わざるを得ません。やってみなければわからなかったことであるとはいえ、見限られても仕方がありません。

 終わったことについて言い訳じみたことを書くかっこ悪さ、もしかするとあのイベントを心から楽しんでくださった方の気持ちを害するかもしれないことを承知で、本当の気持ちを書きました。追記を書いた動機は、嘘ではないけれど無難にまとめた内容の日記を書いてしまったことへの自分自身への怒りと、イベントに拘わってくださった皆さまへの失礼を訂正したかったからです。最後まで読んでくださって有難うございました。

投稿:by 未映子 01:40 AM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2006.09.21

トークイベント満員御礼ありがとう

 先日の「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた」に来てくだすった皆さま、どうもありがとうございました、立ち見のお客様も座られていたお客様も誰も彼も大変な長丁場でしたが大丈夫でしたか。大丈夫であってさらに楽しんでいただけましたのなら幸いです。どうもありがとうございました!

 今回のイベントは、ものづくりの現場にかかわる方をお呼びして、単なるインタビューではなく対談形式で創作にまつわる周辺を探ろう、出来るだけ明らかにして何が見えてくるかを目撃しよう、という主旨のものでした。初回ゲストは魅力的な女性が3人も集まったということもあり、女性からみるセックスの話がメインになって、それはポップで弾んでとっても良かったのですが、やっぱイベントを通した印象として、女子ばかりだからこそ、なんつうの、そこにオチをつけることなく、ここでの冠でもある「薔薇」や「あなた」や「わたし」や「生む」や「愛でる」に性別がないように、イベントの最後には性別や、バイアスや二分化や、好き嫌い、で語られることがほんの、ほんの一瞬でも意味なくすような、そんな視点がぽつんと残るようなそんないわゆる「純粋創作」についてのあれこれに話をぶっ飛ばすのだという企みが個人的にはあったのですが、どうだったでしょうか?引き出し手としてのホスト役としてちょい練り不足であったといいましょうか、そこが今回の私の個人的な反省点です。終わってからこっち、そんなことを考えていました。もちろん、面白いのが一番なのだし、すっごく笑えたし、楽しかったとのお声もたくさん頂いております!ありがとう!文化系女子関連でこれまで明確なフォローがなかったセックスについて語れたことは実によかったと思っております!来てくれた男の友達は女子のセックス話、正直僕には激しすぎたという感想を漏らしていましたが、どんまいどんまい!これも世界の事実の一面!そして縁!

 そんなこんなの第一回はみなさんにおかれましてはいかがでしたでしょうか?どんな些細なことでもいいので、ぜひともぜひともよろしければ、こちらにご感想お寄せください!アンケートフォーム作ってあります!お待ちしています。

 本当に、参加してくだすったゲストの皆さま、関係者のみなさま、ありがとうございました。そしてなにより、今回のイベントに足を運んでくだすった皆さま、ありがとうございました。

○追記もご覧ください。

投稿:by 未映子 03:03 AM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2006.09.14

チケット予約受付終了!「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた」

20060913141542
 ななななんと!ががーん!
予約あるでという告知から瞬く間に予約いっぱいしてくれて、今日の昼にはもう定員フルになってもうた!みなさんどーもおおき!ま、数人などで、冷やかし水増し予約などなどのいたずら演出などをされていなければいいのですが!我々は純情なので真に受けます!ま、なんであっても楽しみだぜ!みなさんの予約フォームのヒトコトもありがとん。

 けっこうな長丁場になると思われるのでご飯はしっかり食べて来てくださいね。でもイベント始まってからトイレに行きたくなったら好きなときに行ってもらっていいけどトイレもしっかり済ませておいてください!あと、アップリンクの椅子ってどんなだっけか…お尻弱い人、肉付き薄い人はなんか座布団状のものを持ってくるのも素敵だぜ!気概は激しく、下半身は保守で。

以下は詳細ですー!ご予約下さった方にはメールが届くと思いますが、一応書いておきますゾ。

***********

必ず【18:30】までに会場にお越し下さいませ。
当日は以下の順に入場となりますぜ。

1)・事前予約者

2)・当日整理券保有者

3)・それ以外の一般入場者

予約者多数のため、当日は混雑が予想されます。
18:30から事前予約者の入場を来たもん順にいたします。
受付でお名前ゆうて、チケット購入してくださいませ。
予約者様が入場時にいらっしゃらない場合は入場を優先出来かねますので、
お気をつけあそばせ!

***********

てなてな感じで、当日券も、アップリンクのチラシ見ていらっしゃることもありますでしょうし、若干、若干ではありますが用意いたします!予約に間に合わなかった方は、是非当日、一時間前にアップリンクに来てねーん。オロロンオロロンオロンロン。もしわからないことあったら、メールくださいませ。それと、日記の部の横幅広げたぜ!読みやすくなりましたでしょう?

投稿:by 未映子 09:16 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2006.09.11

9月18日、トークイベント吉田アミ・未映子が司会でお送りする「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた」

 あっという間に時間が過ぎて大変だなーこら。
 今月の18日にめでたく初回を迎えます「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた」、このイベントは一年を通して隔月に色々なところでやっていくつもりです。第一回はなんといっても初めてなので、初めてなので初めてのなんつうの、例の噂の件の「ファースト・マジック」がきっときっと有効であって、色々な刹那に色々なことが凝縮されてきっと面白いイベントになると思いますし祝日ですし1500円が高いのか安いのかはそれぞれやしそれぞれやけども、是非来て来て!首をうどんのように長くしてお待ちしております。

 ゲストは全員女子で、各分野の面白い話、共通する話が色々出てくると思う。
 吉田さんとも話してますが、この時点で我々が、創作と発表とそれらが行き来する現場のなんやかやに対して原理的な解答を持ってないこと!これが今回のイベントのキモだなと感じております。だいたいここで冠になってる薔薇って何よ?生むと愛でるの関係の本当は? 商品と作品だけじゃなくて、メジャーやマイナー、あらゆる出来事の二分化やカテゴライズはナンセンスって今じゃ誰もが云うけれどほんまのほんまのところはどうなってんの?色々な考え方や行動や理想や解体して、んで積み上げて、対話して、なんでか生きてて場を同じくした我々に、何か面白い物の見方や発見があればいいなと思います。
 んで参加してくれるお客さんともできるだけこう、話なんかして、ぐちゃぐちゃになりながら数時間を沸騰させつつ過ごしたいと思っています。よろしく、どうぞよろしくお願いします。

 参加者は、渡辺ペコさん、雨宮まみさん、ドルショック竹下さんです。このイベントの公式サイトも作りました。アップリンクの予約方法では、先着に漏れたらどうするねんな!っつうことでなんだかちょっぴり不安…とのお声も頂きまして、このイベントのサイトが出来ました!
 こちらで予約フォームも作りました!当日、1時間前より整理券の配布も行います。前売り予約者の人数と整理券配布の人数が定員(70名)を越えた場合は当日の受付をお断りする場合があります。確実にご覧になりたい場合は前売り予約をご利用くださいってな感じです。なので当日は、前売り予約>整理券>当日受付ってな感じです。

 サイトには皆さんのプロフィールやサイトやブログなども載せてありますので、是非一読あれ!張り切った人生がそこかしこにあるぜ!どうぞよろしくお願いいたします。

投稿:by 未映子 10:37 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2006.08.22

吉田アミと未映子がやるで。「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた」

 昨日は東京での芝居の楽日であり、終わったと思いきや利賀フェスに出品されるのであって、私は今日これから大阪へ行き、明日東京に戻ってそして利賀へ車を8時間くらい走らせて行くのであって、私は運転免許がないので運転することはないけれど、人が運転してくれているのに眠るのはきっとあかんのだろうから、なんとかして起きてなければならないよ、とか色々思うわけでそんなわけで私たち、まだ終わっちゃいねえ!っつうことで、お芝居に関しては、全部終わったところで、ちゃんと感想を書きたいなあなんて思うわけで、でもこの数日間、来てくだすった皆さま、本当にありがとうございました。感想などお待ちしています!

 そして今日はイベントの告知をします!ががーん、タイトルは「薔薇を生む、わたし。薔薇を愛でる、あなた。」
 吉田アミ、未映子の2人が司会でお送りする、トークセッションです!商品ではなく、作品であるということ、或いはその両方、その狭間、なんせガチのものづくりの現場からナマの声を問題を美学を怒りを気持ちよさをがっぷりよっつでお届けすべく、我々は全身を燃やしながら色々をやりたいと思う。
 ゲストは雨宮まみ(AVライター)、ドルショック竹下(マンガ家)、渡辺ペコ(マンガ家)、初回は全員女性。場所は渋谷アップリンク、9月18日だ!
 イベントの内容や出演者の更なる詳細はHP・フライヤー、ともに鋭意製作中なので、しばしお待ち下さいね。吉田アミ、未映子のライブパフォーマンスもあるで!
 そしてこれは連発してゆく連鎖してゆくイベントであって、そう我々はなんだってしつこく、やらせていただきたいと思っているのであって、第一回は来月18日、是非是非お見逃しなきようよろしくです、ということを速報でお伝えいたします。
 ので、みなさん、9月18日は今から空けておいて下さいませ。
 詳細は後日!!!!!

投稿:by 未映子 03:27 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2006.07.01

「手を離したとき目をつむっていたのかそれとも最初から目はつぶれていたのか〜ジャン・ジュネ「女中たち」より」に出演やよ

 8月にお芝居に出まーす。
 場所は王子小劇場、8月18日(金)から21日(月)までっす。

 詳しくはここで。
 チケット先行予約は今日からだ!みんなみんな!どうぞよろしくだ。

 「ころがす」というのは、岸井大輔氏・田口アヤコ氏、劇作家お二方のユニット名であります!
 岸井大輔氏が作・演出を手がける「1988年6月30日、あるいはバイエル」と、劇団COLLOL主宰の田口アヤコ氏の「手を離したとき目をつむっていたのかそれとも最初から目はつぶれていたのか」の2作品を上演するのであって、その両方見てもよし、片方だけでもよし、という具合だそうだ。
 制作関連、照明・音楽・音響。映像・研究・監督、脇を固める才気溢れるメムバーの顔ぶれも豪華だぜ。出演者、制作者の詳細はこちらから。

 私が出るのは田口アヤコ氏が演出するほう。
 ジュネの「女中たち」がテーマです。
 「女中たち」っていう戯曲の内容は、クレールとソランジュというふたりが姉妹である家で女中をやってるわけや。
 気まぐれで、ドラ猫で、金持ちで、ええかっこしいの、憎たらしい、けれどもプアなふたりにとっては仕わざるをえない主人でありつつやっぱ好き、やっぱ妬ましい、そんな奥様がおらん時間を盗んで日替わりでどっちかが奥様になりきって奥様の部屋でドレスやらなんやら勝手に使って「奥様と女中ごっこ」をやってるわけや。んでその「奥様ごっこ」の中で、奥様を絞め殺すシーンなんかも盛り込みたいしやっちまいたんだがだがなかなかそれでが出来ひんのやな、ごっこでも。いっつも失敗するわけや。んで罵りあったりするんや。思いやりあったりもするんや。んでまあ、ごっこだけやのうて現実でもアクションを!起こそうしたのかそうなったのか、色々が起こっていくのだがこれからはうまくいくのかしらどうかしらん、追い込み追い込まれるわ、ほんでおたくらいったいこっから結局どないしますのん、というような話なんですが、この戯曲、読めば読むほど面白い。救いようがあらへんので面白い。まるで人生みたい。これを下敷きに田口さんが舞台を作るわけだ。楽しみやのう。公演タイトルもなまらいい。

 プレ稽古が始まっている中、色々が面白くまた難しいけどまだなにもわからない。ああでもないこうでもない。これは頭が云ってるのではなく、体が私に云うのである。
 お芝居だけじゃなくて、歌でもそうだけども、演者自身に「こう見せたい」というのがあってはきっとうまく伝わらないだろうなあと思う。本性から離れそれがイメージの押し付けになったとき、それは見ている側に伝わるだろうて、とたんに観客がしらけるであろう。舞台上なんぞに興味をなくすだろう。とか思いつつ、そんなんその場その場やんけ、イメージの押し付けが売りで素晴らしい舞台もあるやろうよ、役者には本性なんぞ要らんのじゃ、というのもまた真なり。役者と歌手はきっとたぶんおそらく少しだけ違うものなり。でも人前で舞台に立つということはまったく同じくして、とにかく一生懸命に稽古をやること以外にはないなり。そしていわゆる<劇子式>からはMIGANGがヘア・メイキャッパーとして参加するなり。なりなりうるさいなりね。

投稿:by 未映子 03:59 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2006.06.13

神様と妖怪、桜井大造の顔はすごい

たまたま崇められたもんが神様で、
そのほかがたまたま妖怪やと柳田國男もゆうてはるらしいけど、
もう神様でも妖怪でもどっちでもええ。
舞台上には神様あるいは妖怪が言葉をしゃべって物語を生きて、
最後、
「明日はどんと晴れー」てゆうて、ああ、あそこよかったなあ、
ほんまによかったなあ、
よかったなあ、
舞台観て、あんなに気持ちよかったことないわ。
真っ青な空から金色の雨がざあざあ降ってきて、
それ全部口んなか入れて飲みほすような気持ちになったわ。


先日、桜井大造率いる「野戦乃月海筆子、<海峡と毒薬>」を観劇。
これは「やせんのつきはいびっつ」と読むのらしい。
役者の高嶋政伸さんや
(彼は17歳の時に桜井大造に惚れこんで自費映画を撮ってる)
COTUCOTUの坂本弘道さんが昔から関わっていて、
おふたりから話にはよくよく聴いてて、
昨今は日本を離れ台湾で舞台を続けていて機会がなかったんだけども、
ようやく6月、日本に戻ってきはった。んで観た。
あらすじとかは、サイトでみてください。
劇団の歴史とかも、サイトでみてください。

空間がどうとか美術がどうとか、
筋書きがどうとか(けっこう難しかったけど)
伏線がどうとか演技がどうとか、
分析とか評とか、んなもんの入る余地がなかったわ。
そんなもんが諸手をあげて退散してゆく舞台やったわ。
舞台には「生命力」しかなかったわ。

とか色々ここで書いてもさ、
伝わるわけがないし、あんなもんが伝わってたまるか。
ただ、桜井大造の舞台は、とてつもなく、でかかったわ。
もう、それだけや。

土の中に埋ってて、劇が6割ぐらい経って、
ごぼって出てくるねん土の中から桜井大造が。
あの顔忘れられんわ。

なんか色々あって私の人生が終わるときに、
おかんの顔でもなく、大好きな人の顔でもなく、
なんか色々な思い出でもなく、
桜井大造の顔やったらどうしよう。それは微妙や。
でもそんな心配するくらいの顔や。
あれが力というものや。
あんなもんみてもうたら、
金かけて巨大にして拡大して会議室で色々混ぜて、
巧妙に作りこまれたイメージやらカリスマやらそんなもん、
ほんまに、ほんまに阿呆くさいもんやでなあ。

「あっ、戦ってる!あなた、誰と、戦ってるのー!」

火が燃え上がって水が点で落ちてきて、
私がもし500人おれたら、
1000個の眼玉で凝視すぎて倒れるまであの瞬間を凝視めたいわ。

こんな支離滅裂で、胸がいっぱいで、
その夜何も食べられへんかった、
私の、
桜井大造を初めて観たという、
記念すべき個人的な記録です。

投稿:by 未映子 06:40 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2006.05.19

フラニーとゾーイーでんがな

 風邪が停滞してついに鼻水が出てくるので、寝起きがとてもつらい。蒸してきた最近、熱のこともあり、アイスノンを枕にして眠っているのですが、すぐに溶けてしまう。例の立派な冷蔵庫の瞬間冷凍室には肉ではなく、アイスノンを入れて、なんかサイズもぴったりで、そんなことのくりかえし。
 明日はMTVの年に一度のなんとかアワード、という派手で豪奢なお祭りが、27日にあるらしくって、そのイベントのテーマ映像みたいなものがあって、それに歌を吹き込みに行く、歌っていうか声な。こんな鼻が詰まっていてはどうするんだろうかなあ。ああ。27日に、もしお祭りに行かれる方あったら、是非聴いて下さいね。まだ歌ってないからどんな感じになるのかはまったく想像もつかぬが。
 熱のせいか、連続して現実が連なり、そのどれもが夢だった、っていう夢をぎょうさん見てなんかうんざり。

 サリンジャーの「ゾーイー」、これってズーイーがほんまもんなんですかね、ゾーイーの兄妹喧嘩のあの台詞のやりとり、私好きやねんけど、ゴッホんときみたくいつか舞台で大阪弁でやったら面白いやろうなあってそこはかとなく思ってたら、なんと昨日たまたま読んでた本で村上春樹氏が「ゾーイーを関西弁で翻訳したい」つって書いててここにもひとつの共時性が。や、関西弁の人はけっこう思ってる人おるんかもね。
 そうそう、なんか、標準語、っていうか、あの場合は翻訳調が、ってことになるのかな、ゾーイーの鬱陶しさとか真剣さとか優しさとか、フラニーの駄目駄目っぷりとかさ、自意識と若さの「不毛さ」から「太っちょのおばさん的救い」へ一気に駆け上がるあの素晴らしい素晴らしいくだり、その救いが観念的であればあるほどこんなにも素晴らしく、こういう文章に出逢うと「虚構」と「観念」の出自と効果の鮮やかな一致が、私をとてつもなく喜ばす!のだが、会話というよりもおのおのの独白の端々の素敵なところが、もひとつなんか、こう、爆発、する必要もないのかも知れんけど、開花というか、爆発して浸透する、っていうもっとそのための風景があるんではないかなーと思うわけで、んで関西弁。
 
 例えばレストランでイライラしながらスノッブな彼氏に向かってフラニー
「ちゃうねん。張り合うのが怖いんじゃなくて、その反対やねん、わからんかなあ。むしろ、張り合ってしまいそうなんが、怖いねん。それが演劇部辞めた理由やねん。私がすごくみんなに認めてもらいたがる人間で、誉めてもらうんが好きで、ちやほやされるのが好き、そんな人間やったとして、そやからって、それでいいってことにはならんやんか。そこが恥ずかしいねん。そこが厭やねん。完全な無名人になる覚悟がないのが自分で厭になったんよ。私も、ほかのみんなも、内心は何かでヒット飛ばしたいって思ってるやろ。そこがめっさ厭やねん」 

 例えば居間の床に寝転んで引き篭もりのフラニーに向かってゾーイー
「そやけど俺の気に入らんのはな、こんなもんシーモアもバディも気に入るわけないけどな、さっきゆうてたやつらの話する時のお前の喋り方や。つまりな、あいつらが象徴してるもんを軽蔑するんやったらわかるけど、お前はあいつらそのものまで軽蔑しとんのじゃ。個人的過ぎるんじゃ。フラニー、ほんまやで。
 たとえば教師のタッパーの話した時もやな、お前の目普通ちゃうで。人殺すときみたいにぎらぎらしすぎや。光りすぎや。あいつが教室に来る前にトイレ行って髪の毛わざとばさばさのぼさぼさにしてくるゆうあの話。そら全部お前がゆうたとおり間違いないと思うけどさ、でもそんなもんお前に関係なくないか?あいつが自分の髪の毛をどうしたこうしたってええやんけ、あいつなにを気取ってんねん、ププ、ダサイやつやなー思てたら済む話やんけ。悲壮美なんですねーゆうてそんなもんいちいち演出しなあかんほど自信ないんやなあゆうて、同情したったらええんとちやうの。そやのにお前は、ええか、これだけはゆうとくけどおちょくってるんやないで。お前が喋ってんの聞いとったら、あいつの髪の毛自体が、なんかお前の仇みたいになってて、それはちゃうやろ。んでお前がそれをわかってるっちゅうのがもっと気に入らんわ。
 あんな、フラニーな、制度を相手に戦争でもおっぱじめたろかゆうんやったら、頭ええ女の子らしい鉄砲の撃ち方を、せえや。敵はそっちやろうが。あいつの髪の毛がどないしたとか、ネクタイがどうしたとか、んなもん関係ないやろうが」 
 
 なんか色々の象徴的な台詞ですな。って関西弁で書いたって、関西出身の私に近しくなるだけで、それやったら頭ン中で勝手にやればということになるね。なんか基本的にキャラと合ってないような気がしますな。
 やっぱ標準語でいいかも。いや、でも関西弁でやってみたいなあ。装置もあんまいらんしな。あー。

投稿:by 未映子 09:59 PM [文化・芸術, ] | 固定リンク | トラックバック

2006.05.11

♪僕はほっとしたんだー<劇団鹿殺し>観劇

 連休は何をしていたかというと連休に越したことはなく普通に生活しているだけのことでした。なんもあらへん。基本的に麺を愛しているゆえに麺ばっかりを食べていました。

 関西から一年前に出てきたという劇団「鹿殺し」をこないだ観劇。昨年ゴールデン街劇場でもやりはったらしくそのときは未観、なので初めての観劇。場所はタイニイアリス。

 席に着く際のいらっしゃいませー!の劇団員のテンションに悪い予感はしていたものの、前半の笑いは大いに寒い場所が多くて、飲み屋街のアフターの店(ホストクラブとは違う)でのホステス向け接待芸みたいな感じで地方から出てきた自分らは体張って成りあがってみせます、一生懸命頑張りますというノリで、金髪かつらに裸体、独自のテンションで歌う、踊る、今回はサロメのパロディということもあり、大きなイメージはなんとなく毛皮族と通じるところがあるものの、やっぱ男がこれをやってもちょっと間が持たんなあと感じました。改めて自分の属性でもある「女」といういろんな部位について考えてみたけど疲れたのですぐやめました。

 で、最近面白い演劇があったら誘ってねといってくれてた友人二人組みを、私は誘ったわけですが、彼らの反応をちらちら伺ってもくすり。どころかピクリ。ともせず舞台を画用紙のような面持ちで凝視、してもいない。なんとなく目に映してる感じ。すみません。チェルフィッチュとかのほうがそらお二人には合ってたのかも知れんかったです。すまんね、と思いながら私はもう段々と劇のテンションに疲れてきて笑えないしいっそ出て、持ってきてる本を読みたいぜいらいら、と思い始めたのですが、ぎゅうぎゅうでそんなことは無理っぽいので最後まで観ることになったけど、時間の経過するにつれ、不思議なもので、段々にいいところが浮き上がってきました。
 サロメ役の女の子は女子たったひとりだけで彼女が案外存分にいいのであって、変な無理やり面白ギャグをやってるときにはまったく魅力的に思えんかったのですが、ある程度の意味のある台詞を云うとなんかむっさええわけです。嘘くさい台詞が「ええ。そうです。嘘くさいいですよね。でもね、虚構こそが物語。真実は嘘があるから真実よ。嘘はあらゆる真実の母なんですからして」と云わんばかりに輝く出すではないですか、大切なことが色々。控えめでありながら一言二言でちゃんと物語の裾をクックとひっぱり人の注目させる声なのか間なのか存在感なのかがありました。
 んでそこらへんから劇団が製作した音楽もいい感じに流れてきて、ポップポップ、最後まで観てしまいました。サロメが王位継承お披露目のシーンで歌った歌がよかったです。僕はほっとしたんだーと歌ってました。今日3回くらいそこのメロディを気づいたら歌ってました。
 お芝居のほう、物語にもっと奥行き出てくればもっといいなと思いました。物語!台詞!あのギャグとかは、本当にああいうの好きなのでしょうか。なんか何に対してなのかわからないけどもお義理でやってる感じがしました。笑いなんて笑わせるのがほんとに得意な奴にまかせておけ!でもけっこうウケてたりして、ということは私が薄ら寒いということなのでしょうか。
  
 舞台が終り皆んなが力いっぱいやりましたというのがムンムンに伝わる挨拶があり、なんかそれだけでも「こちらこそ忘れかけてるガムシャラな感じをありがとう」とじんときてしまいそうなすべてがつぶらな瞳。

 「一生懸命さ」を人に向けて発揮できる状況とはいかに恵まれた事実でありましょうか。

 そんなことをライトの下でやりきった感に震える劇団員の顔を見ながら思いました。達成感。感謝。ちょっとの反省。明日への意気込み。今彼らはそんなものに身も心もめらめらに燃えているのです。世の中にはなかなか伝わらない熱意というものがたくさんあります。人には知れない懸命さが確かにあります。見ていてくれる人の存在を確認しながら一生懸命何かをやれる、苦労できるということは、幸福だ。人の影になり、搾取され、存在しないも同然の、けれども命賭けの一生懸命さがそこらじゅうにひっそりと溢れていて、

そしてそれがほとんどだというのに!

 「それが嘘であってもいいのだ。何故なら、誰かの懸命さは必ず他の誰かに見られているものだということは物語が伝えるべき正しい真実だからだ<舞城王太郎・暗闇の中で子供>」

 私は物語についてのこんな一文を思い出し、心の底からそうであるはずだと願っているし、信じています。


 汗と涙が混じりあい、アンコールではレビューというかカラオケでその女子が歌うのですがなんかこなれていて90年代のバンドボーカルぽくって、ポップポップ。後ろで男の劇団員がみんなで一生懸命踊っていました。お芝居だけじゃなくてライブとか路上パフォーマンスでも人気があるらしくてなんでも劇団員は共同住まいでパフォーマンス以外の生業では飯は食わない美学としているらしく、そういうのはなんでかわかりませんが、そういう根性はいつまでも好きです。そういや西巣鴨に太宰治の戯曲を観にいったことも、駒場にスロウライダー「トカゲを釣る」を観にいったこともなんでかずるずるして感想を書けずジマイでしたが、なんで私は感想を書きたがっているのかほかに色々人をお待たせしていることがあるだろうに、ちゃんとそれを考えねばならないです。あー。

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2006.05.04

イカス!浜田武士・作品集が発売だ

 シングル『悲しみを撃つ手』、アルバム『頭の中と世界の結婚』のジャケットのディレクション・デザインをやってくれた浜田武士さん作品集が出版だ。Hamada1文章も多くあるのだが私にフランス語は読めないのであるからなんと書いてあるのかはわからない。英語であってもどれがタイトルなのかわからない。そう、この作品集はフランスの出版社からリリースされたのです。なので冒頭はフランス語で埋め埋めページである。フランス語読めたらいいね!写真やデザインは、共通でいいね!洋書を深く取り扱いあるところで手に入ると思われます。


 通常、録音がおわれば、んではジャケットどないするねんとゆう塩梅で色々とみんなで打ち合わせ案を持ち寄り、ああでもねえな、こうでもねえよ、と適当真剣入り混じり、膝を寄せ合いやいのやいのとやるのだが、その頃に私はエイティプラスワンという雑誌でみた表紙に強烈にがびーんときていたので、その制作者は調べると浜田武士氏というのであって、すぐさまコンタクトをとってもらっての出会いであった。浜田氏は一青ヨウさん(漢字がわからない、及び、でてこん、すみません)のものも数多く手がけたり、ファッションや雑誌でもみたことある!という方も多いのではないでしょうか。たくさんの代表作が載ってあります。Hamada2_1最近の仕事では「デザインの現場」の大きく開いた木の表紙が好きだ。デザインを好きな方、興味ある方、一読をとても薦めます。

 浜田氏とは、ほかではなかなか出来ないエレファントカシマシについての話が、もう反応もピッピとすぐさま心ゆくまで出来るのであって、会うときはそれも楽しみのひとつであります。ロケバスの中で早朝からエレカシ「扉」、「風」のダブルインカムの嵐、や、べつにインカムではないが、みんなが「も、そろそろいんじゃね?」って辟易するなか、加えること「エレカシって今なにやってんの」的に訊かれてしまう世間の荒波の中、浜田氏だけは私とモチベーション・テンションを共にしてくれるのである。好きなアルバムが「東京の空」っつーのも痺れるわね。ちなみに私はけっこう新しめで「風」。好きである。DVD「扉の向こう」におけるめっさ細かな機微や異常についても話が通じるこのささやかな悦び。ちなみにエレカシのアルバム出たね!

 そんな浜田武士の集中した仕事が集中するこの作品集、是非お目をぶつけていただきたく思います。

Hamada3

投稿:by 未映子 11:29 PM [文化・芸術, 書籍・雑誌] | 固定リンク | トラックバック

2006.03.23

チェルフィッチュ「三月の5日間」を観たという話をこれから書きまーす。あ、小説も。

先週スーパーデラックスにチェルフィッチュ「三月の5日間」を観にいったことを思い出して俳優人のあの動きを鏡の前で真似してみる。ということを今からしまーすってしつこい発言しながらネチネチクネクネとやってみる。金は極力使わずに言葉だけで観衆をさらっていく地味なのか派手なのかわからない、役者が特定の人格を演ずるのではなく、登場人物の数人の行状を報告してゆくという、冴えた、「観て得したなぁおい」的ないい雰囲気でよく出来たつくりのお芝居で気に入った。

しかしながらチェルフィッチュの大将の岡田利規氏のインタビューや書き物を前にちらっと読んだこと少しだけあるのだけどもその印象からしては、現代のしゃべり言葉、話し言葉のウマミを追求しながらも、もっと役者に特別なことを喋らすんではないか、テキストのカタルシスとしてもうちっとすかっとくる読みもの臭がしてもいいんでないのと思ったが、舞台上に浮かんでは消えてゆく言葉も、物語からこっちに飛んでくる玉も、それ以上はどうがんばっても分割できまへんなといういたってライトで単純な内容。岡田氏のいつかのインタビューでの「すごく今の口語を、口語が持っている、普通の人が普通に口語を話すときの、そのまわりくどさの中に、なんか、それなりの構造があったり、ということが面白いってことにあると思って。それで、そういったその複雑さを、ある戯曲としてしたときに、それをきちんと整頓してしまうときに、そういう豊かさが消えるから」ということを思い出すのだが、それにしても、あれへ?これくらいの方がやっぱ舞台では都合がええんやろうかなあーと思いつつ、それでも雰囲気良かったのであの雰囲気のよさはなんやろかと食い下がり、小説ではどんな塩梅、と思いきや小説読んでみたらば岡田氏のものいいに合点がいって、満足、ほー。

ああこの感じ、絶対誰にも説明できひんし、わかってもらえたり、いわゆる言語化すると意味がなくなってまうんやろうなーという、日常で自分だけが知ってる感覚の小さな世界が(私の場合にはたとえば考えごとをしながら人差し指と親指で陰毛の一本一本を丁寧に触っていると世界に自分が漏れてゆくような恍惚に襲われて気持ちよくて動けなくなるというような)、ここでは親切に、言葉を読める人だったらば理解可能な域で書かれていてこれがいわゆる大衆に娯楽に素敵な文章力というものだ
渋谷にいながら見知らぬ街に旅行に来てるのだ今。って感じるしかない感じの感覚、肩でこするように角を曲がるあの感覚を淡々と述べるのくだり良。

感覚とゆやあ倉橋由美子は「内面の悩みなどとは無縁の奇病という試練に遭」いながら「自分のスタイルを確立した殿様の文学だけを偏愛する」らしくってよ、
この感じ、私も激しく賛同してまう気分もあるが、「三月の5日間」はここでいう「殿様」ではない「庶民」の「内面の悩み」から萌芽する「奇病」めいた、あるいはもどきの違和感、それはきっと岡田氏いうところの「現代口語の構造がもつ豊かさ」であって、そしてそれを分析しようとも見せようとも育てようとも引っこ抜いてやろかとも考えん、ただ単に放置されてるままになっている様が、なんか無責任でよろしい。
知らなんだ、そのままで感じのええ無責任があるなんてことを。おお、熱い季節は過ぎたのだわね。とゆうわけで現在の自分の心構えと相まってなんでか快。
「感じ、感じ」を連発をしてしまう作用があの文章にはあるわけであって、いいんでないの。一人称で書かれている心情であってもやらしくない客観的な出で立ちでなんつうの、日本を舞台に日本人に書かれたにもかかわらず翻訳小説を読むときのあの先天的にとられておる距離感を感じる違和感がこの読書をスペシャルにしてるね、ああこの対翻訳でおなじみの突き放されてる感、この距離のことを何て呼ぼかしら、
などと思いながら、他人行儀でありつつ加速してゆく文圧で気持ちよく就寝。

投稿:by 未映子 05:59 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2006.03.11

ポツドール「夢の城」観にいったぜ

久しぶりの新宿で喧騒のようなものがびしびしと背中に刺さる思い。人が多いな。多いよ。ポツドールの「夢の城」を観にいった。
多少のいわゆるネタバレがちらちらしてるかもしれんので、これから楽しみにしておる皆さんは注意してくださいね。


だらだらとした、年は幾つぐらいだろうか。ギャルとギャル男(ギャル男って今でも有効?)風味の少年少女たちのタコ部屋の物語。だらだら、ゲームと布団の上に置かれる鍋(この様子に実際的な嫌悪感を感じられる人間がどれだけいるだろうか!)とタバコのすき間で無駄打ちされるセックス。セックス或いは挿入に対して気の毒に思えてくるほどの無駄打ち感。
お前ら!若いんだからもっとしっかりやれよ!挿入に対して失礼だよ!とお尻を叩きたくなる。でもま、生殖を目的とせんセックスはすべて無駄打ちっちゃ私もそうなんでしょうけどももっと無駄打ち。あー。
台詞は皆無。誰も喋らん。しかしながら少年少女の設定のだらだらの中に、そのだらだら加減があまりにもだらだらとしすぎているので、だらだらが一周してある種の緊迫感が私の中にじわじわと芽生えてきたりするのだった。
「これではいかんだろうよ。人間はこんなはずではないだろうよ。君たちのメムバーの中の誰かがこれを、憤怒!といって拳を突き上げ蹴破るのは、今か、ほれ、今か」という感じで、なんか私の持ってるささやかな向上心の粒立ちが動き出すのであった。
じりじりするなあ。でもそのじりじりにはお構いなしに彼らはゲームしたりゲームしたりゲームしたりするのであって。んで時折さみしそうな顔をするのであって。あるときふっと「これはいったい、なんやろうか」みたいな未視感をたたえた目をしてタコ部屋を見渡すんであって。ああ。それなら私にも、毎日のように覚えがある。
「これはいったい、なんやろか」。鍋など食べてる最中に、お化粧などしてるときに、人生がこれからも続いていくことにはっとして絶句するのである。恐ろしいなあ。
そしてギャル及びギャル男らの姿に胸に苦しいのとムカつくのと悲しいのとがまぜまぜになって、
「ごめん、もういいよ…。私がわるかったよ…、けれどもパンツは、ちゃんとはこうよ…。コンドーム、まず買おうよ…。女子は、トイレで、ナプキンをつけようよ、いっしょに、いっしょに頑張りましょうよ…」となみだ目で懇願するような気持ちになってくるのであった。
それでも続く無生産な生。だんだん見るのが本格的にしんどくなってくるのは私自身に心当たりがあるからで、彼らは舞台上から無言で、それなりに年月をかけてこつこつ構築した私のささやかな行動規範の横っ面を
「ハロウ。俺たち人間の本性でっす。人間ほっといたら全員がこうなるっていわば純・人間でっす。君たち必死で繕って毎日生きてんだろうけどバレバレだヨ。ハッフー!こっちこいよ。よく見ろよ、俺のちんちん、この俺の惰性をよう」なんつってぺちぺちとはたくのだった。
というわけで、自意識と責任感と向上心の徹底した弛緩をえんえんと描きながら、観ているうちにそれらはどこからやってくるのか不気味な緊張と悲しみを観客各々のうちに導き出すという怖い舞台であった。怖かった。不気味だった。

観客を眺めてみて、ふっと生活というものを考えてしまう。
生活とはいったい誰が作るのだろうか。今日の夕飯。明日の予定。何分後の電車。あの人もあの人もこの人も、それぞれに生活があるはずなんだけど、それらに対して、自分がチョイスして自分で作りあげたものという実感はあるのだろうか。こまかなひとつひとつのチョイスが今を形成してるっていったって、そのチョイスの組み合わせが発揮する様々な効果までは選べないだろう。何処までが自分の拘われるところで、何処からが、拘われないのだろう。遥かな気持ちになる。あ、小林秀雄が今、「僕の人生は僕の人生ではないから好きには出来ないだから自殺は出来ないのです僕はええ僕は」とすれ違いざま耳元で早口でささやいた。そうね。わかるぜ。たった今、わかるぜその気持ち。
舞台で描かれてた彼らの生活と、私の生活は隔たりがあって違うもののようにみえるがしかし、実は隔たるどころか、すべての生活が「母なる偶然の導くところによって」成立しているのなら、結局はどの生活も大差なく、生まれて生きて死んでゆく、それ以外のことがすべて、かすんで見えてしまうのだった。そんなことを思いながら、無駄打ちどころか私、最近セックスしてないなあと思う。ひとつは妊娠のためのセックスこそがしたいと、そこはかとなく思うようになっているというのもあるがそれとて単なる「私の今月の気分」であろう。
そしてやっぱりぬるぬると、あの舞台は不気味だったなあと思う。観客も合わせて不気味だった。今もなんか、私の中でぷくぷくと泡を立てる感覚。妖怪人間ベムのオープニングよ。
それにしてもあの剃りこみの兄ちゃんが出てくると私の肩には力が入った。あッ、なんかやらかす、…と思って身構えた。目にはまだあの剃りこみと練り歩きが浮かぶ。怖いよ。あれが噂の「存在感」というやつか。
あと、ラスト。ラストについては書けないが、これは本当にいいラストだった。あのラストがこの劇団の正体だと私は思った。
それとあと、やっぱ部屋の掃除は大事やなと思った。

投稿:by 未映子 02:59 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2006.03.01

世界から出て、野中ユリと本の世界へ

野中ユリ!野中ユリ!
野中ユリのことを思うと突然夜眠れなくなってからもう1週間近くがたつ。この作品群の中に入れたら!なはんてことを本気で、ええ本気で。三十路まえの私が毎晩思っておるのです。まったくもう、野中ユリの画集は殆どが絶版で、これはいかなる理由によるものか。解せぬ。よってタイトルだけが頭の中で共鳴しつつ、実際は古本屋で高値がついているのばかりであって、そしてなかなか古本屋でもお目にはかかれない本もたくさんある。たとえば幻と化した「彷徨引力」。どうこれこのタイトルどうこれ。


野中ユリのコラージュを見てると、私のなかのささやかな「個性問題」がいつも揺さぶられる。
我々の<表現する手段>、<手法>の出自について思いを馳せてしまう。
ぼんやりとやけど。そうなれば認識のすべてはすべてコラージュであり、どんなアイデアもどんな考え方も、誰かのいつかの表現の寄せ集めなんであって、そういった影響下以外に生まれてくるわけがなく、つまり我々の思念はコラージュでしかないっていう話もあるけど、私が野中ユリを見て思うのはそういう頭の中の個性問題ではなくて、例えば文字などにそれを思う。

それ一文字では意味のないひらがな文字、あるいは漢字であればつくりや部首など、それらを組み合わせて意味を構築してゆくさまが映像となって浮かんでくるのや。左の長めの棒に対して右に短めの棒をくいっと書く、すれば「い」が浮かび上がり、ちょっと右下がりの長めの点の下にくにゃとした図を書きえいと払う。したら「え」。
それが二つ並んで「いえ」になって「家」になってゆく、逆細胞分裂のようなそんなまどろみ。
それのみでは意味のないものをルールを決めてコラージュして、我々はぐるぐると回っておる。うーむ。

そんなもともとは棒を模したひとすじの「個」と共通のルールに則ってコラージュされて現れる「共有」が、共存しなければそれぞれに意味がありえないっていうこの世界の不思議を感じる。あらゆる個性が共有されて(非個性となって)始めて意味が光り出す世界の中で、なんで意味を保ちながら個性を追求するなんてことが出来るだろうか。個性をなくすことこそが、その個性に意味を持たせる唯一の方法であるのになぜに我々は「個性」というものにここまで幻想を抱くのであろうか。個性が重要とされている「芸術」だってけっきょく誰かが認めなければ、「共有」されなければ、成立しないのであって、んでは人間が作り出すものに個性というものはそもそも存在しないのではないか?と、こうきて、これってば養老孟司がいっつもゆうてることやなあと、まあそんなとこではある。個性ってなにか。養老氏はすかさず「個性があるとしたらそれは体だ」っていうけれど、
私は「どこにあってもそれは単なる言葉」って云いたいな。体でもいいんやけど。

けれども「個性」という「単なる言葉」と思いたいその言葉が指している、あるいは指そうとしているそのものは、やっぱ実は恐ろしいくらい孤独なものである、という本質を知ってか知らずか、だから我々は「個性」という言葉をあんまり軽々しく使わないような気がする。例えば結構決心したような時に、何かを賭した場面かなんかで、「それは、…個性だ」なんて云うことはあっても、例えば「あの人は個性があるね」なんていわずに、多くの場面に「的」をつけて、「あの人は個性的だね」っていうふうに使ってるような気がする。個性とはいえないが、それっぽい、ということですな。そんな2重に隔てられた「個性的」って言葉をきくと、いつも人間の限界を感じるのは私だけであろうか。人間の限界っていうか、「言葉を使うようになってしまった人間の、言葉を使ったコミュニケイションの限界」かも知れん。「個性」、厳密にいうと「言葉」そのものに対する「完敗」と「悲しみ」と「畏怖」が感じられるのだよな。って感じるのは、私が言葉の人間やからか。


ま、私のぐちゃぐちゃしたキリのねえ話はさておき、野中ユリ!
今月号の雑誌「アイデア」にも野中ユリの仕事の一部が掲載されておって、ああ、たった今、初めて野中ユリの作品を見た人はどう思うのだろう、私だってもう一度、や、一度といわず何度でも出逢いたい!
私が初めて野中ユリの作品と出逢ったのは、17歳の青春の初め、新潮文庫の倉橋由美子モノの表紙である。あの一連の作品である。またこれが倉橋由美子の内容と憎らしいほどマッチングしてさ、
そこには稀代の相思相愛がある。んで国書刊行会から出てる黄色い本な、バーセルミの「帰れ、カリガリ博士」、に時を同じくしてやられたんである。そうそう、いい忘れていたけれど、名編集者、稲垣真実さんが編集して出された、私にとって寄る辺なき宇宙の数少ない寄る辺、あるいは点である2冊、すなわち「尾崎翠全集」、「定本・薔薇は生きてる」どちらも今はなき創樹社から出版されていたのだが、その両方も野中ユリの装丁なのであった。「尾崎翠全集」の表紙は雑誌「アイデア」にも紹介されているのでみなさん是非見て見てください。んで次はあの本も、あの本も、ってキリがねえくらいあるんだけれども、たまらん。

んで野中ユリの装丁本を見ながら思うこと、私は本そのもの形が好きなんである。あの形態が。
そして先月、私はもうひとつの私の目に出逢うことになった。
「ユリイカ・ニート特集」の巻末の小澤英実氏の書いた「読むのが怖い」という文章の中で私はもういっこの目んたまが見せる風景と出逢ったんである。
これも短い文章であるのに、こう、読書を好きな人が読めばこう、なんか母なるでっかい本そのもの、や、人はこういう時にたまらずイデアって言葉を使ちゃうんじゃねえの!
もうイデア!本のイデアって云っちゃうぜっていうその本のイデア!に抱きしめられているような気持ちになる文章なのですが、全文引用してしまいたい衝動に駆られるが、是が非でもこれもどうにかして読んでいただきたい。で、その中から失礼してすこし引用をば。

「(前略)…両手で本を持って俯いた姿勢は祈る姿に似ている。右手と左手が本を介して繋がると、私と本の間には、小さな空間を抱く輪ができる…(後略)」

このあとに続く文章がもう、…なんつうの、も、絶対に読んでくれな。
私はこの文章を読むと、私は本の形態だけに惹かれていたわけではなくて、見つめようとすれば去り、見つめようとすれば逃げる、何かしらの風景が、読書の最中にいつもあったのを思い出す。
それは自分では決して俯瞰できない、「本を読んでいる私」であった。いわゆる「自分の背中」的な「本を読んでいる私」と、この文章でとうとう出逢ってしまったのやった。私はなんだか胸がわーとなって、
ああ、と思って、そうか、そうやったのかと、ほとんど泣き出さんばかりにじんとしてしまった。個人的な話でごめんね。

小さく頁を開き、本を読んでいる私。私は本を読んでいる。
部屋の隅っこのスペースで、無茶苦茶な環境から逃れるために口を結んでいる。物語を読み終わって、本を閉じる。本を両手で挟んで持ってみて、あっと息を吐く。そうやって背中を丸めて小さな世界の終りと始まりに俯いてる私自身を、私は活字を追いながら、物語にのまれながら、いつも見ていたのである。それは小澤氏がいうように「祈る姿」とそっくりな姿勢で本を読み、読み終えた私で、また読もうとする私であった。祈ったことなどない私が図らずとも祈り続けていたとはな!宗教のように死後の保証も、与えられた倫理観も、後ろ盾も、番長も親方も大儀もなく、何のためにでもなく!何を祈ってるのかもわからない、これほどに純粋な祈りがあるだろうか!そして祈りを意識せずとも知らぬうちに人を祈らせてしまっている「本」の魅力とは一体なんであろうか!そして多くは語らずとも、野中ユリ氏もまた、その「本」の「内容」はもとよりその形態、そのご自身を含んだ本の存在に、心惹かれておのずと発露して流れだし凝固した愛が、あの作品群なのであろう。
あーもーとにかく小澤英実氏に「君が見てたの、それだったのよ」と告げられ、わーとなり、野中ユリの世界にうっとりとして気がつけばあまりのうっとりさ加減にぱっくり死んでた、なんてことがしょっちゅうあって、大変だ。

んで月曜日、21万円という値がついている野中ユリ「私家版」がやっぱどうしてもどうしてもどうしてもどうしても欲しくて、欲しくてさ、見に行ったわけ、神保町に。中身は見たことなかったからさ、したら葉書大の作品が何枚か。ウーム。粋。21万円。「定本・薔薇は生きてる」に使われた表紙のホンチャンが入ってる…。しかしそれは70部しか作ってない完全なる私家版で、つまりその私家版は野中氏のごく親しい人たち、今はなき薔薇十字社関係の方たちや友人に贈られたらしいわけで、私が見た作品には贈った人、つまり受け取った人の名前がちゃんと直筆で記されており、それってどうなのか。
や、それをどんな事情でか売った人のことをどうこうゆうてるのではなくて、あくまでその人に贈ったものを、なんで私が、金を払うとゆうても、赤の他人の私がそれを所有するってどうなのか。ってんで、やっぱそういう真心に値はつけられんってんで、店頭で見せてもらえたし、目に刻み込むように見てきたし、結局買わないことにした。私はコレクターじゃないし、
でもやっぱコレクターじゃなくても野中ユリの作品が手元にあるのとないのではやっぱなんかが違うというのも実際あるが、買わなかった。んで10万円の澁澤龍彦との「狂王」の初版、と2万の再版モノが店頭にあって、じっくり見た。これも迷った。「狂王」は持ってないし、噂だけでちゃんと読んだことがないから。
で、ま、これについてはちょっと澁澤シュウもあるので考えてからにしようと店を出て、んで結局逃してた「ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記」と古屋信子の「黒薔薇」を買って帰った。欲しい博物誌を見つけたがお値段68万円であった。無理無理。森鴎外の毛筆でドイツ語のメモ書きが150万円。無理無理。これってやっぱこういうの、買う人おるんやろうか、おるんやろうなあ、
んで足穂のナマ原稿が30万でこれも無理無理。うーんすげいなあ、大体こういう古本屋さんやるのに、どれくらいお金って必要なんでしょかね。だってまずは買うわけでしょ?1万でも高く値をつければまあ、元は絶対とれるやろうけど、まず資金がいるのだからしてもともとお金持ちがする商売なのか?

んで家に帰って、寝転んで野中ユリ「妖精たちの森」の鳩の絵にびびりつつも見入って、これまた野中ユリ画の種村季弘の「ナンセンス詩人の肖像」にデレデレして、そんな休日であった。日が休んでおった。呼吸しておった。何もなくても本当に休まる日というのは稀である。
そして野中ユリ氏は今もとっても元気でいらっしゃるようで、それがなんだかすごく嬉しかった。

※追記です。
 そして2006年11月、この記事がきっかけで、野中さんと繋がることがなんでか出来て、わたしくし、川上未映子の随筆集「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」の表紙・装画を野中ユリさんで万歳の、なんとゆうかそんなド・素敵なことになりました!
 邂逅、奇跡、思いつく限りのどってん綺羅綺羅とした嬉しい巡りあわせ、表紙は是非こちらから見てくださいなー。












投稿:by 未映子 09:59 PM [文化・芸術, ] | 固定リンク | トラックバック

2006.01.13

ポッドキャスティングが、出来るわけで 未映子の両面感情機械 第1回

や、とうとう、本当に長き旅ではあったが、
ポッドキャスティングで聴けるラジオを始めようと思いました。そして始めてみました。聴き方は、簡単だと思います。私はポッドキャスティングでラジオを聴いたことがないのでやり方がわからないのですが、そのままでも聴けるし、市川哲史さんとの対談ラジオを聴く勝手で、聴いてもらえたら嬉しいです。
嬉しさが脳を動かすらしいですよ。調子に乗るんだそうです。調子に乗る、ということ、子供の時、私は調子という現物があるのだと長いこと思っていました。<円谷プロ>を、ほんとに昨日まで、<まるやプロ>と思ってました。
嬉しさはあらゆる原因。ということは嬉しくなって脳が調子に乗りのぼせちゃってそれから身体も動くわけで、嬉しいがりやは最強ですな。嬉しいというのは、すごいな。タイトルは<両面感情機械>です。
この間まで担当していたラジオ番組、ほんまはこれだったんですが、局のイメージに沿うよう横文字にしてくれというわれてたのです。それをこの度、日本語に戻しました。

無駄に長い。脈絡がない。よくわからない。長いんじゃないの。と云われそうなそんな内容で、私はいつまで続けてゆけるのかはわからないですが、お暇でしたら是非、聴いてやって下さい。
やーそれにしても、普通のラジオと違って、こう、パソコンに向けてひとりで喋るというのは、どう考えても、なんか、「何をやっているのだろうか」とこの録音の最中に20回くらい思いましたが、でも投げてと受け手には常に温度差はつきもので、それが幸いしてくれたら幸いです。
初め、暗いです。私は暗いのです。でも、何回か回数を経れば、明るくなると思います。FMのラジオ番組もそうでした。AMのラジオもそうでした。山崎ハコさんが遠くから微笑んでくれるくらいに、暗かったのです。でも楽しみにしてくれる人が激増したので、このたび調子にのって、サイトでもやってみようと思います。
でもって、ラジオ用に、メールも募集したりします。ラジオと普段のメールは分けておりますのでこっちに下さいませ。r@mieko.jp
悩みなどを、送ってください。いや、なんでどこのなんやも判らぬ私に悩みなど送ってなんになる。悩みじゃんくてもいいです。なんでもいいです。どしどしと。相談など、感想など、ラジオで読みあげていいのであれば何でも送ってください。そしたら、いいラジオになるはず。
どうぞよろしくお願いします。

podcasting
このバナーをクリック押しながらぐーっと持ってくるあの方法でiTunesにぐーっと移動させてください。
左サイドのラジオでも聴けます。

投稿:by 未映子 09:43 AM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2005.11.29

写真でみようぜ劇子式

あーあれからどれくらい経ったのやろー、
ある人は明けても暮れても絵を描きすぎて人格がマジで破壊され、ある人はなすびを煮込んだようななんとも云えぬ顔色になり、ああいう時ほど人間の人格の底は明るみになるもんで、自他ともに発覚の嵐、ゆえに29歳にして私の人間関係にも幸運の大転機が訪れて、私は色々が忙しく穏やかで非常にすがすがしい毎日であります。

そんなこんなで振り返りつつ思うこと、時間が経つって素晴らしい。

とゆーことで遅くなったが写真でみようぜ劇子式。このお写真は高橋真人氏が撮影してくださった。
私は弟のテオドールの他にゴッホに初めて絵を教えたマウフェ、娼婦のシーン、ロートレック、ゴーギャン、テオの嫁のヨーの何役かをやりました。練習の際にそれぞれに一応個人的なコンセプトがあって、シーンは殿山泰司の演技をしてる竹中直人、ロートレックはキムタク(観たことないから勘で)、ゴーギャンは渡部篤郎のはずがやりすぎて小泉純一郎になってきて、マウフェはカツ舌悪い、いの段が発音できない小学生、ヨーは特になしでテオは洋モノののび太くん。

みなさん、この芝居の極限状態の具合は横向きに私がかつらをかぶって映ってる、あのかつらのものすんごいあのかつらのかぶりの角度、あの角度があの舞台の象徴のすべてであると、私はこれだけ申し上げておきます。
ご来場くださった皆様、遠くから応援してくださった皆様、心から御礼申し上げます。

投稿:by 未映子 09:03 AM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2005.10.30

色爆発を、して

劇子式第一回公演ありがとうございましたって何がって来て戴いて、京都から滋賀からもー栃木から、ありがとうです、そして間髪入れずのメールありがとう、劇子式は最大に感謝して、したおしており、とにかく物語をしたくて何もないままゴッホの爆発を何に対してか私は今一度なんらかをして拘わるのだという妄想でのみのこの秋、来て戴いた方々の中で何か爆発が行われたなら勝る喜びはなし、写真も素晴らしく撮って頂き粒とご報告致します、
今夜は泥の鯨の腹の眠りぐらいに眠る、くれたメールを思い出しながら眠る、足を前後して移動してくれる気持ちの凄さは知、そして明後日からはライブのリハや、おえーとなるほど楽しみ、私は死にそう死にたい、歌えると思うとなんも消える、歌、言葉、好きな方みんな絶対的にいらして、ほんまに、私はあなたをさらい見つめ出会い思い出の正体を、悲しみの出自を、あなたと私で再生する。

ユリイカの詩、ご感想もたくさん戴き、活字は激しく揺れながら完全の直立をし、私はこのまま感激を煮えたぎる熱のまま飲み込む。

投稿:by 未映子 02:44 AM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2005.10.27

わ、私は大丈夫なのか?

今週のラジオの放送を受けて、た、たくさんのメールを頂いております、
皆さんそれぞれ思いはそれぞれでありますが、ありがとうございます、叱咤激励っつうのはこのことか、
や、心配してくださって私、そんな心配させるようなことをゆうてしまったのか、
「話方セミナーでも行こうか知らん」、というのはそんなに、ああ、ごめんす、
でもって熱意のメール、アリガトッス、すぐにでもお返事を書きたいのですが、
いかんせん、今、劇子式がものすごいことになっててですね、
や、ものすごいっつうのは自画自賛のものすごいっつうことではなく真性のあっちのものすごさであって本当に今お返事書ける状態で恥ずかしながら、ないの、で、しかして受信してありがたく読んでいるので、公演終わってからお返事書く。書きますのでちゃんと頂きましたからっつう今日はご挨拶であった。劇子式、楽しみにしててくれ。

投稿:by 未映子 02:14 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2005.09.17

未映子展覧会をしていますヨー。

こんにちは、みなさん。
「特設ページ」はもうごらん頂けましたでしょうか。
そこでもお知らせしてますのですが、
大阪のアメリカ村のカフェロデオという文字通りカフェで、
未映子展覧会をしているのです!是非是非、遊びに行って、
詩やら歌やら絵やらを見てきてたもーれ。

ここですこし、
展示の様子をば、ごらん頂きつつ、こないな感じに、なってるのん
tenrankai1記念特製ドリンク「結ぼれ」を頼むとついてくるコースターは一枚一枚手ガキやのやが、初めよりもすすめて最後になるのつれ、絵が上手くなる、なってってしまう、この宇宙のセオリー。私ごときが逆らえるはずもなく、最初と最後の絵は別人ですが、ま、よいよい。
なかなかメルヘンやのー。うきき。

アルバムも、たははーんと試聴出来ます。
tenrankai2やー、今なんてさ、なかなかさ、CDもぽいぽいと買えない気持ちにもそれはやっぱりなるのでして。ここへきて、結ぼれで喉をうるおしつつ、まずはがっつり試し聴きして、身請けして。聴いてみて。

んで、今回の大阪のこれはね、
tenrankai3大阪の音楽専門学校、大阪スクールオブミュージックの生徒の皆さん方が多大なる協力をしてくださり、色々アイデア出して、あれやこれやと案を練り、そして形にしてくださったものであって、皆さんこの場をお借りして、ありがとうのー。たくさんの人に、観てもらいたいねー!

25日までの開催、未映子展覧会、是非来てチョ。
私も遊びにいくー。来週は大阪でライブやしのー。行ったらウザイのか?ウザイのかしら。そうなのかしら。でも遊びにいくぜ。


先日書いた日記の性欲も瞬く間に消えうせ、何もかもに置き去りにされ、総括され、なはんか肉体に馬鹿にされて弄ばれた感じっすよマジで。
あれは一体なんなのよ。あんたはいったい誰なのよってま、私は結ぼれを、ごくごく飲むぞ。

投稿:by 未映子 10:29 PM [文化・芸術, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2005.08.05

毛皮族のジュンリーとラジオで話す、いや、話した。

先日のラジオに毛皮族の族長の、江本純子氏お招きしたよ。
楽しく、色々お話をしたのをみんなは聴いてくれたか。どうか。

毛皮族は今年で5周年だそうで、私が初めて観にいってから4年ちかくも経つ!
よ、4年て!もー、ほんまに時間ってなんでこんな早いか。今ガリガリくん食べながら書いてるが、ガリガリくんもなんでこんなに早くなくなるか。

7月いっぱいで東京公演も終わって、んでこの週末は大阪で公演なんで、
みんな、気になったら観にいきよし。

今回は前回にお招きした時のハイテンションとはちと違って、
聴いてるスタッフには、
「ちょっと作り手側の話すぎて、置いてかれたような気がしないでもない」
と云ってたけども、別の意味でテンションが高かったのかー。

ジュンリーは女友達とゆー気がしやん、
なんかめっちゃ心地よい礼節があって、や、その辺って関東の人やからなんかなぁ、
なんか、シャイな青年とゆーかなんとゆーか、
ジュンリーの雰囲気は気持ちいい。


自分と違う人のする表現の、理由とか、考えとか聞くのはすごく好きで、
違いがあればあるほど楽しいというか。

んで完全に独立して、大勢の人を動かし、んで大勢の人を満足させて、んでまた次に踏み出す、ということを劇団をやってはる人たちのほとんどはやってきてるわけで、
それはすごいことですよ。
全部、自分、細かいことまでわかってるのも自分、あれも自分が、これも自分が、で、走り続けなあかん、
んでそれが出来るっていうのはすごいことで、
でもそれって一番シンプルなことで、
一番直接なことで。

ビジネス的にも何にしても独立してやっている人の、私も興味がとてもあるので、
話が聞けてよかった。

んで、
どんなに悲しい芝居でも、苦しい歌でも、みててつらい絵でも、煌びやかでゴージャスで夢みたいなお芝居でも物語でも、こんな世の中くさっとるわ!とかの音楽でも、
分りやすくても分りにくくても、ひとりでもふたりでも、怒りでも喜びでも悲しいワーでも、
人に向かってする表現っていうのは、
方法こそ違えど(表現する人の性格がそれぞれやからね)、
見てくれた人を、やすっぽい言葉でいうと、や、勇気づける、明日もがんばろーぜの力のよーなものをもって帰ってもらいたい、感じてもらいたいなあっていうのは多分おんなじで、方法は違えどね、
だからたくさんの表現があって、すばらしいし、


ジュンリーのつくるお芝居は、私が歌で作る世界とは違うと思うけど、
けども、ジュンリーと私だけじゃなくって、人になんか伝えようとする表現の共通項が、くっきり見えて、なんか穏やかな気持ちになった。

んでそれを必要として、足を運ぶ耳を傾ける人っていうのも、構造上、作り手の一部であってな。
なんかそういうことを、思いました。

人を楽しくさせたり、悲しくさせたり、ぐっとこさせたり、
んで、力になれるっていうのは、素敵なことやな。

んで毎日毎日どっかでお芝居はさせてて、歌もうたわれてて、誰かが泣いてて怒ってて。
喜んでて笑ってて、落ち込んでて苦しんでて、
んでまた元気になれば、いいなあ。


暑いけど、なはんかオセンチな午後でした。


毛皮族、江本純子氏エロのテロのバブルが襲来!
毛皮族のキャバクラ5時間体験な
毛皮族キャバクラナイト、オツ。


投稿:by 未映子 03:29 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2005.05.12

眠りのための映像

夜眠る前に、
灰色のようななんかまるい固まりが、
目をつむってるから暗いから、
その果てのない暗がりの中に、
ぼんやりと浮かんでる感じがするその灰色のまるまるが、

色んな言葉や、映像、言葉や、思惑、感覚、
私の多分脳ミソの中にしまってあるやつとか破片とか切れ端とかにさ、
ひょういっと手を伸ばして、

私の目の前に、ぽんと、見せにこようとするの

それはなんかの動物の内臓をべちゃっと床に叩きつけるみたいな感じがする、
そんな具合にぽんっと、
投げてこようとするから、

ああもう今晩はすんごい厭。とか思って、
緊急回避をする。

そうすれば私、
すんごい気持ちよくて、
楽しいことを思い出したりするのよ。

例えば、
好きな人と初めて一緒に裸になって朝まで話したときのこととか、
誰かの寝顔とか、
わがままが成就されたときのこととか、
あと、歌ってるときのこととかをよ


眠りのための映像は人それぞれにあると思うが、
私は、金縛りも大好きで、
ああ今日は、
金縛りがくるなあくるなあって時に、

ちょっとコツがいるけれども、頭の中で必死に、
空を飛ぶ映像を打ち出し続けたら、
(自分の姿は入れずに普段の視点を維持して)

マジで空を飛べるんですよ。


夢の中で空を飛ぶのは誰でも経験したことあるかも知らんけど、
それよりももっと体に呼応してるというか、

ゆうてる意味が伝わるといいけれど、
でもこれで私は空飛ぶ方法を何人かに伝授しました。

金縛り体質の方はやってみて是非。

私の具体的な方法は、
長い長い高速道路を車に乗ってる設定で走って、
途中でぷつんと崖になってて、
そっから一気に昇天するという、

これは素晴らしい私の文化であり、
筆舌にし難い
体と意識を行き来させた、
楽しみのひとつ。

投稿:by 未映子 10:59 AM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2005.03.27

私はゴッホにゆうたりたい

春が煙っておる。なんか立ち込めている。

何でもないよな一面をさあっと塗ったようなこんな空も、
ゴッホには、
うろこみたいに、飛び出して、
それは憂う活力を持ち、美しく、強く、見えておったんやろうか。

春がこんこんと煙る中
私は、
ゴッホにゆうたりたい。
めっちゃゆうたりたい。

今はな、あんたの絵をな、観にな、
世界中から人がいっぱい集まってな、ほんですんごいでっかいとこで
展覧会してな、みんながええええゆうてな、ほんでな、どっかの金持ちはな、
あんたの絵が欲しいってゆうて何十億円も出して、みんなで競ってな、なんかそんなことになってんねんで、

パンも食べれんかったし最後のパンも消しゴム代わりに使ってな、
あの時もどの時も、あんたはいっつもおなじように、描いててな、苦しかったな、
才能って言葉は使わんとくな、なんかの誰からかの命令なんかな、
なんか使命なんかな、
多分絶対消えへんなんか恐ろしいもの、恐ろしいくらいの、美しい、でも苦しい、
そういう理みたいな、そんなもんに睨まれてあんたは、
いっつも独りで絵を、絶対睨まれたものからは絶対逃げんと、や、逃げる選択もなかったんかな、
それでもとにかく、絵を、絵を描いて、

そら形にするねんから、誰かに認めてもらいたかったやろうな、
誰かに「この絵を見て感動しました、大好きです」
ってゆわれたかったやろうな、
それでもいつまでも独りぼっちでよう頑張ったな、淋しかったし悲しかったな、

それが今ではあんたは巨匠とかゆわれてんねんで、みんながあんたをすごいすごいってゆってほんで、
全然関係ない時代の日本に生まれた私も、あんたの絵が大好きになった、

教科書にも載ってるねんで、
夜もな、空もな、ベッドの絵もな、麦畑も、月も、デッサンいっぱい練習したやつもな、
全部観たで、きれいなあ、あんな風に観てたんやなあ、

みんなあんたの生きてきたことを知ってるねんで、
耳をちぎったことも、キチガイ扱いされたことも、
悲しくて悲しくて悲しくてしょうがなかったこと、
そんなあんたが書いた絵が、ほんまにほんまに美しいことも、
今はみんな、あんたのことを思ってんねんで、

私の知り合いの、男の職業絵描きの人とな、
随分前にあんたの話になってな、
私はあんたの生き様、芸術って言葉も使わんとくわな、
もう、それをするしかなかったっていうものと死ぬまで向き合ってな、そういう生き方を思うと、
それ以上に、なんていうの、ほんまなもんってないやろって思うわ、私は信頼するわって話をしたん、

そしたらその絵描きな、未映ちゃんがそう思うのは全然いいけど、
あんな誰にも認められんで苦しくて貧しくて独りぼっちでゴッホが幸せやっと思うかってゆわれてん、
俺は絶対にいらんわってゆわれてん、

ほんでそっからしばらくあんたの幸せについて考えてみてん、
幸せじゃなかったやろうなあ、お金なかったらおなかもすくし、惨めな気持ちに、なるもんなあ、
おなか減るのは辛いもんなあ、ずっとずっと人から誰にも相手にされんかったら、死んでしまいたくもなるやろうな、
いくら絵があっても、いくらあんたが強くても、しんどいことばっかりやったろうなあ、

そやけど、多分、
あんたがすっごい好きな、すっごいこれやっていう絵を描けたときは、
どんな金持ちよりも、どんな愛されてる人よりも、比べるんも変な話やけど、
あんたはたぶん世界中で、一番幸せやったんやと、私は思いたい。

今はみんながあんたの絵を好きで、世界中からあんたが生きてた家にまで行って、
あんたを求めてるねんで、
もうあんたはおらんけど、今頃になって、みんながあんたを、
今頃になって、な、それでも、あんたの絵を、知ってんねんで。知ってるねんで。

あんたは自分の仕事をして、やりとおして、ほいで死んでいったなあ、
私は誰よりも、あんたが可哀相で、可哀相で、それで世界中の誰も適わんと思うわ
あんたのこと思ったらな、
こんな全然関係ないこんなとこに今生きてる私の気持ちがな、
揺れて揺れて涙でて、ほんでそんな人がおったこと、絵を観れたこと、
わたしはあんたに、もうしゃあないけど、
やっぱりありがとうっていいたいわ

だからあんたの絵は、ずっと残っていくで、すごいことやな、すごいなあ、よかったなあ、
そやから自分は何も残せんかったとか、そんな風には、そんな風には思わんといてな、
どんな気持ちで死んでいったか考えたら、私までほんまに苦しい。
でも今はみんなあんたの絵をすきやよ。

私はどうにかして、これを、それを、
あんたにな、めっちゃ笑ってな、
ゆうたりたいねん。
ゆうたりたいねん

投稿:by 未映子 03:14 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2005.03.21

笑われる前に笑っておけ。1

ほたるいかを、
健康食品なんたらという感じの店にたまたまと入り買って家で水と一緒に食べたとこで。

口のなかの目玉が気になってなんか途中でいやんなった。

この数週間、頭の中をなんかがぐるぐる回っていて、ああできかけの曲や断片や、
それを伝える方法や、音やいろいろがぴょんぴょん虫のごとく、
あ、眼球の油膜のことな、意識して追いかけたらぴゅっと逃げるので、そういう名前らしいの、
ま、その虫はどうでもいいが、ちょっと考えると頭が痛くなってくる。
頭が痛くなるので薬を飲む。頭痛薬を飲む。したら痛くなくなるのですんげいな。

私いつも思うことがある、薬を飲むときに、痛みが治ったときに、
痛みは何処へいったんかいと不思議になる、
痛いのは部分にあるのか脳にあるのか。などなど。ま、調べれば適度に分るようなことでもあ~不思議でやめにする
この私の腐りきった惰性と中途半端さを見よ。見よ見よ。

ほいでもう誰のなんたらも誰のなんやかやも、
もう要らんとゆう状態になってゆくのが分るので、最近は危険、危険である、頭もイタイイタイのである、
そんな折にこれはずっと前から購買しておったチケットを手に、
青山まで松尾スズキ氏と大竹しのぶ氏のふたり芝居を観に行く。
文句なく面白く、両者口を開けば花が零れ落ち、はあ、
役者というのはブラボーなもんだわね、この、どこを切っても一流のこんこんちきめが!などと思いつつ、
ついて出てくるのは蒲鉾みたいに単調な、
「面白かった」とゆう言葉なり。や、感動もしたが。目的も果たしたのですが。

ちょっと気持ちは手放しで喜べない気持ちもちらほら。この舞台は関係なく、なんというか受け取り手のこの私の脳内のことな、最近気になってることが私の脳内に浮き沈みし、
このままではちょっといかんよのおと思うことがあるのであって。

それはなんか、そう、面白さ至上主義というか、面白ければ丸ままオッケー、面白いねと云ってればあなたひとまずひと安心みたいな、そう、これは多分ずっと昔はアイロニーと呼ばれるものであったに違いない。のに、
なんでか最近、処世術としての
「面白ければそれでええのよ」という価値判断がいかがなものかとこう、思うわけで。

なんつうの。そう、

「笑われる前に笑っておけ」

とゆうか、分る?そういうスタンス。
なんかにびびりたる虚勢にも映らなくもないこのオールマイティーな体勢。
そういうの、私は高級な表現の視点やと思っていた時もあるし、今も思うが、
なんか最近はこういうんばっかりに自分の目がいってよ、
周りにも多いが、それ自体がしょうもなく感じてきた。

悲しいことを悲しいとは書かずによ、
面白くそれで読後にそっと悲しみを臭わせる、なんちゅうの、笑い泣きの感じ?
そういう風に書けることの筆の凄さはそらわかるけれど、
ほんまのところ面白く書かなあかん理由なんか何処にあんねんな。
とか思うで。ま、面白なかったら誰も読まんという話なんですけど。
そやけどなんやねんおもろいって。
なんでおもろい風にしていかなあかんねん。などと。
なんでおもろい調はこんなに市民権をこんな風なわけ?

というわけで、この話は続く。
気が繋がっていたら、多分次回も続く。

投稿:by 未映子 11:29 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2005.02.02

毛皮族、江本純子氏エロのテロのバブルが襲来!

毛皮族族長の江本純子氏、エモジュン、ジュンリー、を、
お迎えしてのアンビバレンス・マシーン、私のラジオ番組な、を、お送りしたのですがいかがでしたか、面白かった?面白かったか?私はね、面白かった。ジュンリーもリラックス、してくれたかどうかはわからんが、私のこと、そう、
12月の『お化けが出るぞ!!』8日間ぽっきりの公演にモロモロで4日赴き、や、8分の4な。ほしたら2日に一回は駆けつけたという大事実にぶち当たる訳だわ。どうなんこれ。
ウム云わさず私、近場の人間へ同意、引きずり、勧誘、都合11人動員、イチファンがなんのノルマか、や、面白くかつ流麗たるエンタテインメントは世に広めよ共有せよとの使命或いは本能に従ったまでじゃ。っつう私をジュンリーは信者、信者認定してくれはりました、信者、信者って。
なんか白いイメージなんでええ感じ。

あの番組を聴いてジュンリーの毛皮族を観に行きたくなる方は数多、と私は自負しております、まあ興奮した私、つばを記録的に飛ばし飛ばしジュンリーに今度はもっとたくさん喋ってもらおうね。

で、まあ、ジュンリーのデビューした音源聴いたりエンタテインメントの悲しさ強さ、放送禁止用語のあれこれ、色々話した束の間でしたが、
江本さんはあれですね、非常に落ち着いており、
非常にシャイであり、孤高な感じがしました。いわゆる関西でいうところの「チョーシ(調子のりとゆうことですね、私、調子のり大好きですけどね)」ではまったくなく、監獄、猥雑、なんかとにかくそういう感じの芸風とまったく違いました。

ほいでもって、男の方っぽかたですね。頭でものを考えずに唇でぺらぺらと言葉を吐いてゆく私とは全く違い、や、主宰は偉いね、
気まぐれに投げかける質問の一個一個に対し、ちゃんとぐりぐりと考え、
ほいで少量の熱量で的確に返事してくれるのであった。
で、私ときたらその熟考の間に耐え切れず、
あれもこれもよ!まったく違う話に飛んだりなんやかやして、あとでいかがなもんかと思いましたが、とき既に遅し。
でも離れがたかった。私。

ジュンリー、気になった方は毛皮族の公式サイトに飛んでいってね。
大阪で公演があるよ。

最近のわたくしは、
新曲のあれこれを脳ミソいっぱいいっぱいにして励んでおるのでして、
なんか言語野が重い。なんか硬い。面白い曲を作ったよ。
2月中に4曲完成、完成?させるのであって、そんなこと可能だろうか、
や、やるしかないのであって、わたしは燃えております。


そんな私も明日はライブだ。青山曼荼羅、来てね!


毛皮族のジュンリーとラジオで話す、いや、話した。
毛皮族のキャバクラ5時間体験な
毛皮族キャバクラナイト、オツ。

投稿:by 未映子 01:14 AM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2004.11.24

芸術御破算

「空の美しさにかなうアートなど存在するのだろうか」。
などとノタマッタのは小野洋子氏であるがそれはさておき、夕方、もうどうしようもない脳を抱え、ふらふらと寝間のまま外へ出たらば頭上眼前広げられたる馬鹿馬鹿しいほどのウロコ雲にしばし直立不動。感動の直立不動である。


はーらーまーとか口に出して顔を空に向けながら歩けるとこまで歩いたが、別にそんな頭を持ち上げなくとも空は続いているのであってそれにしてもあの完璧さよ。自然の完璧さよ。芸術とは何か。それは苦しみでも救済でも意識でもない、自然と人間との距離のことであるのよ。なんちってぶつぶつ云いながらわたしはこのお腹を満たしにゆくのだからなあ。ここで思い出すのは、ずいぶん前に読んだ手紙。というかとある人の芸術と題された文章。手紙ではないね。わたしは美しいもの、とりわけ自然の完璧な美のまえにたたされて言葉が出てこんくなったとき、この人のこの文章、文字群がせきを切ったように流れてくるのである。んでもって今電話して、あの文章載せてもいいかときいたら「あー、・・・載せんでいいんちゃう、特に」とか云われた。なにが特に。

改めて、芸術ってなにか。表現か。表現って何か。単なる言葉。それは単なる言葉なのです。
しかし、気分によっては色々あるぞ。ピカソの後期の仕事は芸術か。解らないものを有り難がるその心性は芸術を愛でる何かか。芸術とは美しいものか。苦しみ、悲しみの果ての救済された一縷の魂か。それを表現したものか。プロって何か。プロってそれで生計を立てることが可能なことか。形態か。ではゴッホはアマチュアか。どうでもよろしい。もうそんなもんは。


以前も書いたが、多分、行為の性質決定は自分の了解にすべて拠るのだと思う。これはつまらぬ危険な落としどころではあるが、そうなんだもの。


<頭さびてゆき、何かに乗ってゆくというのは楽でよろしい。与えられた笑いを笑うのは楽でよろしい。もう、テレビを見ているみたいなんである。他人の喧嘩話を聞く。とりあえず湯につかる。空腹を感じたらものを食べる。腰のあたりけだるく興奮したらば性交する。疲れたと云いながら自分って何をやらしても駄目なのだと慰めにもつかぬ自己嫌悪で死にそうになる。今日も一日が終わる。慣れてゆくことがまだ苦しい。仕事は俄然・憂鬱である。先がほんのり不安である。言い訳ばかりで窒息思想。一週間が、またたくま>


こういうのが30歳前後大多数の人間の心境なのだとしたら、これはこれで結構おかしいことである。


少し歩いたところに少々高いけれどもなんだかバランスの取れた定食を出す定食屋があって、わたしは寝間のままゆく。もう、御破算である。なにもかも御破算な体たらくで定食屋に入ってゆく。
しばらくすると、具の溢れんばかりの味噌汁、なんか付け合せが3品くらい、柿、ご飯、煮込みハンバーグにとろんとした目玉焼き。それがわたしの前にさっと差し出されたのである。

魔法。
これは魔法である。ごく控えめに云って。もう一度。
魔法。

店に入る→席につく→注文→ご飯、現る→食べる→会計→店を出る


わたしは価値交換、このシステムに久々に驚愕しながらどきどきしながら定食を食べた。おかげで何処に入ったのか分からない。誰やっけ、古谷実氏?「紙幣は現代に残された最後の魔法である」。だってご飯が出てくるんやもの。島国、もはや革命もなく、美に命を賭すこともなく、ピューリタンも皆無。紙幣。紙幣。この巨大かつみんなノリノリのこの仕組み。わたし、どきどきしながらご飯を食べた。ヤフー孫氏がゆってた。金は数字。や、数字ですが。誰がこれを。誰か、「もう、やめです」とか、決めた人、ゆってよ。っていうか、ゆえよ。


まあそんなどうでもいい些細なこと、いいながらこれは素晴らしい、このわたしのこの仕事をみよ!と割れんばかりの気持ちを込めて曲を作ったりしても駄目出しされて餅食べたり、空腹を満たすことの意味、なんかないのであるとか慰めたり色々、気がつけば夜やよ。夜。夜がまた来た。来たわ。


誰にも何にも云わせず気づかせず、あっという間に全てを変えてしまう、
空のわざよ。


文句をいう相手も居ぬ、
非のつけようもない、創造主も知れぬ、しかしただただ美しい。
こうであったなら、とかこうすべき、など、一切の人の思惑の入る余地のない、完全たる空のわざ。

宇宙の巨大な鏡、空の前において、や、空を見るとね、
ときどき、あらゆる芸術は御破算であります。


投稿:by 未映子 05:44 PM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2004.06.25

台風、奈良原、顔、笑い。

台風一過を夕方に目撃出来たのはおととしである。
今回も台風は去っていったが夜中だったので、あの龍のようなたなびき、わななき、
文字とおりドラマティックなあのまるくそして長方形、そして極控えめに申し上げて、無限、台風一過の夕暮れ、逢魔が時、今回は遭遇できなかった。台風の暴腕の後のなにかしらの恩寵、それは黄昏にあり。
台風の後の夕方、西の空。でらでら美しい。

渋谷で打ち合わせたあと、(世界は打ち合わせで今にも弾けそうであります)
時間が空いたので、今しかないと恵比寿に着。奈良原氏の写真展があるのでありました。
うだるような暑さ、恵比寿ってなんかむずかしい。

見ごたえありすぎ。盛りだくさんであった。はっとしどきどきし、初期のモノクロは初めちょっとだけしんどくなるのだが、それでも堪えて集中してゆくと、ふっと肩の緊張がとれるポイントがあった。中心を凝視めるゆえにぼやけていた輪郭がふわっとこの眼球に染み込んで来るのであります。それは優しさであった。そこからはただ懐かしいような、すべての想い出が悲しみと分離できぬように、常温の涙腺が震えながら奈良原の視界を縁取る。それを全然関係のないこのわたしの眼球がとらえる。パリ、ベネチア、ニューヨーク。
あの時この時あんな時間。奈良原にとってのカメラはポータブル・タイムマシーンだった。
写真はそうね。音楽もそうね。文字もそうね。記憶は。

わたしはいま、思い出を生きてるのか今を生きてるのか、厳密に断言することなど誰にも。

地下からあがると、会場はプールのにおいがして、ちょっと悲しくなる。手のひらがじんとした。わたしは靴ずれが気になって、エレベーターに乗って、帰途につく。


昨日は急に自分が作ったトマトソースのパスタが食べたくなったので作った。
でもなんか、あんまりおいしくなかった。あかんわ。なんか勝手が違ったんかなあ。今日もう一回つくる。明後日からはまた大阪やから材料を余すのなんか勿体無いやん。

今日渋谷に出る前に、だいたい家からは、まあ手段にもよるけど最速10分くらいで着くので、準備に追われながらまだいけるまだいけると引き伸ばしていたらば、結局遅れる。まあ少しであったけども。で、なんでか点けてたテレビの、あれはなんの番組かいな、ワイドショーの中のなんかかな、セレブのなんとか拝見みたいな番組で、支度しながらそのセレブの顔とインタビューを見てて、「今日のファッションのポイントは」とか、「この業界で一番顔が広くていらっしゃる」とか、「あんまりこういう言い方したくないけど、そうですね、これはほんの・・・・一部ですね」とか。そういうのをテレビに向かって誰かが真剣にやってるのをみてしんどくなった。そういうことをギャグとしてやってくれればいいのになあ。セレブなわたしを笑ってるわたしというかさ。ゆうても物やで?なんでそんなご満悦やねん。常に自分を笑ってる人がわたしは好き。人間の滑稽さを知ってる人しかいらんのよ。人間やからすることはそんなに違わんやん、まあ一緒でも、すべてが茶番であることを知ってるのと知らんのでは、人間の位がわたしにとってはめっぽう違う。笑いってそこよ。そこなのよ。笑いってほんっま大事やのよ。笑いだけが救いなのよ。笑いがないと恥ずかしくて死んでしまうのよ。その意味ではわたしだってヴォネガット信者やもしれん。お道化お道化で何十年。シリアスなんか、独りの時で、もう充分。
ド頭から真剣なのってどうよ。真剣なんがあかんのじゃなくって、痛い痛いねん。真剣さというか自分のやってることに酔いながら真剣さに浸かってる人って見てたらめっさわらけんねん。照れるねんなあ。なはんか。そしてそれを受けたスタジオの人も、「流行に左右されず、ご自身のポリシーをきちんと確立されているところが素晴らしいんですネ」とコメントしたりなんかして、へえ〜、と思うのと同時に大変な仕事やのお、と同情した。あ、でも好きなんかもしらんから同情は余計でしたか。

とまあ、今からトマトソースを作る。うまく出来るかなあ。

あ、そうや、先日、心斎橋のヴァージンメガストアでインストアで歌ったの、聴きにきてくれた人、ほんとにありがとう。通りすがりの人もありがとう。人もめっさ多いし蒸し暑くてぎゅうぎゅうとなってちょっと待たせたしおまけに歌も暑苦しいわで大丈夫でしたか。
サイン会も下まで並んでくれて本当にありがとうございました。

ほんでな!友達が聴きにきてくれてんけどな、あとからめっちゃ嬉しそうに電話があって、笑いすぎてちょっとまともに喋れてへんねん。
「ちょー。あんたやばいって(ゲラゲラ)あんた顔やばいって(ゲラゲラ)ちょっとマジ最後の曲な、ちょっと、あーかっこええなあ、なりふりかまわんとこう歌ってるのってなんか人の目とか気にせんとかっこええなあって思ってたんやんか(フーフー←落ちつけてる)そしたらな、もうな、なんか一瞬すんごい顔してな、もうすんごい角度でな、(ゲラゲラゲラゲラ)もうなんてゆうの、唇とかぶあつくて怖いってゆうかもうマイクとか食べる勢いでな、放送禁止の顔やねんって!あれ子供に見せたらあかんって(ゲラゲラ)やーあんたマジすごいわ、あーすごいあれはすごいほんますごい。あの顔は、ちょっとは可愛くとか、なんかそういうの気にしたほうがいいで、あーしんど、くるしー、まーとにかくよ、わかるー?はあはあお腹痛い、あははん、スタッフの人らもさ、な、一生懸命やってくれてんのにあの顔は、まずい、っていうか、はあはあ、あかんよあかんで、きいつけて、」プッ。←電話切る音

という勢いのある電話を頂いて、(わたし相槌しか打ってないしな)
顔のこといわれても。歌ってるときわからんやん。そら基本的には面白いやろ、人が真剣にやってるの黙って見てたら。しかも友達が。
でもすごい、違うところでめっさ楽しんでくれたみたいやからよかった。

投稿:by 未映子 01:00 AM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

2004.04.30

アイスクリーム戦争

特に、ということもなげに夕暮れ。
今日は午後、暖かく、淡く、人々の声が遠くから、
鯉のぼりがはためき、よちよち歩きの子供ら、犬、笑い声やなんや、
またまた公園を横切り、帰ってきたのよ。

今、散らかりすぎた机の上をちらちら見ながらキーボードを打ってます。
領収書、指輪、MD、えー、フェリア、これは頭痛薬、筆箱、これは高校生の頃から使ってるやつ、ほんで腕輪、扇子、ガラスのブローチ、花瓶、えー、鍵、手紙、書きかけの、でっかいハサミ、レースのお財布、紙いっぱい。チラシもいっぱい。毛皮族、電池、オノ・ヨーコ、のり、球体関節人形展の半券、そしてタイム・オブ・マイ・ライフのチラシとパンフレットが。

そうそう、これよかったわ。

先月の中頃行ったんですが、好みであった。
東京オペラシティでやってた、あ、まだやってるな、絵画展なんですけど、
難波田史男という画家がメイン。1974年に32歳で夭折した。彼の作品をそのギャラリーがようさん持ってるのな、それで没後30年記念の展覧会。彼以後の芸術家の作品がいっぱいあった。10人くらいかな。
「永遠の青春」がテーマ。なかなか見ごたえがありました。

難波田氏の絵は、初めて見たけれど、青春というよりは、子供。幼児性。
細い線で細かいこと描くねん。っていう箇所がある。
よくアウトサイダーアートとかいわれる人らが描く絵ってさ、なんてゆうか、特徴は様々あれど、細かいやん。細かく描くやん。描きたくなるんよ細かく。意図っていうんか、いわゆる客観が希薄で、あらゆる検証がなくてさ、強迫観念に描かされてる感あるやん。何がなんでも四角を描き続けるとかさ、いくらが絶対とか。つぶつぶか私かみたいな、そういう一心不乱型。

難波田氏の絵にも多分そういう性質が濃いから青春なんて微熱?な括りやねんやろうけど、
ところがばーんって結構でっかい絵が多くて、ってことは体力があるのよ。絵に。
つまりは表現の発信源に体力があるの。
そしてそれには空白が結構あるのな。
引いて見たときに、その空白がな、
色も淡いのやらしっかりしてるのやら色々のってて白い面は少ないねんけど、
空白がな、白いねん。ただぼんやり白いねんなあ。
それになんか泣けてきた。

それは、どうしようもないくらいに非力で、意志がなくて、ぼんやり、
いっつも待ってんの。さみしくてもさみしいって意味をまだ知らんの。
ただなんか胸がそわそわするの。言葉が十分じゃなくて、胸に、いっつも見たままが投影されてて、それの意味もわからんのよ。ぼんやりとしてて、いっつも待ってんねん。
いっつも待ってんねん、いっつも。
わたしが8歳か9歳ごろにみてた世界の印象が絵になって、
ここになんでかたくさんあって、いっぱいいっぱいあってな、
初めて、この絵がほしいなあって、思った。
近くにかけて、一緒に生活できたら、それはどんなになにか、
失ったもの、失ったものに、
もう一度さわれるかもしらんという、淡い、希望というか、あきらめが、
よぎったんでした。

ほんで難波田氏の絵を見てる間中ずっと、
小学生の時に学級文庫でみつけてずっと大好きやった「アイスクリーム戦争」っていう本を、話をずっと思い出してて、アイスクリーム戦争、アイスクリーム戦争って。
どきどきして、最後はシャーベットで勝つんな。

見てる間中、わたしはどこを切っても8歳、
蝉、ラジオ体操、キックベース、大人の不穏に紛れてうつむいて泣いたり、
捨てられた犬といつもどうしても離れがたくて、夕立はひとときの自由、
労働の匂いとおかあさんのつっかけ、罵声、喧騒、たまごやきの匂い。
ドラえもんの歌、玄関を叩く音、こわい、夜がくちを大きく開いて、
わたしは大切なランドセル、すみれ公園のくじらの中でこっそり文字を追って、
涙が出るほど鮮やかな、アイスクリーム戦争の中にいました。

そのほかは奥村雄樹氏という方。髪の毛、陰毛、唇の皮、爪、などで、オブジェを作ってた。オブジェってゆったら怒られるかな。嗜好とコンセプチュアルな品々。
例えば陰毛を透明のビーズに通してテーブルの上を敷き詰めたり、
唇の皮をはっつけてストローをコーティングしてたり。
陰毛というのは、これあんな大量の陰毛は、あんまし見れないね。
しかもビーズにとおった。ううむ。
嬉しくて嬉しくて文字とおり嬉々。そわそわしながらじっくりみたけど、
生理的に非常に近しいものを感じました。臍のうら、かゆかゆ。

もし興味沸いたならば行ってみてはどうでしょうか。
5月9日までですってよ。京王線の初台駅降りて、字が読めたら誰でも辿り着くことが
出来ます。


他人の実感に口を出すことは出来ない。
よって、比較することも原理的には不可能、なはずが。
問題は、実際には他人の実感は、自分の実感でしかないということ。

痛くもないけど、過ぎてゆくものばかりが美しいというこの世界にも、
もう、なんだか。
飽きるとか散々、などということではない、条理。

投稿:by 未映子 01:00 AM [文化・芸術] | 固定リンク | トラックバック

 


純粋悲性批判