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2006.07.06

ヤン・ファーブル「主役の男が女であるとき」を観た

 そんなわけで私はヤン・ファーブル演出・振り付け・舞台美術「主役の男が女であるとき」を彩の国さいたま芸術劇場まで観にいった。さいたまは遠かった。そして今日の日記もおそらく長いであろうから、舞台とか感想に興味がない人は飛ばしてな。
 っていうか日記というものは個人の、他人にとってはどうでもよい、世界に対する感想なのだった。

 おじいちゃんが昆虫記の人のヤン・ファーブル。 
 ファーブルの舞台を観るのは始めてて、この演目は今までたくさん上演されてきててとっても人気があるのらしい。私はオリーブオイルに惹かれて出かけていった。
 
 数十本のオリーブオイルのボトルがぶらさげられて、それが垂れてゆき、最後は舞台はオリーブオイルでびたびたになり、そのうえで両性具有をイメージさせる女性が瞬発力を連打するのだった。素敵じゃないか。
 技のパターンが少々少なくてそれが少し物足りないといえばそんな気もするけれど、私の目的はあくまでどこまでもオリーブオイルだったのだから問題はなかった。少しづつ油が垂れて、で少しづつゆるやかにオイルの海になっていくのだろうと思ってたんやけど、舞台の半ばで、ダンサーが突然コルクを抜いてまわって一本分とはあっというま、すぐに出尽くして私の目的の開始はあっけなく一瞬の出来事で終わったのであった。

 ダンサーは擬似金玉を踊りに使っていた。
 踊りはいちいちキマッていて唸った。
 音楽にに急き立てられて、まるで部活のしごきのごとく複数の点から点へ、渾身のちからで逃れてゆく、けっこうながい場面があったのだが、それはどっからどうみても部活のしごきであった。私は部活でしごかれたことはないが、あ、一回だけあるが、あれはつらいよね。素晴らしい意地。漏れる声。
 いつも、ぎりぎり間に合うのでそれがよかった。苦しんでいるのがよかった。

 ダンサーは最初は服を着ていて、次にズボンと乳首部にガムテープとなり、最後は全裸。股の中身もさらけだしてオリーブひとり大合戦となった。

 ライトが油に美しく、体に美しく、髪に美しく、それはしたたかであった。
 うっとりさせない美しさ。固い固い美しさであった。観ていてあれがもしサラダ油でもあんなに美しいのだろうかと思った。どうなのか。バターではどうか。家でもし油の中で踊りたくなってあんなことをやったら何で掃除をすればいいのだろう。検討もつかん。

 舞台は次第に普段つかっているフライパンに見えてきた。
 コンロのうえで具材が炒められているように今、人間が炒められているのだ、というように思ってみた。
 フライパンび鈍さに対して人間はあまりにも緻密に設計されているように思えた。人間は食べる部分があんまり少ないような気がした。普段私は海老なども炒めますが、しかし海老も緻密っちゃ緻密なのだったがしかし美味しい。
 もし手のひらにのるサイズとして、そして食材として人間の形態があるなら、何十人かまとめて鍋のなかにぶちこんでダシをとるくらいしか調理方法はないように思える。
 8年くらい食べてないが、ポップコーンを炒めて弾けたる瞬間のコーンを見るときにも、人間を思い出してしまう。

 韓国の女優さんだったがそれがよくて、韓国の人の無言のパフォーマンスというのはこちらをとても不安にさせる要素とすべてを捧げたくなってしまうような神秘がある。
 日本人がやったのであれば今日感じた精神性の顔が違ったように思える。よくも悪くもあそこまでの意地は出なかったであろう。欧米人でもそれは同じのような気がする。
 韓国人の体や感情の叫びは私にとって「共感」と「驚嘆」のいつも、あいだ。そこに言葉がなければないほどそれは際立ってゆく。

 観客は、わて、踊れまっせ。という体つきの人がたくさんいてた。ロマンチカの横町慶子さんに会った。横町さんの体は華奢で、私は自分が実は南海キャンディースのしずちゃんであるのだと思えた。帰り駅までの長い道を駅の方角がわからずみんなに付いていけば駅に辿り着くだろうと思って歩いてたら団体はふた手に分かれるのであって、えっ、えっ、と思ってたらひとつは駅へ向かい、もうひとつは焼肉<安楽亭>に向かっているのだった。このまま焼肉行ったるかと思ったが、なんかさみしかったので帰った。

投稿:by 未映子 10:03 AM [演劇] | 固定リンク

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純粋悲性批判