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2005.01.05

退屈凌ぎ自慢in人生

明けました、よ。何が。12から1へ回帰したのだよ。
年が明けてまた新しい一年だという話だという話。めでたい。か?や、めでたくてよいではないか。でもまあめでたいの実感はないにせよ何回か云ってるのも確実なんであって。
やあやあ皆様おめでとうございます。ございますっす。や、そもそもおめでとうございますって何だ。何だっす?
こういう時思う、葬式とかなんか冠婚葬祭の折によく思う、ああ何かが絶対的にマインドをコントロールされている。
普段、信心なんぞこれっぽっちもないのによ、
我々はなんと無意識に、ただ与えられるだけの慣習・習慣に検証・反省なく乗っておることか。
仏壇しかり、墓参りしかり、なんでもしかり。
よく墓前で手を合わせろとゆうが、なんで眠る前に布団の中ではあかんのか。
故人に対する気持ちは場所で左右されるのか。
気持ちは私にしかわかるまい。その気持ちに場所は関係ないわよ。
そういうのって様式美ではないのか。
とにかく日常、フン然たるノン!もなく熱狂的な支持もなくただなんとなく。ううむ。ちょっとううむ。
なんか違う感じはないのか。なんかはっとするような、なんか新しい習慣は。


占いの番組がようさんやってあって、2005年は東京で大災害があるとテレビでゆうてたと誰かがゆうてた。
占いねえ。私、嫌いではないが、まあ宇宙には人間に知れぬコトワリの営みがあって、秘密があって、気象、寿命、始まり、終わり、なんでか知らんがまあ色んなことがめきめき作用しあってるという話はそれでいいのだが、そういう人知の及ばぬところのものをなんで人が知れる道理があるか。
そういうとこで私の興味は破綻してしまうま。


つまるところ、つじつま合わせを人は楽しむという傾向が、なんでかある。
なんでかな?なんでか意味を持ちたがるこの呪い。出会いに運命を感じてしまいたいこの気持ち。
モチロン私も「これも縁やのう」、と思うことしばしばあるけれども、それはそれ以上でも以下でもないという風に置いときたい。


けれども、私の理想としては、なんかこう、もっと、ガチンコ謙虚にいきたい。
なんかこうもっと、奥ゆかしさとゆうか、なんかもっと謙虚によ。
こう、なんてゆうの、人生を生きることはすんごい特殊なことではあるけれども、
一方、実は、この人生、そんな大したことでもなんでもないのかもしれないとゆう姿勢をね、
「~かも知れない」、とゆうこの姿勢をね、ちゃんと持っておきたいのだなあ。


信じるんであれば、まったく違う真逆のふたつの可能性を、同時に信じていたいのだ。
信じるのであればの話。


いわゆるシンクロニシティ、そうな。そもそもなんも、意味のないものを無理クリコネてコネてあれして喜びたいのだよ。知恵である。長生きくんの知恵な。
そう、人は不自由なのであるのだよ。舌まわらんわ。不自由なのでだわ。意味からは決して、自由になんか、なれないのだわ。頑張って放棄意味。今年こそ出来るだけ意味放棄。無理すけどゆうは勝手。

意味なくして生きるには、人生はあまりにも長いのであります。
人生に本当は意味なんてない、そう思って生きてゆくのはあまりに辛いのであります。なんでか知らんけど、きっと象の鼻が長いように、月が光って見えるように、なんでそうなって、おるんでしょう。
言語を持つ我々は、意味なくして生きることは不可能なんでありましょう。


でもよ、その屁理屈のコネ方には世界への了解のセンスががっつり出るんであってそれはなんちゅうの非常に愉しいもんではあるのな。私は好きだ。

気の利いた哲学は古今東西を問わず、おしなべてそれぞれの脳の思考の癖を大前提にした屁理屈自慢以外の何ものでもない。

しかもそれは人生を賭すに値する最高級な退屈凌ぎであります。


投稿:by 未映子 07:55 PM [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク

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