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2006.03.23

チェルフィッチュ「三月の5日間」を観たという話をこれから書きまーす。あ、小説も。

先週スーパーデラックスにチェルフィッチュ「三月の5日間」を観にいったことを思い出して俳優人のあの動きを鏡の前で真似してみる。ということを今からしまーすってしつこい発言しながらネチネチクネクネとやってみる。金は極力使わずに言葉だけで観衆をさらっていく地味なのか派手なのかわからない、役者が特定の人格を演ずるのではなく、登場人物の数人の行状を報告してゆくという、冴えた、「観て得したなぁおい」的ないい雰囲気でよく出来たつくりのお芝居で気に入った。

しかしながらチェルフィッチュの大将の岡田利規氏のインタビューや書き物を前にちらっと読んだこと少しだけあるのだけどもその印象からしては、現代のしゃべり言葉、話し言葉のウマミを追求しながらも、もっと役者に特別なことを喋らすんではないか、テキストのカタルシスとしてもうちっとすかっとくる読みもの臭がしてもいいんでないのと思ったが、舞台上に浮かんでは消えてゆく言葉も、物語からこっちに飛んでくる玉も、それ以上はどうがんばっても分割できまへんなといういたってライトで単純な内容。岡田氏のいつかのインタビューでの「すごく今の口語を、口語が持っている、普通の人が普通に口語を話すときの、そのまわりくどさの中に、なんか、それなりの構造があったり、ということが面白いってことにあると思って。それで、そういったその複雑さを、ある戯曲としてしたときに、それをきちんと整頓してしまうときに、そういう豊かさが消えるから」ということを思い出すのだが、それにしても、あれへ?これくらいの方がやっぱ舞台では都合がええんやろうかなあーと思いつつ、それでも雰囲気良かったのであの雰囲気のよさはなんやろかと食い下がり、小説ではどんな塩梅、と思いきや小説読んでみたらば岡田氏のものいいに合点がいって、満足、ほー。

ああこの感じ、絶対誰にも説明できひんし、わかってもらえたり、いわゆる言語化すると意味がなくなってまうんやろうなーという、日常で自分だけが知ってる感覚の小さな世界が(私の場合にはたとえば考えごとをしながら人差し指と親指で陰毛の一本一本を丁寧に触っていると世界に自分が漏れてゆくような恍惚に襲われて気持ちよくて動けなくなるというような)、ここでは親切に、言葉を読める人だったらば理解可能な域で書かれていてこれがいわゆる大衆に娯楽に素敵な文章力というものだ
渋谷にいながら見知らぬ街に旅行に来てるのだ今。って感じるしかない感じの感覚、肩でこするように角を曲がるあの感覚を淡々と述べるのくだり良。

感覚とゆやあ倉橋由美子は「内面の悩みなどとは無縁の奇病という試練に遭」いながら「自分のスタイルを確立した殿様の文学だけを偏愛する」らしくってよ、
この感じ、私も激しく賛同してまう気分もあるが、「三月の5日間」はここでいう「殿様」ではない「庶民」の「内面の悩み」から萌芽する「奇病」めいた、あるいはもどきの違和感、それはきっと岡田氏いうところの「現代口語の構造がもつ豊かさ」であって、そしてそれを分析しようとも見せようとも育てようとも引っこ抜いてやろかとも考えん、ただ単に放置されてるままになっている様が、なんか無責任でよろしい。
知らなんだ、そのままで感じのええ無責任があるなんてことを。おお、熱い季節は過ぎたのだわね。とゆうわけで現在の自分の心構えと相まってなんでか快。
「感じ、感じ」を連発をしてしまう作用があの文章にはあるわけであって、いいんでないの。一人称で書かれている心情であってもやらしくない客観的な出で立ちでなんつうの、日本を舞台に日本人に書かれたにもかかわらず翻訳小説を読むときのあの先天的にとられておる距離感を感じる違和感がこの読書をスペシャルにしてるね、ああこの対翻訳でおなじみの突き放されてる感、この距離のことを何て呼ぼかしら、
などと思いながら、他人行儀でありつつ加速してゆく文圧で気持ちよく就寝。

投稿:by 未映子 05:59 PM [文化・芸術] | 固定リンク

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純粋悲性批判