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2008.12.26

わあ!2008→2009 

現在発売中の週刊文春の復刊特集で、わたしは「薔薇は生きてる」を紹介しています。
ぜひぜひお手にとってお読みくださいませ。ちょっと後ろのほうの特集やよ!

しかし数日前はまるで春の夜のようなぬくさと不穏に体がうかされたもので、
しかし今日はまた少し寒いのであってこんなんことではまるで何もかもが生きているようではありませんか。
このあいだトイレのカレンダーをじっと見てたら、えー。なんでここんとこの1日が赤くなって…、
なんの休日であるかを一瞬喪失…、しかしそれはきたる2009年の元旦なのであってはっとして最近はどうもね。
しかし正月は言われてみるとしゅっとしていていいじゃない。食べたいものって何もない。行きたいとこってどこもない。
このようにして生きて、かつこのような運動の渦中にあればなおさら社会にも個人にも色々なことが起きますが、
あまり気落ちせぬよう、やれやれみなぎってやり過ごして行きましょう。
しかし奇数が目につくのはうれしいなあ。2008より目が喜ぶのは2009。

告知が間に合うかわからない&大きな事件があれば掲載は見合わせがあるかもしれないけれど、
1月4日、5日(やと思うのやけど…)の毎日新聞の太宰治鼎談に参加しました。
掲載後はネットでも読めるようになると思うのだけど、リアルタイムでもしよかったら。

とまれ、
みなさま素敵なお年をおむかえくださいな-。
2009年もどうぞよろしくお願いいたします。


1月5日 太宰治生誕100年:新春座談会/上
1月6日 太宰治生誕100年:新春座談会/下

投稿:by 未映子 11:18 PM [書籍・雑誌, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2008.12.18

これが12月

Wasebun2早稲田文学2号が発売されました。
今回も何というか盛りだくさんで読みどころすぎな一冊です。
そしてdvdが付録でついておりまして、
「朗読 戦争花嫁」が収録されております。
これは去る7月の早稲田大学で行われた表象文化学会のものです。
演奏は坂本弘道(チェロ)、清水一登(ピアノ)、山本達久(ドラム)によります。
今号はビュトール特集っつうぐらいのもんで、グラビアも素敵すぎで内容も特濃。
ビュトール・記録映画もdvdに入っていますので、併せてお楽しみくださいませなー。

12月の終わりで一年をしめくくるつもりはないけれど、
しめくくりでもしないことにはなんというか、やれんものでありますね。
存在しない「終わり」や「区切り」を捏造することによって、
あくまで恣意の産物でしかないこのような人生に
「これから」や「将来」とかいうさらなる捏造を上塗りして、なんとかやり過ごすことが可能になるのだろうだった。
がんばれいつか死ぬ、というのが十代の終わりから二十代、自らへの励ましであったが最近はまた違う趣をもって響くなり。

明日は新聞の新春の鼎談に出かけて、この一年さわらなかったものは全部捨て、
残った部屋の部分の掃除などをしなければならないなあーの真冬。

投稿:by 未映子 11:30 PM [書籍・雑誌, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

2008.12.07

帰京、冬の最中、12月

現在、発売されている「現代詩手帖」、今年の詩の総まくりあれやこれやにて「先端で、さすわさされるわそらええわ」が、巻頭の鼎談で取り上げられて、なおかつ詩の抜粋も紹介されております。
今年はユリイカに寄稿させてもらってた詩を一冊にまとめることのできた、大変にうれしい出来事から始まったことを思い出す思い出す。どうぞお手にとって、現代詩の現在のようなものを体感いただけるとさいわいです。
モンキービジネス「バナナフィッシュにうってつけだった日」ユリイカ「いざ最低の方へ」のご感想も、本当にありがとうございます。

地方での仕事はパビリオン山椒魚冨永監督の「パンドラの匣」(太宰作品の中でもこれを選択しはったのはナイス…ナイス…。普通なら映像化するなら長編とか、皮膚と心とか、ヴィヨンとかをどうしてもやりたくなってしまうのではないだろうか。うーむ。太宰の履歴や作品と今回の映画化について、思うところ様々あるけれども、それはまたの機会にしたいと思う)の撮影でありましたが、びゃあっと撮影はもうすっかり終わってしまいました。長かったけれど早かった。
数年前に自分で書いたゴッホのふたり芝居や、舞台に呼んでもらったジュネの「女中たち」とは、なんというか形式が違うので当然なのだが勝手がまったく違うもので、全方位における違和感の収穫でありました2008年の暮れイン仙台。
ふだん文章を書いてると、どうしても自分は単語にはなれないので、価値基準、価値判断が完全に監督にある(にしかない)映画の現場というものは、まるで無力なのだが原動力はそこにしかないというような呼吸する「単語」になったかのような錯覚があって、よい体験であったと思う。
舞台やライブなどは始まってしまえばやっぱり役者や演者や観客のものであるところが多いのだけれど、そういう意味で映画はただそこに指示とおりいるだけなので、撮ってゆく順序になんら文脈はないし、何も始まらないまま、そっと終わってゆくのだった。見知らぬ紙のうえに配列し、自身をふりかえらぬ物語のちいさな要素としてある単語のふるまいそのものなのだった。しっかりした体を動かしながらも、心は言葉によりいっそう寄り添うゆりかえしは、まさに恍惚と不安の同居であった。
ふだんなにげに単語をつなげてゆく作業を思えばふりかえって。朗読にしても演技にしても、それぞれ違うのだけれども、基本的に言葉と体を行き来する運動というものは自分にとって実りの多いものであるという再確認。
加えて撮影の現場でのさまざまな違和感は小学生の頃以来のもので、うきうきするような未視感とあきらめのわるい既視感の入り交じりをそのまま追体験しながら思い出しを愉しみました。
音楽は菊地成孔さん、ギターと歌の練習を一緒にしていただいた。このあとの録音でもひきつづきお世話になる。
爽快な方でどのような音楽がつくのか非常に愉しみ。

長編もおおづめ。
待ってくだっている読者のみなさま、全方位とてもよいものをお届けできると確信するに至りました。
ナイス、ナイス、ヴェリ・ナイス。

投稿:by 未映子 11:15 AM [映画・テレビ, 未映子情報] | 固定リンク | トラックバック

 


純粋悲性批判