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2007.11.04

そやかて夢を、みるのやも。

 この数日間はいろんな取材を受けたり撮影したり〆切を飛び越えもろもろの毎日ではあったけれどなんだかそれとは関係なく半分が怒りとぐらつきで死んでるようで、死ぬといえば、ぬ、といえば、わたしは、ぬ、と打とうとすると必ず一回目は、む、と打ち損じ、例えばぬま、は、むま、になり、逆もまたしかり、むり、は、ぬり、と打ち損じ、そんな人生である。19日は坪内賞の授賞式で、大賞は村上春樹さんということもあり、式にはぎょうさんの人がいらっしゃる模様でパーティーなんて久しぶりなので、ということはお酒を飲むのも久しぶり、そしてもうすぐ久しぶりに一年が終わろうとしておるな。
 作品について夜中飛び起きて怒りに震えることがある。何に対する怒りなのかを考えてみても怒りが渦巻いているのでその詳細はきちんと見えず。そしてそれを怒りと表現してみても、こういう場合は実は怒り以外の感情であることが意外に多いのだから、印象が連れてくる言葉は特に信用ならないものだ。
 書き手が主観的に語ろうとしたこと、と、書かれた作品が客観的に語ることはどこまでも別のことであり、それに対してはなんの異議も問題もないのだけれど、このふたつのあいだに、もうひとつ、わたしが真にその姿をとらえ格闘しなければならん重要な何かが孕まれていると思い、その孕み自身がぼけぼけと眠ってるわたしに頭を蹴りあげて怒れ!と叫んでもう一発蹴りあげたりするので心臓がえらい。
 先日、永井均先生とお話した際に出たアイデア、その具体的な方法はさておき、小説には、書き手に明確な主題やメッセージがある場合は、それに対して出現するであろうと考え得る限りのすべての同意、誤解、反論、もろもろをその物語の中にすべて、余すところなくぶちこめばいい、議論をまるまま小説の中に予め再現させておけばいい、ってそらドストエスフキーやねんけども、この姿勢が今のわたしの感じている苛立ちや、わたしがやりたいと思える考える小説にとっては一番よいんではないのか、今のところ、たった今は、というようなことも考えるわけであります。それが可能か不可能かとうことはこのアイデア自体にはあんまり関係がなく、わたしが問題にしているのは単なるこちらの姿勢のことであるから、今度、これを書くのだ、というものがなぜか明確にある作品を書く場合には実践できればしてみようとする努力を思ったり。わたしは自分で思っているより完璧主義者であることを何となく知り、たとえば最近はもうライブが出来ない。どんなに素晴らしい演技でも歌唱でも読書でも、最近はそれに接すること十五分以上の集中力が保てず、何度も気が動き、じっとしていられなくなり苦しくなり、それが素晴らしければ素晴らしいほどそうかもしれず、たとえば読書なら数行でこの小説を読み終わったときにくるまれるであろう感激が想像できればできるほどその作品が早く終わってほしいとさえ思ったりするのだから、ライブを聴きにいってもそうなのだから、そんなわたしがライブなんかしたりすると聴いてくれている人の中にもきっと同じようにそわそわしたり、同じようなことを思ったりする人がいるだろうと思うと十五分以上の何かをすることがとても出来ない。まあ本ならとても個人的な速度と空間内のことゆえ、まだましで、それぞれのいい具合で投げ捨ててくれればいいけど、ライブはまた少し勝手が違う。いらん気を遣わせるのは気の毒で厭なことでどうにも仕方がない。
 何人でも何百人でも何千人でも、居合わせるみなが同じ気持になどなれるわけがない、ってだいたい同じ気持ちってなんだよっつう話で、でも同じ気持ちっていま書けるぜ、言葉なら、ってまあ現前あるとゆやあるわけで、しかしみんなそれぞれでみんながそれぞれでだからいい、バラエティ・イズ・ビューティフル。なんて生まれたときからわかってることで、わたしだってそう思う。そんなこと何もかもド当たり前のことで、それは絶対的な事実であるという予測もたつ。たちすぎる。しかしそんな感嘆、そんなしたり顔、そんな言い訳、聞き飽きたし、だからどうした、とわたしは思うし思いたい。人には<絶対的に無理なんでないの>、というものに対してなぜか夢をみる力だけはあるわけで、個人がひっそりとそんな夢をみることには根拠はいらぬ。無理だとわかっていても、わたしには説明しがたい理想がある。説明しにくい実現したいことがある。たとえばわたしが埴谷雄高から学んだことはこの一点、「無理だとわかっていても、やるのとやらないのでは、やったほうがいいんであってね」。
誰が無を表現できるか。そんなもん、無理なことや知り尽くしたうえでの埴谷雄高の五十年。わたしの相手は無ではないが、きっと埴谷雄高も感じてたであろう苛立ちと不安が、このようにして夜中にわたしを怒りという体を装って、何度でも蹴り起こすのである。

投稿:by 未映子 10:55 PM [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク

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