2009.04.06
4月登場、そしてメールが使えなくなります
今日はお知らせがありまして、このサイトに長いあいだ設置していましたメール機能をいったんなくすことにしました。
今現在は基本的に新規のお仕事はすべてお断りせざるを得ない状況なのですが、それでもお返事を書くのにも毎日けっこうな時間がかかり、どうしたものかー、と考えていましたが、そっかーと言いながらもっとも根本的な解決方法をとりました。
小説は数年先までやらなければならないことがすでに決まってる状態で、のっぴきならない連絡などございましたら他の作家のように各版元経由で連絡いただけるだろうし、そういうわけで、仕事上は特になくても困らないのではないのか、と思うに至った次第です。というわけで、これまでのメールアドレスは存在しなくなって届かなくなりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
とはいえ、仕事だけではなくて、みなさんからのメッセージの受信も大きな目的のひとつだったのですが、なんというかどんどんと状況が変ってしまい、数年前まではいただいたメールをしっかり読んで、お返事書いたりもできたのですが。ライ麦のホールデンくんは「読み終わったあとに本人にちょっと電話したくなるような」といい本について書いていたと思いますし、わたしもその意見にはまったく賛同するのですが、そうやっていただくたくさんのメール、分量的にも、そういうわけにもいかなくなってのことでもあります。もらったまま返事も出さないでいるのはけっこう気になる性分なのです。
ブログをはじめてからこれまでたくさんのみなさまにメッセージをいただきました。色々なメールがあって、勇気づけられることしきり、とてもとても感謝しています。本当にありがとうございました。(そして先月末の尾崎シンポジウムのご感想もたくさんいただきました。そして先日の日記の内容にかんしていくつかご質問ありましたが、文学党員のタイトル表記は「第七」と「官界彷徨」のあいだにスペースが空いてあったということです。わかりにくくてごめんなさい!)
また、今後とものっぴきならないお手紙などがありましたら、本を出してくださっている版元さんにお送りいただければ幸いです。
これまで本当にありがとうございました!
投稿:by 未映子 11:20 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2008.07.16
体記念日
あのね、あれやね、頭はあかんね、体やね、やっぱ体、なんつっても体、体ですやね、っていうか、最近まじな割合で具合が悪い。初夏の頃、頭ではいくら(もうすぐ書き始めーどうしようかなーん)とか考えてても、心配はあるけれど底の底ではまだ余裕っていうかなんていうか、まだポップな雰囲気な領域があったけどこの数日のわたしはどうか。まじで具合悪く、何をやっていても暗い、冴えない、動けない。頭なんかではなく体が執筆の危機を察知しているのである。自分に嘘はつけないのだよ。学生の頃から「自分に嘘をついてまで、ほにゃらら」という言葉から始まる合言葉のようなものがあったけれど、嘘ていうのは本当のことを知ってての嘘やゆえに自分に嘘なんかどうやったってつけるわけないやろーとか思ってたが、ほんまやで。ある種の真実というのは嘘をつくつかん関係なく体がキャッチするもんであって、まあとにかく具合が悪いの。ああ。毎晩厭な夢を見るので、たまらない。字の練習してると少しだけ心にすいっと風のようなものが。
そしていわゆる現実逃避で戸棚にあるお皿など並びかえたりしてみた。全部白くてあんま意味なかった。んで本がどんどこ増えるので、書斎にはもう本人の居場所がないので、しかも読んでない本が増えてゆくのはなんとも居心地悪く、そわそわするもので、えらいことです。色々をなんとかのけようとしてみたけれど、これも撃沈。だって分類したとえその果ての場所がそもそもないのだもの。なむなむ。明後日はライブ。お待ちしております。体です、体。

投稿:by 未映子 11:28 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2007.11.05
肌、髪、頭蓋
このあいだミガンにメお化粧をしてもらったときに、すごく肌がきれいに見えたので、どこのや、と聞くとエクスボーテのだということで、しっとりのほうな、昨日はうかうかぶらりんと買いに行った。わたしは化粧品が色がパッケージが基本的にとても見るのも触るのも好きなので、何時間でも百貨店一階にいることが出来るがこの場合の時間と出費はおそろしいまでに正比例するのだから、こんな恐ろしいこともなく、財布が死にそうになるのであって大変だ。買おうと思ってるので、番号を教えてね、とゆやミガンは「お前にはふたつの色を同量混ぜ合わせてつかってるので、どちらかということはむずかしい。両方お買いなさい」というので、しかたなく両方買った。うーむ。今まで気に入って使ってたファンデーションはリキッドはRMK、デコルテ
の「美容液に色がついたのです」といわれるまでの使い心地のミリオリティ、んでパウダーはアルビオンのエクサージュ・シフォン、などなどで、どれも不満はないのだけれど、分泌異常?といわれるほどテカルわたしはやっぱ崩れは宿命であって、しかしなんかこないだは肌の感じが長時間にわたり底力的に違ったので、へへ、さっそく、といいながらエクスボーテを使ってみても、ミガンがしてくれたような感じにならない。やっぱ技術というものは目に見えるのであるのな。
基礎化粧品はデコルテのミルクからのやつを使っていたけど、最近は皮膚科のおすすめのデルファーマというところの化粧水を使ってこれがものすごく保湿力高くいつまでも湿ってる。なので乳液はつかわず(というかわたし基本的に乳液使わぬなあ)それだけでこの夏を過ごしたが、秋冬はそうも云ってられんので、オバジをラインでそろえることにして、ちょっと成分的にきついのでないかと思える夜もがんばろうと思う。わたしは髪の毛や皮膚といったものがとても好き、もう愛しているのでなので、そういったものの全体というよりは細部の管理をするのが大好きなのだ。追うことが連れてくる恍惚。今日はひさびさにヨガに出かけたが、湯船の中でたいそう美しい頭蓋を持った老婆がいて、見つめれば十何分間かの至福。うっとりとして誰もが髪と皮膚のしたにひとつの頭蓋を所持。ひとつひとつの角度がそこに。興奮する。こないだものすごい絶壁の角度をもつ友達の髪をみちみちに編み込んだりしていたら、ものすごいいびつな角度がそこにあるので、ありすぎるので、そのすごい角度を触ってると見ているとたまらなく興奮して、自分の膨大な鼻息にはっと我に返る。友達も鼻息がすごくこわかったらしい。
投稿:by 未映子 06:04 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2007.05.29
わかり易くってヨガ
月末にモロモロが近づいてくると逃避だなあこら。そんな逃避のおかげで部屋がどんどんと奇麗になってゆく。料理とかしてよ。まあそんな感じで今日は寒くもなくいい調子なんでないの。
最近わたし、ずっとヨガをしてるのだが、ヨガへの知識はほとんどゼロで、ただいわれたことをこなしてゆく、というところからはじめて3ヶ月ぐらいが経過してるのやが、あれはなんというか、すっげい相性がよくって、その気分というか精神というか、いわゆる見えない部と、あと体などなど見える部への、あまりの影響力のでっかさに、回を重ねるごとにびびる始末であります。うーむ。なんかわたしは単に最初、体を動かす、ストレッチですね的な気分ではじめたのですが、うーむ。それだけではなかった。
色々なポーズをキメてって、んでヨガのいちばん最後にある、屍のポーズ、的な、脱力のコーナーがあるのだが、あそこで感じるあの体験の質についてはなんもうまく書かれへんような気がする体験。…万能感、全能感、はたまた虚無感…、自分の知ってる感覚のなにもかもがどっと押し寄せそれらにがっと去られてしまう、でもなんか満ち満ちしてて暖かく…、ああ、みたいな、っていうような、ま、なんと説明してよいのかわからないが、ま、そういう満たされつつしゃきっとする感じなのである。いわゆる酩酊状態に陥ってるわけではなくて、見える部とみえない部の両者ばりばりに覚醒しまくりの状態で、最初のほうは気持ちが良くてすごく眠くなったのだが、それはヨガとしてはあかんらしい。目をちゃんとあけていっこいっこポーズをとって行くのだが、それに慣れてくるとなんかどこまでも走り出せそうな力が阿呆みたいにみなぎってくるのである。もともとわたしは、たとえば肩こりでどうしようもなくなったりすると、実際にマッサージへいくんじゃなくて、寝転んで骨から患部の肉をはがすところ、丁寧な解体をイメージして、んで硬くなったところを丁寧にもみほぐして、んでまたもとに組み積みあげてゆく、ってなイメトレをするのであったが、それで肩こりが治ってしまうこともあるのだった。そんなわかりやすい影響されやすさに至ってはヨガはけっこう素敵に反応するんであった。こないだは偶然ついてたテレビの中で誰かが誰かに催眠術にかけるのやが、わたしはソファのうえでそれにかかってしまった。
でもなにが素敵かっていうと、たとえば瞑想のポーズなんかのときに、先生もイメトレ風なことをいうわけよ、手のひらからー、要らないものがー、あふれ出てー、体がすっかりー、軽くなりますー、とかゆっくり云ってくれるのだが、気分的にはそれを聞きながらも、(あーもーおわるー、今から何食べよっかなー、)とか、普通に意識的に考えていたりするのに、ある瞬間に!ある瞬間によ、なんかがポチっと押されて、
この体に、本当の偶然によって、なんでか満ち満ちとみなぎってる(ように思える)精神と肉体とのこの爆発的に不可思議な<一致>、もしくは<結ぼれ>に、もしくは<わたくし率が百パーセント>状態を、経験しているこの<何かしら>に、──ま、いわゆるインスピレイションなあれなのですが、あおれにですね、はっと集中させられて、ああ…、ああ…、とかなっちゃって、とめどもなく涙が出てしまったりもするのである。うーむ。難儀といえばこれ以上難儀な客も自分もないのやけども、でも一瞬間まえまで自分でも予測してなかったことが自身に起る驚きと面白さは、本当になんかに支配されてるのを目の当たりにするというか思い知らされるというか、面白く不意打ちな感じでいいよ。
ヨガでなくても生理関係では毎月、<ああ、なんやかんやゆうてもわたしは今、ホルモンの奴隷…>、などと実感、思ったりもするのやが、ま、短い時間に常々コントロールできぬことが多々起るヨガというのは面白くって、あれをすっごい閉ざされた空間で、それも団体で、それが生活の中枢にあって、ってなっていわゆる宗教とコミットしたらばそらあなた効果は絶大、いわずもがな、そら宙にも浮くんでないの、というようなもんである。大変なことよ。しかしなんでも相性ゆえ、ヨガが面白くない人もたくさんおるとは思うけれど、ま、今のところ、わたしはすごく気に入ってる最近。
んでヨガをする人のことをなんというかとゆうたらヨギーニ、というらしくって、ヨギーニ。ヨギーニか。ほかになんかいいのないの、って数分間考えても、ヨガーラ。いまいち。ヨッガーラ。あかん。ヨガンボ。ヨギスト。ヨガエラ。ヨガコ。って、ヨギーニがいいのかなやっぱ。
投稿:by 未映子 12:56 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2007.04.03
肝臓洗浄らしい
そんなこってで、慣れない長い原稿書きと色々がもつれ込んだ三月は、起きていて文章以外のことをしてても結局文章のことしか考えられないのだからこれは相当しんどくて、歯のお話であったから、歯を磨くのも歯にかかわるのも書いてるとき以外はごめんこうむりたい気持ちになって、起きてるとき以外は<完全に>眠っていたいと、こう考えて、二月三月と毎日毎日、阿呆やとは思うが、睡眠薬をかなり飲む始末となって、結局、睡眠は十分すぎるほどにとっておるのだが、半分死んでるみたいな毎週でありました。で、一応原稿もひと段落してみると、睡眠薬にも色々あるけれど、なんか肌がありえぬほどに荒れておって、吹き出物の場所などとてもメッセージ性が強いもんであって、デトックスっていうのはこれまで考えたことがあんまりなかったけど、あまりに面白そうなのを見つけたので今週のどっかで一日見つけてやってみようと思ってます。肝臓洗浄というのらしい。
だいたい私はそんなにお酒も飲まないし、油っこいものもそんなに食べへんし、血液検査での数値もすべて正常値やからあんまり食いつくこともないと思うけれど、そもそもにおいて体から出てくるものには目がないのやから、これは私にとっては垂涎ものであって、完全にそっち狙いである。ほんまにこんなんが出てきたらどうしたらええんやろうか。しかし胆石がこんな簡単に出てくるものなのであろうか…。しかし胆石が排出されるときに痛むのは尿道だけであって、なのでこれはありえるぜ!とか、これは単にオリーブ油と塩が固まったもんに過ぎないという意見もあったりしてもういろいろ情報が錯綜していて、いや、出てきた石を研究機関に回したらばれっきとしたコレステロール物質であった!とかね、も、いろいろ。
ゆえに真偽のほど、成果のほどはまだ私にはわからないけれども、ま、やってみたらまた報告します。
投稿:by 未映子 02:36 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.11.12
処方箋がもらえぬ秋
コンタクトレンズ、私は乱視入りのやつでソフトで2ウィークを使ってるのですが、なんか処方箋のあれこれが改正されたらしく、コンタクトを購入するたびに処方箋が要るのらしい。有効期間が短いのらしい。まったき面倒。処方箋ないとコンタクトは売れませんからねっつってなことでコンタクト屋が指定した眼科にふらふらと行くが、公に指定されているにもかかわらずその眼科は「あそこのコンタクト屋で買うんなら処方箋は出せません」的な回答をするわけであって、えっと、前もこちらでコンタクト用の処方箋出してもらったし、私は先日コンタクト屋にここやゆわれてはるばる来たんやけどもね、と唸る私に「無理ですので」の一点張り、それならばいますぐコンタクト屋に電話して確認してくださいというと、「そのコンタクト屋の電話番号は<もう>知りません」ってな始末。そのとき私も携帯電話持ってない始末。そういうことであって翻弄。あのなあ、その、なんつうの、どんな個人的な経緯があるのかは知らぬが、そういう基本的な連携がなぜこのようにおろそかになるのだか。ちょっと押したら引くかな、っての、だいたい判るもんやけども、そこの眼科のナースらは全員がこの問題に関して何故かどっぷりと眼が据わってて、きっとこれは無理であろうの直観、仕方ないからずるずるとコンタクト屋に行ってあそこの眼科でこのように云われたがどうなっておるの、と訊くも「えッ!あそこまたそんなこと云ってるんですかッ!また昨日と違うこと云って!キー!もう我慢ならない!無茶苦茶すぎるッ!」とか云うてもて店員が興奮して悔し泣きする始末。カスタマーである私がなぜか初めて会う店員を慰め、そしてそこからしばらく、くだんの眼科とコンタクト屋の営利・人情をめぐる数年にわたる因果について話を聞くこと20分。や、話もいいけれども、知ってると思うけど、私はね、コンタクトレンズが欲しいだけなの。よー。
投稿:by 未映子 07:53 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.11.07
3分の1が既に食われて、も、どないすんねんな
下半身を中心として全身にまったく痒くないぶつぶつが、そら鬼のように、も、ひとり草間ヤヨイのように、できたので、恐れおののき、病院にいくと、毛虫ですねー、といわれ、今、毛虫によるアレルギー反応が大流行らしいから皆さんも気をつけて、や、私はといえば毛虫になんか刺されてないのやが、毛虫なんて見てないのやが、その診断を受けとめるも、なんかやっぱちゃうんやね?と思ってさらに翌日病院へ。そしたら、あの例の、みんなを、皇室を、歴史を悩ませる「帯状疱疹」というのは、通常、体の片一方に出来るのだが、それとよく似た原因・代物で、疾患、今、私の体は包まれていて、結局毛虫ではなくって、もしかしたらみずぼうそうかもしれない、みずぼうそう、目下検査中なのであって、お尻にもう、すごく熟れ熟れのぶつぶつで、トイレの便座には手をクッションにして不均衡のまま用を足し、寝るときはうつ伏せ、も、痛い痛いんである。パンツはくのもゴムんとこが痛い痛い。というわけで、これでは新幹線は無理なんであって、こないだは私は東京、桑名氏は大阪から、二元中継で生放送をしたわけですが、この方法で出来るなら来週、いや、最初からこの方法で…と思わず突っ込みたくなったがしかし、小学生の頃、姉がみずぼうそうになったとき、お前もなってしまいなさいと云われて、同じ布団でくっついて寝たりしたのだが、まったくならずに、ついにここまで来てしまったのであって、普通みずぼうそうというのは高熱でうんうんなるんとちゃうのん、と思う人も多かろうが、微熱のみずぼうそうもあるんやって、私はもしかするとみずぼうそうかもしれぬし、そうでないのかもしれぬ、つうかどっちでもええけれどもビジュアルがね、きついわ、とか書きながら、この文章は三日に渡って書いてるのですが、もう治ってきた。
用あって手紙を書くが、理想の手紙があるわけよ、ささやかなりにも手紙のイデアがあるわけよ、それがどうしても、なんかこう、つうかこう、うまく書けないのが10分ほど続き、紙の大いなる無駄にキイッとなって、なんだかもうなんだかも、部屋も散らかってるしなんかくちゃくちゃやし、机の上なんか、も、本と本の間になんでか数珠が挟まってるし知らん番号あるし百円あるし耳掻き、試供品あるしお守りあるし紙だらけで、も、なんか滅入るし滅入るで滅入るわ。
早川さんの「人生は工事中」ライブイベントも薔薇薔薇チケットも、用意している分はすべて売り切れた状態でよかったけれど、11月も3分の1が何者かによってぱくっと喰われてしまった、今朝は、眼が覚めたあと夢でマジでよかった、という悪夢を久しぶりに見て、父が崖のところで犬がらみで惨殺されつつ、姉に嫌疑がかかってさくっと死刑になり、母親が妊娠する夢で死んだはずの父親がそれを知って逆上、と思いきや思い切り冷静で、という、こんな粗筋よりも細部がとても恐ろしかった。夢の中でベンツを運転した。
投稿:by 未映子 04:06 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.10.21
性のデベロッパーはおりますか
風邪のひき始めっぽくて、くしゃみばっかりしているのですが、そうや、うがいしてなかったなあとか思いながら数日過ごしているけれど、一向にくしゃみがとまらないのであって、これはもしや花粉症かと疑うけれど、花粉症っていうのは鼻水が止まらんのやってから、水は出ないので、これはきっと風邪グループでしょう。久しぶりに電車に乗ったら週刊誌の中吊りに「女の子は実はイってないのだ」的な堂々たる見出しがあって、なんで今更こんなこと、と思うも、しっかし男の人っていうのはなんでか女性が「いったかいってないか」かが何かの致命的な目安になるというか、たとえば内田春菊もそのあたりをしつこくしつこくいつまでも描いているわけですが、ちょっとそこに集中しすぎる嫌いがあるのは誰のせいなのだろうか。そんな毎回毎回いかなくっても、或いは、いかせなくっても、も、いいじゃないか。とか最近私なんかは思うわけなのですが、どうなんだろうか。若いときは相手の満足度が気になって仕方がないとかいうけれど、若い人に限ったことでもなさそうやし、や、若い男の子だからこそ、あんまそういう所でがつがつせぬほうが素敵だと思うのだけれどもなあ。
そんなことをいいながら、私の女性の知人なんかは、自分がいかずに先に相手がいってしまった時、そのあとのフォーローというか「ごめんね」的なもの、「ふがいないっす」的なもの、それらマジの反省がないと「お前、マジでなめんなよ」と心の底から思うらしい。本気で憤るらしい。ここで我慢をせんと何処で我慢をするんのや。ここでなくして性交における男の価値がいったい何処にあるのんや。とまで断言するわけで、ま、そういうことを考えると「相手をいかす」ということに一所懸命、躍起にならざるをえぬよというのもわかりますが、それは特に男性だけに限ったことじゃなくって、女の子であっても「口でいかせられない」というのは結構プライドが許さぬものらしく、ああ、こうなればもう、いったりいかせたりをめぐる攻防の数々、我々はぴょこんと凸と凹でいったいほんまのところ何を繰り広げているんであろうか、何が何に対して何をしようとしているのか、とにかく抱き合ってるだけでも気持ちがいいという相手だっているのだから、やんぬるかな、相性って大事だね。ってやんぬるかなって合ってる?使い方。
ま、女性のいわゆる「イキ」には数種類があるのだけれど、いわゆる大人の女の証であって、いわゆるイキの大本命といわれている「単体・中いき」(なかなか面白かったので男子も女子もお手すきに読んでみてはいかが。回答者のトキメキ至上主義に好感が持てるぜ)の形容は数多あれど、こないだ雑誌をちらっとみれば「…うーん、全身でくしゃみをする感じ?」とあるのだがそれはちょっとかわいすぎるんではないの。くしゃみって。とはいえ「ベッドに体がのめりこんで頭の中が真っ白になる」とか「全身が痺れて歯の根が合わない」とかはもうなんていうか「汽車も電車もみな止めてえ」的な強烈な哀愁熟女場末感、なんか見てはいけないものの域に入っていると感じるわけで、なんつうの、なんかこう、イカした形容詞がここらで欲しいところではあるよね。ここらで形容詞、デベロップしようぜ、ってそういえばこのブログには毎日必ず数人が何故か「デベロップ・セックス」で検索してきてくれるのですが、デベロップってセックスに対してデベロップっていうのは一体、具体的に何をお探しなんでしょうか真意は図りかねますが、今のところセックスに関してはこのサイトにおいては多分きっとデベロップは出来ていないと思われますのでお許しいただきたいですけれども、デベロップ、なんかこう、とにかくこう、眼の覚めるようなもんのすんごい性交を!というまぶしい気持ちはまぶしいし、日々の糧であるのだし、何かと大切であるし、やはり女子などは、やんぬるかな、ホルモンの都合により、美しくもなるわけであって、阿呆らしいとはゆうてもテレビの視聴率の1%が百万人に値するといわれるように、一回の充実した性交は3万円の美容クリームを2ヶ月せっせせっせと塗り込むよりも効果的であるというわけで、私も随所、見習わせていただく所存であります、そういえば、くしゃみがむずむずしている時は太陽でも電球でも光を見ると出るのやよ。
投稿:by 未映子 01:45 AM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.09.28
活字の秋、楽隊の冬、革命の眼球。
ひたすらに活字になった紙を点検してゆくそんな部屋。こんな指先。いわゆるゲラチェックというヤツであるけれども、そんな日々であります。幾つかの文章を平行作業でやってますのやが、来年は色々まとまらせる予定、目指して頑張ってます。頑張ってる、や、頑張りがまだまだ足りない気が多分にするけれども、ひとつめは秋も深まる頃に単行本としてお届けできそうであります。詳細決まりましたらここで早速お知らせいたしますので、もう少々お待ち下さいね。12月にはライブもします。新曲もやります。場所は渋谷クラブクアトロ、演奏はCOTUCOTU、清水一登。対バンも決まっている方々、早く名前書きたいが、しばし待たれよ、存在トキメクとても刺激的なメンツで物凄く楽しみだ。こちらも詳細出ましたら早速お知らせしますので少々お待ち下さい。でもスケジュール表をご確認のうえ、是が非でも、12月15日はもう今から今から今から空けておいてくださいね。何卒よろしくお願いいたします。
ところで眼の話。知人が軒並みレーシックを受けているので私も本当に迷っている。厚底眼鏡から丸腰で視力1.5への飛躍。レーザーでちょいっとな。私の心が動いている。裸眼の私は0.03と何も見えないのです。しかし遠くはもとより何であっても近づかないと見えないということ、陸に入て水中で生活しているような裸眼の世界もなかなか趣きもあるわけで、重ねてしかし何かに確実に依存している状況というのも、なんだかなあである。阪神大震災で視力の弱い人は本当に大変な目に遭ったらしい。眼鏡もコンタクトも爆震のまえに飛び散って、裸眼勝負では本当に何も見えないのだそうで、世界はそのままあるだろうけれど、社会からは浮き足立つね。レーシック、今はお値段19万とかで20分とかで終わるらしい。眼科医の友人に詳しく尋ねてみますよ。
投稿:by 未映子 01:58 PM [心と体, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック
2006.09.07
85年目の耳の中
体から出るものが好きだといい続けて数十年、耳掃除というのも、なかなかオツな邂逅場ではあります。最近私は黒い綿棒を使っていて、風呂上りに差し込んでくるっとまわすと結構汚れてんのよな。気持ちいいぜ。祖母の光子は今年85歳で、生きてるだけでそれが価値というわけでもなく、老醜などという言葉もあるし、老人にも色々あると思うが、幸いというかなんというか光子は私が今まで見てきた光子のなかでも今がとても輝いており、可愛らしく、そう、文字通り肌なんかもつるりと輝いており、よく食べよく笑い、長生きもいいではないの、と思わずにはいられない最近である。子どもとも女とも区別がつかぬ老少女、体も意識も、俗世から違う界隈へいよいよ近づこうとしているその様がなんだかいわゆる「頭の中の汚れ」からだんだん遠のいていくようで、見ていて無性に嬉しい気持ちになる。それぞれの残りの時間の重なる部分を悔いなく過ごしたい気持ちでいっぱいになる。輝きとゆうてももちろん神々しさとかの輝きなどは皆無で、単なるそこらの老人なんであるが、私にとっては「人の老いていく過程」を初めて長時間かけて丁寧に見れた唯一の例であるから、85歳は感慨も深い。まあ私も確実に老いているのだけれども自分の老いというのはなかなかね。わからんもんよな。自分に関しては老いより先に突きつけられるもんが多々とあるしな。まあ細胞は7年間で完全に入れ替わる、とかなんとかゆうてもそれは確実に老いへ傾くんであって、生成の境目はどこかしらね。同じひとつの変わらぬ意識の「自分」で繋がってるように見えるこの「体」のどんどん変わっていくわけで、自分のものがこんなに融通つかぬのなら、これはやっぱりこの世での借り物ですなと云いたくもなるよね。増えてゆく皺、たるむ頬、小さくなる体。曲がる背骨。生きてるってどういうことなのかなあ、何のために?という問いは捨てたはずの我々も、それでも得たいの知れぬ生のなかにただいまこうしている、ということはまだ実感として残っているわけで。いよいよ色んなことがわからなくなりますね。
んでそんな私の祖母は自分でもう耳掃除をしません。でもって、私の姉の佐知子が、耳掃除が好きで好きで仕方ないので、1ヶ月に一度、光子の耳を掃除しに実家に出かけるのです。んで、もう外にも出ないし代謝もそんなに激しくないはずなのに、光子の耳にはなぜかいつも耳垢で埋っているという驚きがあるのですが、この度は、この耳掃除の一連で、鬼スゴイのが出ました。でもって私はこれを写真に収め、私の携帯には画像をズームさせる機能があるのですが、それで見てると、なんていうか耳の中の壁の模様までがその耳垢に反映しており、これを見せた人からは漏れなく感嘆の声を頂いております。でもこんなのうっかり見せられた日にゃというご意見もあると思いますので見たい人だけ見てチョ。私はこういうの見るとマジで興奮して何分でも見てしまう。うーむ。どうこれ。どうよこれよ。この耳垢。どう思う。けれども一応、一応、グロ注意ということで、心してみてくださいね。よろしくお願いいたします。
けれども85年目の耳の奥から取り出されたる生まれたての羽の化石のような瞬き。これけっこう私のお宝画像なの。
投稿:by 未映子 12:24 AM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.08.07
そうよいつもの睡眠不足、頭がほてってくるんだよ
先日の桑名さんの誕生日パーティーからまえとこっち、睡眠が上手くコントロールできてなくて、大阪に行くまでにしなならんこともようさんあって、んで約40時間ぶりに!飛び込め!ピュールのベッドに!もう寝ちまうだけなのよ、信じられるかこのハッピー!徹夜はきつい、も、マジでキツイことの側にいってしまった。寝てないと体温のコントロールがむちゃくちゃになってなんかヘンな部位部位が熱を持って気の悪い発汗。でもここで寝ネイことには明日はもいっと悲惨なことになるからとりあえずこの気持ちを何故か日記に、って眠薬を飲んだはいいが頭以外のところにききすぎててキーが打てん!こりゃあやばい、はよ寝ます、ぐー、
投稿:by 未映子 09:59 AM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.07.21
コーヒーを殺す
コーヒーを飲むと気がおかしくなってくるというのは常に人にあるところでいわゆる体質というもので、私も漏れずそうである。カカオ?だってカフェインは紅茶のほうがキツいもんね。それに加えて緑茶も危険。カテキン?まあそういう対物質弱点というものはあるのであって仕方ないわね。昨日は打ち合わせで神保町へ行き、そのまえにもっていかなならん紙がプリンタにつまって狼狽する。かろうじて見えていた紙の端もひっぱっていたらぶっとちぎれて紙は内臓にすっぽり入ってしまった形で一文字だけみえる詩の文字が押しつぶされているのを見て倒れそうになり怒りが猛然とたつまきプリンタをがたがたいわすもわたしは狼狽してもう駄目なんじゃないかと思う。ふためきながら近所に住むミガンに電話してリードしてもらいながらデータをメールで送ってそれをそっちでプリントアウトすることにして風のように自転車で発進。今詩の一文字がまるでサンシャインローラーの餌食になってると訴えると「泣かんとはよ来いや。んなもん新しい紙で出したるから」という神託に紙パニックはふうふうおさまったものの、こんなんでパニックになってるようでは自動車免許はとれないね、ミガンとこ行きしなにも女子にばんとぶつかってしまったし、とても凶悪な顔をして走っていることだろうから、交通にとってはよくないのだった。打ちあわせで飲んだコーヒーの成分がその後わたしを神保町〜渋谷区間で爆発させるので次の待ち合わせの喫茶店ではコーヒーをオレンジジュースで殺す。
投稿:by 未映子 03:59 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.07.17
二曜日を噛む
今日は稽古に出かけるも、乗り継ぎでやられそうになる、神保町で三田線に乗り換えるのだったが、なんていうの、
駅のホームにある出口もろもろの案内板をどんだけ見ても、位置関係っていうか構図っていうかなんていうかそれがを見て何を知ればよいのか皆目見当がつかぬわけで、見当がつかん。と独りでゆうてみても見当がどこかからわたしを迎えに来てくれるわけでもなく、やっぱりしばらく理解が出来ずに急激に困って困ったついでに私今日はもう無理かもな、と思った。ホームのとこにはミーシャという歌手の物まねをして笑いのあまり悶絶し合ってる素朴な女子高生4人組がいて、彼女らはヨーエヴィシーンヨーエヴィシーンを手を広げて繰り返し歌っい合っていてコミュニケーションは完全に断絶されているのにもかかわらず、4人は輪になって歌いあい受けあいまくっていて、雪がこー、雪がこー、ぶわってきてそこんとこでそれでッ!とかいいながら大変興奮した様子で何が面白いのかこちらもさっぱり理解できず、私は、見当もつかぬ。に両方から挟まれた形で、誰かが真似するごとに残りの女子が転がるように笑い死にしそうなのを、パニックを噛み飲み下しながら見ていた。昨日あまりの孤独に孤独死しそうだったので「日本沈没」を寝巻きのまま六本木ヒルズに観に行く。時々さみしすぎてCG技術を大画面で観たくなる瞬間っていうのが誰にでもあるだろ?だろ?こんな時間にしかもこんなリメイク映画、誰もおらんだろう、くへっへなどと何となく思っていたのだったがまるでヒルズはカーニバル。何の騒ぎ。満席。ここはどこ。踊り出すのか出さないのかはっきりしてもらいたい。みなさんもう真夜中なのに溌剌しすぎ。えー。結局CG場面少なくて大いにちっちっ。内容については私は何も語るまい。映画というよりはあれは金儲けなのだから。帰りはもっと孤独。詩を書いて朝方寝る。稽古の帰りは乗換がもはやおそろしかったのでJRの駅まで歩いて帰るというメムバーに便乗した。実は涙が出るほど安心した。
投稿:by 未映子 01:59 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.06.19
黄金の雨の中おしっこを漏らす大人
無事無事パソコンの中のメール部も送信出来るようになり、束の間の晴れ、私はジャッキーチェンについて考える。
考えるというより思い出す。というより私はジャッキーチェンの映画が苦手で、最近の映画ではもちろんなくて、ようわからんがジャッキーの古い映画で、全体にこう、茶色っぽいやつで、銀王とかが出てくるやつ、あれが苦手で、なんで私はジャッキーにまつわることが苦手なのかをなんとなく思い出す。それは両親における「戦い」がおおきく関係しているのであった。
私の母親は若くで子どもをぽんぽんぽんと3人生んで、母親が私の年のころには私は7歳と8歳の間であって、子持ちにしてみりゃ若いのである。母は若かったのである。
んで両親はべらぼうに何の因果で何の遺伝かというほど血の気の多い夫婦だったわけで、今をときめくDVどころか、夫婦喧嘩というレベルをはるかに超えた壮絶な戦いをもって生活の機微の解決の手段としていた。
話し合いは戦いになり、戦いは次の戦いを連れてきた。
そんな戦いを幼少の頃から私は毎日のように近場で見てきたわけで、その戦いが子ども心にすごかったわけで。
たまに遊びに行くよそのご両親立ち振る舞いなどは、信じられないくらいにジェントルマンで、私の先天的なアイデンティティはそのたびにぐらぐらに揺れたもんよ。これがおなじ親という名を冠せられた人間なのか…、私は困惑、この人種の事実の、極度の落差はなんであろうか。よその家の事情はまるでおとぎ話であった。ケーキかウエハースとかで家が出来てるようであった。
それに比べてのこの私の一切のなんやかやよ、お願い!すべてなにかの間違いであってほしいとよく思ってたもんよ。
戦いはいつも壮絶で、とりわけ記憶にそのビジュアルがはっきりと焼きついているのがふたつある。実はみっつだが、その頂点に立つベスト・バイオレンス・ビジュアルは思い出そうとすると私がうっかりフと死にたくなってしまうので、わりかしマイルドな記憶をご紹介。
どこかの店でド派手に口論になったあと、人前でドラを打ち続けるかのごとく怒声を浴び、ねじ伏せられ、キャンといわされた母親が、店を出てもなおぶつぶつと悪態をつきながら階段を降りようとした父親を、背後から蹴りで突き落として、いや、文字どおり、蹴り転がし落としたのだった。死ぬで。私はすでにそのとき階下にいて、ものすごい音とともに転がってきた父親にもぎょっとしたが、落ちてきた巨大な父親は(背が186センチもあるのだった)動かず、何が起こったかと恐る恐る上方を見やると、はるか頭上で狂ったようにききききーと高笑いしている母親が仁王立ちをしているのが見えた。なんか黒いシルエットとして見えた。それを見たときの、あのなんともいえない、ほんとうになんともいえないあの気持ち、なんてゆうか、あれはなかなか忘れられない光景で、出てきた近所のおっちゃんやらおばちゃんが私の肩を抱いて「おとうちゃんら、すごいなー」と慰めなのかなんなのかわからないことを口にしたのも忘れがたいのであった。
そのあとの応酬の場は近所の空き地に移り、あの頃はちょっと歩けば空き地があったもんよ、思う存分双方が殴り殴られ、散り散られを激しく繰り返したあと、父親のなんかがいい角度でスコンと決まったかなんかして母親がゴンっとおとを立てて倒れたわけだ。私は、あ!と思って、やば、と思ったわけで。駆け寄るにも戦いに口を出すと私がまずボコボコにしばかれるというのはもう体に染み付いた掟であって、遠巻きにはらはらしたりしておった。でもやっぱ私は母親シンパで、かくなる上は私が母親の仇をば…とまるで今から焼身自殺します的な気持ちで握りこぶしをにぎにぎ、モチベーションをあげあげにしてたわけで、おまけに母親が転んだちょうど頭の部分にごっつい石があって、頭がぱっくり割れたんであろう、見る見るうちに黒く地面に血が広がって、雨がそれを薄めて、マーブルになってって、流れて、タプタプ、…すげえ、これはマジで大変なことに…ちょっとこわいかも…と私はうろたえたわけだ。
そしてピクリともせん母親をみて父親もびびったか何かして、そろそろーと近づいていって「おい、」とか声をかけたそのとき、母親は手近にあった角材のような棒状のものを思いっきりフルスイング、思いっきりの人生渾身のフルスイングは低空で見事な弧を描き、決まったわけで…、父親の脛を砕いたわけで…。
その夕方はきらきらと晴れてるなかに金色の糸のような雨が降ってて、なんつうかシュールで、水たまりとかもあってさ、何もかもがちょっぴりスロウリーな魔法にかかってて、雨の一粒一粒が私に慰めの笑いを投げかけてるようであったよ。そのドリーミーな空間の中でスロウリーに、でもほんまは激しく本気で戦ってるのが実の親であって。見ているのが実のおさな子であって。
膝か脛かをやられた父親はうずくまって声にならない。雨の音だけが連弾。勝利した母親はさっと立ち上がり、泥水まみれで「みえちゃん、行くで」と宣言し、その時分の母親は黒髪が長く腰辺りまであったのだが、その大部分が顔に逆巻いて貼りついていたのを覚えている。
そして頭から顔から血を垂らしながら、けけけけけと高笑いする母親と手をつないで雨の中、家に戻ったのもわすれられない思い出。
とはゆうても戦いにはやっぱ男の父親が勝つわけであって、女の母親はたいがい負けるのであって、母親が負けたそんな夜には、決まって母親は音を消してゆで卵を顔の腫れた部分にあてがって(熱をとってたんやと思う…)ごろごろ卵を転がしながら、ひとり孤独にジャッキー・チェンのビデオを観ていたのである。
無言で食い入るように、狭い部屋の中、女子柔道決勝を控えた選手のような面持ちで、父親と他の子どものいびきが響く中、ジャッキーがありえない修行してありえない成長をとげてありえない技を連発して悪に打ち勝つという物語。そんなミラクルな激闘・激修行シーンをときどき頷いたりしながら静かに、噛みしめるように真剣にじっとみつめていたのである。
私はそれがなんというか、恐ろしいというか悲しいというか、とにかく、今でいうところのいわゆる不安っていうんでしょうか、そんな感じで、
子ども心に、なんか話しかけたほうがいいんちゃうん…ってな感じで今起きましたって演技して、「えへへ、むにゃむにゃ、…なあ、おかんー、これってほんまなんー?へらへら」
つって無邪気さ爆発でジャッキーの苦渋を指して尋ねたものよ。
母親は画面に目をやったまま端的に「全部ほんまや」と答え、
「げへへ、ほんなら、みえこもとしあきもさっちゃんもさー、みんながんばったらこんなん出来るようになるんーへらへら」と訊いたもんよ。
したら母親は即答、「なれる。みんな、なれる」
というわけで、今でも晴れた夕方に降る金色のイノセントな雨に打たれるとどうしようもないなんだかどわそわした気持ちになり、おしっこを漏らしてしまいそうになりますマジで。っていうか大人になってから何回も漏らしました。
んで、ジャッキーの茶色いあの一連の映画も、そんなわけで、巨大な、いいようのない、イノセントな暗黒とでもいえばいいのか、あのなんやかやを思い出すわけで、儚いには違いなく二度と帰ってはこない、もう帰ってくるな、けれどもありありと思い出せるノスタルジックなよくわからないそんな紛れもない暗黒は、点で留まった視覚的記憶とちょっぴりの感情となんやかやの総合性の坩堝の中へ、はるか大人になった私を平気のへいざで置き去りにするのです。ジャッキーが。黄金の雨が。
投稿:by 未映子 09:59 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.04.08
私はそれを知れない
パソコンのなかの写真を色々整理していたら、そら女の29歳になれば四季折々の写真があるわけで、アーこんな写真もこんな写真も、アーこの頃こんなやったかーなどと、さらさらと流し見していたのだが、一枚だけじっと見てしまった。
私がベッドの上にすわって頭の上にカメラを載せて、鏡に映る部屋を映した写真。部屋はいつものように散らかってて、その後ろのほうに、ずっと前にずっと付き合ってた人がちらっと映ってて、その人とは今も仲良くしているし彼に対してのオセンチな気持ちではないのだが、写真の私が座ってるベッドには赤い毛布がごろんとあるのが映ってて、その毛布はもうないのだけど、その毛布の感触を、重たさを、毛羽立ちの感じを、私は今このとき、たった今も、ああこんなにありありと、思い出せるのになあ、や、思い出すというのでもなく、今もすぐにその毛布に足をつっこんでくるまれるのになあ、とつくづく、思ってしまった。それはもう、絶望的なほどに。
もしかしたら写真の中の私は、私が写真をクリックして閉じた後、カメラを置いてあの毛布に滑り込むのかも知れん。毛布と敷布のあいだの冷たさ。んで散らかった部屋について、午後の過ごし方について、彼と話するのかも知れん。サボコもちらと映ってる。その時点その時点の私、及び彼、および毛布が今もって、しゃくしゃくと活動してるのかも知れない、知れない、知れない、私はそれを知れない、と私は本気で思うのである。
投稿:by 未映子 12:37 AM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.03.17
残りの人生、もう冗談しか云いたくないわけよ
すごく緊迫した場面、みんなが必死になっている場面、真面目な場面、そこに客観的視点がひとつも存在しない場面など、たとえば顔を白く塗って舞踏する息を呑むよな舞台なんかで、私はよく笑いを制しきれずにほんとにほんとに苦しい思いをするんですけど、笑ってはいけない場面、シリアスな場面に笑いっていうのは必ずや生じるもので、葬式なんかで視点が移動すると爆発的に面白いのはそこですよね。
そうなってくると、変な声のお経も数珠をじゃりこじゃりこする音も、禿げた坊主も喪服も大げさな衣装も白黒で笑ってる遺影も、何もかもが単なるギャグに思えてきて、笑ったらあかん、笑ったらあかんと思えば思うほど、息をするのも絶え絶えになってしまう。鼻の穴に指をいれて、空気の流れをば遮断する。ああ世界はなんとさまざまな「ごっこ」で構成されていることか!
私はみんなが盲目的にシリアスになってるときに、そのどこからともなく爆発する笑いというのが、すごくまっとうなものに思えるので、サボコなんかもけっこう悲しかったけど、同時に客観的に思うとおしっこちびるくらい面白い瞬間も、やはりたくさんあったわけで、本当は悲しさよりも、そっちの方を書きたいなあという気持ちは少なからずあるけれど、うまく書けないんだなー。
ま、読書の原体験が「デミアン」やから仕方ないっちゃ仕方ないな。車輪の下でなくデミアンというのがよくも悪くも致命的ですな。これが「チャンピオンたちの朝食」だったらまた人生違っていたようにも思う。
「残りの人生、もう冗談しか云いたくないわけよ」という人は私の周りにもけっこういるが、その人たちは何がきっかけでそう願いだしたのだろうか。子供の頃からそうなのか。生きることで得た価値観なのか単なる美学の問題なのか。
いや、既存の哲学を突き詰めた末に、感嘆として「我々が言語を使ってやりとり出来るのは、もはや冗談だけしかないのでし」というところに落ち着いたのかも知れない。確かに言語の出自を思うとそう感じざるを得ないのはわかるけれど。確かに人同士のコミュニケイションにおいても自分の発言や思惟の殆どが「冗談である」というスタンスを持っていれば、喧嘩の数も人と傷つけあう数も、誤解の数も、今よりはずっと減るだろうなとは思うがいかがでしょうか。
さて、冗談をかみしめつつ、
「喧嘩」ではない「議論」に思いを馳せてみると。
冗談なんて厭だよ!馬鹿にしてる!
傷つけあってもいいじゃない!ほんとうの相互理解なんかないかもしれないけれど、でもぎりぎりまで近づこうよ!あきらめないんだからね!それが愛なんだからね!
っていう熱い姿勢も好むところであるが、往々にして空回りというか、歩み寄りたいとは云ってるものの、つまり自分の主張で論破したいのではないにしろ、
(それは往々にして論理で議論されているのではなく感情でせめぎあっているのだからそもそも論破も何もないのだが)
結局は「この私の考えを、色々あるけど、認めてほしい」というところに行き着くのが殆どで、そういうのはなんか度を過ぎると、見ていてしんどくなるのは何故だろか。
ソクラテスみたいに自分が絡みながらも、議論のお題だけを慎重に取り扱って、その問題の為だけに議論をして、昇華させるのは、やっぱり誰にでも出来るわけではない。議論に勝ち負けなどそもそもあるはずもない。
例えば、相手と膝を交える必要がない、時間をともに経過する必要のないネット上の議論の私の第一印象は、「入り組んだ感情の絨毯爆撃」だ。どんな場所でもそうだけど、特にネットで議論するのは難しいなあと改めて思う。
論理魔の永井均ですら哲学をする醍醐味として「ここまで考えた自分自慢だ」と言い切ってるほどに、「議論」における「意見」というものの性質がそもそもとてもややこしいものなんだろう。
「己の意見」でありながらいかに己から離れてそれだけを独立させることが出来るか。
自分の行為にどれくらい懐疑的になれるか、そしてそれを各々がわかってるかどうかで文章全体の、全体の性格が変わるような気がする。
だから「礼儀さえきちんとしてあれば」匿名で議論っていうのが、もしかすると本当の意味で、議論の理にかなってるんじゃないのかなって思うこともあるよ。誰が発言してるなんてこと、本来、問題にとっては関係なくあるはずやと思うので。
ひるがえって「名前をきちっと出して何かを表現することの覚悟と責任を」というのも理解できるけど、それだって結局じかに会ったりいろんな話したり、気持ちや思い出を作っていったり、じかに触れるのでなければ、実質的に記号の域を出ないんじゃないかなあと思ったりもする。もしそこに名前以上の情報があったとしても、互いの生活に拘わろうとする意思がなければ、その人の何を知ったことにも、覚悟に触れるということにも、ならないのではないかな。
しかしながらここでいう「匿名」と「記号化された個人情報」とは、似ていてちょっと違うものであって、人は完全に匿名になると、日常では作用してるであろう礼儀や恥が霧散してしまう傾向があるのも事実で、いったいこの差がどういう理由で人の羞恥心や誇りや礼節を左右するんだろうか。
つまり個人情報が提示されての議論は、意識せずとも往々にしてちゃちな馴れ合いやちゃちな政治が絡んで純粋議論としてはなかなか成立しにくい上に、一方、完全に匿名ではまともな議論が出来ないことも多々あるというわけで、では純粋な議論というのは、いったい世界の何処で行われているのだろうか!それはもはや人が操る言語の世界では不可能であって、もはやモノであってモノ云わずの科学や数学の世界でしか純粋止揚、および純粋議論は成立しないということか!
それとも純粋議論の存在をこそ疑うべきなのか。
「冗談」からちょっと話がズレてしまったなー。
今日は「冗談」が導く素敵な世界について書こうかと思っていたのに、この乱れよう。
ふたたび「冗談」をかみしめつつ。
養老孟司氏が「自分の考えは70%ぐらいしか正しくないなあと思っておくと色々なことがスムーズになる」と書いてたが、私もそう思う。スムーズにする必要もないといえばないんですけど、ひとつの自分自身への考え方として、なかなか素敵なことをいうじゃんかと思った。
自分の考えの残りの30%間違ってるかもしれないという謙虚さと糊代があれば、見える景色も違うのではないか。確かに人が人に対して怒るとき、その人は「100%正しい自分」の上に乗っかって泡を飛ばしているのあって。もちろんこの「30%の糊代的考え」にも30%は疑う余地があり、そうなれば他人に理解してもらうことも、押し付ける必要もなく、自分がそうあればたちどころに世界が変わるという魔法である。これはガキの使い程度の相対主義者の<正しさはそれぞれにある>なんていう軽い物云いでいっちょ上がりました的な了解の仕方とは根本的に違うように私には思われる。
だとしたら先ほどの「冗談」と組み合わせて「俺の発言の70%が冗談」のスタンスも、なかなかいいんでないの。残りの30%はシリアスかもっていう。
これは人間関係における<事なかれ主義>的スタンスを助長する発想じゃなくて、まず、自分の正しさを疑ってから、他人と絡むようにすればいいんでないのかという、あくまで自分自身への発想である。
このひと手間が、出来上がりの質を格段に左右するんではないかというわけ。
しかしながらこんな考えが「いいんでないの」と思えるようになったのは、ごく最近のことだ。
「0か100」か、言い換えると、「生と死」にしかずっとずっと考えも興味も振れなくて「曖昧なものこそに、それが間違っていたとしても、それをそれだと云い切ることが表現の存在理由でないのか!」
「君自身に到達することは不可能かもしれないけれど、たとえ無理だとわかっていて
も、歩みを止めることが出来ないんだ!一歩でも、縮めていきたいんだ!」
っていう、いわゆる「熱さ」が咲かせる花の見事な美しさも私はよく知ってるつもりだし、好きだし、そうじゃなけりゃあさっさと出家でもなんでもやってこませ!と長く思っていたが、最近の私のこの感じは感じはなんだろうか。腹を立てることが、桁違いで少なくなってきて、気持ち悪くさえある。
いや、これも「私の今月の気分」であろうか。
それがいい傾向か悪い傾向かはわからないけれど、
生と死のあいだに「年をとる、老いる」という項目が追加されたというわけなのかと思ってみたもして。
「極端、あるいは生死だけを問題にするには人生はちょっと長いみたいですよー」
という感想が自分の中に自然に芽生えてきたというわけか。年を取ることが直接の価値ではないけれど、確かに年を取らなければわからないことがほとんどかもしれないなあ。
そして、冗談。
ここにはなんか、色々なものが隠れてるような気がする。
「冗」の漢字もなんか、見れば見るほどなんかすごいぞ。
投稿:by 未映子 08:29 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.02.21
春はヨーレン菌その他と戦争
週末からヨーレン菌がぶりかえし、さらに強めの抗生物質を処方してもらって飲んだところ、副作用か関係なくか、なんしかアレルギー疾患にかかり、左半身だけにたくさん水玉模様が出来た。なんかそういうお召し物を召してるよう。左半身だけ。
これにはなんかコンセプチュアルな情緒もあって、HALF-A-ROOMの小野洋子と水玉っ子の草間弥生(ほんまはもっと難しい漢字)の時空を超えたアイディーアが私の体の上で結ぼれたわけだ。ゆるく云やコラボっつうの。というわけで現在実に概念的な私の体ではある。
内科からアレルギー専門店、店じゃないよ、専門科へ趣き、ディスカッション。
アレルギーを抑えるための薬の副作用、私、花粉もなんもないから結構きつかったんやろう、微量のを処方してくれたらしいが、その副作用で全身が海をひきずってるかのように重くてだるく、さらに加えて、またまたヨーレン菌がぶりかえし、このヨーレン菌ってのはもともとみんな身体におる菌で、抵抗力が落ちてるときに暴れ出す、しかもヨーレンを完膚なきまでにとっちめるには最低10日間の抗生物質を投与せなならんということで、えー私1回目ん時、5日間も飲まなんだ、完治!って日常生活を謳歌しに戻ったらばきゃつ等は不貞寝していただけというわけだ。何にせよそういう種類の菌らしくって、これがなかなかにしぶとい、でもなー私野菜もステーキも苺も食べてるねんけどなー、バランス最高によく。
しかしながら私の友人もかなりのぶり返しぶりであり、我々の春はヨーレン菌との戦いに尽きるであろう。あくびも出来んほど喉が腫れてる。痛い。あー。でも抗生物質は使えないわで、あ、イカレコレ。
春先に、私は必ず、絶対的に、身体が病気をする。それを告げたところ、先生はいたく感心しており、「それは春になんかあるよねー。人間だもん」とかゆって、春先に多い物質でアレルギー検査を徹底してやってもらった。んで検査結果まち。金曜日に結果。
いろんな項目があった。一個調べるのに350円かかるので、私は都合、1万円分のお買い上げ。全部調べたら数万円になり、ま、この際だっていうんで最低必要限のものをチェック。
「小麦粉は是非、調べときましょう」って先生が云うから「…ガンガン食べてますけど」ってゆっても「これが結構ねー、多いんですよねー」とかゆうねんけど、もし仮に小麦粉アレルギーだったとして私はどうすればいいのか。知らんで済むことは知らんでいいような気もしたが、そのほかには蛾なども。蛾なんて最近知らんなー。
あー今日も打ち合わせがあり、歌の練習もせなならんのに、金曜はプリプロやといい、私はこんな体たらく。すっきりと何もかもが冴えない。部屋を這い這いベッド命の体たらく。ベッドの上でなんかもしゃもしゃと食べたり曲作ったりゲラチェックなどしたり手紙書いたり、まるで自宅で入院生活であります。
こうやって書くとよさ気ではあるが、実は結構やっぱしんどいのですな。
というところで病院の先生から携帯に電話が!!
きゃー何!? 先生から携帯に電話があるなんてなんか緊急くさい。
投稿:by 未映子 02:59 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.02.18
性の感受地帯、破竹のあはん
今日は寒い一日であったが、私は青山のスタジオへ行き、プリプロという録音前の作業をしておった。歌はむずいでほんま。
思えば気がつけば一番痩せていた時期から私は10キロも太っており、私史上初めての数字を弾きだし、これでは歩くよりも転がるほうが早いっつんで、さすがにこれはまずいよなっつんで、セクシー事情にも難ありっつんで、これではデブに近いんではっつんで、
えー、とか思ってたらこの間の高熱を機になんとなく体は痩せ始め、くびれがおのずと生まれだしてきたのだから不思議、そいでもって外食を殆どしなくなった私は見る見るうちに体重が減ってゆき、ええ感じ、また一番軽やかであった頃の体重に戻れるのだという現実味が濃くなってきて余裕。も、コンビニに陳列される日清製品とは他人行儀もええとこ疎遠、今ではジョジョエン・ドレッシングが私の寵愛を。や、私が寵愛を、か。
足とか腕から細くなるので、なんか痩せていると思われがちな私の体型は実に着痩せそのものであって、見えている衣服の0.3ミリ内側はすぐに肉であるので体重は恐ろしくヘヴィ、しかし体重が減るというのは精神の贅肉も削げてゆくのかなんか外部から爽やかではある。大いに。
おなか一杯に食べることしかしなかったこの数年の私は、この間待合で読んだミスかミセスだか有閑でセレブな暮らしに憧れてる人向けの女性誌に、またそれが分厚くて難儀、ほんでその、誰やっけほれ、ほれ、あの、そう、ほれ、そう、川原亜矢子、が、紙上で読者からのインタビューに答えるっつんで、「私は食べることが好きで仕方ないんですが、川原さんは食べ過ぎたときどうしますか」とかそのような何を聞きたいのかどうもねむたく判らない質問をしていて、それに対しての答えが「私はお腹いっぱいになるまで食べたことがありませんので、常に八分目」という丁寧なのか馬鹿にしてるのかストレートなのか答えになってるようなねえような、そんな様子で、お腹いっぱいに食べたことがないってのが、も、マジで?っつんで、
定説通説ではありますが女子の食欲と性欲っていうのは殆ど同じところに位置しており、互いに充足可能なわけで、だいたい実際お腹いっぱいになると確かにセックスしたくなったりあんまりしないわけではあって、お腹すいてるくらいがテンション、モチベーション共になんかいいのであって、あははん、
ダイエット中は性欲が高まるというのはなんなんとした常識であって、恋をすると綺麗になるって云うのは好きな男と性的な何かを繰り広げたいって願望がまず独り歩きして妄想・準備態勢に入ってるってだけのことだっつんで、セックスに誘いたい女子がいたらばデートの最中あんまりごはんを食べさせないよう、ま、向こうにその気があれば飲みに専向、あんまり食べもしないだろうが、元気そうなのにキャピってんのに「今あんま食欲ないんだよねー、エヘ」なんっつたら「セックスはしたいけど」、みたいな裏告白だと思って多分おそらく80パーセントよしということに誰も責任は持てぬがこの際してよし、
例えばホテルなどでも下のラウンジ、ラウンジ?などから「上に部屋とってあるんだけど」っつうのよりも高層のラウンジ?などから「部屋に下りようか」っつうのが女子的には素敵に作用するらしいわけでもあって、いわゆる抵抗がないっつんで、
それにしてもなまら男子はおなかが減っててもいっぱいでもよくセックスをするもので、疲れているときや時間などに制限が加わるとより勢いが増し見境がなくなるのはなんかわかり易くて雑で荒くてもういやだけども、回数よりも質であるというのもやはり事実、大きさや雰囲気、テクニック云々よりも何よりも、そこに愛があってもなくても、や、愛があればいうことないが、加えて容姿に自信があってもなくても、女子をうっとりさせることは実は出来るのであって、そのうっとりさせる行為というのは、
手を握って、笑うことなかれ、手というのはすごいのだよ。でもって男子が上になるのが好ましい、それは重力の関係であって女子は仰向けにしてる顔のほうが何かにつけて見栄えがいいということを熟知しているからで、「イケてる自分」に女子は一番興奮するものなのである、でもってその「私この角度、ライティング、イケてる、と思い込んでいる女子の目」を一回でも多く、そして一秒でも長く、真剣にその「私いまイケてるマジック」にかかっている女子のマジックを解くことなく目をじいいいっと見つめながら静かに動かす、というのが極意、
簡単だっつんで笑うことなかれ、簡単がこれ、怖いくらいに、女子が女子自身でも感知しえない性の感受地帯、いわゆる性感帯に天井知らずの破竹のごとき強烈でしかもうっとりが爆発する見事なあはん炸裂の花を咲かせるもので、とにかく見つめる、見つめまくる、手は握ったままだかんね!これがかなり女子のいわゆる全方位型興奮(死角なし)を高めるという調査も独自に済んでおるので、性交全般に自信がある諸氏もない諸氏も、メインに、はたまたトッピングに、いかがなものか、とそういうベタなことを私は云いたかったようなそうでもないような気がなんとなく今してきた。
投稿:by 未映子 10:59 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.02.17
春におそわれる
絶対に行きたいライブがあってそれだけは私、おメメかっ開いて観たいのだよと服に着替えて表に出たらば、なま暖かく体がいきなり浮く感覚、春の匂いがして匂いがして匂いがして匂いがして私は途端に動かなくなり、もうどうにもこうにも一歩も足が前に出んようになって、動かなくなり、身体を前に出そうとするのだが、動けず苦しく、どうにもこうにも這い這い家に引き返した。泣き出さんばかりの、いいかげん、いよいよいったい、飽きたまえよ、私の思春期部よ、しかしながら質量をもつ人間が春の匂いにあのようにやられるなんて、初めての春でもあるまいし、そんな阿呆なことがあるか。あったんや。
投稿:by 未映子 01:00 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.02.08
ヨーレン菌だって
闘病の女子の日記をご紹介しつつ、私が寝込んでしまいましたが回復致しました。インフルエンザでもなく、ヨーレン菌(溶血性連鎖球菌。…略、この略しかたどう)という極めて恥ずかしいくらいのポピュラーな菌が扁桃腺に入ってしまって、すごい流行ってるらしく、抵抗力落ちてる人間から順繰りにくるらしい。この地域、人が多くて菌まみれですから体力つけてね。薬剤師談。んで左右の扁桃腺がくっつくほど腫れて、その扁桃腺の変貌ぶりに私は、も、ひいたで。蓮コラどころの世話ちゃうで。一件目の病院では色々書きたいことあるが、ま、原因不明とか云い放たれて、一週間ぐらい耐えてからまた来いみたいな対応で、堪え性だけが何よりもない私が我慢できるわけがなく、這い這いしながら友達に紹介してもらった個人内科へ。すぐ治ってしまった。も、病院でこの違いが出るねんからヒヤッとする。だって最高で39.8度も出て、だいたいその辺であれを一週間は無理よ。でもさ、あのしんどさ、苦しさ、同じベッドで寝てみても、全然しっかりとは確実に思い出せない。なんともなあ。寝込んだ丸3日間は朦朧としながら、つげ義春三昧。夢に鳥師が出てきて私背中に乗ったわ。んで
茫洋としながら荒木飛呂彦の短編、くー…衣装かっこええのう…んでユリイカ読んだりしながら面白い寄稿があってゆっくり読み入る。そしてイチゴ以外は何も食べなかった。そしてその後食べるものすべての激しい味の濃さよ。濃い濃い!濃いよ。塩に敏感になってしまうがこんなもん、すぐに慣れてしまうんやろう。うーむ。体重が二キロ減った。二キロかよ。私のイメージでは四キロはいってたのに。この寝込みによって録音の打ち合わせも解除したし、写真家の杉本青子さんとこにも行けなかったし、そのほか集中してた約束が軒並みふいになった。
んで前回の日記に「薔薇は生きてる」のこと追記したのでよかったら読んでみてね。今から仕事場を片付ける鬼。でもいけるかな〜いけんのかな〜片付け苦手やからな〜私でっきんのかなあ〜あーもーここがいまだに様々なものに埋もれているのが、も、私の頭の中みたいでいやんなる。
投稿:by 未映子 11:59 AM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2006.01.03
頑張れ、いつか死ぬ
こないだMIGANGの家で数人で鍋など食していたときのこと。完璧な夜であっておなかも減っていて、たくさんの野菜、山盛りのネギの丼がどんとおかれ、嬉しいな、薬味が際限なくあるように思えるくらい充実してるのは、嬉しいな、マロニーもあるな、嬉しいな、ポン酢もあって、たらもあって、牡蠣がある。ビールもあって、これはいったい、なんだろう。ふわふわと浮かんでは我々の食欲と時間をくるんでゆくまあるい善意しかないような湯気、実のある笑い声、いい程度のテレビの音、「穏やか」が充満していたそのせつな、私はふっとあからさまに無記名の不気味な不安と目が合った。
笑いも睨みもせず、そいつは会ったことのない不安だった。不安はいつだって少々可愛げのあるものであるのにそいつの退屈な無表情さったら。ただそこに、ぼーとおるだけであった。そして私は箸をもって茫然とすること少し、これからも人生が続いてゆくということに、心底ぞっとしたのだった。死ぬまでは人生が続くということが私を強烈に、ごん、とノックし、心底脱力したのだった。
そんなことは幾らなんでも知ってるけれど、
それとおなじくらい知り得ないことであるのもまた真なり。私は私にとって本当に切実なもののことは、防衛本能からかその事柄の性質なのか長い時間そのことを思い続けることが出来ない。自分が捕らえた、あるいは捕らえられた謎から出来るだけ離れずに向かい合う人間が哲学者なのでしょうが、いや、なにごとも一色であることはありえない。シッダルダの頭の中はどうだったのか。彼は何も書いてないから物理的な境目がみえにくい。私にはシッダルダは座っているように見える。
カントはどうか。カントもこうしてご飯を食べてる時、はたまたセックスなんてしてるとき、ほんの少しぐらいは、やはり認識の謎から逃れていたはずなのだ。体があるってそういうことだ。ヴィトゲンシュタインは戦場の防空壕の中で論考を書いた。とても真剣に長く長く考えたに違いはないが、多分戦場の方が物を考えるのに彼にとっては自然だったのやろうと思う。
でもドアを作ったり建物の設計なんてしてるとき、土星と金星ごっこで興奮してぐるぐる走り回ってるとき、「言葉の使われ方」から逃れていた瞬間がやっぱりあったはずなのだ。
<考えることから逃れざるを得ない部分の自分>っていうのは、彼らの書物のどこにあるのか。
書かれなかったところに、哲学という性質であっても、真理のもう半分があるんじゃないかと私はいつも思っていた。
やっぱり書かれてあることがすべてではない。凝縮したものではあっても全部ではない。人生の全部なんて書けないから、
人は自分の得意とするところ、これだと思うところ、気に入ってるところを一生懸命に書く。
私は、行間のちょっとの隙間に、眠っているカント、きゅっきゅと研磨してるスピノザ、セックスしてるデカルト、肉を食べるヘーゲル、などなど言葉にはされない、ならない、もう片方の真理を想像してみると、どの本もわりかし楽しかった。
人が生まれて生きてただ死んでゆく、っていうだけのことを、みんなそれぞれのやり方で、考えてる、あるいは感じてる。
赤ちゃんは泣きながらただ生きてる。掃除婦は掃除をしながら確実に哲学者とおなじように一時間を生きている。
母親は子供を世話しながら時間を過ごしている。感じるだけは簡単か。考えることは難しいから偉いのか。そしてそれを言葉にするということは、もっと難しいから、もっと偉いことなのか。困難なことをしてるということが人を感動させるのだろうか。そうかもしれん。
だから私には時々彼らとは逆のことが起こって、時々今日みたいにノックされると「考える」というところまでなかなかいけなくなってしまった。書くなんてもっと出来なくなった。
全部を感覚と観念でどうにかしようという癖がついてしまって、けれども「考える」ことと「感じる」こと、どちらが私にとって幸福なのかはわからない。選べるものではないかもしれない。真理数で語れる世界を(そういう解釈もあるよって例だとは思うけど)私は世界とはやはり思えない。世界って何か。ヴィトゲンシュタインに訊いたら笑われるやろう。斎藤くんに訊いても笑われるやろう。そんな問いを持てるなんてすごいねって笑われるやろう。
死ぬこと、論理的にいえば、両方が同じことであると思うとき、いったい私のこれ、は何なんだろうか。これ、があるのは事実のように思える。
言葉を使ってるのに、いろんなところに感覚が顔を出す。論理と非論理が混在してる。
それぞれの配色で生きている。一色で在るなんてありえない。
でもってそのせつな、(せつな、なんていう言葉はなんだかぺらくて厭だな、なんて思っていたけど今使ってるのは多分意味はないやろうけど、何かが作用してるのかも知れん)降参、に近いような、あきらめのような、どっちかっつうと嬉しくは決してない気持ちが体の内側みひたひたとみなぎり、涙さえにじんだ。箸を持った手がじっとしていた。あ、じっとしてる、と思った。
そして「今、これからも人生が続いてくんやと思ったらぞっとしたー、あはは」っつってみたらみんなも、あははーなんて言って笑って、それからまたお鍋を食べた。
投稿:by 未映子 04:29 PM [心と体, 本] | 固定リンク | トラックバック
2005.12.22
母親と子供とスプートニクの犬
あー昨夜はなんかおどろしくも切ない夢を見て、寝起きはなんか下がっておった。
私は脇で見てるだけなんだが、ある母親が、死んだ子供がついてきて困るので、どこまでもついてきて困るので、どこまでもどこまでも人気のないコンクリートの塀しかない町を走って走ってまいてしまおうとしている夢だった。
子供は自分が死んでるのを知らんみたい。でも私は、なんか能力的に、生きてる人間よりも死んだ人間の方が、なにかにつけて優れているのがせめてものアレじゃないの、ってなことを思っていて、どっちにしても逃げられへんやろーとか思ってるのだった。死んだ人間、それがどのよな質量を持ちそのような存在の仕方をしてるのかはまったくわからないけれど、ま、生きてる人間よりは若干自由度が高いような印象を受けるのは何故か。その気になったらでっかくなって、上から見下ろせば母親の居場所一目瞭然ではないの、とか思ったりしたけど、子供は顔を真っ赤にしてよろよろと叫びながら泣きながら追いかけてる。走ってる。5歳くらい。かわいそう。で、長いこと逃げ回り追いかけを続けてるうちに母親も子供も走るスピードが、こう猛然と、猛然と加速されてどんどん劇画タッチになってきたわけ!なんか2人が横長のつむじ風のようになって、そう!ドラえもんの<怒ったときのフー子>のように!
容貌は見えなくなってきたのですがそれぞれの思念のようなものがそのつむじ風の渦巻き方・なびき方に表れておって、子供のそれが泣き叫ぶ声と相まって段々と強大、かつ巨大化、大きくなって大きくなって母親にもうちょいでかぶさる!といったときに、母親は角をきゅっと曲がって子供はそのまま真っ直ぐ行っちゃった。かわいそう。
走って行っちゃった。あの子の渦巻くいろんな思念はあの勢いをつけたまんまどこに行くのか。なんだかスプートニクのライカ犬をその時私は夢の中で思い出したりして、この場合、黙ってるのと(犬)勢いすごいのと(子供)はなんか、まったくおかれた状況は違うねんけど、中心の温度はおんなじやなって、そんなことを塀の脇っちょに立ちながらに思っていた。子供はほんとは抱きしめてもらいたかっただけなのかもしれん。ぐす。ライカ犬は全部わかってたんかもしれん。や、でも宇宙に未来永劫放り出されるということの意味、そんな意味を、問いを、わかるっていったいどういうことなのか。そんなん想像だって出来ない。でも私の方に曲がってきた母親もなんかかわいそうではあった。母親はかわいそうであった。
しかしてそれら一切の映像のタッチというのがかなりの、もうケンシロウよりも激写な感じで、なんかドラマチックであり、夢から現に来る途中、思わず「…私が楳図かずおならば、これでなんか、…掌編を描くのに…、あのみんなが等しく可愛そうなこの感じ、犬も描いて、…伝えられるはず…」とむにゃむにゃと呟いたのを覚えている、でも楳図かずおじゃないから描けない。あーあ。
投稿:by 未映子 10:01 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.12.10
お前に敬意を表したものの
最近食欲がないわ。
ちょっと前なんてスパゲッティーにご飯とか食べてたのに。でも昨日お昼に牡蠣フライ、んで夜はふぐを食べたけど、量がちゃう。なんかが変わってきてるわ。食に対する生まれ持っての粗野な欲が薄れてきとる。体重なんて3キロ減った。おなかがすっきりしてきた。うーむ。軽やか。今私の目の前に「サラダ巻」が何気にあるが、考えられないこの余裕。「お前なんて、今すぐに食べなくってもよいんだからね」っつう余裕。いいね。
昨日はMIGANG家に泊まった。
一緒に入浴中にセックス談義に花が咲き、って可憐さでは到底語れないぐらいの、つうかなんつうか、
「今までセックスがらみで男子に云われた最低なこと」
で盛り上がって、私が実はこれこれこうで、私は絶っ対ばれてないって信じて私は思ってていちいち確認してたのにそしたら実は全っ然ばれててっつう女子にあるまじき悲惨な話をしたらもう、唖然として、
「それは…凄すぎる。…いくら友達でもそれを私にゆってくれたお前のそれに敬意を表して、ならば私はこれを云う」つう話がもうマジで私のなんか吹き飛ぶくらいに最っ悪で、私もそのすごさに恐ろしさに震えながら「いや、…私も、いくら私が最初に告白したからってそんな話を聞かされたら黙ってはおられん、もっと敬意を表して、私のもういっこ云う」つって話したら、ヒキすぎて引き攣って笑いに転じて髪の毛洗いながら椅子からすべって「お前やっぱりそれは凄すぎる、けど実は私の方がもっと凄いからきけ!」みたいになって敬意を表したつもりが三十路目前の女ふたりの性的思い出の悲惨度を競い合う救いのない場になってしまって、やー、おそろしいことにこの手の話って云うのは全然尽きぬのは一体なんででしょか。
でもこれさー、2人でこれっていうことは実際たくさんの女子と話したらもっといろんなケースがあってさ、アンアンとかさ、もっと過激なのになると十代のギャル向けのそういう雑誌ですんごいのやってるねんけど、会話、会話やねんなー。大阪弁の相手の話の内容を上滑って自分の話に混ぜ替えてゆくあの感じも関係してるのかも知らんねんけど、だって終りまで聞きませんからね、相槌打ってるときの半分を自分の次のネタに行ってるから、話し続けると苦しいんだよねー。喋りの会話でそういうの面白いと思うねんけどな、うーむ、ネットラジオでそういうのってあるんかなあ、なんかひっかかるよねこれって絶対倫理なんとかとかさ、結構内容が内容なんで際い所やと思うねんけど、でも面白いと思うねんな、絶対、これってネットでさ、会員しか読まれへんようにとかさ、出来ひんのかなあ、会員てほんなら何が会員かってゆうたら、女子限定でさ、でもネットでは性別不可分やもんなー女子って分る方法なんかないのかなー、やーでも男子には無理です絶対あの内容はなんとか女子とそういう話を定期的に出来たら飽きるやろうけど、飽きるまでは面白い。
投稿:by 未映子 09:45 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.12.08
激しかった
普通にご飯を食べてたら左の下のどれかの歯が猛烈に激しく痛みだしてびっくり。虫歯でもないのにがんがんに冗談みたかな激痛が。しかもほんとに突然。もーその痛みのすごさ、それは痛すぎて客観感出来るくらいの痛みで、ウェイトレスさんにへらへら笑いながら「えへへ今私の口ん中えらいことになってんですよえ?見えない?そっか見えないかいやあ物事っつうのはどこでびしーっと判断つけるのが正しいんでしょうかねやんなっちゃうよね口の中には猛然たる痛みが弾かれまくってるのにあなたから見ればまるで夕凪のごときの平穏っつうのはなんかこれ人間関係の縮図みたいですわね」ってへらへらしそうなくらいのそういう激痛。
で店出たら途端に消え失せ、何も思い出せない、なんだろうか、私の激しいあれって、なんだったの。
投稿:by 未映子 11:56 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.12.01
すべてが過ぎ去る
昨日アップした日記で明るく振るまってはみたものの、ラジオが終了というのはやっぱ寂しいなあ。ま、私が寂しがっても仕方あるめえと思ってのことではあったが、結局吐露する始末を許されよ。皆さんメールありがとうね。でもあと4回あるので楽しみにしていてね。
なんだか今日はかなりの質量のある風邪が背中にべっとりとくっついたまま、家で本を読んでいました。でも全然頭に入ってこんかった。こないだ実家に帰って色々考えなきゃいけないことが色々と浮かんでは流れてまた戻ってきたり、なはんか涙が出てくるのであった。私は何をしているのだろうか。私だけ好きなことをして生きてよいのだろうか。
おかあさんは二十歳で姉を産んでそこから私と弟を年子で産んで、そこから今まで働きづめです。
私ははたから見れば経済的に、自分でいうのもあれやけど、考えられないくらいの援助っていうか家計を助けた。中学生の頃からアルバイトをして自立していた。北新地でホステスを一生懸命にやって、家にあった大きな借金を返して、弟を大学に入れて卒業させたけど、だからって今のこの生活が当然のことのように思えないときがある。私の今している生活のすべてが間違っているように思えるときがある。大人になった自分のことだけを考えるということがすごく恐ろしいことのように思える。最近更年期障害でおかんはがりがりに痩せてしまっていて、それをみると胸がつぶれそうになる。
私がこうやって本を読んだり歌を歌ったりキーをかちゃかちゃしてる間にも、おかあさんはイズミヤの冷蔵庫で働いているのに。
今日は一日ちゃんと寝て風邪を治そうって思ってたけど、どうしても多和田葉子氏の「聖女伝説」のあの目からパン粉が落ちてくる、あの便器のシーンが読みたくて読みたくて、図書館へ行って来た。
そこに書かれている掃除婦が私は自分のおかあさんのことに思えて仕方なくて、初めてその一行を見つけたときに、私に自分の母親のことをこんな一行で描けたらきっと何もかもが素晴らしいんだのに。私にあんな一行が書けたなら、おかあさんが生きてきた人生のすべてが報われるんだのに。私は何度もその箇所を読んだ。
それでその箇所をコピーして四つに折って財布に入れた。ほっとする気持ちと晴れない気持ち。何をやっているんだろうか。
図書館を出たら真っ暗だった。
帰ったら暗い部屋だったので、麒麟児の世界を歌ってみたら、すべてが過ぎ去るのところでつまってしまった。
投稿:by 未映子 03:03 AM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.11.26
人は必ずや3歳でありました
あーえらい。体がえらい。えらいというのはですね、
大阪弁でしんどい・大変の意であって、えらい。心底えらい。いかれこれのやれんさでえらい。風邪をひいた。本格的に風邪をひきました。こんな風邪、久しぶりで焦るぜ。
大阪は普通である。金聖響コンサートは明日である。
以前帰阪したときに、あんたは聖徳太子か!と駆けずり回って私に叫んだ3歳の甥っ子は今回は私と目が合うやいなや、
「真っ赤かってなんていうか知ってるかー、れっどっどじゃ!」
っつって狂ったように叫んで一日中ほぼ半裸で転がっているだけである。
ということで写真は三歳のころの私であります。
このときの記憶はあるが写真が存在することに驚愕!タフでプリミティブな幼きあのころ夜逃げの際に、すべて置いてきたと思っていたのでなんかうれしかった。
なんかちゃんと着物を着ていてまるでくるよ師匠ではあります!
私なんかは今とまったくおんなじ顔で代わり映えねえなあ、などと思っているのですが、似てねーとかゆわれる。でも私には同じ顔に見える。
はよ風邪治さねばならぬ。
みんなも、うがいと手洗い、なめたらあかんよ。
投稿:by 未映子 10:59 PM [心と体, 甥っ子] | 固定リンク | トラックバック
2005.11.14
怖がる私の努力をすれば
目が乾いて乾いて仕方が無く親知らずが虫歯でもなんでもないのだけれど、抜きに行こうと思っている。
虫歯になる前に抜いておいたほうがいいというのを聞いたことがあって、それは親知らずは構造的になかなかきちんと磨けないからなのであって、大体があったってなくったってどっちだっていい歯なのであって、私は歯をあんまり普段から磨かない、一日に何度も、昼ごはん食べては磨き、なんか食べては磨き、する人が社会にはとても多いように思える。
私が知ってる会社といえばレコード会社の女子トイレで会う人は、あ、と、目が合うと口に歯ブラシが入っていてきちんと皆さん磨いている、私はなんだか磨くのが面倒、いや、顔は毎朝毎晩磨くから、その時に歯だって磨けるのですが、なんかで見たか聴いたかして、歯はあんまり磨かぬほうがよいというのらしい、だからそれからあんまり磨かず、お陰で詰め物がとれたところ意外は虫歯らしい虫歯はなくって、とても健康な歯で色々噛んでいるのです。
でも親知らずはあんまいらんから綺麗な白い歯のまま、ごっぞりいきたいと思う。
今私が大切に持っている歯はひとつ、十年前の親知らずで、これを見ると私は自分のひざの骨を見つめている気分です、根が四つもあって、見ていて本当に飽きない、何処までも視線が沈んで行って、飽きない。それに虫歯になると痛いらしいので、これは健康なうちに抜いておいてなんも困ることは無く嬉しいことのほうしかないようである。
大抵の健康な親知らずを抜こうとする人は、いつか虫歯になってしまうのが嫌だという理由が原動力であろうかと思うけども、私だって少しはそれがある、で、そのことを思うと、いっこの考えかたと同じややなあと思う、私は葬式の看板を見ると、いつか死ぬであろう光子や利江、祖母と母なんですけど、犬のハナ、なんか確実にそれを重ねて立ち止まってしまう。
じっと立ち止まって見つめてみる意味は何かというと、
葬式の看板を見ていて、今はまだかかわりのない苗字が書かれてあるその看板を見て、いくらそこに想像力のあるだけを重ねて個人的に関わるであろう死をみようとしてもうまくいかないことへのわけのわからない人間「凄さ」にある。なんで人間はこんなにも鈍いのであろうか。人間とゆうたらはあかんな、私は何でこのように鈍くしかありえないのだろうか。
今はまだ予想はしているつもりでも、想像しきれないこの「現在」と「少し先の確実に起こる出来事」の溝のあまりの深さにお手上げである。
私はこの溝をいくらかでも縮めることが生きていることの中のひとつの戦いであり、努力であるような気持ちがしている。「そんなこと無理っすよ」とは哂わずに、出来るだけ縮めることが努力であるとい思うのだ。これはすべての私の中の関係性にいえることでもある。身近な将来、大切な人の死に立ち会うとき、懐かしむ気持ち、単なる悲しみや感謝を叫んで泣くのはいいが、こうすればよかった、ああすればよかった、これだけは云っておきたかった、なんていうのを思うのは何としても嫌だ。どんな手を打ってでも絶対にそんな事態だけには陥らないでゆく、徹底してその種の後悔だけは嫌だ。
「人はどれだけ何をやってやっても最後には後悔は残るものだ」というのが当たり前で尊い事実となっている節があるがそんなもんはくそくらえじゃ。小林秀雄だって自分のおかんが死んだ時は同じようなことを云っていた。人間である限りそれは不可能だと、人間はそういう後悔をするように出来ているらしいのです。しかし私はそれが人間やといわれるんなら小林の云うような人間でなくてもいい。全然いい。私は他はまだしもそれだけはごめんである、
生きていていつか死んでゆくもの、
「人」に対しては後悔をせんことを努力する、私の人生つまんでみればそれだけである。
親知らずを、まだなっていない虫歯を気にして先に抜く、ということを思うと、なんか今日みたいなことをぐるぐる思い出した。
単なるびびりか程度の低い潔癖であろうか、
近い将来の「あの後悔」をすることが何よりも何よりも恐ろしい私は、いったいほんまは何を、怖がっているのだろうかはわからない、
いや、輪郭だけは分かっているのかも知れん、けれども、私が生きてる限り、目に映すことが出来る対象が生きている限り、
この努力だけは続けていくつもりです。
投稿:by 未映子 09:29 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.11.08
ばらばらで不思議が足の裏から私を呼ぶ
南青山曼荼羅でのライブに来て下すって、皆様ありがとうございました、ユリイカもたくさん手にとっていただき感謝、アルバムも、おおきに、
私の歌は非常に疲れるわあと仰る方がいらして、それは私は少し嬉しくて、
私が私の好きな歌を聴くとやっぱり疲れるからであって、普段あんまり音楽を聴かないのも、BGMにして誰かの言葉を聴くことが出来ないのがあるからで、ヘッドホンかスピーカーの前に座ってじっとして聴くことしか出来なくて、
「これは私に向かって歌っている」と勝手に思い込んでそこで鳴ってるもの全部じっくりどっぷりとなってしまうので、聴き終わったあとぐったりとなるのです。
もし私のCDを聴いてくれた方がそんな風にして聴いてくれてたらと思うと、とても嬉しいです。遠くから近くから、来てくださってありがとうございました。
沢山のメールをありがとうございました。
私は夕べ、なんか寝れんかった、なんかそわそわとしてなんかがざわざわとして、体をうんうん使ったからでしょうか、
今となってはお馴染みの、「いつか絶対に死ぬのだ」っていうことが久しぶりに、でもないのか、でもやっぱ久しぶりに胸の何処かからも離れなくなって、
このなんとも言いようの無い恐怖を超えた細胞にダイレクトなあの了解、人類が一度は真夜中にえええとなって飛び起き電気をつけたであろう、あの、「いつか私も、みんなも、死んでしまうのだ、それは冗談じゃなくて!遊びじゃなくて!」というのが言葉以上のリアルを持って、離れなくなって、
明るく誰かといるときは死ぬなんていうことにやっぱり実感がないのに。歌ってるときも実感が無いのに。死ぬなんてだいたいの日常において、だいたいが言葉以上に想像できるものじゃないのに。そして死ぬということに実感が持てるわけはないというのに。死ぬのはいつも自分以外の誰かであるのに。
私が怖いのは自分が死ぬということではなくて、お母さんやおばあちゃんが死ぬことなんやと子供の頃に思ってそういうことやって、決めたこともあったけど、
今、同じような恐怖がどがっとやってくると、それは誰の顔も浮かばない暗闇のほうが長くなる。顔なんて素敵なものも追いつかなくなるぐらいぞっとする。布団の中で、真っ暗な脳みその限界を感じるのです。
歌を歌うって単純で、それでしかなくて、みんなが出来て、恥ずかしくて、気持ちが良くて、直接で、簡単で難しくて、昔からみんながやってることで、特別なことでもなんでもなくて、みんなの仕事もそれぞれ家族も大事で、苦労することも大事で、全部それぞれの意味があるねんけど、
けども、
ただ、なんの為にか、為にもないのか、とにかく生まれて、生きて、ほいで死んでいくっていうこと以上のことってないなあって歩いてたら、
なんか自分が誰なのか何なのかもばらばらになってきて、すごい歩いてるのが不思議やった。
投稿:by 未映子 11:45 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.10.31
その時、世界におならが足された
ああ最近引越しを考えているのだが、今の気持ちでは引越しをするなどというのは、
やはり現実的ではなくって、私はなんか、「移動」というのが、苦手なのです。
引越しなどというそんなことが私に出来るのであろうか。
引越しを頻繁にしはる方、けっこういらっしゃますが、気持ちはわかるけれども、
私にはなぜか、「何かに対する永久的な別れの行為」に思えてしまって、面倒ですね引越しくらいさくっとやれよ、でもね、私ね、出来るだけ部屋を変えたくないのである、とここまで考えて、別に部屋に限ったことでもない、私は環境を変えることが、何においても、苦手なのであります。
これは片づけが苦手ということにもなんか関係してるようなないようなって、
そんなことはどうでもいいね、モノが捨てられない誰かの理由、事情に、一体誰にとっての何の意味があろうか。引越しが苦手という話に、一体誰の何が関与しうるのであろうか。
そんなことを考え、私はゴッホの画集を持って公園までさっきあるいた。
まだ日が落ちるまえのこと、暗くなるまでベンチに座ってゴッホの全・油絵の仕事を、
見ていた読んでいた。
いったい、この世界の誰かが行う仕事は、いったい誰に向かって、まず、
なされるものなのであろうか。
観念的な物言いですまんね。でもいいやないか。観念以外に今日のこの夕暮れ、
相手にしたくもないのだよ。観念上等、憂鬱上等、ああ、「世界」なんて言葉、伊達に使ってるわけじゃないんぜ。事象はすなわち観念と観念のコラージュ、認識の種類は数あれど、ナゼにみなさんそんな観念を嫌いますかね、想像の最良の存在理由は観念ではないのですか。
はーと思いつつ、
気がつくと両隣のベンチには男性の二人組みが座っていて、
なんか悩み多き青年なかんじ。でもヤンキーな感じでもある。はー。
んで私も暗い気持ちでゴッホの憂鬱について語った手紙の箇所を読んでたら、
隣の男性カップルの片方が突然、そらもう景気のいいおならをして、公園中の人が動きを止めるくらいの景気の良さで、私ってばすぐ隣でさ、思わず見たら、目があって、
なかなか二人とも目が逸らせなかった。
気がついたら真っ暗になってて、もー帰ろうと思って歩いたら、
でっかい犬がコンビニの前につながれておって、
頭なでたらおならをした。
そんなことってあるのかよ。
投稿:by 未映子 01:44 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.10.17
みんな生きれ
やらねばならぬことが山積しているのに、
なんだかぐずぐずとしていて妙。忙しいけど忙しいってのはどうなんやろうか、忙しいというたとて、忙しいっていったい何やの。
睡眠をとらなあかんから人は忙しいんやろう。ずっと昔になんや、太宰のお弟子っさんの田中英光という人の作品を読んだときに、絶えずヒロポンヒロポンという単語があって、アカの運動してる作中の彼は打ちまり打ちまくって寝やんと活動しておった。
なんかよーわからんほわんとした小説やったが、ええ人やという印象はどこからやねん、なんか善人の印象、素直なんであろー、タイトルにほろっときた覚えもあり。たとえばN機関区、切符売り場の民主制、風はいつも吹いている。
今日は一日中をビールを飲んで過ごした。
行くべきところに行って、なんやかんやして、色々考え歩いたりしながらビールを飲んだわ、ようさん飲んでも全然酔わんかったわ、
これはどうしたことかって、ビールだけやったら酔わんのんで、一人で飲むのは誰にも迷惑かけずにすむのでまあ可、
家に帰ってスパゲティを作ってまたビール飲を飲む、
あーまず、あーまず、まずい、なんかまずいし飲みたくないのになんでかビールを飲む飲むで。
側頭部がずっきとすんなあおい、と思ったら昨夜苛苛として壁にぶちつけたんを忘れててなんか中の病気かなとか思ってしまったわ、ただのたんこぶか、はーもう、ずっきする。
コンタクトレンズも乾いてよう見えやん。
最近自分の中で違う欲がど、ど、ど、と動き出してるのがわかって、嬉しいのと面倒くせいなあというのと、やれやれというのと、やっぱ興奮するのと、仕方ねえなあというのとで、単純な気持ち。
ややこいことゆわんと、
単純な気持ちで、生きれ。
投稿:by 未映子 11:29 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.10.10
夢が教えて、くれるのだよ。かー。
雨が降っていますね、皆さん足元お気をつけくださいよ、
私は今日、下北沢で舞台の稽古をしておった、や、下北沢ってば、人が多いなあ、
や、マジで多いな、や、東京はどこでも人が多いが、なんか種類が違うような気がしてるが、
なんで私はこんな「人が多いですねトーク」で日記を、語らいを、幕開けせねばならないのだ、
人が多かろうが種類がどうとかどうでもええ!みんながそれぞれ頭蓋骨を持ってるなんてドキドキ!とかももうええ!でもみんなの形態が同じって、なんか壮観ではあるな。
や、もうそろそろ10日も過ぎるであろうから云うけど、
知ってた、噂、聞いた?
なんかさ、なんかさ、10日に災害か人災かは分からないんですけど、
東京には居ないほうがいい、という噂が数日前から、まわってきたわけ。
もちろん根拠は、誰かのスピリチュアルなお告げっていうものなんですが、
こう、映像とかさ、音ととかさ、そういうものをキャッチしちゃう人って、そらおるんやろうなあとは思うのよ、いくら私にそんな能力がないからってゆってさ、人にはあるかも知れんしなあ、その辺は私、なんでもあっていいと思うわけ。
なんか色々な人が東京から10日は避難するとか云っててさ、
お笑い芸人の偉い人も非難するって云うからさ、その話の信憑性はどないやねんって、
その偉い人と仕事してるディレクターに電話して聞いたらほんまやでーとかゆうてたし。
へー、ここまで届く噂でも、ほんまなことってあるねんね、
でも実際なんもなかったよね。
あー最近聞こうとしてなくてもこういう話がどんどん飛び込んでくる。
私、そういう予知夢みたいなのってそういう能力ないけど、最近災害で死ぬ夢をとてもよく見る、連続で見る。
んでその死んでいく最後に、いっつも思うことって、
「ああ、私、全然想像できて、なかった」
ってことやねんなあ!わかる!っこの恐ろしさ!このありえる感想!
「今まで災害で亡くなってった人たちはみんなこんな気持ちやったんやあ…、
今私、その人たちと同じになるんや、」
っていうのもその時思ってるねんけど、
なんか、ほんまにそう思いそうやもんなあ。
あー、まあ、寒くなるから逃げる用意の中には靴下を入れて、
なんか毛布もいるなあ。心配、つってもどーしようもないから、
生きているこのことを、やっぱ当たり前とは思わずに、
<ほんとはこのままで何もかもが素晴らしいのに>って、
そう本気で感じることも、この機会に出来そうな気もする。
ロマンチックでもなんでもない、この人生のまったき背水の陣を生きようではないか。
あ、私、予知夢の能力はないけど、
隣で寝てる恋人が、嘘ついてることがあったら夢に出てきてわかるねん。
知りたくないのに、や、嘘はいやだが、夢が教えてくれるせいで私は辛かったのだよ。
いっつもそれで、別れてきたのだよ。かー。
投稿:by 未映子 11:44 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.10.02
結ぼれ
・ ・・・・・・
病院に足繁く通っていたとき
悲しくて悲しくてどうしようもなかった
時計の数字は勝手に笑いやがるし
それぞれの数字が前の数字を追いかけあって
けども絶対に追いつかないので
それぞれが小さくおおぐるいしているのを
私がまいにち 責任をもって観察していた
人々の話し声は
まるでドラえもんの「声カタマリン」みたいに硬くて大きくて
私めがけてどこからでも飛んできた
私はいつもよけるのに必死
地面がちりちりゆれて発光してた
壁に刺してる青い街の写真がゆれて
鏡をみたら心臓が「わたしもうやめる、限界」
と口の中から懇願したり
私の腕を刺した蚊が可哀相で その蚊の母親を探してやりたくて
がんばったけど無理で自分を責めて腕を切った
せめて蚊に血をいっぱいあげたくて
病院の奥にいる人々は
目の周りを真っ黒にぬらして
誰もかれもが大変に苦しそう
ソファに座ってる赤いジャージに皮のジャケットの男の人は
よくみる顔
自分のちじれた汚い髪の毛を唇に挟んで
なんかを呪ってるようでそれは悲しい悲しい目をして
とってもなんか悲しそう
だけどもおたがい喋りたくはないのですから
わたしたちはかまわず 点々で
そんなこんなで月から金はあっというま
またまた診察の日はやってくる
お薬が切れるとだめだからね
病院へいってちゃんと続けることが我々にとっての大事なのです
ある日
病院へむかうある日
私はすこぶる気分がよくて
目の回りにいっぱい赤いお化粧をした
おでこのあたりも赤く塗って
鼻の際まで真っ赤に塗った
それを見た斎藤くんはぎょっとした
そう
病院へ行く日は斎藤くんが仕事を休んでいつもついてきてくれたのです
ぎょっとした斎藤くんをみて私がぎょっとした
なんでなんでなんでそんなかおでなんでなんでそんなかおしてわたしをわたしをみるんなんで
それからすごく悲しくなった
それから怒りが津波となってからだをさらってのみこんで
死んでしまいそうになった
私は気分がよくって
せっかく おめかししようとお化粧したのに
ぎょっとした斎藤くんをボコボコと殴って責めると
斎藤くんは「最高にかわいい」といってくれ「だいじょうぶ」
顔のほとんどが真っ赤な私を自転車の荷台に積んで
中目黒への坂道をじゃーっと下っていった
先生は「今日はすごいね」と目を丸くしていったが
斎藤くんは「最高にかわいい」といったので
少し悲しくなりかけたが私はそれには動じなかった
診察はけっこうハードで
診察といってもべらべら ぽつぽつ お話するだけ
では何がハードかというと
思い出の出方がハードであり 先生の目の動きがハードであり
先生の話の切り上げ方がハードであり
そして一番はやっぱり蘇る匂いと子供の声がハードなのだった
小さいけど大きい 何もかもが
ああ あらゆる時制の 大ぐるい
帰り道 私はうつむいて「もういかんとく」といった
斎藤くんは「そんなんいうな、がんばろう」といった
「だってこんなん続けたってしゃあないやんか、
泣いてるだけでいつまでも弱いだけや、
見捨てられ不安症とは先生も治らんてゆうたやんか」と叫ぶと
「あほか、よくなってる、だいじょうぶや」といった
病院に来ると帰り道 自分が本当に情けないどうしようもない
なんの処置もない人間に思えてしまうのです
よく知らない人に話を聞いてもらうことのいやらしさ
そのくせ話し出すと止められなくなる都合のよさ
狭い部屋で開放されたと勘違いする自意識の
その お目出たさ
私は情けないのと悔しいのと
自分のことがもういやだと思う気持ちとで興奮して
人々が行き来するところで私は
自転車をほうり投げて泣き出してしまった
ををーんと泣くと斎藤くんは
「おなかが減ってるからや」といって自転車を拾った
私はパンが好きではないけど
すぐ近くにあったので「あそこにしよ」と
フレッシュネスバーガーに連れていってくれた
パンのことはよくわからんから斎藤くんが頼んで
私は来たものをどきどきしながら食べた
顔が真っ赤なので人は私の顔をちらちら見ていた
指もさされた
私は急に心細くなって 下を向いてると
斎藤くんが「これ飲み」といってなんかをくれた
「私がこんなんで恥ずかしいやろ」ときくと
「どこにいってもすぐわかるからええわ」といって笑った
パンはすっごいおいしくって
「おいしい」というと
斎藤くんはすごく嬉しそうだった
そして
「今度から病院に来たら、
帰りにはいっつもここに来るって、決めようか」
ってにこにこ笑って私にいった
私はそれを聞いて聞いて
悲しいやら嬉しいやらで 涙でパンがもろもろになるまで
泣いて泣いて泣いて泣いた
・・・・・・・・・
投稿:by 未映子 12:14 AM [心と体, 詩] | 固定リンク | トラックバック
2005.09.21
突然に暴れ出す比喩が
家に一旦戻り休息とな。
本日不本意なが絶対とまではいわんでもかなり安静を要。
ベッドに体を気遣いながらにそれでもやっぱり飛び込みお布団にくるまり。
んでなんとはなしに顎の下までひっぱった掛布の、掛布の、形状っつうの、ワッフルっていうか模様ていうかが突然に暴れ出したらををーん、
急に気持ち悪くなってきて、なってきなっちゃって。
なんなんこの凹凸の配列。
退屈な日常の比喩縮図!四角い毎日ってか。
この気味悪いビジュアルに肌につけるのも、ぞぞとするわ!
あーんこの秀才顔した凸凹気になって休息どころでない。
そうや私以前蓮コラに襲われて私、一回殺されてるわけ私蓮コラに、そのトラウマがこんな時には躊躇も配慮も皆無で爆発。
まじで無理。こわいよー。
投稿:by 未映子 03:59 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
三宿病院はええー。
アルバム発売を明日に控えてるっつーのに私ってばあの腎盂炎の再来の鬱陶しさにおののき背中が痛いの痛いので動ける日はこの数時間しかないので、三宿病院に検査で行っていま待ち、ベッドを用意していただき横。
それにしても三宿病院のみなさんのなんたる優しさ。
極控えめにゆって、かんどー。
ここに来る前の半ば救急で入った病院など受付嬢の化粧の完璧さに反比例、まるでなんつーの、交通刑務所のたたずまい、私罪人のごときにあしらわれ、弱ってるから傷つくんだよね、最低最悪でもー泣きたくなっちゃったよ。んで三宿のみんなの優しさにまたもや涙、弱ってるときはなんか、染みるんだよね。
で、血圧はかったら84の54てそれ、低くすぎませんか。
私は血の気が多い、なぜなら肉ばっかり食べてるからとゆーのは意味ないね。そっかー私ってば血の圧、弱いのだね。なんかこの自覚を機に優しい人間になれそうだなこら。
あ、あとやっぱ私、注射すきだわ、かなりすき。針が刺さるときとか思わずのけぞってまう。ギブミーもういっぽん。
投稿:by 未映子 12:44 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.09.14
夢のよーなセックスをしてやる
歩いていると何もかもがいやんなり、何もかもが嬉しくって、んで家に家かえらなあかん時間まで少しあったから、髪の毛を切った。
もー自分的にはばっさりきったつもりなんだけども、鏡の前でちょきちょきやってもらってたら、なんか全然印象が変わらんくって、もっといけ!もっといけ!ってやってたら、結構短くなったけどそれでもなんかばっさりした感じにはならんかったけど、短くなってさっぱりしたっす。もともと長くないしね。
写真撮って載せようかと思ったけど、携帯がおかしいねん。
おにぎりにぺたっとはった海苔のような感じで、短いのはほんま楽でいいなあ。
そういえば小学生の頃はいつも段カットであった。そして今日再び、段カット。
そうそうこれこれという感じ。力がぐんぐんみなぎる感じ。
うっひょー!鉄棒したくなる気分。ウンテイでも可。嬉しい。
今日の私はちょっと元気があるぞ。なはんか最近色々あってさ、頭ん中がいろいろよ、しかしここに来て、なんかこう、吹っ切れたなあオイ!って感じなのかも。
段カット、などとは言っても今日はなんでか気持ちが妙に女っぽいぞ。今日はっつってもあと少しですけど、気持ちだけ浮かれていいかしらん。
意味もなくうきうきするのはなんでかなあー!決まってるやん、髪形やんな。
こういうガキっぽい頭に、女っぽい下着とかさ、べったりした口紅とかさ、ちゃんと睫毛塗ってさ、やー、これは逆にすっぴんのほうがいいかもな!
ま、それはどっちでもいいな、んでおしりの形のわかるスリップドレスとかって個人的にはすごいいいんちゃうん。
わ!着たいなー久しぶりにー。あーなんかめっさお洒落してなんかどっかべろべろになって酔ってなんかそういう泥試合、してみてーなー久しぶりに。ああ。
こういう女子の周期的にやってくる性欲めいた幸せって嫌いじゃないぜ。ヘアカットをきっかけにやって来た私の性欲爆発週間。や、月間。
普段の私じゃないみたいでそわそわするけども。リリースもあるのにどうしてくれよう。やー。どうしてくれよう。
食欲がこれで減退してくれることを祈ります。知ってる?女子の場合食欲と性欲って反比例なんやってさ。
私が男で今日の私が「彼女」なら、自分もちょっとお洒落してさ、ちゃんとお化粧もさせて(すっぴんも可)
ちょこっとおいしいお酒を飲みに行ってエッチくさい下着をつけれ!って(ここは古典的でいいのだ)ゆって、
「ベッドに入ったら<にゃあ>及び<にゃん>しか云うなよ」
とかなんとか念入りに(これは友人のおススメで、結構イイみたいです、みなさん是非)
主従ストーリーを練った上で、時間めっちゃかけて、
んで夢のよーなセックスをしてやる。
投稿:by 未映子 10:44 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.09.05
あんたは聖徳太子か!と連呼する幼児
私は叫んだわけ。
別に何かに対するノン!でも、お母ちゃん!でもなく、この泥棒ネコ!や、、これは人生のうちに一回は誰かに向かって鼻血でも拭きながら劇的に叫んでもみたい気もしないでもないが、これでもなく、もちろんこのアバズレが!でもなく、これはなんかこう、・・・このカタカナは打ってるだけでも申し訳なくただただ厭な気持ちに・・・・、や、なるから、これでもなく、とにもかくにも私は叫んだわけ。
声にならない声を、私は叫んだわけ。
こないだの大阪のライブの映像を、私ね、観ました。観ましたよ。
COTUCOTUもおりました。清水一登さんもおりました。素晴らしい演奏が、キャッチされてましたわ。そら素晴らしい演奏でしたわ。
そしてそこにはプラス私が映っておりました。そら、映ってますわね。そら、映ってるわよな。
私が歌ったんやもんよのお。ほぉら、映ってましたわ。
そして絶叫の対象は、私の身体でしたのん。
私のまあるいまあるい、身体よ。
私、急激に太ったんでしたのん。
もー、これどれくらいマジでっつってどれくらいってほらもー、どれくらいもなんもあるかいなってくらいに、もーこー、すんげいーい太ったの。どうすんねんなー。
誰かつまんでよ。もっと早い段階で、つまんでよ。肉を。あちこちのお肉を。でもって鳴らしてよ。低音効いた黄色い警鐘を、や、この際、警報を。町じゅうに。んで私のコメカミにびっちり張り付けつつ、鳴らしてよ。
でもね。もう遅いわ。遅いのだ。遅いのだよ。遅いのだからして。もう聴こえんよ。もう、つまめんよ。
だって、もう、決定的に太ったんだもの。物事には聖諦という便利な言葉があるのだからね。あ、これ、メイド・イン・ダザイ。聖なる諦めと書いてセイテイ。いいわね。21世紀のメンザイフ。私ね、もう、スマートかデブかってゆったら、きれいにデブ寄りなわけで。
なんっつっても背中がさー、高速道路のゆるやかーなカーヴの如く、ゆるーくてだるーくてさー、
わかる、高速道路のカーヴ。高速道路ってコーソクドーロってなんかホイコーローみたいで、クドーカンクローは違うけど、まあ、デブい。あーん。とかやりあうカップルはラブい。私はデブい。あーん。も、私の場合、溜息のあーん。
ショック。肉 is ショックや。私。いくら食べても、太らんかったのに。
これは年齢を重ねるということのへのまったき敗北宣言かしらん。もー。節制。私の嫌いな、というより、やり方がよくわからない、「節制全般」が雁首そろえて、もうそこまで。そこまで行進しながら私を迎えにきてるような気が、してきてる、着実に少しづつ。ねえ、これが噂の背水の陣、もしくはお尻に火がついた状態だっていうの。ねえ。水か火か知らんけど。ねえ、誰か。
しばらくぶりに実家に帰ったらさ、お姉ちゃんに、
「ぎゃっつ!あんた、首が短くなってる。にぶっ。
・・・・鎖骨って、どこ」
とかいわれてさ、
お母さんは目線はずしで、
「・・・それくらいのほうが、見ててふくよかな気持ちになれるから」
とか慰められてさ、
3歳の甥っ子は、私の顔見て、もー、寝てもさめても
「あんたは聖徳太子か!、あんたは聖徳太子か!」
って、なんやねんなそれは。どうすんねんな。もー。なんだかなー。うっひょい。
投稿:by 未映子 10:29 PM [心と体, 甥っ子] | 固定リンク | トラックバック
2005.08.29
ちりちりと、なんかが絶えず、いつも燃え
※暑い中暑い中、体をずりずり引きずりながら外出。雨傘のおっきいのを差す。
※隣人の牧かほり氏ちゃんから電話あって、家から少し出ることを決意。
かほりんは今、コムデギャルソンの次の服の絵を担当してて、骨董どーりのビルのだだっ広いとこで孤独に絵を描いてるのだ。
今年の3月にもコレクションラインの服を担当してたけど、このたび売られる服としても受注がついて、んでせっせとやってるったい。
※ビニールで出来た服で縫製はきゅっとして、着心地も、夏やったら袖通すだけで曇るけど、冬やったらええんちゃう。
※白黒の水玉とか、しましまに合わせて着たらかわいいと思ったけど、ジャケット18万円らしいっす。
※行きも帰りもエレカシの「風」を聴いた。一番最後のトラック、風。死ぬのかい俺は、君は、僕は、あなたは。
何百回と聴いているが、止めることがなかなかできない。宮本の声よ。歌よ。力を込めぎりぎりで歌うその様よ。生きることのすべてがあるように感じる。
またすっとこどっこいな私は「すべて」なんて言葉を使ってしまうけど、うっとりしたいわけじゃあ、もうないの。すべてはすべてで、僕は僕で、世界は世界以外にはなれない。
※ごはんはカレー、
※朝の4時に窓から外みたら、ばかばかしいほど真っ青やった。
知ってる?あの時間、意志と偶然の隙間みたいなあの時間、世界は真っ青で、真っ青で、色んな光が光りながらゆれて、おのおのが喋りだしそうで、
ちりちりなんかが絶えず、燃えてんねんで。
※唇からは絶えず血が少しづつ出ていて、デミアン、額にしるしのある、そんな、思い出。
投稿:by 未映子 11:29 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.08.24
今日は鬱陶しい記述につき、ほんとに暇な方、だけにどうぞ。
最近、健全に色々なことを曖昧に思って生きていけたらと、
それはもう、それはもう、ほんとにもう、思ったわけであって。
曖昧っていうのは、神よ。曖昧っていうのを許せたら、あなた神よ。
曖昧っていうのは、強い。
なんか吸収率もすっごくよさそうで、すっごいなんかしなってる感じ、折れなさそうで憧れる。
私の自分のクソ完ぺき主義なものの見方のやっかいさを最近とても嫌いになった。
この私の気質に一体どれだけの知人・友人が、憎しみを両手いっぱい胸いっぱいに抱いて生きてきたことか。友情と押し付けの擬似恋愛、結果、諸刃の負のスパイラル。お母さん、私はいつからこんな人間に。小さい頃は、私どうでしたか。や、もっとひどかったってか。ごめんね、みんな。友よ、正直に語れよ。や、語らぬのは優しさか。
私が生きてこれてるのは、友達が優しいからだ。
友達が我慢をしてくれているのがとてもとても大きい。
それはわかってるのに、
人間って不完全じゃん。
完全なまでに、不完全じゃん。
っていうのも、もちろんわかってるんですけどね、それとこれとはちょっと違って、主観なんてのは性格ですよ、そらもう性格、性格なんか、誰がいつどのようにして何の宣言をもって認定されたか私だってなんだかわからぬまんまにこんな性格で、
けれども、私は優しくなりたい、人に対して優しくなりたい。
「優しくなりたい」っていうフレーズが、私の人生とからむ、や、からんだのが、すっげい、意外。
でも本気よ。
話は「曖昧さ」に戻って。
素敵な意味での
「ま、いいやん」
で生きていくためにはまず、手始めに何をしたらいいのかが本当にわからない。
もっと年をとっていけば、悩むガッツもなくなるのだと、知り合いはゆってた。
そうか?
そうなのか果たして。
私よりももっと経験のある人はこんな文章を読んで、
「ほっほ、ほっほ、もっと悩んで大きくなりよ」とか云ってるのかしら。
私よりももっと若い人は「意味がわからない」と一蹴するのかしらん。
それはどっちでもいいねんけど
こないだ夜のスーパーで、揚げ物のラック見てたらヒレカツがずらっと並んでてさ、
どのシールにもちゃんと「ヒレカツ」ってうってあんのに、一個だけ、一個だけよ?
一個だけ「ヒレカッツ」になっててさ、もう呆然としたわけ。「ヒレカッツ」でもう、全身脱力したわけ。
えーなんでー?とか思うわけ。なんで「ヒレカッツ」なわけ。何回もシール見たら何回見ても「ヒレカッツ」やったわ。
それでそれをさ、誰かに無性にいいたくてさ、もう誰でもいいから「これ見てくださいよヒレカッツですよこれ一個だけっすよこれ一個だけヒレカッツっすよ」っていいたかったわけ、でもそういうこと別に誰も何でもいいみたいでさ、でもさ、ヒレカッツってのが、すごく、
ああああ、私未だにそのことを覚えてるわけ、未だに
こないだ電車に乗ってたらすんごいでっかいギンのアタッシュケース?っていうの?
太くてなんか頑丈そうなやつ、あれを大事そうに膝の上に抱えてる、なんか若い男の人がいてさ、
なんの仕事か知らんけど、携帯電話からなんか読み取って必死に紙に書き写してるわけ、
その字がまたすっごい字で、判別不可能で、もしかしたらこれって暗号?とか思う級の字形でさ、
ちらちらみてたらいきなりばちっとギンのアタッシュケースをハジキ開けてさ、心臓飛び出すくらい私びっくりしてさー、
したらかばんの中には髪の毛のスプレーとビトンの財布しかはいってなくてさ、へえええと思ったわけ。サイズの違いもなにもかも。
そしたら財布からためらいがちに、5千円札を取り出して、小さく小さく畳んでケースの内ポケットに隠したりしてやっぱここあかんわ、みたいに場所を吟味してまくってさ、なんか追われてる?っていう焦燥感まで演出しててさ、こっちまでどきどきしちゃってさ、全然隠し場所が見つからんわけ!
えええええとか思ったわけ、早くしろ!みつかるやんけ!って私までどきどきするわけ!
それから私に激しい「なんでよ!」が降ってきたわけ、
だいたい君はなんで5千円なわけ!なんでスプレーしか入ってないわけ!
今から何しに何処にいくねんな!君は君は君は君は君はいったいなにをどうしにどうしたいねんなって訊きたい、私はすっごく訊きたかった、
訊きたくて今思い出しても、得体の知れん、なんか気持ちがうずまきよる。
この話と曖昧さっていうのは多分全然違う話やねんけど
どっかで繋がってる気がしないでもないのが
困ったことです
投稿:by 未映子 09:59 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.07.24
私のおっぱい、ひゃあ
姉の赤ちゃんかわいくてあんまし子供好きではなかったのにどーよこの体たらくはいったい、
指をみると吸いつきに飛んで来、それが私も病みつきで、かわいい赤ちゃん指の出し入れは私の脳だか体のどっかも反応したんでしょう、
涙涙で帰京して、しばらくしたらばタンクトップがまあるく濡れてるわけで、みたら乳白色の液体で濡れていてひゃあ、
ああ、これは私の中の母性本能が刺激されたゆえの母乳が出るというのを昔聞いたことあるぞと思っていたけど、人に聞いたらそんなもん都市伝説やとゆーやないの、
んでもってちょっぴり心配、いつものドクターに電話したらば、あんたね幾ら赤ちゃんかわいくっても母乳は出んからすぐに病院いらっさいとゆーので慌てていったら、いろんな検査してもなんもなし、
非常に考えにくいことだけど、ものすんごいすんごい思い込みの激しさで、ホルモンを分泌したんじゃなかろうもん?当院では初めてですから!その後やっぱこりゃ思い込みによってホルモンを分泌したとしかいいよーがないといわれて、
みんなに囲まれあれやこれやの30分、誉められてんだか単純やのうと馬鹿にされてんだか、
人間のイマジネイションは、げに滑稽であり、かつたのもしゅうもあり、
や、イマジネイションつってもそもそもこれは何のイマジンすらも通過してなくて、なんつうかこれは誰の何による、何の為の発乳か、知らん。
で、ま、梅干みてたら涎が出ると同じよな原理で、母乳らしきものが、出た、ひえ〜。
投稿:by 未映子 10:29 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.07.19
世界は気分に乗って
コンビニへ行く道、ああ、直撃、
太陽はコンクリと皮膚と目に映る物物の黒いところを、
や、存在を無差別に直撃、
世界は白い熱にさらされておった、今日は暑かった、
しかし私はすぐに黒くなる、いわゆる焼けて、色がとっても黒くなる、
日焼け止めを塗ったとて、仕方ないくらいの速さですから。
歩く道みち気分屋について考える。
私は気分屋が好きではない。むしろ嫌い。
気分屋というのは、悲惨な人種である。性癖である。
気分によって終日を右往左往し、リセットの基準というものを内在させることの出来ぬアレやからである。
ときに質問、気分屋は自由にふるまってるように見えるか。
答えはノン。ノンノンよ。
気分屋というのは、奴隷である。気分の奴隷なんであるのよ。
しかして私も筋金入りの気分屋であって、近親嫌悪というよりは、もっとこう、人の気分まで視界に入れる余裕はないという私だってイッパイイッパイ的嫌悪であって、
気分屋というのは、どこまでも甘えた存在であります、
しかも他人に気を遣わせ感じさせる気分屋はとても最低であるので、独りのときに存分に浮き沈みをし、体を疲れ果てさせ、
人に会うならいっそぐーすか眠ってしまえ。
こないだアルバム完成させてのあの安堵は微塵もありませんので、
白い熱線で世界がほろほろになっておりました、
そんな中、悲しみを撃つ手を聴いてくれた人の感想は質量を持つ。
調子いいのと悪いのは、ある意味では同義やでという実感、自分の認識よりも迅速に、やってくるのはいつも気分。しかも気分の気分はわからない。
またこう、憂鬱の恥知らずなまでのノック、
親の仇も吃驚のノック、ノックノック、ノック。そしたらドアを開けるしかあるめえよ。
大丈夫、部屋に私は、独りです。
撃つか鬱かは私の器。
投稿:by 未映子 08:44 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.07.18
ピンクで小粒で危険なあの子ら
今日初めて「海ぶどう」っていう海草の一種のようなものを食べた。
お前も立派なブドウさね、と肩を叩いてやりたくなるよなブドウブドウした細かい食べ物で、嬉くなって食べ過ぎたせいか、おなかを壊した。
おなか壊すの久しぶり。おなか痛いのとか久しぶり。
昔便秘に悩む思春期のうら若きなんか十代だった頃はとにかく便秘で、
や、必要以上に思い込んでた節もある、
加えておなかをすっきりさせたいがために、次第に麻痺し、最高でコーラックを7粒!7粒よ!この7という字が一体どんなもんかということが諸君わかるか!
ま、そんなとんまで激しい季節もあった。
いま私のおなかはコーラック、あのピンクの小粒を7粒、と聞くだけで、あの、もう、私の存在自体が82歳のうちのおばあちゃんのふくらはぎもしくは臀部になったような、
そんな老老しゅわしゅわ感で。
おなか痛いの勘弁勘弁。
投稿:by 未映子 04:59 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.07.08
すごい励まし
風邪はしらんまに鼻や喉から抜けており、声も出るようになっていて、
別に今は録音があるわけでないから声は出ても出なくても喋れる程度でいいんだけど、
やっぱ楽。
今日は家でゴッホを読み、一生懸命書く。
んで電話で打ち合わせをし、資料を作り、
なんかをしてた。
あ、家でそういうことする前に私は渋谷にいて、
すごく久しぶりにCDを買いに行ったのだった。
何を買うかは決めていたのですぐに買う。エレファントカシマシ。
孤独な旅人のはいってるアルバムが誰に貸したか行方知らずになっていて、
でも聴きたくなったので同じの買おうと思ったけれど、色んな欲が出てシングル集を買った。
うわあいっぱい入ってる。嬉しい気持ちで信号を渡る。
どっぷりなんだか疲れてる気持ちが一歩ごとにまるいぼんぼんとなって蒸発してゆくような錯覚。
今からわたしは家に帰り家でこの音楽を聴くのだ。
懸命で荒くて真剣の表現と、今から私はあの散らかった部屋でおでこをつき合わせるのだ。
そして9日は野音で、彼らのライブを観るのだ。歌を聴くのだ。言葉を聴くのだ。
ああもうこれが、どんなけ、素敵なことか。
コンビニでなんか晩御飯を買おうとちょっと憂鬱な気持ちで表に出たら、隣に定食屋が出来てて吸い込まれるように入ってゆく。
有機野菜のお店やって。玄米やって。
盛岡冷麺とおにぎりのセットを頼む。
私のほかには核家族がおった。子供は6歳くらいかな。男の子でかわいい顔をしているけれど、非常に小生意気な雰囲気もあり、常にわがままが通る感じ、しかしそれでもやっぱり子供はかわいい、
行儀がわるくてすごくうるさかったのでちらっと見たら、注目されたことに優越感をもったようで、なおも騒ぐので、私は君に興味はないですよ、とばかりに机に顔を沈めて寝たふりをして、しばらくしてからちらちら見たら子供もちらちらこっちを見ていて、視線がどこまでも切れずに、最後はふたりで笑ってしまった。
その子供はだいたい鹿みたいな感じだった。私は蛙みたいに少し目の離れた、ちょっと濡れたような子供を生めるなら生みたい。
昼間に数人の友達とばったり会って、
「噛ませ犬」、「あて馬」などの語源やちゃんとした意味はなにかとか話してて、
んで「井の中の蛙」のことわざの話になって、
驚くべきことにこの続きを誰も知らなかったので、教えてあげたら、すごく盛り上がった、
みんなの気持ちが静かに盛り上がった。
「なんだー、全然いいことわざじゃーん!!」
って半ば私が怒られてるかのような気圧でみながみな感動していた。
てか何で知らんのんな。
みんな、「わたし、井の中の蛙でぜんっぜん、いい〜!」とかゆってて、
ちょっと興奮気味だった。
そして私は、人々の、そういう嬉しいような感嘆めいた声々に、一瞬、ほんま意味も理由もなく、ほんとに気持ちの一ミリ程度の隙間にするっと滑り込んできたものの正体は分らないけれど、なんかの匂いかなんかの作用か?なんかが重なったときのなんかの揺らぎなんかな、なんか、どっかの国の目が潰れてまうほどの太陽の強烈な光の一撃の寂しさに襲われて、文字通り襲われて、涙が出そうになった。
最近まで詰まっていた鼻がつんとして、口のなかから耳にかけてじわんと音がした。
おお。そういうのと、ことわざとは、まったく関係なかったと思うけれど。
これはいったい何やろか。
井の中の蛙、大海を知らず、されど。
されど?
空の青さを知る。
やねんて、すごい励まし。
投稿:by 未映子 02:14 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.06.23
資本主義と私の部屋の赤いまる2
で、赤い丸まるのことであった。
電話をしていた私は、寝そべってさ、べらついてたわけ。
ほしたら、あちっ!つって、おなかに熱湯をだっとこぼされた様な刺激が走ったわけ。
寝そべってるから熱湯なんかないしなんもないねんけど、熱いのが走る、こう、だっ、ってお湯が落とされるような。
携帯電話で焼けどする話は聞いたけど、電話は手に持ってるしな熱源がないの。んで、なん?ってみたら、おなかんとこにあかい丸がついてるわけ!
あ!これ!今ついたん!ってみてたら、水ぶくれでもなんでもなく、赤いちっちゃい痣みたいにまるーくついてんのん。なんだこら。
って不思議大好き!も束の間、私は思い出したわけ。嘘みたいなマジ気な話。
私はこれと同じ状態になったことが過去に2度あるの。
一回目は8年前。回転すし屋で彼氏と美味しくお寿司を食べてたら、ふとももんとこに彼氏がお茶こぼしたと思うような熱が走ったわけ。
「あつ!」ってゆって顔見たらなんもない顔してるわけ。こぼしてないねん、服もぬれてないし。んでスカートめくって見てみたら、同じ赤い丸まるが。あったわけ。
そん時は、どっかでこすったかしてひりひりしたんやろうなと思ったんよね。そしたらその日の夜に、交通事故に遭っちゃった。
タクシーに乗ってて結構おっきい事故で車は廃車で運転手さんもえらいことになってて、大変な事故やったけど、私はまったくの無傷。警察の自転車借りて家まで帰った。
事故って一瞬で終わんのな。あっって思ったら終了よな。
でも無傷、警察官なんか私を目撃者と思ったみたいで「乗ってました」ってゆったらびっくりしてた。病院にもいかず、事故に遭った興奮で3人くらいに電話しながら帰ったのよう覚えてる。
んで二回目も同じ年。歩いてたらまた例の熱いもんを垂らされたような感覚が。今度はわき腹。
すれ違いにたばこ?とか思うくらいの熱さと、ちょっとの痛さ。
ちらっと服あげてみると、また赤い丸まるが!大きさもそんな大きくない小さめの同じよな痣模様。
熱いのはその両方とも一瞬で、丸まるも知らん間に消えるの。
そしたらさ、次の日また交通事故に遭ってん。なにー!って思うやろ!私も思った。
今度もなんとタクシーに乗ってての事故。
今度は狭い道をゆっくり目で走ってたら飛び出してきた自転車のおばちゃんにぶつかってしまった。
おばちゃんは少し飛んでって、自転車はめりっとペダルにめり込んでうごかへん状態。
けども幸いおばちゃんに大事はなく、さっと立ち上がり車輪の回らん自転車を抱えるように引き摺って、なんか子供が子供が家でごはんごはん待ってる家家とかゆって走って帰ろうとするのを運転手さんが病院行きましょう、って追いかけてって、多分すんごい興奮すんねんな、衝撃ってな。
目の前が病院やったから私はそこで降りたけれども、人生で遭ったことのある事故が同じ年にあり、なぜかあっつ!の赤い丸まるの兆候などもあらわれ、そんな不思議なことがあったのでしたことを、私は一昨日ベッドでしゃべりながら、見つけたわけなんである!
さあ!今季もこのようにして私は事故に遭うのか!どうなのか!
今日は何を思ってか、や、思ったことはたったひとつ、2度タクシーに乗ってみたが、そんなことはなかった。事故はなかった。万事がスムーズであった。
私は超自然なすんごい話というのはあんまし苦手なほうやけど、そもそも自然の定義からして私の頭は曖昧でして、
自然がわからんで超もないやろと。
なんで何処までが偶然かなんかは判らんけれども、こういう話ってなんか扱いにくいというか。こういう事態を捉える私の中の基盤がないっちゅうか。
ううむ。ま、とにかく出たよ赤い丸まるが。うひょー。どうなんねやろうか。
これでもし、私が事故に遭ったら、や、遭わんでも、この赤い丸まるはいったい、何ということになるのか。
っていうかなんで私の部屋の赤いまる、なわけ。
おなかの赤いまるやんな。な。でももう、正直ゆってさ、手間でもないけどタイトル変えるのちょっち面倒、明日は歌入れ、よってもう寝らなあかんよってにもう10分が惜しいんであって、もうねむりゃなあかん。よってよってこのまま。
んで別に資本主義とかどうでもよくないけど、どうでもいいっていうか、話に全く関係の
なかったですね、すみませむ。
政治経済・ド・ニートな私、資本主義って書いたはいいが、実はあんまり実はよう知らん。
生きるって資本主義?
投稿:by 未映子 01:14 AM [心と体, 経済・政治・国際] | 固定リンク | トラックバック
2005.06.05
明晰夢っすか!
今日は明晰夢の話じゃ。
ま、見たい夢を見る、というのはもう、別段人類にとって難しいことではないのであって。
私は14歳のときに、筆舌絶するあの感じ、を体得して、
そらもう毎晩毎晩、見たい夢が見れるわけやから、楽しかったもんよ。
ほいじゃ今はどうかというと、
見たい夢、つまり眠る前にある種のうきうき感、そういうやっぱ情熱、眩しいまでの情熱が必要なわけで、そら頭の無意識とかなんとか有意識だかなんだかを、
こっち側で支配すんのには、やっぱ気合入れてもらいたい。
ま、こういうことは、今では多くの人々が、
「見たい夢を完璧に見れるようになった俺」みたいなのもちらほら書いてて読んだりも出来るけど、14歳の私の場合はなんか偶然に、今から思うと合致したとゆうか。そう、大体において皆んながやってる方法とおんなじであった。
説明の仕方は難しいの極みと思っていたが、どうしてなかなか、そうそうそういうことなと思えるような表現をみなさんしてらっしゃる。みなさんは文章が上手い。
で、見たい夢をみれるぞっつうのはさておき、
私が以前ちょこっと書いた、
「半分生身、半分夢、でも本気で空飛ぶ気分に、なれまっせ」
とゆう、そういう日記あったやん。金縛りを利用して、すんごい体験できるアレのことよ。
出来るようになりましたっていうメールを下さった方、ありがとう。感動的でしょ。なんかすごいこう、人生へのプレゼントみたいでしょ。よかったね。
ま、そういう私には個人的な遊びがあるのよーってんでそれを友達に喋ってたらさ、
「それ明晰夢ってゆうんやで」というので。
明晰夢。これって辛い大人たち、多感な青少年少女の遊びに、結構な需要で以って認知されつつ、全然ポピュラーな遊びっつうかそうらしいの。
ほいで名前が「明晰夢」って。ゆうらしいやないの。明晰夢。私なんで今まで知らんかったのん。えーってなんかそんな感じ。
しかも名前がまたぴったりしてるわ。なんというネーミングセンスか。そう、まさにあれは明晰夢。明晰な感じのあの感じ。
「みんな、それだけを楽しみに眠りに就いてるんや」
とその友達はゆってた。確かに。それだけが楽しみで全然いいよな。私もそうやったもんな。それぐらいのアレ。
ではどうやったら明晰夢をこの私とともに、や、別にともにではないが、遊べる、この感じを共有できるかっつうと、ここにわかりやすく方法が書いてあるからお読み。
でもだいたい、金縛りにならん体質の人はなかなか難しいと思うけどなー。金縛り、なる?なったらチャンスや。方法はここにあるからお読み。
や、こんな私も、昔に比べて金縛りの回数が極端に減ってきてんなー。ううむ。
金縛りっていうのは、やっぱ崩れたバランスやん。なんかが狂ってるわけやん。バランスが崩れたところの、非常な美しさの現象やん。
それを以前はバチあたりなほどに受け取っていたわけ。確かにあの頃独りでぴりぴりぴりぴりしてたわけ。
ちょっとも落ち着かんかったわけよ、生きてることがよ。
ああ失われゆく、脳と肉体のバランスの美の邂逅。
ま、今日は、皆さんにお伝えしたいことを書いてると、こんな風になっちった。
是非試してちょ。あれはちょっと、すごいぜ。
私はもう、「まず金縛りになれる方法」を見つけなあっかん。
投稿:by 未映子 01:44 AM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.05.26
思い出信者
ああ、世界は、
たった今も、渋谷や新宿、殺し合い、
サーカス、アメリカ、罵詈雑言、
や、ポップなことも盛りだくさんに、
あれやこれやもめえいっぱいに孕んでるというのに、
なんでこんな、
静かなの。
雨が唐突に降ってきても、
家があり屋根があるとはなんて便利なんやろう。
なんか、私のこの日記の内容が、
体毛、とかさ、そういうのが、
「断絶」を生みに生んでるのではないかと今一瞬思った。
や、思っただけで、思い過ごしであったならラッキーやけど。
というわけで、
部屋で掃除をし始めているのです。
要らん紙や雑誌を手際よく捨てたり、
紐を買ってきて、縛ったりする作業。
「紐を、下さい」
という時のあのなんともゆえん気持ち。
着ない服を整理して、いらん本をまとめて、手紙を確かめてより分けて、
なんだか、身辺整理めいてきたぞ。
と思って、
持ち物のことを考えてみるけれども、
ほんまに必要なもんてあんましないなあ。
着る服も、捨てられへんだけで、
着てるのなんか大体同じらへんのやし、
音楽も聴くのって大体かたまってるし、
本もなあ、捨てる理由がないからやなあ。
部屋を飾ったり欲も、あんまないねん。
あんまし、
何もいらんねんなあ、とか、思った。
全部、あれもこれも、
写真とかも、オモロイのとかあるけど全部もう捨ててもいいんちゃうかなあ。
ノートとか、そういうのも。
思い出の品と、脳ミソのある部分と、
ふたつが出会って初めてこう、
「事実」となるんかなあ。
たよんない、この頭だけでは、あかんかなあ。
思い出信者の私はなかなかに、
生きて行かれへんかなあ。
旅人はすげえなあ。
もう歩く道が自分やねやろうなあ。
投稿:by 未映子 04:44 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.05.21
体毛女子
眉毛が、濃い人というのは、
獣としてなんか生存をこう、なんか賭した生き物として、
薄い人に比べて、遥かに位が上のような気がする。気がしてるだけですけど。
体毛、この間さ、電車で横に座った女子がおって、その子はまだ学生でしたけど、
腕が見えたのね、白い腕がよ。
そしたらさ、毛がぶわーっとこう、
毛並みが確認できるほどに鮮やかな模様を成していてね、ウブ毛っつうの?こう、なんつうの、見てるだけで虎の子抱いてる気持ちになんのよ、
ああ美しい、ああ美しい、と思いながら撃たれながら恍惚の何分間か。
ああ君、君よ、君は、大人になって、どんな女性になるのかまったく知らんが、
君よ、どうか、この日本のなんちゅうの、主流な女性の美としてある概念にどうか浸からず腐らず、毛を守って守って、一刻も早く、そんな毛を持つご自身の優位に気づいてもらいたい。
そしてどうか剃ることなく、抜くことなく、一般人の真似っこ主義をせせら笑ってデベロップ、ほんとの美をなんとかデベロッパーして、独自のね、開発。もう開発。
そう、ま、生きていって欲しいと、
彼女の人生に一切の脈絡のない私が、
祈るような気持ちでエールを送り続けたのであった。
私は体毛が殆どなく、ま、眉毛も人からいわせるとあるほうだと云われるが、私の基準ではないに等しいのであって、
眉毛が獣のように、そう、獣のように生えている私になりたいよ。
指毛もないに等しい。脆弱、の極みである。
首の後ろも、私は中学の時の先輩と自転車を二人乗りしてるときに見た彼女のうなじから背中にかけてのあのうねりと、あの毛並み!美しい毛の宇宙地図に、
私はほとんどのけぞって、早速家に帰って自分のを確かめたが、つんつるてん。情けなかったなあ。
ま、脱毛ってのもあるし、邪魔な毛は剃ってしまえが常ですが、
いつか欲しくなったらもう生えてこんよ。こんのよ。ですので、私も、ま、脇の毛は人目に触れるときは失礼という社会通念上処理しますが、脱毛にはいかないですね。
多分、
やっぱ体に要る毛なんでしょう。それに加えて私の毛に対する愛情が、
ま、毛を抜く喜びは、毛がないとないのであって、私にとってはありがたい毛なのです。
というわけでアップした写真のほうも、見てやってくださいましたか。
ラジオで戴くメールの方々には、「お喋りと顔のギャップがすごいですね」なはんて云われますがそれってどうなんだか。
ま、「想像通りでした」でも多分おんなじこと思うんでしょうけども。
や、いつもメール有難うございます。全部読んでます。
投稿:by 未映子 11:15 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.04.26
女子中止
昨日はプロモーションビデオというかミュージックビデオというか、
ビデオの撮影であって、それは7月にシングルを出すのであって、それよう。
水の中に長時間寝転んだり、上がったら寒いので水中でずっといたり、ストーブをがんがんに焚いてくれるのですが、常人にとれば熱気がやばいのであって、みんな額に玉汗であった。
私は鳥肌で、でも顔には火照ったメイクが施されているので、いったいどっちなんだか。お前はどっちなんだか。
とにかく何時間も何時間も水に浸かった状態で、一日経ったら首がとても痛かった。
なんせ水に長く浸かってる為に普通、都度都度チェックしてゆくんだけども時折の映像を観ることも出来ず、まだどんな感じなのかわからないんですが、
みんな良いじゃないか、これはまったく良いじゃないか、と連呼していたのですごく嬉しい。
監督は井上強氏でなんという人柄!トーンが。
男は柔和な人が非常に理。井上氏の額に怒、という漢字をマジックで書いたとて、怒が途端に意味喪失、なんかもうその場で呼吸をしておる生きとしいけるものが笑顔である。
優しい人って大好きだわ。あかんかそんなことゆうたら。
優しい人が好きってゆう人は実は自分がどうたらこうたらとかゆう話もあると思うが、まあ優しい人は優れておるわけであって。
水の中に長時間居るわけで、
女子の私としては、つきいちの女子の日を的確にずらすべくレディクリに行ったのが5日まえ。
半径2ミリほどのまるい錠剤で、女子の生態は豹変するのであって、ま、全然楽な人もいるんでしょうけど、いわゆるピルの一種かと思われるが摂取したのはこれが初めてで、私はこれが大変にきつうございました。
気分が冴えない、憂鬱、なんかむくむような、途端に胸がきつい、おまえそんな5日でよ、と失笑されても仕方あるめえ、
だって事実なんですものよ。
それでなんかぶあついラバーを体中ぎっちぎちに巻かれたような気だるい感、自分の身体ではないような感に見舞われつつも、
普段なべちゃんを困らせる往来の気分屋気質の6倍ほどの浮き沈みを見せ、もう自分の感情の意味がわからないのであった。
ホルモンはすごいな。金輪際人を殺すも生かすもホルモンやとゆうても全然問題はあるめえ。
そんななか、スタッフの皆様のおかげで撮影は無事終了し、女子は的確に中止され、
薬のおかげで痛みを見ず、水の中も快適に思えた来た凡そ9時間後、私は熱いシャワーを浴びに浴び、これはすんごい気持ちよかった。
ピル摂取からなんか5キロぐらい一気に太り、スタイリストを多少泣かせた。CカップがDの一番遠いところまで膨らみ、しかしきっとこれは生理が来たら一気にさようならと解散するんだろうなと思われます。
投稿:by 未映子 09:14 PM [心と体, 音楽] | 固定リンク | トラックバック
2005.04.07
馬鹿やからなん?
右脳と左脳がほんまにふたっつに割れてあるのかどうかは判らんではあるが、
この二つをセオリ通りに受け取ると、なんか確かに、なんか、
何時もどっちかに、偏ってるような気は、しますなあ。
例えば。
やっぱ音楽とか体を使うこと色々、感情の無駄遣いなどしてると、文章書くのがオックウになるわねえ。
そういうご時世に本なんぞ読むと、
なんかが勿体無いような気になるわね。
せっかくほぐれてきたこの肢体が、なんかかっちりかくかくになってまうような。
濁った水色というか。
あのね論理、この蜜月の腰をこんなになるまで折りよって。
という気持ちに確かに、なるわ。
その癖に。
本読んで、
うっわあうっわあと思えるような表現の一行やらに出会うと、
私もうめろめろになって、
筋肉も匂いも何もかも、言語と脳ミソの純然たる産物、
そないな感じになっちゃって、お布団から出ませんわねえ。
体のことなんか忘れてまうわねえ。
本読みという職業があればと
心底思ったりするのも事実だわねえ。
いわゆる感じる専門家一歩通行になれればと、
本気で思ったりするもんなあ。
桜咲いてるけれども、
なんか照れくさくてあかんわ。
どいつもこいつも。気狂いめ。綺麗な感じでなあ。
自衛隊中央病院という桜がいっぱいあって一応花見の名所ということになってるところを歩いてたら、
なんかぞろぞろ集団が門から入って行った。
賑やかに騒ぐ女子が多数。
こうやってさ、自衛隊っつうぐらいのもんで、やっぱ申請ってゆうの、
そんなんしな桜も見せてくれんのかなあ、
去年は立ち入り禁止って話きいたしな、
や、もしかしたらなんかの説明会かなあとか思いつつぼんやり世田谷公園の入り口まで来たとき、
向こうから親子らしき二人が歩いてきてて、
ちょうど私とすれ違いざまに少年が、
「ねえ、なんであんな並んでるの?」って母親らしき人に聞いたら、
豆腐の滑らかさでもってすかさず
「馬鹿だからよ」
って答えたの聞いて、
私は
おお、ってゆってしまった。
投稿:by 未映子 08:59 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.03.15
誤魔化し主義の運命
劇的だなんてあなたそんなものは。
負けそうになってはエレカシの「漂う人の性」を口ずさんで、
枕に突っ伏し、
おんおん、おん、
気が済んだらまた無責任にどこぞに舞い戻って誤魔化す。ああ誤魔化す。
なんかこれすんごい悪いことしてるようなじづら。
これがわたくしであります。抽象的で厭だわって?や、本来言葉で書けるもんなんてあんまりありませんって。すると言葉で書けるものはおしなべて下らん、とゆうことになるがそういうことでもないですけど。
齢28マックラ自虐的な気持ちと二人乗り、
終日ブランコぎっこぎこに漕いでおります。
8という数字はイマイチな。29というのは良。それにしてもブランコを漕ぐ形態とゆうのはちょっと笑えます。ブランコに乗ったら目が回る方おられるそうですが、わたくしはげらげら笑ってしまう。げらげらげらげらと、細胞が諸手を挙げ挙げで笑ってしまう。
動きが、体に為せる命令でしょう。
あるいは連鎖。
臍が痒くて笑い叫んで疲。
こういうのがほれ、特に、最近のわたくしであります。
打ち合わせに行っても膝がかくかくしてううむ。
自分の唇の赤さもあんまし分からんのだなあ。
皆さんいかがおすごし。
多分そんなに何も変わらんとは思うが。
やらねばならんことが山積しておるというのは素晴らしいことですが、
同時多発的に塵じり逃げたくなるもんであって。我侭で厭だわ。このないものねだらが。
ああもうああもう。こないだニートくん、ニートさんたちの特集をテレビで観た。泣いたりうずくまったり恨んだり壊したりしておった。
程度の差こそあれど、認識の曖昧さはアダルトチルドレンみたいなもんやと思った。
ううむ。私と私の周りにいる人たちとあんましかわらんではないかというのは正直な感想。
やることがあるけれど、日が沈んでいくので淋しい。
一瞬で夜になればいいのにな。
ななな、お前はさ、自分の人生を一度真っ向正面、振り返る必要があるんだわね。
比較検証しなあかんのだわ。善意の比較検証を。
今がどれほどまでに美しい状態であるかを。
この状態がいかんともしがたくなんてよろしいんかと。
ごく控え目にゆうてもこれは安堵の非常事態。
これは紛れもない安堵の終端爆撃。
ありがたく受け取り意識し邁進したまえよ。
お前はこう、認識すれよ。
あ、お前ってわたしのことな。そしたら、また声がしよって、
や、何を云うかと。
たやすく人生を振り返るなんぞ、そんなもんはさら地を優雅にかっぽいかっぽい歩いてきた人間のみに許されたセレブなぬるちいシュミであって、泥地を這いながらにぎにぎと歩んできた人間には足跡なんか残るかいと。残ってたまるかいと。誰かが云うんであります。
振り返るなんてことは何時の時代もそんなことは一応、
一生懸命生きてたらば、そんなことは無理。無理無理。無理。無理なんで。
おかげさまで無理ですから。
毎日この時間は訳がわからなくなって来。
午後は五時。
時間は逃げるようにどんぐらどんぐら流れてゆく。
飽きれるほど飽きもせず。
とまあ、そんな毎日であります。
部屋は棺おけ、底辺に深夜、苺食べたり。
牛乳かけて。幼児期の憧れやな。
くっちゅと潰してな。
今から、今から私は、あれをするぞ。
投稿:by 未映子 11:30 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.02.21
天邪鬼の呪い
我々人類は程度の差こそあれ、天邪鬼に呪われておる。
やらなあかんことがある時に限って普段あんまりしないようなことをしたくなるのである。
例えば私はこの5時間後に歌詞のタイムリミット、歌詞を持ってスタジオに出掛けてゆかねばならないのだが、普段はよくよく更新遅れるくせによ、連投する勢いなんである。
ほかには入浴な。私、体内に熱がこもりやすい体質だとエドワード鍼灸院のエドワードに教えて貰い。
そうか、半身浴するとなんか一日だるくなるのはそういうことかと納得したこともあり、そういうわけであんまし長く湯には浸からん日常やのに、やらなあかんことがある日は3度も湯を張り浸かり出てはまたしばらくして湯をため、などという、不毛極まりない運動を繰り返してるの。
普段飲まない紅茶を淹れたり(淹れても飲まない。まずくて)、節々を伸ばすストレッチをやってもそれが何処に効いてるのか不可解にも関わらずしてみたり、筆ペンで写経してみたり。あほである。
一年の中で不眠に困る時期があって、あ、今は10時間寝ないと眠くて眠くて生きてるどころではないとゆう状態だけども、不眠の時期、あれはあれでけっこうつらいもんね。
そんなとき、即席の対処法として知人が教えてくれたもの中で、
「今から15時間は必ず起きていなければならない」などとそういうことを考えるというのがあって、わかりますか?
人はやらなあかんことがあると、けどあんまししたくないことが顔前にあるとき、往々にして逃避する生物なのであるので、ま、「絶対に起きていなければならない」と思い込むことによって眠りたくなる、というそういう効果なのな。
さあ、今から眠れる、という状況が睡眠欲をぬるいものにしておるということで。
時間が無いときほど本がすらすらと楽しく読め、文章書いてもなはんかのってくるし、お化粧なども念入りにしたくなるし、着替えにもなんか時間をかけてあれやこれやと試したくなる。そしてこの私が、部屋を掃除したくなったりしてしまう始末!驚愕。
簡単にゆうとい人類のアマノジャク性質をうまく利用するとゆうことな。結構効果はあったような、なかったような。
でも子供のときとかさ、学校休んだりしたらさ、今学校で授業受けてる友達のこと思うと気持ちよさは数倍であった。
よくわからんがそういうことなんだわ。
タイムリミットがあと何時間かで、あ、「タイムリミット新菜」って知ってる?漫画。少女漫画。
なんか思い出したわ。
皆も各自のアマノジャク性質を鼓舞してなんとか生きていってください。
投稿:by 未映子 01:29 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2005.02.20
っ頭蓋骨!
私には叶わん欲望がある。これはれっきとした事実であって悲。
自分の頭蓋骨をこの手にとってじっくり舐めるように観察出来ひんことなの。ああ悔しい。
嗜好とか趣味とか好みとか。
その他そういうなんかこっちの意志がチョイスが一枚噛んでるそういうぬるくさい話とはちゃうくて。
もうなんでかそれがホントにわけもなくこう、自分の細胞が欲してるんじゃというようなもの、こと、もう色々、
そういうもう憑依、これは感覚がなんかようわからん具合に憑依とゆうてもいい、私は自分の頭蓋骨をこの手で障ってこの指でその表面の感じ。そういうの味わい尽くしたいんじゃ。
私は頭の形がいわゆる絶壁。
ギタリストの藤井ちゃんには「みえちゃん頭の形が<う>みたいだね」とかゆわれもした。
でも好き。大好きこのいびつさ。床に仰向けに寝転んで頭をごろごろしたりしたらなんかギアチェンジみたいなそんな大袈裟な音がこだまするんであって。病み付き。
いびつ。いびつな私の頭蓋骨。いびつ大好き。
私みんなの頭蓋が結構気になる。親しい友達には頭の形を触らせてもらう。ほんで私のちょっとはちの張った部分の段落も確認して貰う。ここ、ここすっごい出てない?とかゆってな、確認してもらうねん。これがめっさ気持ちいい。
説明のつく気持ちよさなんぞ所詮説明のつく気持ちよさであって、この気持ちよさは誰かからの、私の人生への贈り物やと思うます。
それにしても皆がその髪の毛の下にそれぞれの頭蓋骨を隠し持ってるなんて。
なんて心躍る共通項。なんてうっとり。私たちそれぞれがそれぞれの大小様様、唯一無二の頭蓋骨を持っているなんて。ほいでそれがどっかへこんでたりぼこぼこやったりさ、ちゃんとまあるいとこがったりよ、私はそういう個性にぞくぞく。
この「多少いびつな形」に私は昔からめっさ心惹かれているのは知ってたわ。
まっすぐの髪の毛よりも、所々で太さが違う癖毛。左右の目の大きさが違う顔。鏡の前に立ったとき少しだけ下がってる肩などなど。均整のとれたものの美しさもそらあるんやろうけれども、ある人にゆわせると左右対称を求める人間のサガがいわゆる美人が好き、とゆうことに繋がるという説もあるんやろうけれども、
私はそんなん全然興味なし。
今日も自分の髪の毛の中に指入れてな、
指先でこの頭皮一枚下にある頭蓋骨の形の隅々に思いを馳せてな、触ってたらな、恍惚で眩暈しながら2時間が経過。
やめられへん。レントゲンで撮ってもらったら輪郭はわかけどがそんなんは全然あかん。私は見やなあかん、指先で感じやなあかんねん。
なんでか私が憑依されてるみたいに、
その細部に心奪われてんのは、頭の形と髪の毛。
髪の毛も、前にも書いたけど、もう目の前に一本柱みたいにそびえ立ってくれたら、私はフケになってもいい。
そういうことをばっかし考えてたから今日はこういう日記になった。
投稿:by 未映子 10:28 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.12.30
真ックラ世界の幼児
めくるめく桃色の肉、どこの肉?自転車、老婆、絶叫、いたわり、残像、放置した私が悪いが正義感を使命と勘違いしている四十男に追いかけられて、冷蔵庫前で西瓜への口出しで父親にしばかれ、悔しくて爪をはがしていました、ラーメンのひっくり返る瞬間、眠った人の怖い顔、
あとなんか色々なものが悪意とノスタルジーのうねうねとなって、わたしは断末魔となって飛び起きたのであった、のが明け方4時半ごろ。もう厭だ。
ノイローゼとはいったいどんな状況かは依然として謎のままである。
ノイローゼは持続する?ノイローゼは気持ちいい?ノイローゼはある精神の居場所なのではないだろうか?
ノイローゼ。実にいい名前である。
しかしてこれも、実態と名前との絶望的深淵からは自由にはなれないのである。ざまあみろ。私はノイローゼとは全く縁のない生活者である。
雪が沢山降ったので、歩いてみた。足跡のないまっさらなとこを踏んでゆくのはなぜ心躍るのだろうか不思議。
雨ならばまったく思いを割かぬことも、雪ならばなんとなく。
落ちてくる速度に釘付け。髪の毛や袖につく雪のひとかけらをじっと見てみる。じわりと溶けてゆく。
でもってこれを顕微鏡で覗いたりすると、この無数のどれもが、あのちゃんとした雪印のあの形になってるなんて馬鹿げてる。げらげら笑ってみる。ああおかし。誰のデザイン。しかも繊細、かっこええ。
例外はない、ということの徹底したなんか。
私は当然もう幼児ではないのであって、幼児でないということは、幼児のような希望を持ってはいけないということでもある。幼児は好き勝手に泣き喚くことが出来る。
幼児は、もし愛されているのならば何度でも無意味に抱きしめてもらうことが出来る。幼児は安堵を安堵として捉えることもなく、ただすやすやと眠ることが出来る。目覚めることが出来る。幼児は振舞える。幼児は訊かれても答えることが出来なくてもいいのである。幼児は守られている。突如大人はこれらのことが不可能であるなら、大人はいったい何から何になったものか。
真夜中の私はいったい誰だ。
天気がひどくいいので、
皆様、風邪などお召しにならぬよう。頭痛は頭痛薬で治ります。
虫歯は歯医者で。無論、技術には限りがあります。
世界に遊んで、大きな怪我はしませんように、。
皆様どうぞごきげんよう。
投稿:by 未映子 02:44 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.12.02
私らは言葉かもな、おばあちゃん。
「みえちゃん、おばあちゃん、死ぬのがこわい」
大阪の82歳になる、母親のようにわたしを育てた、今も俄然健康な祖母が、こないだわたしにそっと耳元で秘密を打ち明けた。
わたしは笑ってそんなんいうなやーと云うしかなかったのですがね、後からちょっと迷いながらわたしの思うところを話しました。
「死ぬときにはな、死を確認する自分はもう死んでおらんわけやから、死ぬ自分というのはないんよ。ちょっとキモい話ではあるが、そういう筋でいくと、光子ちゃんは、わたしたから見たら死んだということになるが、光子側では死んだという事実は、永久にないわけやな」とわたし。
「・・・ほいだらみえちゃん、おばあちゃんは死なんの?そんなあほなあ!だっておじいちゃんも皆んな死んでるし、人間は死ぬやんか」と光子婆。
「や、おじいちゃんが死んだと認めたんは生きてるわたしらであって、おじいちゃんに、誰かあんた死んだか、と聞いたか」とわたし。
「聞いてない」と光子婆。
「まあ、わたしも死んだことないから、ほんまのところはわかれへんけれども、怖いのわかるけど、死んだら何がどうなるかというのは、誰にもわからんつくりになんでかなってるねんから、なんか自分だけの、<死んだらこうなる>っていうのを今から作っとき」とわたし。
「ふうん。なんや、ようわからんけど、おばあちゃんはまたみえちゃんに会いたいわ」と光子婆。
「そうそう。会えると思っといたら会えると思うよ」とわたし。
人生というのは、こういうことでもあると、思うのであった。
という、論理に従えばこういうことであるのは真実であるとも云えるのですが、まあ潔く、論理に従えぬのが、感情ならば、やはり「理性は感情の奴隷」っていうのは、デカルトでしたか。
無いものを、恐れることは出来ない。これは論理であるね。
あ、わたしは論理と言葉というのをここでは同義で使っております。
だから、死ぬことを恐れているのは勘違い。これも論理でいくと、そうなるね。
でもね、「怖い」と云ってしまうのはなんなのか。なにが、何に対し、感じることなのか。
そうだ、恐怖は、感覚なのではないか。闇を恐れる、原始よりの、なんか恐れみたいな、そういうものなんではないのか。教育なのではないのか。一種の人類への躾なのではないのか。
ならばそれを、考えることによって克服せよということなのか。皆さんどう思われますか。
しかし、克服するからには前もっての恐怖が必要である。やはり、もともとは、死に対して、恐怖というものが、どうしてもあるのではないか。
しかし、論理的にはこうこうであるから、自身の死は存在しない、と納得して生きるのもこれまた道ではあるな。
お好きなように。出来るだけ。
まあ、自分の死は私も、存在はしないと思いつつも、真っ暗闇の真夜中に起きて、独自の感覚で恐れることがある。
未知への純粋な恐怖であり、未曾有のものに対して嬉々と受けるか恐怖と取るかはそれぞれの、性格なんでは、ないでしょうか。
まあ自身の死はさておき、他者の死は十分に悲しいものである。
今生の別れの後、云いたかったこと、伝えたかったこと、ほんとはね、なーんてこと、死んでもいいいたくない。相手に伝えられるうちに、私は全部をぶちまける。
というわけで、憂うな、生きとしいける者よ、
つっても、憂うわな。
投稿:by 未映子 09:02 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.11.28
それからわたしは巨大な髪の毛を想定する
なんつうか、ぐわんとポップに立体構築、女子のぜんぶ。
電車の中で女子は膨張している。唇、かかと、髪の毛、鼻の穴。睫毛も膨張している。女子の声も膨張している。膨張に次ぐ膨張。膨張における膨張。意味は不明。
電車の中で黙って立っていると、色々な人間がいるのだということを知ってるか。
わたしは電車に乗るとちょっと夢中。今日は特に夢中なのであった。かつらのような、頭をしてるのに、じっと見ると頭皮からちゃんと気が生えているのでかつらじゃなかった。あっふうん、などと思い、他の人の髪の毛をじっと見る。
わたしは「毛」が好き。
束になった毛ではなく、一本の「毛」に非常なものを、親密なものを、あと、決してなくならない情熱を感じる。髪の毛を、この何千本絡まりそして規律正しく生えているこの髪の毛群に指をいれて、特別な一本を指の先でわたし毎日探すんですの。
何時間でも平気。そしてそれを顕微鏡でみるあの至福。
電車で、人の毛を勝手には触ることが出来ないから、見るだけ。
しかも女子の毛を見る。
きれいな髪の毛はあんまり素敵ではない。癖のある毛が好き。
しかも全体にうねりのある種類の癖ではなくて、一本を見たときに縮んでいたり、曲がっていたり、くねっていたり、なんていうか毛先に行くまでにちゃんとしたドラマのある毛がいい。
そういうのを見ると、心が躍る。すごく踊る。そこに秘められたる感覚の海よ。わたしはそんな髪の毛が宿る頭を一日預かりたいと思う。
そういう一本的癖のある髪の毛を一本をぷつんと抜いて、何度も何度も指で摘んで触るのです。
完璧な音もするのよ。
わたしは仲の良い人にはそれを聴いてもらうのです。触ってもらって実際音を出してもらったりするのです。それでほんと、音が聴こえる、と云われるとすごく気持ちがいい。すごく気持ちがいい。指の先のある些細な部分がドラマ毛を滑ってゆく、あの、繊細で、存在感があり、そしてなんとも細胞的な音。すごく気持ちがいい。
電車には本を読む女子と、密接な距離で幾駅か乗合わす。
電車はすごくのろく、眠ってしまいそうである。このままどんどん速度を落として、なんだか止まってしまいそう。日差しが強く、首がずりずりと焼けるようであった。
女子は新しい本を読んでいた。ちくまの本。なんか見覚えある感じ。厚みも。ちらとみたら埴谷雄高の「影絵の世界」だった。影絵。女子はページに目を落とし、しばらくすると宙をみやり、またページを睨み、唇を尖らせなんかぶつぶつと唇を動かし、溜息をつき、髪の指を入れ、わたしがよくする形に近い所作で、手馴れた感じでいじり出した。
彼女の今、髪の毛を触っている指の感覚をわたしは自分の指の先に感じ、こそばゆくなって、目が離せなかった。
ああ気持ちがいい。埴谷の正しい妄想と毛と指が奏でる音楽と、焼ける日差しと膨張する女子。
それらにうっとりしながら、
「毛をわたしが見ている、わたしを見ている毛がそこにある、存在ってゆやあ、どっちも同じ」
在る物はぜんぶ、在る物よ。
それからわたしは巨大な髪の毛を想定する。
わたしは正しく妄想する。
大きな樹のような髪の毛一本。ドラマ毛一本。わたしの前に、現れた。
わたしはそれを両手、手のひらで頬でたしかめ、
どんな小さなおうとつも見逃すことなく、そんなささくれも見逃すことなく、一日中抱きしめるだろう。そして真ん中を割いて、見たことの無い、中に入ってしまいたい。
こんな風な髪の毛への情熱が見させる妄想。
でもきっとみなさんもなかなか説明できないけど、感覚で楽しむ感覚が、あると思うのです。
女子は膨張、妄想も膨張、他人の頭の中身はわからない。
判るのは、存在してるということだけで、それ以上でも以下でもないと、なんかゆってしまいたい。
******
30日は7時に出ます。皆さん、宜しかったら是非聴きに来てください。
「世界なんかわたしとあなたでやめればいい」も歌います。最近の歌です。
投稿:by 未映子 06:33 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.11.04
妊婦よ妊婦、ご機嫌いかが。
あれこれと思いつきながら何かをし饒舌になって水を飲むのも忘れていたらば知恵熱が出、浮き足立って苦しかった。ベッドで横になり目をつむっていたらばテレビから誰が喋ってんだか三島由紀夫が太宰治に会いにいった時のことについて興奮しながら話す声が聞こえてて、カーテンが日に透けて膨張していた。憂鬱。
わたしは二十歳を越えてからというもの、
よく見る恐ろしい夢のひとつに妊娠をし、出産する夢というものがあった。
これは男性には凡そ理解しがたいものであると思うが、よく考えれば男性にしたところで、自分の体に一切の変化のないままに、自分の子供が突如出現するというこの事実も相当に恐ろしいものなんではないかとも思うが、まあ妊娠・出産、そういう夢がわたしにとって恐ろしく、しかも頻繁に見る夢であった。
二十歳頃はそういう夢を、まあ恐ろしい夢を存分にみていたピークの時期であった。
なんのためにかと今なら思うが、そんな夢から開放され目覚めてすぐになんでか伊藤比呂美氏の「カノコ殺し」、「カノコのしっしんを治す」、いわゆる彼女がお産詩人となってきたあたりのカノコ一連の詩を、止せばいいのに何度も何度も読んだりして、暗い部屋によく一人でいた記憶。ネガティブの倍倍ゲームである。その頃はあんまり、単なる考えと、言葉と、実感の境がみえなくなってて、世界がおかしな時期であった。
夢の中でわたしは誰かの子供を妊娠している。
それがもう恐ろしくて恐ろしくて、もうくっきりはっきり現実みたいにわたしは妊娠してるわけ。
で、こんなに大きくなった子供は今更生むより他に仕方なくて、
時限爆弾を埋め込まれたような、世界の崩落を予言されたような、けれども他の誰も、わたしのこんな気持ちを知ってくれる人はいなくて、そしてそんなこと云えない、絶望の真っ只中、わたしは半分おかしくなってるわけ。
どんどんせり出してくるこの鈍いお腹、どんどん硬く、分厚いゴムのように膨らんでくるこのお腹。そしてこの腹の中心に別の心臓が、器官が、世界の種があるということ、気を失うほどの激痛ののちに、粘膜に包まれ皺くちゃの人間みたいな人間が股から出てくること。わたしは恐怖に縮まりながらそれを甘受するより方法がないというのに、人々は嬉しそうに無神経にこの得体の知れない腹を撫で回してくる。まあもうすぐね、元気な赤ちゃんを生んでね、おめでとうおめでとうおめでとう。ほんとにおめでとうございます。わたしはそんな笑顔の人々を片っ端から呪うのである。なにが、めでたいというのだろう。わたしは文字通り、自分を、何もかもを、すべて塗り残すことなく呪いながら、絶望的な気持ちで腹を抱えている。独りでいても腹の中にあるこのなんらかの重みを感じ、どうしようもなく感じ、わたしはこれの全責任である、わたしはこれの原因と結果である、そのことに後悔し恨みながら自分を責め、けれどもどうしようもなく、泣きながら毎日を暮らすのである。
出産を経て出てきた子供はよく出来た肌色のゴム人形のようで、しかし有機的に泣きじゃくり、憂鬱は妊娠のときとなんら変わらない。化粧気のない顔と、それとは真逆に血のしっかり行き届いた脳でわたしは取り留めなく考える。
(わたしはこの子の母親である。生物学的な母親である。しかし固体は別である。他人である。この子の意識はわたしが作ったものではない。けれどこの子はわたしがいなければこの数ヶ月を生きてはゆけない)
これは一体何なのか。わたしとこの子の正しい関係とは、一体何なんだろうか。この場合、正しさというのは誰にとって一体どんな効力があるというのだろうか。絶望は、そんなことを思いながら子供を眺めているわたしの肺を満たし血管を滑り、そのうちに唇を破いて流れ出し、この部屋をいっぱいにしてしまうような気がした。
そしてぼんやりと意識がまた別の再生装置によって再生され、ぼんやりと色に輪郭が浮かび上がる。
本当に目覚めたときに子供はいない。何かが決定的に違う。腹を触っても様子が違う。
あれ、わたしのあの子供は。
しばらく時間がたつと、あれは夢だったと理解できる。
ああ、夢。夢だった。あれは幻だった。夢だった。
その瞬間、全身の力が抜けてゆき、すべての神経が解かれてゆく感覚。この安堵は筆舌しがたい。夢だった。あれは夢だった。
夢で、あれは夢で、そうか、幻だった。
大丈夫、わたしは独りで、何も増やしてはいない、大丈夫、取り返しのつかないことはまだ何もしていない。
ほっとして救われたあまりにぐったりと疲れてしまうほどの安堵であった。
こんな夢をほんとーーーによく繰り返し繰り返し見ていた一時期があったのでした。
でもわたしの周りには、妊娠・出産の恐ろしい夢を見る人は案外たくさんいて、まあ女子というのはそんなもんなんだろうと思う。頭でっかちなんですよね。今思うとまあ仕方ないとは思うけど、ほほえましいような、や、まだ笑えない気持ちもあります。
そんなこんなでわたしも大人になり、結婚、出産、エトセトラの話をすることも多くなり、
変わらぬ思春期を生きてはいるけど、こないだ友達とそんな話になったのでした。
そうでなくても最近わたしのまわりには妊婦が多いの。
そしてその人たちは例外なく非常に満ち足りた顔をして、ウキウキとし、弾み、愛らしい母親予備軍であり妊婦であります。
正直言うと少々羨ましい気持ちもわたしにはあります。
この人たちある意味自我というものを過信していない。妊婦たちはみな誇らしげである。ほんとのところはわからないけれど、幸せそうに見える。自分と子供の間に絶対的な恐怖を感じていないようにみえる。わたしはぼんやりよく思う。こういう母親に育てられるのは子供にとって非常にいいことではないかと。息子よ娘よ、はやく生まれておいで、早く顔をみせてちょうだい。楽しいことがうんとたくさんあるからね、そんな風に迎えられる子供は非常になんというか、健康ではないか。母親や父親という他人から与えられるものではあるけど、生まれながらにして自分の存在に絶対的な理由が存在するではないか。そしてそれを長く信じることも可能ではないか。わたしにはすごいことのように思える。
若い頃見ていた恐ろしい夢は目覚めることで幻となったわけですけれど、
もしわたしが現実に妊娠をし、逆の夢をみたらと思うとちょっと恐ろしい。ちょっとまだ身のすくむ思いである。
夢の中では妊娠は幻であったと、
そう思いながら目覚めて自分の現実の腹を見たとき、わたしはどうするかなあ。なに云うかな。どうするのかなあ。
わたしはわたしの人生で子供を生むのかしら。生まないのか。わからない。
わからないけれど、もし生むのだとしたらもうあまり何も想像せずに犬が子供をころっと産むように、ころっと生みたい。人間が幾度となく繰り返してしたこの循環の一切には、
いくら考えても結局存在の理由なんか見つけられぬ人間が細々と考えるような意味や意図、善も悪も一切ないことだと、人間が説明できない仕組みに拠っている以上、人間がそれについて判断を下すことなどナンセンスであると、特別なことでもなんでもないんだという気持ちで生みたい。そういう気持ちになれたら生みたい。
そうなれば、わたしが生むのではなく、善悪を決めるのではなく、わたしが何かを選んだ結果ではなく、「出産」がわたしの体を介する様な。わたしのすること出来ること、人間が可能なことはなにも特別なことではないと、そんな気持ちで生めたらとなんとなく思う。過信することなく、逆もなく。
しかしわたしが今はこんなだから、
子供の生物学的父親は、わたしの物言いも理解したうえで、わたしとはまったく対照的な考え方をする人がいい。
すべての風俗は善であるという姿勢で、考えても考えてなくても全然いい。在り得ることは在り得たのだから、在り得るのだと、そんな風に笑って了解してる人がいい。
体を持っているからには健康でいて、皆仲良く、たくさん笑い、人の気持ちをわかる子にだけなってくれればそれでよいと思ってくれる人がいい。
わたしはそういう人のそばにおってみたい。
そしたらわたしも、よくわからないけれど、懐かしい大事ななんかを取り戻せそうな気がする。
気が今、しているだけですけれども。無理かなあ。
投稿:by 未映子 01:35 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.10.14
女子はトイレで何を。
女の子は可愛いがまったくトイレが長くて困るのよね。
豆乳を今朝一気飲みしたわたし、渋谷駅に着くまでに顔には縦線が入ってた。もう、まっつあお、である。
男性諸氏はイマイチわからんかも知れんけど、デートの最中、トイレに行った女子の帰りが異様に遅いという経験をお持ちではないだろうか。女子はトイレが長い。ほんとに長いのよ。でね、トイレ出た後のあぶら取り紙やお化粧直しモアお喋りが混雑しているんではなくて、純粋にトイレ、いわゆる密室、個室に居る時間が長いのです。
あっちもこっちも女子トイレはいつも満員、牛歩並の泥くささでもうこれ、苛苛するう、とかそんな余裕あるもんじゃなくて、非常に非常、非常の意味がわかってるのか、日常に非ずはド緊急事態なんすよこっちは、お願いですから出てくださいぃ~ひいぃ~っつって腰の引ける文字通り低姿勢のノックをさせて戴いて、それからちょっと間をおいての、あのノック返し。無愛想なコンコン、が、ハァ?ハァ?に聞える、無礼極まりなしのあのノック返し。
明確な殺意が尖ってドアをおもきし蹴ったたわ。や、びっくりしたやろうなあ中。体浮いたんちゃう。や、しかしあれはわたしが蹴ったんではない、寧ろノックに蹴らされたんであって、一瞬なにかが憑依したのであった、そこに並んでいた人数分の緊急排泄欲がゲンキ玉の摂理をパクってわたしの太股筋に瞬時に集結し、それで爪先から世界へと放出されただけのことであった。筆舌に難しのあのノック返し。出てきた時、恥ずかしいくらいの近距離での睨み合いになったが、さすがに大人の女子同士、それだけで終わった。
とにかくトイレ個室というのは、化粧直しとかメールとかそういうブルジーなもんじゃないんすよ、
とにかく回転とにかく速く、文字通りすみやかにちゃっちゃこちゃっちゃっこ大回転して欲しいわけ女子に。
それは午前中だったんですけど、時間関係ないもんね、女子トイレの混雑は。
わたしはトイレにかける時間というのは劇的に少なく(短く?)、え、もう行ってきたの!と驚かれることしばしばであるが、それでも平均女子のトイレ占有時間は長い。これもうべらぼうに長い。
これを読んでる女子諸君、あ、私長いわ、と思ったあなた、君、白状してほしいのよ、あなたはいつもトイレで何をしているのですか。や、マジで。トイレなんかさ、ワンツースリーで終わるやん。前にわたし計ったことあるんですけど、一分かからないですからね、余裕もってしても。
でもまあトイレで微妙に一息着いてるのかもね、こう、人々行き交う中耐え切れなくなった心のなんか、
沈めるためにトイレの戸一枚隔てて疲れた女子は脳の重さを量りながら便器に腰掛けポエムを書いてるのやも知れん。きのう撮ったピンクい映像、電話ムービーの音量を消してなんか余韻でいい感じなのかも知れん。家でやれよ。っつってぼうっとなってる女子というのは人の迷惑よりも自分の放熱に夢中、文字通り夢中なんであって、や、わたし今回文字通りが多いな、や、しかしわたしはいつか必ず暴いてみせるで。女子がトイレであの時間何をしているのか。や、でもマジで何してるんやろうと思います。みんながみんな、お腹を下しているわけではないと思うんですよね。
女子のトイレでの生態についてなにかご存知の方は丁寧に教えて下さいませ。
想像を絶することがもしかしたらわたしを省いた女子世界では長きに渡って流行しているのかも知れません。
*****
ところで昨日の日記についてメール戴いた。戴いた内容が、
ミエコさんの子供を生むことへの躊躇というのは、そんなありきたりの親子関係のことなんですか、という内容。
「なんでわたしを生んだのよ」という親への単なる愚痴が理由なのですか、そういう風にしか読めません。
もっと形而上学的な理由だと思っていました、だそうです。なんだそれ。
あそらくすべての子供が一度は発案したことのある「なんで僕ってあるのだろう」「なんでわたしって生まれてきたの」
というこのシンプルな問い。ありきたりであるとは、無論当然ではないか。
子供がそう思う理由というのは様々で、ながく病気に苦しんでる子供なら、なんでこんなに苦しいのに僕は存在しなければならないの、食べるものがないのなら、こんなに生活が苦しいのならなんで子供を生んだの。
そういう諸々の、誰に云っても仕方のない、子供の親への問いかけの原因こそ具体的であれ、
その背後にあるのは「存在」への恐ろしい、得体の知れぬ不安と掴み所のない了解である。
子供のなんで~から始る問いは「存在の謎」へのヒットである。これ以上に形而上学的な問いがどこにあるねん。
だから日記のあの一文を読んで、単なる親への愚痴にしか読めなかったというあなたは、
「存在すること」を本気で謎と感じ、そしてこの宇宙のからくりに畏怖し戦慄き絶叫したことが、
おそらくないのだろうと思います。それも性質。べつにどっちでもいいんですけども、悪しからず。
投稿:by 未映子 12:09 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.10.13
ずっと寝てたらよかった
昨日の夜は男の人と寝たのよね。まあまあ長く付き合ってる人なんですけど、一時ぐらい前には最近何だかんだで疲れてて、二人ともが色々最近の出来事だなんだ話してるうちに、もう体もしんどくってさ、知らぬ間に眠ってたわけよ。そしたらさ、夜中の三時にぱっと目が醒めて隣見るとおらんわけ。水のみに行ったのかトイレかしらんと思ってて、ちょっと寒いなあとか思いながら布団を巻きつけたらまたすっと眠ってしまって、そしたらどれくらい経ったんか、首の後ろに息があたるんで「トイレ?」って聞いたら「墓参り」とか云うのよ。
んでわたしも「寒くなかった?わたしちょっと寒いわ」って云ったら「うん、お墓はちょっと寒い」って云って、それからまたしらん間に眠ったの。んでまた目が醒めて隣見たら、すごい苦しそうな顔してうなされてるから、「どうしたん、起き、」って名前呼んでゆさゆさとしたけど目をぎゅっと固くつむって起きないのよ。んでわたしもなんか意地になって、ばしばしと顔を叩いて起こそうとしたけど起きない。最後は布団はがしておなかを蹴ったりしたんだけど、まったく起きないの。わたしちょっと怖くなってきて、台所に行って水を持ってきたわけ。
ほいで水を口に含んでぶうーって顔にやったろうと思って顔に近づいていったら、
がしって目が開いてさ、それがもう、ものすごい形相で、はっとしたらがしっ、手首を掴まれたの。その勢いでわたし口に入れてた水を飲んでしまって、怖い、とか思ってんねんけど、わ、飲んでもうた、とか思ってんの。
そしたら手首を掴む彼の手がめっちゃ強くなっていって、わたし、ああまたいつものやわ、とかちょっと思ってんの。んで、わたしもいつもみたいに「午前四時です」の歌を歌ってあげて、なんとか手首に張り付いた指をはがして、
おやすみおやすみと云うねんけどわたしもすっごい悲しくなってきてさ、いつのまにか泣いてたら、いきなり目に吸い付いてきて眼球を舐めまわすわけ。
もー、眠たいしそんなんしたい気分ちゃうーとかいいながらわたし、顔を持って離しにかかるんだけど、昨夜はもう親の敵みたいに吸い付いてくるわけ。んでなんで目ばっかしなんー、こっちもしてようとかゆってこそばくなってきたから笑い出したら彼も笑い出して、二人とも大笑いになって、シーツの音もこそばくて、
ああ、わたしこの人と一緒におってほんまにいいな、よかったな、
なあなあわたしの歌好き?とか聞いて、好きとかそういうんじゃないな、とか云うからじゃあどんなんーとか聞いて、ますますなんか大笑いになってきて、ああこの人と会えてよかった、よかったよかったよかったとか思ってて、
この人の首のところのこのほくろもめっちゃ好きやし声もすごいすき、体もすごくすきで、あごも眉毛ももう全部すきやわとか思って、よかったなあとか思って泣いてたら、彼がいい気持ちでなんで泣くの、というからそれもそうね、と云いながら二人でしらん間にまた眠ってたの。
そしてまた目が醒めて隣見たらおらんくってトイレやなあと思ってわたしはまたそのまま寝た。
んで九時に起きてわたしもトイレ行ってそば茶を飲んで、あれ、もう出ていったのかな、でも一言ぐらいなんか起こしてゆってってくれるのになあとか思って歯を磨いて,
メールチェックしてたら、なんとなくいつもの感覚になってきてさ、
力が抜けるというか、呆れるというかなんていうか、けらけらと笑っちゃったわ。
また。もー。おかしいんですけどそんな人実際いないんですよねー。
ほんとにいやになるというか。
また。もうー何回目よ。早い話が夢、夢なんですけど、
わたし同じくらいの濃さで見るから区別がとっさにはつかないんですね。
悲しいというかなんといかけらけら笑いながら涙がころっと出たわ。
いつも夢に出てくる人なんですけど、
夢の中ではもう全然違和感がなくてね、日常愛し合ってる二人なわけですよ。
でも実際の実際はいないんですよねそんな人。
名前も今、思い出せないんですよ。顔とか匂いとか特長は全部覚えてるのに、名前が思い出せないんですよ。
正直にいってすんごいなんか、なんていうか、疲れるし、悲しいし、歯がゆいし、もう、なんか。
何回も起きて何回も目が醒めて、今のいま、
今は本当に目が醒めてるのかしら。確かめられるのかしら。
また夢に出てくるのかなあ。でも見てるときは夢じゃないもんなあ。
ほんとのところはいったいどうなってるわけ。
ほんであの人は実際何処にいるわけ。いないわけ。
脳が現実やとしたらもう全部現実でええやんなあ。どうしたらいいのよですか。
体もしっかり動くし、おなかも減った。
でも昨夜の出来事はものすごくスムーズで、当たり前の恋人同士の夜で、
夢の余韻って感じじゃなくて、ついさっきのことなのに。
息とか指もちゃんとちゃんとあたってたのに。
今は雨が降ってるし独りでなんか寂しい。
ずっと寝てたらよかった。
投稿:by 未映子 02:39 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.10.05
「そんなことしたら、地球を壊す!」
雨続くんですってね。今朝は葬式のような空で玄関出たら一面粘土の匂いがしたわ。
友人からメールが来て内容、最近の未映子の日記わたしの周りで不評なの。知るかいな。不評、好評、どっちもおんなじ。
最近銭湯に行くのよ、わたし銭湯育ちですから。上京して初めて銭湯に行ったときはびっくりしたわ気合のなさに。このやる気のなさは何やねんと次の日別の銭湯行ったけど同じ。なんでやの、活気がないし充実度が低すぎる。東京では、そしてこの地域では銭湯の需要とはこんなもんなのねとリラックスのリの字もないまま出てきたのを覚えてます。まずサウナがないでしょ。あっても別料金でしょ。大阪には大体あるよサウナが。この差は大きいわ、めっさ大きい。家に風呂があって銭湯に行く理由はご家庭では味わえない何かなんでしょだったらサウナでしょそれがないんだから詰まらん。
でもとうとう、わたし少し遠いんですどいいお風呂屋を見つけたのよ。綺麗でびしっとしててなんか床が光ってる。いつも人が沢山いてなんか昔みたい。最近は行く時間決まってたからいつも顔を合わせる人が居てでも話はしない、なんか女の人って身体の形、全然違うなあ、いつも感心、白濁のゆるい湯に顔だけ出してわたしは人々の身体をじろじろ見るのである。すごい太ってる人、ものすごい針金のような人、毛のすごく濃い人、殆ど風にそよぐ感じな人、太ももに毛の生えてる人、眉毛がくっきりアイメイクの人、まつげひじき状の人、全身虫刺されひどい人、色々よ。胸もお尻も腰の線もほんとに全然違ってて面白い。大体胸の大きな人は先端が水風船に8分目くらい水を入れた形状に似た感じになってるのよね。ほいで誇らしげに湯船に浮かんできたのをちゃいちゃいと湯に浸け戻したり。わたしひゅうと口笛吹きそうになったわ。胸の小さな人と大きな人の銭湯における割合はわたしからすれば半々である。大きさというよりは形なんだな、好みって。あと色か。ううむ。大きな人でも靴下を下げたようになってる人もおったしなあ。大きい人はそういう意味では大変であるな。歳がゆけば肉も落ち下へ下へ誘導されるのだから痩せてしまってべろんと靴下にならぬよう、大きな人は筋肉を発達させなければならないなあ。若いうちはテンション上がるが後も大変ですね。ハイリスクハイリターン・逆、ですか。そういうえば鏡の前ですごい形相で筋トレしてる人がいました。手で横顔をガードして両隣から隠してるんですけど鏡で湯船から全部見えてるんですよね、間抜けでかわいかったです、美への執念が上下する胸の筋肉に反映されておりました。その人の胸も大きかった、でもちゃんとまるくてボールのようだった。それに何も胸やお尻の形だけじゃなくてさ、じっとみてたら裸のこのシュールな空間は面白い個性ばかりであります。意味不明の動物の刺青を尾てい骨あたりにでっかく入れてる人、なんか熊みたいにも見えるし河童にも見えるやつ、絶対に昨日噛まれたに違いない内出血のすごい跡がお尻についてる人、ずっと鏡見てずっと座ってずっと笑ってる人、くるぶしばっかり親指でこすってる人、次から次に人の背中を洗っていく人、もうなんか頭が痛くなってくるのである。面白いけれどなんかが風呂場狂ってる感。や、こういうわたしも傍からみたらばどんな風にして入浴してるのかは知らん。や、けっこう挙動不審に思われているのかもしれぬ。すごい熱い湯にもすごく長く浸かってるし。
ところで、銭湯には絶対行かぬと云う友達がいる。なんでやのと訊くと、不衛生だというのである。ほお。見知らぬ人々が浸かる湯にはあたし絶対絶対絶対無理。それに、と彼女は云う、絶対に誰か湯船の中でおしっこしてる。してるに決まってる。そんなみすみすおしっこ入りの湯船には入れない。
どうですかね、実際どうなんでしょうかね。
わたしも反証不可能なことを色々思うのは好きなんで湯船に浸かってるときにそういうこと考えなくもないですけれど、わたしが湯船では勿論おしっこをしないので、多分皆んなもそうではないかと了解しているので湯船に入ってるんですけど、件の彼女、実は彼女は以前湯船でおしっこをした経験があるのではないか。ふふふ。
「在り得る」、と現在思うことは経験として過去に在り得た事ばかりである。自分がした経験によって、彼女は「湯船にはおしっこが入ってる確率があるんだ」と思ってしまうんではないでしょうか。どうでしょうか。今度訊いてみよう、なんて答えるか。わたしは別にそんなのどっちでもよくって、わからんことはないものとして全然どうでもまったく宜しい。こういうところだけ実証主義なきらいがあるなあ。
でもこないだ、アメリカのアンケートで、「シャワーの最中におしっこを済ませる人は実に60%超え」という結果が出たそうな。どうですか皆さん、これは多いんじゃないですか?面白いよねえ、人のなんか行動規範って。
熱い湯に浸かりながら、倫理というのは、
「浴槽でおしっこをしないかするか」ということにも端的に表れるのだなあと思いました。
銭湯で、もしくは自宅の浴槽で、(絶対にバレない。トイレに行くの、面倒くさい。お湯は白濁、絶対バレない)
というこの状況で人はどのような行動をするのでしょうか。自分にとって気持ちよいことを人はするように出来ているので、ああこれやったらまずいかなあまずいよねえでもいけそうやしなあ、少々理性に後ろめたさが残っていても、このような絶対バレないなどという状況下では気持ちのよいことをやってしまうのではないでしょうか。
問題はそれを気持ちがいいと感じるかどうかなのである。自分が出来るかどうかなのである。平たく云うと犯罪、殺人などもそうである。おしっこと殺人を並べるのもあれですけど原理的には同じである。だから法律で殺人は禁止されているのにも関わらず、今日も各人の感情や状況の都合で沢山の人が殺されたりしているのである。違う、殺したくて殺したんじゃない、盗みたくて盗んだんじゃない、という人もいるんでしょうけど、行動出来たということはその人に出来たということなので、事故等を除けば、やっぱりやりたくてやったことになると思うのです。逆にどんな状況でも殺人をしない人もいるでしょうし。ううむ。その、「善悪」とは、「行動規範」とは、そのラインはほんとに何処にあるんでしょうかね。しかも自分の中でも微妙に変化したりするしね。思い込ませる教育しかないのか。や、先天的なものかどうかもこれもね。
まあ銭湯とはゆっくり物を考えるには気持ちよくて向いてないので、あんまりでしたけど、
こうやって考えると、全人類が「これはやったらあかんやろ~!」って突っ込めるような「悪」ってあるんですかね。もう全員が。「あ、すんません、それは絶対、無理す」って思えるような。そういうどんな悪人も習慣を持つ人も、もう全人類がびしっと「勘弁してください、それだけはやりたくないす、それやったら自分終わりす」ってゆうような、絶対悪みたいなものは、ないのか。ないのかも。ないなあ。だって誰か、誰かっていうか隣の国の暴れん坊将軍が、「そんなことしたら、地球を壊す!」とか、ゆってたし。
「地球を壊す!」やで。や、壊すんだからね。すごない?わたしはあああああああああああと思ったもん、すげええええええええええええって思ったもん、わたしこれ聞いた時さ、なんかめっさ初めて味わう違和感があってさ、や、何回も頭ん中復唱したからね、地球を壊す、地球を、壊す、ちきゅうを壊す、壊すって。ドラゴンボール?人間が地球を壊すって真面目にゆってる!ゆってるわあ!と友達に興奮して電話したもんね、この意味わかる、この違和感わかるかって。興奮したもんよ、すごい発想やで、発想というか想像力めっさあるんかめっさないんかもう判断不可能。大体「地球」と「壊す」をさ、主語と動詞で,、や、目的格?主語欠落?まあ結ぶ感覚がさ、なんていうかすごいよね。や、すごいというのではないか、単に前人未到というかえ!みたいな。なんというか。「なあ、地球上であんたの肉体が占める割合とかって考えたことある?」とか訊いてみたいけど多分地球ってどっか自分とは別のとこにあると思ってるような気がする。何となくする。断然する。誰かが小さい頃からそんな風に教えてきたような気がする。それで比喩じゃないところがまたキツいわ。「僕の自意識は宇宙を飲み込むの」とかじゃ全然ないわけよ。ゴリ本気なわけよ、壊せるって思ってるんよ、どうなん。地球壊すって。これ以上に取り返しのつかんことって他に何があるねん。まあ取り返しのつかんことに以上も以下もないが。ほんでちょっとだけアイツやったら壊したりするかもってとこが微妙で。やらかすかもみたいな。あながちおとぎ話でもないところが。ショッキングでした。ショッキングでした。
「そんなことしたら、地球を壊す!」
これ、実はわたしの中で去年、一昨年でしたっけ、一番インパクトあった言葉でした。
投稿:by 未映子 08:57 AM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.09.23
気分につける薬、なし
ペットボトルに入っている水が腐っているのか腐っていないのか判るんですか。
わたし、部屋に3日間帰らなかったらば水は常温で飲む習慣があるので、9月とはいってもこんなに暑い毎日だったので、危険。飲んでみてもイマイチ何もハッキリとは判らないので飲むのだけど実際はどうなんだろうか。物が腐るという線。腐ったものを食べたことはあるか。腐ってるのが判ったら人は食べないんではないか。14歳の冬、牛肉のタタキが結果腐っていたことがあった。食中毒の手前で助かったけどそれは非常に、苦しかった。非常、事態、黄色、が一面に飛び散り背骨は軋みすぎ。成人以後の急性アルコール中毒はそれと同じくらいわたしの「何か」は苦しがりおかしな程に七転八倒。物語としての記憶はもちろんないのですけど自分の肉体の重みと輪郭が失われ、思念だけがなんでか渦巻き、永遠に回転が施される宇宙の小豆になった感覚だった。表現が根こそぎ奪い去られ思念だけが取り残される。あの名文はつまりこんな状態か。
この3月には急性腎盂炎を初めて経験しすごい熱が出たんですけどこれも背中が中心がとてつもなく痛かった。他人の夢の話とペットの話に次いで退屈な話に挙げられる病気の話ではあるが、咳してももう、ほんとに背中がお腹の奥が刺されるように、や、刺されたことはないが痛いのよ。
わたしはいつも考えがやはり足りぬから鋭さが気分をいつも上回らぬから、なんでかと思ってもそれを追求する具体的な努力がそもそも備わっていない。才能がないのです。数学的な物事への理解への関心はすべてにおいてまだら不可能である。興味が続かぬのである。わたしの人生は観念よりも観念的な観念で出来上がっている。寝転びアイスを食べ食べ歩きながら本を読み詩を愛で、音と言葉に興奮し思い出を検証しながら肌のこの気持ちのよいぴっとりとした感覚に理由を求め、この指毛と宇宙の最果ての違いを漂いすべてのわたしにおける善と悪のギリギリのラインの根拠を、急かされることなく考える。わたしの人生これだけである。この独りよがりな脳の中で追えることを好むことだけが体質に合っているのだろう。稚拙稚拙でら稚拙。しかしてわたしの脳の性質をわたしが決めたわけでも無論、ない。それは各人に云える事でありましょう。テレビの中の戦争が最近なんだか気になる人。私って云ってる私って云ってる私って誰?って云ってる私って誰?って気になってる人。プラモデルとかセックス関連ばかりがもうこれ朝も晩も気になる人。野球と食物が気になる人。なんか色々いっつも気になる人。宇宙は、世界は、平たく云うと、それぞれの「感じ方」で存在しているんであります。ホーキングにはホーキングの「常識」の宇宙が。主婦には主婦の宇宙が。闇金融業者にはその宇宙が。酒呑み哲学者にはそれなりの。無論赤ん坊にも。
人は生まれて生きてそして死ぬ。ただそれだけであると小林秀雄も云ってます。あんまり人は、基本的に人と違う人生を送れるようにはなっていないみたい。
で、「痛い」で思ったことがひとつ。わたしの観念は訴えた。
腎盂炎の時わたし、その激痛の最中にね、痛いなあ、ほんまに痛いなあって考えてたのよ。
これこの痛さ、このギャグのような痛みはわたしの何が感じているんやろうかと。多分脳が痛みを認識してるのでしょうけど、可能性のことだけ云えばそんなんわからんやん?脳みそなしで生活したことないねんから反証出来ひんやん?まあこんなん云ったら養老孟司先生なんかは、「ほんだら頭開いてスプーンで脳みそ削っていってみい、いつまでそんなことゆえるかやってみい」とか云うと思うけど、まあ削ったことないから。んで、(これ、もしかしたら腎臓が独立して痛んではないか。この痛みは腎臓の機能の独立した叫びなんではないか・・・)とかぼうっと何となし思ったりしてたのよね、熱もあったし。ぼうっと。・・・脳が臓器のひとつとして心と呼ばれる機能を持つ、悲しい嬉しい辛い憎い、が脳のひとつの機能だとしたら、腎臓だってさ、肝臓だってさ・・・とかぼーっと考えて、あ、だから、機能はそれぞれおしっこキレイにしたりなんか分解したり独立してあって、その「知覚」を束ねてるのが脳なのだわ、とか、当たり前とされてるところに落ち着いたわけ。そしたら「心」も「おしっこロカ」も「アルコール分解」も同列なんじゃん同等じゃん身体の中のイチ内臓の機能という点でみれば、って。脳がそんなに偉いのか。快哉叫ぶ直前、ああそうや、これって「唯脳論」で書いてなかったっけなんだそれ、まあよかったねとか思い出したりしながら、それにしても痛いそれにしても痛いと唸っていたら、またもやわたしの観念は訴えた。
「身体の腎臓あたり、ほんとにすっごい痛いのに、わたしったら、精神のほうは、ちっともどっこも痛くない」
ということにいよいよ気がついてしまった。前もあったけど、今回は確かなる実感。実感を確かめた!どうよこの実感。実感としての実感。身体の痛みとは別に冷静になってみると精神は全然痛くないのよ。痛いなあってクールに判断してるだけなのよ、これに気がついてわたし、理論では一切になんやかや説明が尽くのでしょうけど、理論を越えた肉体と精神の直観、なんかデカルトの書いてたことがほろっと判った気が、した。気がしただけね。他人の考えてることがわたしの内容を超えて理解されることはないのであるから、なんとなくそんな気が「一方的」にしただけなのですけど、ああ多分に。
「精神と肉体は別物であると認識するその同じ確信の分だけ、やはり精神と肉体は分割されてはいない」この矛盾そのものである、論理的には何を云ったことにもならないナンセンスなこの直感。なんでか知らんがこれをわたしはがっしと抱いたのであった。了解したのであった。この矛盾がなんでか知らん自在するこの一点!
理論を横目に肉体と精神を両翼に認めつつ跨ぎきり了解するこのわたしに松果腺などという部位はもはや必要ではなく、矛盾を恐れる自意識などこの果て無し宇宙を見渡せどどこにもない。
だって感じるのですから。
宇宙は矛盾を孕みつつ、膨張し続ける自我である。どうよこの無責任な云い投げ。それでも「矛盾」という言葉がある意味というのを考えたらば、少しすっきりするのですが。矛盾上等。逆説万歳。どうよこの底辺っぷり。いやんなるわ。いやんなるけどそうなんだってば。もういいんだってば。
<何が>感じるのか、などということを巡らせてゆけばこれもうキーを打つ指も止るんであって。ああ、いつだって、上手く云えたことがない。云いたいことをきちんと云えたためしがないなあ。皆もそうでしょ。言葉を使っている以上、自分が在ると感じる以上、仕方がないというのは嫌いだが、仕方のないこともあるのでしょう。
人生に、認識に、わたしが文句を云ったって始ることもないですから。
たぶん、なんでかこうやって生きているのが常識なのでしょう。たぶん。急がなくても。
や、たぶん、なんて言葉も使わなくても、きっと大丈夫なんでしょうけど。
ああなんかお腹がゆるくなりつつあるのがわかる。今は夕方、風もある。ベッドのうえには行き場のない、名もなき自意識が言葉に幻した現象が散らばってる。ああもう。単に詩集が何冊かあるといえばいいのに。もう。わたし、自分のこういうところがめっさ嫌い。下らんわ。ああもう、なんでか鼻がじいんとして目の際から涙がだらだらと出る。
ああもうああもう。うるさいうるさいうるさい。うるさいって。
お腹減ったわ。
投稿:by 未映子 06:07 PM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.08.30
お誕生日、再考。
机が非常事態なんである。頭も臨界なんである。鼻も詰まっているんである。ド・エマージェンシー、合ってる?とにかくなんかがいつもすごいことになっているのである。平穏がレス。でも負けずに、感情に負けじ、わたしは書くのである。筆も折れよとばかりに、指先で打つのである、キーを。たったと。でもなんだかなあ。ああ、それにしてもわたし誕生日を迎え、前日はNACK5の方々に、その前日は隣人に、お祝いをして頂き、また酔ってしまってすみません。でめでたくブラックアウト。もう記憶がないのよ。他人事なのよ。あ、今思った。人の事と書いて人事。人事ってひとごとなのね。でお花、ぬいぐるみ、バスローブにワイングラス?、??ひのきお風呂セット、そしてなんと望遠鏡を戴いた。ほんでこれでわたしに何をしろというのか。この、ストーカーという言葉がこの世にお披露目される前からの会得者であるわたしに望遠鏡でこの期に及んで何を見ろというのか。ははん。マンションか。ははん。水平にしていいのね。星じゃなくて、全然いいのね。冗談。最近日記にも好き勝手な表現はあんまりできんよってに、検閲があるんよ。なあ。ほんでバースデー当日は部屋で黙々色々仕事をしていました。わたしは、あの、誕生日に思い入れなどはないと、ずっとこう自分でも思っていたのでしたが、なんかこの頃になって、あの、まるいケーキに、歳の数だけ蝋燭を立てて、部屋を暗くしふうっと吹いたり、ぱちぱち、りぼん、ありがとう、おめでとう、みたいな、みえちゃんすごいなあとか、なんか密接な、部屋でね、なんかそういうの、すごくして欲しい。欲しかった。誰かに。なんて昨日色々しながら思ったりしたり、でもまあどうでもよかったり。でもなんかして欲しいとかお祝い、そういうの、こんなに感じたの初めてであった。平和だね。
姉からは弟とその彼女、そして旦那と息子、わたしの甥ですね、なんか大阪で未映子の誕生日会をやってるという写真つきメールが送られてきて、写真にはまるいケーキに未映子、とか板が載ってて蝋燭も揺れ、嬉しいけど、なんかわたしこれ、死んでもうおらん子みたいやんと思った。この子が生きてたら28歳、みたいな。忘れられずに仮にみんなでお祝いしてます、みたいな。それにしても当事者のいないところでのケーキを買ってまでするお祝いの動機とはなんだろう。
わたしは最近よく考える。
<人は、少年少女時代を生きるために生まれてきた>
これは水木しげるさんの言葉らしくて、友人のコピーライターから聞いた言葉。ほんまやで、と深い納得を共にするのだが、もう一度、ほんまやで。そして大人として生きるようになるというのは、つまるところ、
その少年少女時代に足りなかったものを、補い続けることなんではないだろうか。
失いつつあるあの印象を、あのおおきさを、手に取り戻そうとする行為なんではないだろうか。少なくとも、わたしにおいてはそうなんではないかと思うのである。
少年少女時代に作られた不完全な世界観、不完全な世界に対する態度、それらは不完全であるがゆえに絶対なものであり、それをどのように補完してゆくのかが、
好むと好まざるとにかかわらず、人生の一面なのではないか。
トラウマしかり、嗜好しかり。そして老いて少年少女に戻ってゆくのではないだろうか。人生とは大きな意味で、「育てなおし」なんではないだろうか。
少年少女時代の、あの匂いの新鮮さ、恐怖の絶対さ、あの世界のおおきさよ。
時間は果てしなく流れ、時々神様、などと口にしていた。
世界は鮮やかな色で溢れ返り、
感情にはまだ名もなく、
水溜りはあくまで水溜りであり、太陽はどこまでも太陽であった。
手に触れるものはすべてみずからきらきらと光を放った。
もちろん真逆もある。世界を、環境を呪っていた少年少女もいることだろう。
しかし失われ続けた愛を取り戻そうとする人生も、
呪いを完成させようとする力も、補完するという意味においては同じである。
あれら世界の手垢のつく前の輝かしい手ごたえを、あるいは悲しみを、
我々は残りの人生を賭して取り戻そうとしているのではないだろうか。
お誕生日しかり。かつて子供であった自分の目に飛び込んだ大きく幻想的な蝋燭の火を、ここに来てもう一度、いや、何度でも、この同じであるはずの目に、
灯していたいのではないだろうか。
ああ、平和ですね。でも笑えませんね。
余談、
水木しげるさんのあの名言をある編集者が非常に気に入って涙、
先生、あ素晴らしい一文を是非使用させてもらってもいいでしょうかとお伺いをたてたところ水木氏、
「俺、そんなんゆったけ?」ですって。最高。
あ、このあいだ熱烈なメールくれたる君!
未来の華麗なるヴァイオリニストの君!勢い余って途中からすべて文字化けしていましたぞ。や、あれはわざと?しかしてこちらに伝わった熱はやや半分。途中の突如飛び出す命令口調がなんとも面白いので、吉。再読希望。
宜しかったら是非。
投稿:by 未映子 01:00 AM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.07.12
一炊の夢は、誰のもの?
毎週金曜日に、日記更新ということになんとなくなっていたのですが、
金曜日ってなんか座りがわるいのであって。
やっぱり月曜日でしょうと。なんかそういうのは。
そういうテキスト系のものは。週末ってね。なんかね。
で、これから月曜日に更新することにします。
つってもあんまり書くこともない週もあるのですよね。なんもないというか、
そう、なんもないという週が。トカトントンなわたしが。そうそう。そういうのって多いから、文章だってトカトントン。表情だって、頭の中身もトカトントン。聴こえてくるわよトカトントンが。
はあ、と溜息つきつき、たった今は12時5分。真昼間であります。
いつやったけの日記で信じるということについて書いた。書いた?書きましたっけ?
書いたよね。そうそう、神論者と無神論者ってのは信じてるという点において同等であると、そして我々は第一「自分」というものをまず「信じている」んではないか。とか。そういうことを書いたんでした。そっから最近「信じること」についてやれこれ考えておりました。
「信じる」にも色々あって、
たとえば反証可能なもの、反証不可能なもの。
そのどちらも信じることは自由ですけれども、最近「反証不可能なもの」を信じる面白さ、とうのにはまっているのです。反証不可能な、可能性。
はたと立ち止まり、ふっと顔をあげれば、
世界は反証不可能な可能性できゅうきゅうとしているのであります。
例えば死後の世界。いきなりシュールですけれども、これだってそうよな。
反証不可能なんやもん実際。
仮に、最愛の人が死んでしまった。もう今生で逢うこと、語らうこと、抱きしめることはかなわない。今現在世界中の何処を探したってその人を見つけることは出来ない。だって灰になってしまったのをこの目で見たんやから。けれども、もしかしたら、自分が死んだあとに、また、どこかで逢える「かも知れない」。我々がこのように存在していることを認めるなら、また別にどっかのなんかで別の、存在のあり方があるのかもしれない。そういうのって、可能性としては十分にある。馬鹿らしいかもしれんけど、可能性はあるやね。誰も実際に死んだことないからわからないではないか。ね。それはわからないでしょ。
これですね。ここ。こういうの。そういうのって、ええやん。だってわからんねんもん生きてるうちは。ほんならいつかまた会えると思っといて損はないんじゃないでしょうかね。まあ「信じられたら」の話なんですけれども、わたしはまだその辺頭が軟らかいから、信じれんこともない。少なくとも「あるわけない」とは思わない。可能性としてはあるかもと思う。だって我々のこのすっごい当たり前に思ってるこの存在だって不思議なもので、なんの根拠もないんですからね。生まれてきたからこの世界がわかるんであって、死んでからのことは死んでからじゃないとねっていうのはある。って今書いてて思い出したのは、パンセ。パスカルも同じよな事書いてたね、「神がいるいない、確かめられようもないのなら、信じたほうがなんとなく得じゃんか」。まあそういうことでしょうか。
なんにしたって「信じる」という概念、および行為はすごいもんですね。
で、最近興味深い記事を読んだ。
例の窪塚洋介さんに関しての。
完全自殺マニュアルによると7階以上からの飛び降りっていうのは死亡率100パーらしいやん。で、9階。これって巷でよく云われてるけれども奇跡やって、死なんかったっていうのはそれぐらい稀な具合やと。で、何故一命を取り留めたかという話で、飛んだ際に下にフェンスがあって上手い具合にクッションになったというねんけれども、
興味深い記事というのはね、ここんとこなのよ。
なんかね、何故あの高さから飛び降りて死なずにすんだのかというと、
あるどっかの先生に云わせるとね、
本人の意識、無意識に、とにかく「死にたい」だの「怖い」だの、「いけるかな、どうかな」的なそういうネガないわゆる「恐怖心」意識がゼロだったからではなかろか、という。
「俺は飛べる」と思ったのかどうか実際のところは判らんけれど、なんせ飛べると、信じていたのではなかろうか。それで彼自身のうちに、一切の疑念がなかった。つまり徹底的に一抹の空白なくもう絶望的なまでに完璧に、「信じて」いたのではないでしょうか。自分は今から飛んでくるのだと。「飛び降りる」ではなく「飛ぶ」というか。イエ〜ス、ユーキャンフラ〜イ。ピンポン!ってな具合で。まるきりくっきり信じきっていた。それはまるで我々が地面の存在を当然のものとして受け入れてるが如く。そしてその意識に素直に体は反応した。まるで空を飛ぶように、希望に満ち、肢体、うんとやわらかく。それがよかったんではないか、と。
ほお。と思いましたよ。「信じる」ことはそないにすごいことなんか、と。
「信じる」ことはそないに体をも支配するものなのかと。
病は気からというではないの。自分を信じてというではないの。
成功の秘訣は己の成功した姿を想像し、それが絶対に実現すると、毎朝鏡に向かって「俺はいける俺はいける」と呟いて、信じることだというではないの。
「信じる」。
この人類のみにゆるされた、このミラクル万能薬。
信じるものは救われる。信じるものは世界を制す。
そうね、その意味ではそうとも云えるかも。
それでもなんか、今回のその窪塚氏の信じっぷりの強烈さを前にして。
そういうのはなんか選ばれし者の、なんか特権ですらあるような気が、しないでもないですね。だって普通人は9階から鳥の酔うには飛べませんって。飛べたらいいなあ。でも無理ですって。常識が意識を離してくれませんって。
新幹線の中でその記事読んでてね、窪塚氏、とにかく常人じゃないなあと。
これはわたしの思うところの個性やなあって。
なんてこと友人と話してたらば、友達は否定的。「でも落ちたじゃん、飛んでないじゃん」。
でもよ。
あれが着地でないと、誰が断言できるのであろうか。
勿論羽ばたいてはいない。確かに見た目には上から下にぴゅーっと落ちた。たったそれだけのことやもしれん。でもあれよ、映画「コンタクト」のエリー状態よ。胡蝶の夢状態よ。見た目には落ちただけ。見た目には眠ってるだけ。でも内実は。一炊の夢は。
誰のもの?
そんなもん、その人のもんでしょうよ。
なぜか。なぜかよ。まったく関係のないわたしとって、あれは、
「墜落」ではなく「着地」に思えてしまうのであった。ううむ。
なんかそこにはありそうな気がするのよね。飛んで落ちるまでのあいだに。
究極の私的体験が。
わたし、前にも書いたけれど、
他人の、決して自分が理解できない感覚に、非常に心揺さぶられるのであって。
世界は絶対的に相対的なんであって。逆も可。
それにしても窪塚氏は、いったい何をみたであろうか。
案外なんもなかったりして。
投稿:by 未映子 01:00 AM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.05.14
失われた保健室のドア
電話切って、ちゃいちゃいっと掃除してたら、
腰のあたりがすごく痛くて、
あ、これ、もしや腎盂炎が再発、などというまっとうな発想のもと、
そうなれば早速なべたんに連絡して、今日はそちらには行きませんのであしからず、
今日は明日の京都に備え、これから病院へ行ってきますと伝えたのが3時。
病院はなんか暇で、でも待たされて、今日は急だったのでいつもの先生はいなくてまったく知らぬ先生。わたしが関西出身だとわかるとなんとなく関西弁を使ってきた。さあーてどないしようかいなあとかゆう。ほんの少し苛苛してわたし、こうこうこうで、腰が痛いんですけど、これが入院する前の痛みに非常によく似てるので熱が出たり寝込んだりするまえに何とかして頂きたい、というと、んーああ、じゃ検査しとく?いちおー。みたいな。なんだそれ。なんかちょっとまた苛苛して、だいじょーぶだと思うけどお?どおすんの検査するう?みたいになって、いや、もちろん検査はやってくれっつって、血とおしっこ採って、待つこと50分。ベッドで寝てた。看護婦さんたちの陰口も聞きつつ、平和やのおって感じでカーテンも揺らぎ。病院も落ち着くいい場所になってきた。
昼下がり非常にいい天気で、人も少なくって、学生の頃にさ、眠たくて仕方なくてお腹痛いんーっつってよく保健室に行って寝てたのそのまんまで、チャイムはもちろん鳴らんけれど。あれから何年も時間は経って、しかし今でもどこぞの学校では同じようにチャイムは鳴って、保健室もあってベッドもあるやろうから、そしたら何が変わったかっていうと、それはもう疑いようもなくこちら側、つまりはわたしが変化したわけで、対象は何ら変化していないのである。諸行無常の正体は常にわたしにあり。
世界中の何処を探したところで、もはやひとつの保健室のドアもわたしには開かれてはおらず、つかの間の午睡に、なんだかぼやけた白い気持ちになったんでした。
ほいで検査結果は、その先生のノタマッタとおりまったく問題なく、
それみたことかこの大げさ女、みたいな視線もちくりと受けつつ、
いやあじゃあこの腰の痛いのはいったい何でっしゃろうかってこっちも意味わからん大阪弁で、痛い痛いゆうてもそんなたいしたことない思いますけどーってゆわれて、熱でたら抗生物質飲んだらよろしいやんかとも云われ、そんな腎盂炎なんて別段大した病気でなし(あなた大げさ)、習慣性もあるっちゅうわけでもなし(気にしすぎ)、あなたあれなんじゃないの、仕事しすぎなんじゃあないのおって余計な一言まで噛まされ、わたしとてまあ数字に問題なければしゃあないわなということで、ほしたら有難うございましたっつって出ようとしたらこの先生がわたしの会計票やらなんやら持ってきた看護婦さんを叱りつけるというか怒鳴りつけるシーンに。
大きい声を、わたしは憎む。突発的に出す威嚇系の音をわたしは心から憎む。
なんで大の大人の男が何があったか知らんけれども女子に対してあないに大きい声を出すか。しかもここは病院であるのよ。しかもどうせ大したことではあるまい。それであんな声をよう出すなしかし。恥ずかしないんか。男だって人間である、むろん感情的になることもあり、女子供に対し大声を出すこともある。なんて本気で云う男は今すぐ樹海へ行け。足摺岬から飛べ。女子に暴力を振るう男に至っては、至っては、至っては、○○○○をまるごと万力で圧し潰し、皮を○○、大阪湾に○○。もしくは大型電子レンジで○までチン。それにしてもあの医者よ、大声でしかも人前で女子に怒鳴る、ああいう男はなんというか、今すぐぬか床に葬り去られるべきである。わたしは手前にあったカルテのボードでその駄目医者の頭をお前はこりゃあとはたいたろかと思ったけれど、一瞬なべちゃんの顔が浮かび、しゃしゃるのをやめた。しかもわたしは部外者であった。
帰りお金払うの待ってたら、なにやら男性と受付女子がもめてて、
その男がすごい馬鹿にした口調で女子を罵ってるんよ。今日はいったいなんなの。それも完全にお前呼ばわりなわけよ。傍から聞いてたら、へっ、マジで?みたいな口調よ。
まったく話が通じてない模様。何人かの看護婦、受付女子がきて相手を代わるんですけど、座ってお待ち下さいといわれても受付にかぶりつきなわけで。がっしり圧力。指とかかつかつやっててさ。そしたらさ、
最初に対応してた女子の顔がすんごいすんごい引きつってくるのをわたし、彼女からどうしても目を逸らせなくて、もうそれはそれはちょっと涙目になってて、滲んでて、悔しいのな、唇のはしとかぴくぴくなってるんよ。
そしてその女子の、只今受けている、あるいは発生している巨大なストレスが、まるくぽかんとわたしにまで見えて、なんか口からモヤみたいなんが出てきたんちゃうのんっていうくらいにほんとにもう、鼻もぴくぴくしてぷるぷるよ、心中の噴火はいかばかりのことでござるかと思うと、なんか3メートルこっち側のわたしのお腹がなんでか痛くなって、誰かあの親父の口を、誰か縫うか、縛るか、とにかく止めて、みたいな、いたた、いたたで辛いなあ。社会人はもう。
病院、とか区役所、とか、そういうとこでは人は何故か態度がでかくなりがちなもので、
それもいかがなものか。なんかさ、そういう盲信なとこって絶対あるよね。なんやろうなあこの状況限定特権意識。その男性すごいひどい言い方してたもんなあ。あの女子の眉間。視線。思い出しても辛かった。ぐっと堪えてたけれど、ほんとに今日はご苦労様どした。
検査結果はどうでした、となべたんからの電話。たいしたことないっす、っていうと、
非常に安心した様子。ゆっくり休んで下さいやって。ふふふ。
洗濯物も乾いたでしょうから、今から取り込み開始。もう夜だわ。
おなかは減ったけど減ってない。腰もだるいだけなんかも。いや、確かに痛かったから病院に行ったんですけども。
わたしはもう今生で、
3時間目から4時間目を、保健室であのうすい布にくるまり、うきうきしてゆるく、
あんな風に眠ることはないのかなあ。
それってやっぱり、普通に考えて、ない。
投稿:by 未映子 01:00 AM [心と体] | 固定リンク | トラックバック
2004.04.09
猫パニック
こないだレコーディングに行くっつうんでそれは早稲田って駅に行くと着くねんけども、
わたしの家から行く場合は永田町ってとこで乗りかえて東西線に乗らなあかんねんけど、
なんでかわたし勘違いしててな新宿に出てもうてさ東西線なんかどこにもないわけよ水色の表示が、ほんでさ、駅員にさ、わたしは早稲田に行きたいって告げたらすんごいぞんざいな態度で、は、こっからはムリなんじゃん、みたいな態度でさ、なんやねんと思って普通やったらいいねんけどさ、わたしはもうすんごい悲しかったわけよ、で、なんかわたしが気に触るようなことをしたんかって聞いてもなんかぞんざいな態度でまあ11番線に乗って高田馬場に行って乗り換えろというから走って11番線に乗った、そしたらそれがほんまに合ってるんかが不安になって誰に聞いてもなんか引いてて大きい声で聞いたら2人、違うことゆって、そのときわたしは高田馬場が飯田橋に間違えて頭にあって、わけわからんくなって、どっかで降りて、なべちゃんに電話したら猛烈に腹が立ってきたわけ、すっごいすっごいわたしは困ってるのにそんな普通の言い方じゃたどり着かれへんからこうして電話してるのに、わたしはもう心臓がどきどきしてどうしようかと気が変やのに、飯田橋と高田馬場もわからん、もうわからん、でも今日は4年間暖めてきた大事な曲のレコーディングで一切が台無しになってもうたって、もうムリで、それでも乗って、タクシー乗り場までが遠くてわたしは早稲田にいかなあかんのよ、で、おばさんがおしえてくれて、東西線には乗れて、もう苦しくてしんどくて今日のその魔法飛行のことを考えたら涙が出てきて、なんでわたしは乗り継ぎも人並みに出来んくてなにをしてんのかと、そうやってくらくら改札でようとしたらばーんって挟まってもう死んだ。涙がばあっと出て東京メトロとか知らんし早稲田に着いたら出口間違えて見たこともないとこに立ってて恐ろしい、それで電話したら迎えにいくっつってもわたしが今自分でどこにいてるのかもわからんのに何を迎えにいくん、すっとんきょうなことも怖くていらいらして悲しくて、タクシーに乗ってスタジオに着いた。猫パニック。
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2004.03.05
ただいま入院中につき
自己最高の9度8分をマークした夜は、しんどかった。
高熱が続いて入院しているのである。
デモ週末退院です。
座薬、挿入すること5回。優しい看護婦さんの指は冷たかった。
斜め向かいのおばあちゃんは漫画みたいに我侭であった。
看護婦に、江戸っ子弁での罵詈雑言。でもちょっとしたらしゅんとしてんの。
今週は入院中につきおわりでよかろ。
ああしんどい。
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2004.02.20
悲しみを撃つ手
忙しいんかも知らんけど日記くらい書け、とあるお方から愛あるお叱りを受けて、
まあ忙しい、忙しいけれども常軌を逸するのはおろか忙殺されるほどでもなんでもなく、寝るのはきっちり8時間もあるどうしようもなく健康的なわたしは、
そうよ、書くわよってんで、書きます。
まあ忙しいのよ。や、忙しいという定義からしてようわからん。だって自由業みたいなもんで、なんもないし、やることがあるけれども、そんなぎゅうぎゅうでもないし、歌うたったり録音したり歌詞書いたり人にあったり打ち合わせしたり、っていうのがわたしの大事な大事な仕事ですが、まあ、それとて好きでやってることで、大体そういうのにまつわる忙しさなんていうのは忙しいのでもなんでもない。でも頭の中はどうかというと、不穏である。不穏の粋の巣屈であって、こう、山手線、はたまたタクシーに乗っておっても、はたまたオムライスを食べていてもこう、何かしら、いるだけで、小春日和に涙止まらず、花粉でもあるまいに、龍ちゃん風に云うとぼんやりした不安っつうか、得体知れぬ真っ黒の恐怖に背中をいつも濡らされているような、晴れた日なんか特に。子供の頃からちっとも晴れぬ。
花が綺麗、雲が綺麗、嗚呼人生って素晴らしい!と本気で謳う友人には、同じ形態を持つ人間であるのに、この開かれた感覚の間は、この差を精製したのはなんかいな、といつも不思議に思っておりました。晴れた日ほどこわいものはなく、子供の笑顔ほど恐ろしいものはなく、幸せほど悲しいものはありませぬ。背中はまるく、うつむく角度は限界、ああ、気分気分。この気分。今では色々なお薬があるけれども。みんな頑張れ。
で、今日もこう、電車に乗ってね、揺られてるとさ、口が開いて。
最近サングラスをかけてるから世界はセピアなわけ。噴水がきらめき、プリズムもなんとなく写真めいて。ぱっと振り返ったら昔の天王寺動物園で、おばあちゃんと子供のわたしとおねえちゃんが走ってくるのよ。すんげえ楽しそうにね。楽しかった。でもその時も悲しかった。悲しい悲しいってやあね。云われてるほうは悲しくなかったらこんな鬱陶しいことないもの。わたし何にも変われてない。でね、まあ色々、とこう、思うのよ。とりとめのないことを。2月の昼下がりに東京シティのどっかで。
でも人にはこの憂鬱のことを、この曇った顔のことを、説明せなならんこともあって。わたしは仕事していて皆と同じように人を思いやり迷惑をかけてはならぬという理想を追う能力もあるので、我侭だけではいかんのであって、この晴れぬこの不穏な、周りの空気を貶めるならばその理由を延べねばならぬのであって、つまづきながら、云う、よくわからんが、こう、絶望的に悲しくて、うまく云えん怖さが、いつも、こう背中に・・・、そしたら親切な人は云ってくれる、「みんな同じだよ」。
そう皆同じであろう。たぶん。おそらく。そうなの。間違いなく、皆、怖いのであろう、皆、叫びだして、実は正気を保つ振りにもうんざりしているのやも知れん。で、わたしも云う、そう、みんなそうよね。そうでした。そうでしたよ。
子供の頃、例えば他愛もない遠足、ちょっとした肉体的な苦しみ、しかしもう限界で我慢できない、というと先生は、「何ゆってんの、苦しいのはみんな同じよ!」。でも幼いわたしは思ったことをそのまま云うので、「みんなが痛くてもわたしの痛いのは治りません、痛いままです」、「誰かが痛いのと、わたしが痛いのは全然関係ない!」。
先生がそれによってわたしに学ばせたかった、あるいは慰めたかったことは勿論よくわかるけれども、子供のころからわたしはこういう考え方しか出来なかった。だからわたしは苦しいんでる人、悲しんでる人に、みんなも同じやから、なんてことは云ったことがない。みんなが仮に、同じ苦しみを味わってるとて、その人の苦しみとはやはり根本的に関係がないと思っているからです。例えば親が死ぬとする、姉弟とはその悲しみをシェアできそうな気がする。無論わたしもそんな気がしている。そのときの悲しみの質は一番近しいものだと思う。でもその悲しみは、宿命的に素晴らしく絶望的に、どこまで行っても別個のものである。人が孤独であるというのはそういうことを含んでいる。
でも部分的であるにせよ大人になったわたしは、「みんな同じだよ」と云ってくれる人の気持ちが、先生に云われたときよりもずいぶん深くわかる。この仕事なんかでは特に、独りではないから。勇気のようなものにつながる気がすることさえある。苦しいのはみんな同じ。裏を返せば誰でも経験できるくらいの、そんな大したことない苦しみである。「自分に同情するな」とはノルウェイ永沢さんでしたっけ?「あなたは立派な人ですよ」とワタナベくんでなくても云ってしまいそうになります。
まあ気分を。気分を笑って、それが出来れば、こう噴水のきらめきを見て、晴れ渡る青々とした天を見つめつづけたとて、世界に余計な意味を付け足そうとするわたしのこのどうしようもない醜悪を、可愛いもんよと、フィジカルを、安くも高くも見ず、メタフィジカルとて同じ、こう、ぐるっと。もうちょい。なんとか出来そう、なんですけれども。
そうよ、もうちょいのとこでは、あるのよね。
ダメなときに、ぽーんと抜けられる思考の癖を。
それにしても天気がよろしい。
みなさん、雨にも風にも負けず。
ごきげんよう。
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2004.02.13
世界は少年少女のためにある。
ご無沙汰してます。未映子です。
なんと前回の日記から一ヶ月も時間が経っておったのですね。
皆様方毎日はどんな風に過ぎていますか?なんかぱっとしたことはありましたか?
嫌なことはありましたか?わたしは歌詞書いたり怒ったり、
それでもってやり直したりタクシーに乗ったり泣いたり吉野家に行ったり、
電話したりタイ料理食べたり失望したり躁の極み、まあなんちゅうこともあらん、
一ヶ月は飽くまで一ヶ月。一年は呆れるくらいに一年以外の何者でもありません。
そういえばちょっと前に、時間の感じ方について誰かになんか聞いた。
子供の頃って一日、一週間がすっごいドラマティックで、
一年なんかすごい長かったやん?一年が。それが今ではどうよ。大人になってしまった今では日常の瑣事に追われ予定に縛られこの体、一年なぞ一瞬で終わり、このぶんだと人生は一炊の夢なんていうのも日増しに大げさではなく、実感すらともなう、この感じ。
でね、子供の頃ってまだ時間に対する経験が少ないから、すごく長く感じられるらしいの。
あれよ、知らん道行くときはすごく長く遠く感じられるのに、帰りはめっちゃ早く感じるっていうあれと似てるな。それで、時間の経験が一年一年増えていくことによって、慣れていくのな。春夏秋冬に。朝昼晩に。盆や正月、季節の巡りに。明らかに9歳の一年間と、27歳の一年は長さが違うらしいのです。ううむ。
それで、人生80年として、どういう計算かちょっとうまく説明出来ないのがあれですけど、時間に対する感覚を、経験となんやかやして計算すると、人生の折り返し地点はいつだと思います?単純計算だと80年だったらば40歳ってことになるんですけど、なんと。
19歳っていうから驚きですよね。19って。だから19歳までの時間と、残りの61年間の時間というのは濃さ密度でいうと同じということに、なるらしいんですの。
確かに19歳までは本当に長かった。それからはあっと云う間であった。
昔の人は偉いね。二十歳過ぎるとあっというま、30超えると瞬く間。そっから先はいわずもがな。実感はまこと真理なり。
というわけで、人生の客観的観察は人類にとっては不可能であっても、こういう考えかたって、なるほどねえと思いますよね。だからってまあ、生きていくしかないんですけれども。
最近周りには、大人になってしまったと自覚する友人が増えてきた。仕事も責任のある役回りになってきて、ローン組んだり結婚なぞをしてみたり。子供を産んだり。聞けば怒ったり泣いたり腹立ったりなんかが急激に減ってきたんだって。そして大人になったら2週間先のことまでしか考えられないのだというう話も。ふうん。
世界は少年少女のためにある、とはわたしは常々思っているのだが、疑いようがないよね。
誰もが少年少女だったわけですが、世界は常にある一定の特権階級によって鮮やかに彩られているのですね。しかしここで云う特権階級、少年少女というのは必ずしも年齢に限定されるものではない。森茉莉しかり、稲垣足穂しかり甲本ヒロトしかりミヤジしかり。
気質やな。
あああ、わたしが好きな人はみんな子供だわ。

















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アスペクト
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