川上未映子

2014.08.22

まんまんちゃん、あん!

 少しまえから、オニ(2歳・息子)のおむつを替えているときや入浴しているときなどに、オニが自分のおちんちんに手をやって、「ちんちん!」などとうれしそうに言うようになった。おお、これも身体の発見だのう、と微笑ましく、「そうだね、オニのちんちんだね」などと言って笑っていたのだけれど、最近はそれにくわえて、わたしの股間をじいっと見つめてから「……かあか、ちんちん、ないっ!」とつけたすようになってきた(かあか、とはわたしのことです)。

 そうだよ、かあかはちんちんないよ、と最初は何の気なしに答えていたんだけれど、入浴するたびに、自分のおちんちんを楽しそうにさわりながら、「ああ〜、かあか、ちんちん、ないっ! オニ、ちんちん、あるっ!」と言うので、またもや「そうだね」と相づちを打って笑っていた。しかしさらなるオニの質問は、「なんで、オニにちんちん、あるの〜?」というもので、「……それはオニが、男の子だからかな。気持ちはともかく、いまのところ、体がね」とか答えていたのだけれど、そのすぐあとで、またわたしの股間をじっと見て、「かあか、ちんちん、ない……」とつぶやくのだった。ないねえ〜など答えながら、しかしわたしは、「まちがってことは言ってないし、2歳の息子のなんの意味もないふるまいなのだから深く考える必要はまったくないけど、でも、これって受け答えとして、なんか十分じゃないような気がする……」と、頭に泡をつけたまま、10秒くらい考えこんでしまったのだった。

 そう、わたしには、おちんちんはない。しかし、おちんちんでないものはついている(というか、ある)。しかし、こういうとき、わたしはオニになんと伝えればよいのだろう……。すぐに「まんまん」という言葉を思いついたのだけれど、しかしオニがそれを覚えて、保育園で女の子の股間を見つめて「まんまん」と笑いながら言うことを想像すると、そしてそれをその女の子たちの保護者のかたが聞いたりなんかしたら、それってなんかちょっとあれなんでは……というような気持ちがさっとよぎってしまったのも、本当のところなのだった。

 そう。女性器って、あらゆる意味で、奪われた存在というか、ないことになってるものなんだよね。これだけ日本中いたるところでつねに消費されまくってるのもかかわらず。いや、ないことになっているから消費されるものでしかないというべきか。

 この問題については、色んなところで色んな人がそれはもう昔からくりかえし指摘しているし、改善しようとしてるし、つい先日も、アーティストの象徴的な逮捕事件が起きたばかり。
2歳の男の子や女の子が「ちんちん」と笑って言ってそれをまわりも笑って受け流すことができるのなら、2歳の男の子や女の子も笑って「まんまん」と言っていいのだし、そしてそれを受け流すことができなければおかしいやないの。でも、そういうのって頭ではわかっていることなのに、わたし自身、「オニがまんまんというのは、ちょっと、あれなんではないか」ととっさには思ったわけだし、こういうときに自分の性器を名指す言葉を今もって持っていなかった、というのも、じっさいのところなのだった。
 
 そう、こんなのどこにでもある他愛もない話でしかないのだけれど、しかし。
「ちんちん、ある!」というさっきのオニの声が、なんだか頭に残るのである。

 これって何かと思ってみたら、「ある」と「ない」では、やはり「ある」が優位であるという実感で、そこにひっかかっていたのである。
オニからしてみればあって当たりまえの「ちんちん」が、かあかには、ない。オニにちんちんがあるのは、オニが男の子だから。で、かあかにちんちんがないのは、かあかが、女の子だから。もちろん2歳のオニがそのように「ちんちん」や「ある」とか「ない」といった概念や価値めいたものを今の時点でとらえるということは考えにくいけれど、しかし三つ子の魂なんとやらというではないの。「男の子である自分にあってあたりまえのものが、女の子にはないんだ……」というふうな淡い認識が、いつのまにか、「……女の子って、大事なものが最初から欠けてるんだ」みたいなあんばいに、ゆくゆく変化し、刷り込まれないとは限らないではないだろうか。
 しかも、三つ子の魂どころか小学校高学年あたりになるまで、ほとんどの場合は、「まんまん」の存在は隠されたままなのだ。女の子には「ちんちん」に相当するものがまるでないかのような具合なのだ。
まあ、外から見えないという形状の問題も多いに関係しているとは思うけれど、例えばおしっこなんかも、なんか、不思議でよくわからないところからしゃっとでることになってるし、わたしが子どものころだって名称はなかったし、それについて何かを話していいような雰囲気なんていっさいなくて、完全に「ないもの」として、女の子たちは自分の「まんまん」を抱えていた。
欲望されるものだから「ないもの」にされているのか、それとも「ないもの」だから欲望されるのか。おそらくそれは同時にあるのだろうけれど、しかし、いまも昔も、女性の性器が「ないもの」になっていることには変わりはない。

 ついこないだも、男性の老議員たちが「われわれの世代は、どうしても女は下、女のくせにという発想から自由になれない」みたいな発言をして、「だから引退します」でも「だから認識を改めます」でもなく、「わしら変わる気ないしいまさら変われんし、今後もこれでいくからみなさんヨロシク」みたいな顛末でまじで暗澹たる気持ちになったけど、この無根拠かつ腐った差別の認識のはるか根っこには、社会的な構造とか単なる勘違いとか体力や身体の大きさの差異や色々あるだろうけど、さきに述べた、「ちんちん、ある!」の優越感が、あまりにベタで恥ずかしいけれど、しかしほのかかすかにでもあるはずなのだ。挿入する者はされるものよりも優位である。そして挿入できるのは、ちんちんがあるからなのだ。

 世界において家庭というユニットはあまりに小さく、また非力なものではあるし、こんなん焼け石に水っていうか砂漠で針を探すっていうか喩えが間違ってるような気もするし世界の荒波&常識においてはひとたまりもない心意気でしかないかもしれないけれどでも、男を生んだわたしにいまできることをわたしはやるしかあるめえ……ってなぐあいで翌日、「ほな、お風呂はいろか」とオニの服を脱がせおむつを脱がすと、でてきた、かわいらしい、ちんちん。オニはまたもや自分のちんちんをさわって、「ちんちん、ある!」と楽しそうに遊び、そしてわたしの股間をじっと見つめ、「かあか、ちんちん、ない!」とこれまたうれしそうにくりかえすのだった。しかしわたしはもう、昨日とおなじような返事はしない。いいですかオニ。そこからは何も見えないけれど……

 わたし「かあか、ちんちんないけど、まんまん、ある!」
 オニ「?」
 わたし「オニ、ちんちんあるけど、まんまん、ない!」
 オニ「……」
 わたし「かあか、まんまん、ある!」
 オニ「ま……」
 わたし「オニ、ちんちん。かあか、まんまん。おなじ」
 オニ「まんちん……」

 みたいなあんばいで、まだ何も理解してないであろうオニに、「まんまん」という存在のちょぴっとだけは伝わったような、そうでもないような……。
 ともかく、ちんちんが許されるなら、まんまんも許される。ちんちんだけがだるだるに甘やかされるということはないのだということをまずは我が家の常識として、一緒に入浴しているあいだはやっていこうという所存である。このささやかな革命の姿勢が、保育園の保護者のみなさまにどれくらいご理解いただけるかはまったくもって未知数ではあるのやけども……でも、変えたいんなら自分のとこから変わるしかないですしな……って、思い返せば。「ちんちん電車」はよくても「まんまんちゃん、あん!」を言うとちょっと笑われる、笑われてきたあの感じ! まあ方言による慣れ不慣れってのもあるけども……ともあれ、色々なものを正しい場所にもどしたり、とりもどしたりするのは、それが形のないものであればあるほど、時間がかかり、また困難であるものよな、と思いしる暑すぎて息をするのも何かしらの危険を感じざるをえない残暑なのだった。

 

 ところでところで、『きみは赤ちゃん』、みなさんに楽しく読んでいただいてるみたいで、激烈うれしいです!! ほんとにほんとにありがとう。でも、発売してから半分以上の日数、ネット書店では品切れがつづいて、ほいで都内の書店にもほとんどどこにも在庫がない状態で、申し訳なく思っています。重版しているからじきに回復すると思うのだけれど(ただいま4刷!)、でも読みたいって思ったときにこういうのって読みたいですよね……うう、ごめんなさい。どうか、もうちょっとだけ、お待ちになって。それまでは、こちらママ友対談をお読みくださればさいわいです!っていうか、すべての在庫、はよ回復して、お願い!!!


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