2010.01.13
キネマ旬報新人女優賞受賞しました
まったくのびっくりであんまりぴんときてないところもありますがありがとうございました、冨永監督をはじめ、菊地成孔さん
も映画『パンドラの匣』にかかわってこられたみなさんもみんなとても喜んでくれてそれがとてもうれしかったです。お祝いだなあ。キネマ旬報ベストテンというのはとても古い歴史のある賞なんだそうでなんだか気持ちもしゅっとするう。キネ旬2月5日発売号では各賞の受賞者のインタビュー&2009年の映画のそうまくり&さまざまが網羅されると聞いておりますので、ご興味あられましたらばぜひ。しかし生きてると色んなことがあるねえ(ふさふさ)。
そういや今月、映画といや今月、わたしは1月16日からリバイバルされる『動くな、死ね、甦れ!』をみるのをとても愉しみにしているよ&それから肝心な『パンドラの匣』が三軒茶屋中央劇場で上映されますのでこちらは来月、2月27日からです。映画はそんなに観ないけどホームタウン、ちょっと好きな映画館なので見逃してる!の方はぜひに!どこかで書いたけどみなさんは知っているだろうか、この「!」も「?」も猫をお尻のほうから見たかたちだということを。そういう心境のときにきっと彼ら彼女らはこうなるねん。下の黒丸はお尻のあなでうえしっぽ。
投稿:by 未映子 11:20 PM [映画・テレビ, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック
2008.12.07
帰京、冬の最中、12月
現在、発売されている「現代詩手帖」、今年の詩の総まくりあれやこれやにて「先端で、さすわさされるわそらええわ」が、巻頭の鼎談で取り上げられて、なおかつ詩の抜粋も紹介されております。
今年はユリイカに寄稿させてもらってた詩を一冊にまとめることのできた、大変にうれしい出来事から始まったことを思い出す思い出す。どうぞお手にとって、現代詩の現在のようなものを体感いただけるとさいわいです。
モンキービジネス「バナナフィッシュにうってつけだった日」、ユリイカ「いざ最低の方へ」のご感想も、本当にありがとうございます。
地方での仕事はパビリオン山椒魚の冨永監督の「パンドラの匣」(太宰作品の中でもこれを選択しはったのはナイス…ナイス…。普通なら映像化するなら長編とか、皮膚と心とか、ヴィヨンとかをどうしてもやりたくなってしまうのではないだろうか。うーむ。太宰の履歴や作品と今回の映画化について、思うところ様々あるけれども、それはまたの機会にしたいと思う)の撮影でありましたが、びゃあっと撮影はもうすっかり終わってしまいました。長かったけれど早かった。
数年前に自分で書いたゴッホのふたり芝居や、舞台に呼んでもらったジュネの「女中たち」とは、なんというか形式が違うので当然なのだが勝手がまったく違うもので、全方位における違和感の収穫でありました2008年の暮れイン仙台。
ふだん文章を書いてると、どうしても自分は単語にはなれないので、価値基準、価値判断が完全に監督にある(にしかない)映画の現場というものは、まるで無力なのだが原動力はそこにしかないというような呼吸する「単語」になったかのような錯覚があって、よい体験であったと思う。
舞台やライブなどは始まってしまえばやっぱり役者や演者や観客のものであるところが多いのだけれど、そういう意味で映画はただそこに指示とおりいるだけなので、撮ってゆく順序になんら文脈はないし、何も始まらないまま、そっと終わってゆくのだった。見知らぬ紙のうえに配列し、自身をふりかえらぬ物語のちいさな要素としてある単語のふるまいそのものなのだった。しっかりした体を動かしながらも、心は言葉によりいっそう寄り添うゆりかえしは、まさに恍惚と不安の同居であった。
ふだんなにげに単語をつなげてゆく作業を思えばふりかえって。朗読にしても演技にしても、それぞれ違うのだけれども、基本的に言葉と体を行き来する運動というものは自分にとって実りの多いものであるという再確認。
加えて撮影の現場でのさまざまな違和感は小学生の頃以来のもので、うきうきするような未視感とあきらめのわるい既視感の入り交じりをそのまま追体験しながら思い出しを愉しみました。
音楽は菊地成孔さん、ギターと歌の練習を一緒にしていただいた。このあとの録音でもひきつづきお世話になる。
爽快な方でどのような音楽がつくのか非常に愉しみ。
長編もおおづめ。
待ってくだっている読者のみなさま、全方位とてもよいものをお届けできると確信するに至りました。
ナイス、ナイス、ヴェリ・ナイス。
投稿:by 未映子 11:15 AM [映画・テレビ, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック
2008.11.09
「天のゆりかご」、その他もろもろのご案内
★
考えてみれば、あれは6月だったのでありました。
4日かけて飛行機に3度乗り、シルクロードをひたすらにゆき、
パミール高原に辿りついて、色々なことがあったのは……。
色々なことはもう忘れてしまったけれども、それとおなじぶんだけ覚えているのでもあったのだった。
しかしこういうのがあると、色々しっかり思い出すことができますねえ!
写真で固定、映像で固定の事実です。
しかも自分の目で見るよりも、映像で見たきれいさよ。ああこんな場所にいたのですか、と思ってしまった。
くわしくは、ぜひ、よかったら見てください!
放送日は11月16日。全国放送。
特設サイトもできた模様です。
うきうき的なサイトで凝ってあります。写真がいっぱいあります。
でもこうして改めて見てみると、景色がすごいのだったなあ…。
どのチャプターの写真もいいので、ぜひ見てみてください。特に大移動のところなど……。
大きな山でおなかを押さえてるように見えるのは、
景色は書き割りみたいすぎて、笑いが止まらなくなってしまった状態です。
番組の宣伝関連で色々なところでお話しています。
テレビで書店で(11月14日にはニュースアンカーに生出演します…関西のかたはぜひ…)、
出会い頭的に見つけていただいたらばぜひ……。
★

今月発売のモンキービジネスに「バナナフィッシュにうってつけだった日」を
ユリイカに「いざ最低の方へ」を寄稿(入稿)しました……。
それぞれ短編か詩かそれに非常に類するものです。詩がこんなにも愉しいものであったとは。
知っていたけど、なんだかけっこう久しぶり。
発売日にはここにこうして書けませんので、先取してお知らせしておきます。
長編は、書いても書いても終わらない。そのすきまを次に来る短編小説がいつも埋めてゆくのでありました。
★
すみませんが業務連絡……
そして、来週から11月17日から12月5日まで仕事で東京からいなくなります。
のでパソコンのメールがぜんぶ見れなくなります。なので、何かしら緊急の場合だけに、電話をくださると助かりますので、
どうぞよろしくお願いします。
投稿:by 未映子 02:44 AM [映画・テレビ, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック
2006.10.27
浜野佐知監督・尾崎翠原作「こほろぎ嬢」素晴らしかった
昨日は東京ウィメンズプラザで浜野佐知監督、尾崎翠原作の「こほろぎ嬢」を観た。
台詞や状況設定など、大部分を原作に忠実に再現していて、衒った手法をひとつも使わないのに、見事におのおのの「官界」に於いてしか理解不能な素晴らしい作品に仕上がっていて感激した。尾崎翠ファンの私にとっても、言葉での<シュール>にはなんとなく意識が慣れていたものの、それを映像で見せられると、言葉だけで展開される本とは違って、人間が動く、空間が見える、という視覚的要素によって物語が否が応でも明瞭になるのやろうなあと想像していたのですが、も、まったく私の予想は飛び散り、なんら変哲のない日常の風景の中で、登場人物の「言葉」、「詩」、だけがその共感の中から激しく破綻しているという、美しいまでの拮抗が、あ、そのまんま尾崎翠!と私は膝を打ったのであって、それはそのままこの現実における「詩」の宿命を思わされる、いんやー、素晴らしい映画であった。
今回映像化されたものを観て、新たに発見した尾崎翠の魅力は「官能」でした。これはかなり意外でした。
物語の冒頭で、ある家に立ち寄ってしばらく滞在し、お礼も云わずに帰っていくという心理研究者の男が、着いていきなり、その家の祖母と孫娘・町子に、研究と称してファウストの中の「キス」という単語の入った台詞を読み上げろと迫るのですが、恥かしくて恥かしくて声も出ない生娘・町子に「お祖母さんがいては読めないね」とか云っちゃって屋根裏部屋に連れ込んで、そこでまた読み上げろと迫って、ようやく息も絶え絶え読み合うのですが、あるいはびちゃびちゃと柿を食べあうのですが、この箇所、本で読んでる限りにおいては醍醐味という部分ではなかったのに、映像で見ると、淡々と為されていくこのやり取りの、このなんたる官能的なことか、すっとんきょうな脈絡の中で、この言葉の交感はとても滑稽でゆえに艶かしく、単純でお恥かしい話ですが、このシーンを観ていて私は性的に非常に興奮しました。えっろー、と心の真ん中で何回も叫びました。ずっと前に確か広辞苑を読む続けるというフェチのえろ系のビデオがあったのですが、それはそれように作ってるんであってあれなんですが、むろんその比ではなく、このこほろぎ嬢のこのシーン、「図らずも」というところが何にも増してえろい。まるでアルプスの少女ハイジを観ていて女の私がえろさを感じてしまうような、それくらいの「図らずも」。あらゆる処女性がまぶしかった。距離がまばゆかった。たまらんかった。今まで尾崎翠という作品に触れて、私の場合、あ、えろいことほのめかしてるな、描いてるんな、と思う箇所はたくさんあるのやけれど、何故かえろさが弱いっていうか、まさか意図的に排除してるわけでないやろうけど、なんせこう拙い感じになるっていうか。たとえば新藤兼人監督の映画も、墨東綺譚やのに、も、まったく全然色気がなくて、これはきっとこの人自身に色気がないんやないやろかと思うほどで、そんな感じで尾崎翠自身に基本的にそういう性的な訴求力が希薄であったのかも知れんなあ、興味がなかったのかも知れんなあと思うほど、なんというかその「物語」、「詩」からは明確な「性」というものを感じることがなくて、登場人物の全員が完全に未性のものであって、そこで「恋」と連発していてもそれは性別を持たない感性がただ浮遊しているだけの状態を指すというか、そういうね、なんか二度とは戻れない、こう泣きたくなるような未分の憧憬を強烈に常に受け取ってきたわけで、個人的に尾崎翠においてはガードががら空きやった「性」の部位、不意をつかれました。っつうか処女に戻りたいわ!マジで!あんな風に柿食べたいわ!キス、とか読むだけでマジで悶えてみたいわ!あーまぶい。処女性がまぶいわ。いいなあ。いいなあ。大人の階段なんか爆破したらよかったわ。踊り場で足をとめて時計も爆破したったらよかったわ。っていうかそもそも処女やったららばこんなところでえろいだのなんだので喜びませんか、そうですか、そですよね、っつう私のわが身への呪詛はともかく、とにかく、この冒頭、ものすんごくいやらしかったです。びっくりした。これは浜野監督の色気技であろー。
あと、冒頭で性急に、町子の「妄想」、この映画はおよそ「官界」でしか感受不能な仕上がりになった、と書いたのやけど、この映画で私が個人的に再確認したことがありました。それはこの作品中における「存在論」そのものの再確認であって、この小説自体が「存在」というもの、この巨大な概念を文章という「虚構」の中でどうにかしてその尻尾を掴もうとしているあがきであって、これは埴谷雄高が「死霊」でしつこくしつこくやり続けていたことと、やっぱり同じ質のものであるのだということでした。論理と詩の苦し紛れの婚姻であるところの埴谷雄高の「死霊」が哲学小説と称されるのであれば、尾崎翠の小説もまた哲学小説であろー。
机も蟹も家も人間もヴァイオリンも、このすべて地球を含む宇宙のものすべての共通項、あるいは分母である「在る」ということ。いくら「脳」の性能が解明されたとしてもその脳が「在る」ということの説明は脳をもってして出来ないように、この「在る」ということについて考えることが「存在論」であって、「在る」。これに対する畏怖と驚嘆とを尾崎翠は詩人に何度も呟かせます。あるいは、何故人は「在る」に対して問いを持ってしまうのか。なんでか!ぎゃっつ!すべて在るものは在る!存在している!在るってなに!なんやのよ!というこのお手上げの事態をまえに、尾崎翠の詩人・九作は「自分がふろしきなのか、ふろしきが自分であるのかわからなくなる」というし、埴谷の超人・首猛夫はたまらずに「あっは!」と呻くんであって、それぞれ発露の仕方はちゃうけれど、両者の表現は「在る」というこの宇宙大の謎に睨まれることから出発しているのであって、映画の途中で、妄想としか受け取れられへん詩人の台詞を聞くたんびに、ああこれは「存在」に対する呻きやわ、埴谷雄高も尾崎翠もおんなじことを考えてるんやなあとなんつうの、じんときたものよ。
「存在」に対する個人の孤独と、おののきと、了解が、凡そ人と分かち合えるわけがなく、それが埴谷雄高の「死霊」がどこまでも理解されんと「脳内の童話」だの「ファンタジー」だのと揶揄される当然の理由であって、尾崎翠が「少女趣味」、「妄想的」やとおおざっぱに括られる正しさであります。だってどんな論理で突き詰めようとも「存在」を咀嚼することなんか出来るわけないし、結局はそれぞれの「官界」に委ねられるしかない領域のもんであって、言語化なんて出来ないぜ。無謀なことである。存在の不思議を思えばただ呻くことしか出来ないのでありますぜ。
けれども、このとてつもなくでっかい宇宙大のどうしようもない病とでもいうべき「存在の謎」に「睨まれた」出自の似通う魂というのは古今東西にあまねく存在するんであって、逆説的な云い方になってまうけど、そんな似通った魂にとっては、埴谷、尾崎の仕事は難解でも妄想でもなくってさ、その「存在」に対してでっちあげた「虚構」の姿勢が「正しく理解される」とっていうことが、必ずや可能であるということを私は強く確信しているわけや。あきらめんと頑張ってるおるのや、埴谷雄高も尾崎翠も色々な人も。
その意味において、冒頭で書いたように、この浜野佐知監督の映画は、尾崎翠の「宇宙了解・存在への挑戦」を、結局それぞれの「官界」で感受するしかない、というような、結果そのままの作品となっていて、「忠実に作った」と仰るとおり、尾崎翠の仕事を「正しく」映像化することに大成功していると思います。や、いきなりウィリアムシャアプ氏がこほおろぎ嬢の脳内でなんか漫才みたいな日本語で喋り出したときは、も、その絵づらのおもろいこと、わけがわからんくて感涙したわ。んで最後は地下室から硝子越しに宇宙に溶けていくねんで。その絵づらもこう、私にはおもしろすぎて、時制もなんもあったもんやないねんけど、そんじょそこらの不条理劇の面白さではまったくなくて、ああ、存在への眼が貫かれてるわ。
んでこの段落を読んでくれはった人でも、「存在」とかって単語が出てくると、なんか抽象的で何をゆうてるかわからん、と感じる方が多いと思うねんけど、「在る」ってことに特別な驚きを感じない人にっては全然意味のない話であって、これはそれぞれのなんつうか趣向ともいえるんであって、それは仕方ないのですが、私が昨日、再確認したこのことも、さっき書いた同じ理由から「正しく理解される」っていうことも、もしかしたらあるんじゃないかな、という気持ちにもなったりして、でもま、むずかしい問題であることには間違いなく、私が舌足らずであることも間違いなく、とにもかくにも私も一生懸命仕事をしようと、考えようと、と襟を正す次第でありました。
私の話はちんぷんかんぷんでも、是非尾崎翠は読んでね。映画も観てね。
映画が終わったあとの質疑応答で─たぶん、内容がその人にとってちんぷんかんぷんだったことから「真剣に、観客のことをどうお考えですか」という問いに対して、明るく力強く答えられた浜野監督の「完全にインディペンデントで制作をしているのは、何にも迎合したくないからで、乱暴な言い方になりますが、何にも迎合したくはなくて、もっと云うとお客さんにも迎合は出来なくて、ただ、自分と尾崎翠に恥じぬ作品を作るだけなんですね」という言葉は、これまで数多の表現者から、も、飽きるほど幾度となく出てきた言葉であって、大人になりなよ、と星の数ほど突っ込まれてきた宿命の言葉なんではあるがしかし、作品というものは何よりも強い、作品というものは何よりも作家を保証する、あの作品を観た後で、今まで聞いていきたこの言葉のどれよりも、というよりはそこに立ってにこにこと笑う浜野監督自身が、私の脳天に五寸釘のごとく本当に鋭くぐっさ突き刺さり、突き刺さったのにも拘わらず、そこから何が漏れるわけでもなくそれどころか頭の中はどんどんどんどん膨らんで、ぷわっと足がコンクリートから浮く思い、それこそ夜と自分の境目を見失う曖昧な官界は渋谷、つんのめるようにして、仕事に戻ったのやったけど、眠る直前までうわの空、地下室でなくとも、最高に特別な、稀な夜をありがとうございましたと誰に向かっていえばいいのかわかりませんが、そういうなんか、一個の存在である私が無数の存在へ向かって、ハロー!と呼びかけたくなるよなそんな気持ち。
年明け早々には「第七官界彷徨」が都内で上映されます。また告知しますね。
投稿:by 未映子 12:31 PM [映画・テレビ] | 固定リンク | トラックバック
2006.10.06
巨大うさぎとトシオ&ミホ

見てこのうさぎ。何を食べるというのだろうか。足みて足。こんな大きさで部屋におられて意志疎通の手ごたえがなかったら恐怖やでなあ。ジャイアント・フレミッシュっていう、うさぎらしい。でかいね。可愛いね。眠れないね。もう朝だね。雨風が強くてドアを開けたら網戸が外れて物凄い音でびびる。編集さんに「死の棘」島尾敏雄著を読むといいと云われて、その場で貸して頂くことが出来たので読んでいる。新潮社文庫の簡易解説はこんな感じ。
「思いやりの深かった妻が、夫の<情事>のために突然精神に異常を来たした。狂気のとりことなって憑かれたように夫の過去をあばきたてる妻。ひたすら詫び、許しを求める夫。日常の平穏な刻は止まり、現実は砕け散る。狂気の果てに妻はどこへ行くのか?ぎりぎりまで追いつめられた夫と妻の姿を生々しく描き、夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見据えた壮絶な人間記録」
トシオ&ミホのほぼガチの記録だよ。…。…。
まだ途中までしか読んでないけれども、この段階ではミホ夫人はまだ十分に優しいと思う。それくらいやったら全然耐えろトシオ!まだまだイケる!しかしここからエライことになるのんか。けっこう分厚いからなあ。先は長いよ。底の底まで、というのが良い。金輪際、金輪際。映画もあるのだけど、面白いという意見と面白くないという意見の両方。そして島尾敏雄氏が亡くなってから、ミホ夫人は毎日を喪服で過ごしたのらしい。結構ちゃんとしてるなあ。
投稿:by 未映子 05:37 AM [映画・テレビ] | 固定リンク | トラックバック
2004.11.19
裕木奈江さんってこの字でしたっけ?
テレビで以前に宣伝をちょっと見かけてはへえと思いながら結局まったく見てなかった、「光の雨」という映画が流れていたのでやらなあかんことがあるのに私はもう、やれん、やれんわ、廃業、枯渇、逃亡、言い訳、頭の中はそればかりがマーブルっつううんで、
いったいこの今、たった今、
わたしよりも自堕落、落伍者、えー、駄目人間、体たらく、まあこんな女子、もう嫌悪、嫌悪という言葉に申し訳ないというくらいの無駄、そう、わたしって無駄、みたいな、でもそんなにそうとは思ってないところがまた小者でよ、溜息つきつき、や、わたしには土曜日も日曜日も、あるもんね、とか思ったか思わんか、
まあ観るともなくみかん食べながら観てました。
話は、
連合赤軍のあの方々が、山に篭って革命を起こすのだー!っつってあれこれやっていくうちに、まあ色々ぼろぼろ、ぼろぼろっていうかやつれていくっていうか、意気込みが痩せてゆくというかぐだぐだになってゆくのである。んでそうなってって、結局14人だっけ?が「総括」という組織の定義によって、まあ私刑、私刑、リンチで殺されるわけよ。そこらへんの青年たちの意識と行為の推移を描く映画なわけ。
んで浅間山荘に流れ込むという一連の話を、「撮ってる」という映画。役者が役者を演じるいわゆる劇中劇でした。一本の映画が撮られてゆく様も描いているというような。
いわゆるわたしは映画観じゃないからよかったとかどうとか、日本の映画史の位置とか比較とか、よく判らんし、あんま興味が沸かないのですが、この手の、
「間違ってるで、その情熱と過信。」、的なテーマを扱った映画は嫌いではないのよね。
こういうの嫌いな人は、学生・革命・理論武装というキーワードで問答無用にもうあかんでしょう。こういう青年の良くも悪くもまあ激しい情熱を単にウザいものとして一蹴する人は、文句云う前に見なければ宜しいと思います。
まあ映画は映画やしねえ、
ということは色々な人間の思惑が構成するのであって、対一でテンションを合わして行きたい方は手記の方が面白いのではないかとも思うけれども。映画の完成度とかは今回あんまどうでもよくて、特筆すべき点がひとつ。
裕木奈江氏。
画面を観るともなく観てると、目と耳に飛び込んでくる女子が一人いるわけよ。目と耳に。いい演技。この人いい演技してる。ってこっちが思うのって何なのかなあ。その実際は。や、単にそう思うんだもの。そういうのをこっちに感じさせられるのが役者の役への理解度の結果というものでしょうか。
や、これ誰かなあってずっと思ってて、
いや、ええ演技するなあって、目が離せんかったわ。画面に出てきたら嬉しかった。声も喋りも。
でもあまりの良さに、や、でもこれは裕木奈江という人に似てるがそっくりさんであろう、などと思ってしまった。でも似てるなあ。昔の印象としてこんな役者として魅力の片鱗のあった人だったっけ。でも多分違うよなあ。などと思いながらすっごく似てるいわゆる実力派・舞台女優なのだわと思った。
劇中のあの不快感をさらに鋭く不快にさせる演技能力。なんかの恨みか。っていうくらい良かった。
「総括」、「自己批判」、「論破」、「革命のためよ」。
こういう一連を云わせたら外れがないの。このなんちゅうの、この一連の空疎感を見事になんか、やりきってた。こういう人ってまわりに結構いるじゃないですか。宗教やってる人にはなんたかの「愛」に関わってるという意識があるからまた違うんだけど、言語を頼りに同じようなことを主張する人の目を、マジでしていました。で、劇中劇なんで、映画の中で劇を離れるとまた違う顔になんの。良かった。
革命とか使命とかそういうものに選ばれたと思っている青年の、こっちから見たらの滑稽さ、でもそっちからみたらの切実さ、特権階級の自意識に興奮している青年の目や緊迫性をほんとによく彼女は再現してたと思う。そして私は、内容もさることながら、基本的に役者個人の役への理解度と結果に、結構素直に胸を撃たれるタイプなので、非常にいいものを見た、という気持ちです。
したら裕木奈江氏でびっくりした。非常に良かった。
情熱や何でも、真剣になればなるほど傍からみれば人は滑稽に映ってゆくものである。そして情熱に駆り立てられる日々を忘れた人、そんなものもともと持ち合わせていない人は、笑いたがるものである。真剣に何かをしている人は真剣に何もしていない人からみれば面白いのである。そして連合赤軍の方々の中には、
(総括とか、革命とか、こんなことしてる俺らってひょっとしたら面白いんかも)
とか思ってる人がいなかっただろうから、見てるこっちはまとめてすんごい面白いのである。
でも、馬鹿には全然出来ないすね。
わたしは(ひょっとしたら面白いかもしれん、俺)とかいつも思ってる人が好きやけど、わたしなんかも歌なんか歌っててよ、どっちかゆうたら彼らみたいなものよ。迷惑こそかけていない積りであるが、個人の理想を追い、もっとゆやあ革命だって求めてはいるのである。
人前で歌うときは真剣である。自分を笑える自分もおらんわ。
セックスなんかどうよ。飽きもせずに凹凸を組み合わせることに御執心、裸一貫あんな面白い格好で我々いつまで一体何をやってるんだか。我々紙幣という人類共通の思い込みを中心に一喜一憂、人を殺したり裏切ったり、それでもそのルールに則って生きてゆくしかないというこの生活はどうよ。感情はどうよ。恋愛沙汰はどうよ。情熱を哂うことは、誰に出来るのだろうか。
情熱の発生、なんていうのは9割意味なし、ナンセンスである。そこにあるのは個性などではなくて、共有のみである。連合赤軍の方々の方法が正しいなどとは思ってもいないが、そこにある、あった情熱というのは、当事者にとって仕方のないことであったに違いないのである。
でも、やっぱしその瞬間は無理でも、笑える余裕というか、「真剣に怒ってる自分を笑ってみる癖」というのは、なんか争いには有効ではないかとも思う。
面白いことに犬でも何でも人間でも、怒ってるときというのは、自分が正しいと思っているときに限られる、というのをどこかで読んだことがあって、そうなあと思った。映画の中でも皆怒っていた。「怒れる」というのは自分が絶対に正しいと思い込んでる証拠なのだ。それを笑える人間になれればこの世はどれほど自分にとって平和であるか、想像もつかない。ああ、でも。怒らない人。注意はするけど怒らない人。数は少ないけれど、そういう人、確かにいるの、知ってるもの。確かに、なんか、わたしとは次元が違う気がいつもしてた。
こんな当たり前のことを、
わたしはおみかん食べながら、
自分の仕事に溜息つきながら、
それにしても裕木奈江氏いいやん、と思っていたんでありました。
なんか他のにも出てるかな。
いい演技というのは、いいなあ。
投稿:by 未映子 08:51 PM [映画・テレビ] | 固定リンク | トラックバック
2004.09.07
真夜中の輪郭
深夜の、あれは9年くらい前の深夜、無論まだ大阪時代。時代って。いや単に大阪に住んでたときということなんですけど、深夜、わたしはよく物を書いていた。いやほんとによく書いていた。毎晩書いていたのである。乗ってる時など一日原稿用紙にして80枚、大半が意味不明の文字の羅列であったが青光の情熱とはおよそそんなものである。今読んだら笑える。恥ずかしいのは既に通り越した。書き記したものは残るのであって。やっぱり変わってゆくのはいつもわたしの方で、一切の情報は変わりようもないね。
で、そんな日常的な深夜、わたしは何故かテレビを点けていたのである。
で、そんなテレビ画面には邦画、なにやら雰囲気のある映像が流れていたのである。
その後わたしはその映像を9年にわたり、
なんとなく漠然と捜し求めるハメになるのであった。
20歳くらいの女の子が出てくる。映画の絵は暗め。トーンもテンションも低く、どんな音楽もかかってないようなそんな感じ。ただ映像が儚げでぼやんとして綺麗だった。ボロアパートの一室。登場人物はそのなんとなく暗い不安げな細い女の子だけで、部屋の中で盥で水浴びをしたり、新聞のなんかの記事を切り抜き、下着一枚でキュウリをこりこり食べる。下す。トイレにもたれる様に駆け込み、捨て鉢というか、なんかそんな感じで時間が過ぎてゆく。で、時々ナレーションが入ったり入らなかったり。
そう、断じて暇な感じ。暇で、そいでなんか痛い感じ。無言で、夏っぽくて、部屋ん中、カメラは部屋の天井の隅から撮ってたような。暇。そう、暇な女の子。なんとなく退廃的な。部屋もなんか殺伐として畳でなんか空っぽな感じ。そういうのが続いてゆく。
それで、夕方6時前になんでか急にフットワークが軽くなり、その女の子はお化粧し出すわけ。前髪にちゃんとカーラー巻いて、口紅塗って、そいで、なんか今からどっかに出掛ける風に身だしなみ整え、時計ばっかり気にしてる。
で、6時になったころ、身だしなみ最終チェックしたその子は、部屋の窓をガラガラと開ける。そしたら向かいには今しがた帰ってきたであろう男性が窓を開けて、会釈する。女の子も今仕事から戻ってきたような風で、挨拶をする。一瞬。男のほうの窓が閉まる。
そういう話だったんですけれど、
はっとしたんですよねー、そのガラガラ、のあの笑顔が。
そういう映画をみたんですけど、調べる積りが見失い、なんだか印象だけが妙に鮮やかに残り、そんなこんなで二十歳になり、いつの間にか大人になり、働き、そして上京し、それでもあの映画はなんやったんかなあと、なんかこう、時々思い出してはいたのです。
で!
先日、映画監督の歌川恵子さん、
(彼女と彼女の作品については別日にきちんとお話しせねばなるまい。勿論出会いも)
とご飯を食べていたときに、しかもご飯を食べるのは初めてであった、 その映画のことを話したのです。わたしこうこうこういう映画を十代の終わりに見てさ、捜し求めてるんですけど、いやそんな捜し求めてはいないけど、こう頭に残ってて、なんていう映画やったか、いや映画ではなくてドラマだったのかも、とにかく消息はまったく不明で見たのも確かかどうか、今となってはもうわやなんですの。
そしたら、歌川さん切り返しよく、
あー、それいつかの、深夜放送じゃなかった、知ってる・・・。
そうそう!とわたし。最後ガラってやってニコってしてなんかそんだけの映画やねんけど、アパート切抜きとか盥とかよ。知ってる?
知ってる知ってる調べとくー!ってことでなんとお酒をたらふくに飲み別れたその日の内にメールが来たっ!!
その映画は、なんと、岩井俊二監督の、「夏至物語」という映画でありました・・・。
そっか、岩井俊二作品、・・・そっか、そっかあ・・・・。なーる、はあ、そっかわたしが長きにわたり求めてきた真夜中のあの輪郭は、岩井俊二さんの、そう、あれだったのね、・・・
岩井っつうぐらいのもんで、なるほど、そっか、わたし、岩井さん、そうなのね・・・
とまあ、映画のタイトルも判明し、しかしビデオにはなってない模様。
あの映像には「夏至物語」というタイトルがあったのね。
見たい。見たくない。よくわからん。この印象はこのままにしておいたほうが良いような気も。でも。もう一回確かめたいような。どうか。ああ。でもなあ。
あの頃深夜真夜中、初めて自分で書いた文章をワープロで打った、感熱紙、自分の文章が活字となって出てきたあの感激、物語、語ること語られること、文字通りわたしの居場所はそこしかなかった。そんな時期、なんでか流れたあの映画の印象は、もうその頃のわたしのある部分なのであって。
まるでなんにもないのは今とてなんら変わりはないが、あの頃のわたしではもうないのはこれ何事よりも確かなのであって。
失われた印象を埋める手立ては出来たというのに、
なんだか寂しい気持ちになるのはなんででしょうか。
投稿:by 未映子 01:00 AM [映画・テレビ] | 固定リンク | トラックバック
2004.06.08
24連鎖
最近は関西と東京半々の生活が続いています。
昨日「24」の最終巻を手に入れ、
(11巻と12巻が1つずつあったのです!)
観た。面白い。面白いけれど、空しい。めっぽう空しい。頭がわやになっていく想いで観ている。もううざい。やめたい。部屋をいい感じに暗くして、普段飲まない食べないコーヒーとか淹れたり「雪の宿」というお菓子用意したり、こんな判り切ったしょうもないドラマを結構真剣に観ている自分に軽くむかつく。残念ですよ。小物感ばりばりである。でも一話の終わりには必ず次を観なければならない小技がくっと効いていて、そんなこんなでシーズン2の最終巻まで来てしまった。なんという時間の無駄遣い。小銭も無駄遣い。お前には他にしなければならないことがあるのではないのか。いやいやアルバム作り終わってさ、キャンペーンの合間ぐらい脳みその休憩は必要ナリヨ。せめぎ合うわたしの中の何かと何か。っていうかキャンペーン別に悩むほど脳みそ使わんやん。曲かけよ。かくよ。そのうち。っていうかもうあるもん、いっぱい。なんちって。いやちゃんと書くけど。新しいの。とにかくキムが出てくるとイライラする。なんでそもそもこんなビデオ観てるんかと。でも早送りしたことないのよね。それで極悪ニーナ(でも一番すき)は何処いったんよ。返す返すも内容はいわゆるダイ・ハードをぶっとおしで観てるような、いや、観させられてるようなそういうちょっとだけ夢中になってしまう要素込み込みの垂れ流しドラマ。けどね、結局ここまで来てしまったのよ。ほいで最終巻をこうカチャッとセットして再生、これでおっしまーい!ってすがすがしい、やっとこの数週間に及ぶ一連の小物連鎖から開放されるーって喜んでたらさ、シーズン3に続くんだって。どうよ。それってどうよ。どうなん。誰なん。お仕舞いのお仕舞いにデイビッドが倒れてしまった。あの倒れ方。シーズン3って。わたしも倒れた。メイソンが割りに好きだった。(ニーナとプライベイトでは結婚したらしい)シーズン2はキムが出てくるといつもテンションが下がった。シェリーもまあまあ好きであった。眼を逸らさせない表情が彼女にはある。特に日本語吹き替え版の声がよかった。マイクの顔もなかなかよかった。目の感じがスタッフのY氏によく似ていた。案外ジャックはいつでもどうでもよかった。

















「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」
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