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2006.09.07

85年目の耳の中

 体から出るものが好きだといい続けて数十年、耳掃除というのも、なかなかオツな邂逅場ではあります。最近私は黒い綿棒を使っていて、風呂上りに差し込んでくるっとまわすと結構汚れてんのよな。気持ちいいぜ。祖母の光子は今年85歳で、生きてるだけでそれが価値というわけでもなく、老醜などという言葉もあるし、老人にも色々あると思うが、幸いというかなんというか光子は私が今まで見てきた光子のなかでも今がとても輝いており、可愛らしく、そう、文字通り肌なんかもつるりと輝いており、よく食べよく笑い、長生きもいいではないの、と思わずにはいられない最近である。子どもとも女とも区別がつかぬ老少女、体も意識も、俗世から違う界隈へいよいよ近づこうとしているその様がなんだかいわゆる「頭の中の汚れ」からだんだん遠のいていくようで、見ていて無性に嬉しい気持ちになる。それぞれの残りの時間の重なる部分を悔いなく過ごしたい気持ちでいっぱいになる。輝きとゆうてももちろん神々しさとかの輝きなどは皆無で、単なるそこらの老人なんであるが、私にとっては「人の老いていく過程」を初めて長時間かけて丁寧に見れた唯一の例であるから、85歳は感慨も深い。まあ私も確実に老いているのだけれども自分の老いというのはなかなかね。わからんもんよな。自分に関しては老いより先に突きつけられるもんが多々とあるしな。まあ細胞は7年間で完全に入れ替わる、とかなんとかゆうてもそれは確実に老いへ傾くんであって、生成の境目はどこかしらね。同じひとつの変わらぬ意識の「自分」で繋がってるように見えるこの「体」のどんどん変わっていくわけで、自分のものがこんなに融通つかぬのなら、これはやっぱりこの世での借り物ですなと云いたくもなるよね。増えてゆく皺、たるむ頬、小さくなる体。曲がる背骨。生きてるってどういうことなのかなあ、何のために?という問いは捨てたはずの我々も、それでも得たいの知れぬ生のなかにただいまこうしている、ということはまだ実感として残っているわけで。いよいよ色んなことがわからなくなりますね。

 んでそんな私の祖母は自分でもう耳掃除をしません。でもって、私の姉の佐知子が、耳掃除が好きで好きで仕方ないので、1ヶ月に一度、光子の耳を掃除しに実家に出かけるのです。んで、もう外にも出ないし代謝もそんなに激しくないはずなのに、光子の耳にはなぜかいつも耳垢で埋っているという驚きがあるのですが、この度は、この耳掃除の一連で、鬼スゴイのが出ました。でもって私はこれを写真に収め、私の携帯には画像をズームさせる機能があるのですが、それで見てると、なんていうか耳の中の壁の模様までがその耳垢に反映しており、これを見せた人からは漏れなく感嘆の声を頂いております。でもこんなのうっかり見せられた日にゃというご意見もあると思いますので見たい人だけ見てチョ。私はこういうの見るとマジで興奮して何分でも見てしまう。うーむ。どうこれ。どうよこれよ。この耳垢。どう思う。けれども一応、一応、グロ注意ということで、心してみてくださいね。よろしくお願いいたします。
 けれども85年目の耳の奥から取り出されたる生まれたての羽の化石のような瞬き。これけっこう私のお宝画像なの。

投稿:by 未映子 12:24 AM [心と体] | 固定リンク

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純粋悲性批判