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2004.05.28

だからこの自同律が不快なんやってば!

カートヴォネガットについて書こうと思っていていろいろ散らばった紙切れを、
今こうやってちょっと読みながら書こうかと思ってるんですが、
なんか長いし頭がしゃっきりしてないし、またの機会。

今日は熱風の一日で、これがアップされるころには雨が
ふってるのか。
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なんらかの神がいる、その存在を信じている、つまり何らかの宗教に属してる人を、
無神論者の人は笑う傾向にあり否定する傾向にあるが、
「神がある」「神はいない」と主張する点において両者はまったく同じであるということ。
つまりどちらも「ある」「ない」、どちらかを「信仰してる」ということ。

「信仰」と「論理」の距離。このふたつに明確な距離があるのか。

信仰すること。
人は論理に則って思考するとき、
論理を「信仰」してはいないだろうか。
1+1=2 を「信仰」してはいないだろうか。
人々が「わたし」と発語するとき、その無反省さの根拠は。
「わたしはわたしである」つまり「自我」を「信仰」しているのではないか?
言葉は?

「信仰」に理屈は不要。

言語を持たない脳と会話することは出来ない。
我々は「言語以前」を知らない。
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埴谷雄高の生涯を賭しての仕事について考える。
「不毛」と「崇高」を振り切って、振り切って、振り切って、もう針飛びました。
言語以前の世界をいかにして言語で語るというのか。ううううむ。無理っす。

「無理だと分かっていても、やるとやらないのでは、やったほうがいいんでね」
かくして未完の「死霊」だけが、
「自我」について思考めぐらす脳髄に、ぼんやり揺らめき、
埴谷雄高の言葉が思い、出されるのであります。

投稿:by 未映子 01:00 AM [書籍・雑誌] | 固定リンク

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純粋悲性批判