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2004.12.02

私らは言葉かもな、おばあちゃん。

「みえちゃん、おばあちゃん、死ぬのがこわい」

大阪の82歳になる、母親のようにわたしを育てた、今も俄然健康な祖母が、こないだわたしにそっと耳元で秘密を打ち明けた。

わたしは笑ってそんなんいうなやーと云うしかなかったのですがね、後からちょっと迷いながらわたしの思うところを話しました。

「死ぬときにはな、死を確認する自分はもう死んでおらんわけやから、死ぬ自分というのはないんよ。ちょっとキモい話ではあるが、そういう筋でいくと、光子ちゃんは、わたしたから見たら死んだということになるが、光子側では死んだという事実は、永久にないわけやな」とわたし。

「・・・ほいだらみえちゃん、おばあちゃんは死なんの?そんなあほなあ!だっておじいちゃんも皆んな死んでるし、人間は死ぬやんか」と光子婆。

「や、おじいちゃんが死んだと認めたんは生きてるわたしらであって、おじいちゃんに、誰かあんた死んだか、と聞いたか」とわたし。

「聞いてない」と光子婆。

「まあ、わたしも死んだことないから、ほんまのところはわかれへんけれども、怖いのわかるけど、死んだら何がどうなるかというのは、誰にもわからんつくりになんでかなってるねんから、なんか自分だけの、<死んだらこうなる>っていうのを今から作っとき」とわたし。

「ふうん。なんや、ようわからんけど、おばあちゃんはまたみえちゃんに会いたいわ」と光子婆。

「そうそう。会えると思っといたら会えると思うよ」とわたし。

人生というのは、こういうことでもあると、思うのであった。


という、論理に従えばこういうことであるのは真実であるとも云えるのですが、まあ潔く、論理に従えぬのが、感情ならば、やはり「理性は感情の奴隷」っていうのは、デカルトでしたか。
無いものを、恐れることは出来ない。これは論理であるね。
あ、わたしは論理と言葉というのをここでは同義で使っております。
だから、死ぬことを恐れているのは勘違い。これも論理でいくと、そうなるね。
でもね、「怖い」と云ってしまうのはなんなのか。なにが、何に対し、感じることなのか。
そうだ、恐怖は、感覚なのではないか。闇を恐れる、原始よりの、なんか恐れみたいな、そういうものなんではないのか。教育なのではないのか。一種の人類への躾なのではないのか。

ならばそれを、考えることによって克服せよということなのか。皆さんどう思われますか。
しかし、克服するからには前もっての恐怖が必要である。やはり、もともとは、死に対して、恐怖というものが、どうしてもあるのではないか。
しかし、論理的にはこうこうであるから、自身の死は存在しない、と納得して生きるのもこれまた道ではあるな。
お好きなように。出来るだけ。

まあ、自分の死は私も、存在はしないと思いつつも、真っ暗闇の真夜中に起きて、独自の感覚で恐れることがある。
未知への純粋な恐怖であり、未曾有のものに対して嬉々と受けるか恐怖と取るかはそれぞれの、性格なんでは、ないでしょうか。

まあ自身の死はさておき、他者の死は十分に悲しいものである。
今生の別れの後、云いたかったこと、伝えたかったこと、ほんとはね、なーんてこと、死んでもいいいたくない。相手に伝えられるうちに、私は全部をぶちまける。

というわけで、憂うな、生きとしいける者よ、
つっても、憂うわな。

投稿:by 未映子 09:02 PM [心と体] | 固定リンク

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純粋悲性批判