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2004.02.20

悲しみを撃つ手

忙しいんかも知らんけど日記くらい書け、とあるお方から愛あるお叱りを受けて、
まあ忙しい、忙しいけれども常軌を逸するのはおろか忙殺されるほどでもなんでもなく、寝るのはきっちり8時間もあるどうしようもなく健康的なわたしは、
そうよ、書くわよってんで、書きます。
まあ忙しいのよ。や、忙しいという定義からしてようわからん。だって自由業みたいなもんで、なんもないし、やることがあるけれども、そんなぎゅうぎゅうでもないし、歌うたったり録音したり歌詞書いたり人にあったり打ち合わせしたり、っていうのがわたしの大事な大事な仕事ですが、まあ、それとて好きでやってることで、大体そういうのにまつわる忙しさなんていうのは忙しいのでもなんでもない。でも頭の中はどうかというと、不穏である。不穏の粋の巣屈であって、こう、山手線、はたまたタクシーに乗っておっても、はたまたオムライスを食べていてもこう、何かしら、いるだけで、小春日和に涙止まらず、花粉でもあるまいに、龍ちゃん風に云うとぼんやりした不安っつうか、得体知れぬ真っ黒の恐怖に背中をいつも濡らされているような、晴れた日なんか特に。子供の頃からちっとも晴れぬ。
花が綺麗、雲が綺麗、嗚呼人生って素晴らしい!と本気で謳う友人には、同じ形態を持つ人間であるのに、この開かれた感覚の間は、この差を精製したのはなんかいな、といつも不思議に思っておりました。晴れた日ほどこわいものはなく、子供の笑顔ほど恐ろしいものはなく、幸せほど悲しいものはありませぬ。背中はまるく、うつむく角度は限界、ああ、気分気分。この気分。今では色々なお薬があるけれども。みんな頑張れ。

で、今日もこう、電車に乗ってね、揺られてるとさ、口が開いて。
最近サングラスをかけてるから世界はセピアなわけ。噴水がきらめき、プリズムもなんとなく写真めいて。ぱっと振り返ったら昔の天王寺動物園で、おばあちゃんと子供のわたしとおねえちゃんが走ってくるのよ。すんげえ楽しそうにね。楽しかった。でもその時も悲しかった。悲しい悲しいってやあね。云われてるほうは悲しくなかったらこんな鬱陶しいことないもの。わたし何にも変われてない。でね、まあ色々、とこう、思うのよ。とりとめのないことを。2月の昼下がりに東京シティのどっかで。

でも人にはこの憂鬱のことを、この曇った顔のことを、説明せなならんこともあって。わたしは仕事していて皆と同じように人を思いやり迷惑をかけてはならぬという理想を追う能力もあるので、我侭だけではいかんのであって、この晴れぬこの不穏な、周りの空気を貶めるならばその理由を延べねばならぬのであって、つまづきながら、云う、よくわからんが、こう、絶望的に悲しくて、うまく云えん怖さが、いつも、こう背中に・・・、そしたら親切な人は云ってくれる、「みんな同じだよ」。

そう皆同じであろう。たぶん。おそらく。そうなの。間違いなく、皆、怖いのであろう、皆、叫びだして、実は正気を保つ振りにもうんざりしているのやも知れん。で、わたしも云う、そう、みんなそうよね。そうでした。そうでしたよ。
子供の頃、例えば他愛もない遠足、ちょっとした肉体的な苦しみ、しかしもう限界で我慢できない、というと先生は、「何ゆってんの、苦しいのはみんな同じよ!」。でも幼いわたしは思ったことをそのまま云うので、「みんなが痛くてもわたしの痛いのは治りません、痛いままです」、「誰かが痛いのと、わたしが痛いのは全然関係ない!」。
先生がそれによってわたしに学ばせたかった、あるいは慰めたかったことは勿論よくわかるけれども、子供のころからわたしはこういう考え方しか出来なかった。だからわたしは苦しいんでる人、悲しんでる人に、みんなも同じやから、なんてことは云ったことがない。みんなが仮に、同じ苦しみを味わってるとて、その人の苦しみとはやはり根本的に関係がないと思っているからです。例えば親が死ぬとする、姉弟とはその悲しみをシェアできそうな気がする。無論わたしもそんな気がしている。そのときの悲しみの質は一番近しいものだと思う。でもその悲しみは、宿命的に素晴らしく絶望的に、どこまで行っても別個のものである。人が孤独であるというのはそういうことを含んでいる。
でも部分的であるにせよ大人になったわたしは、「みんな同じだよ」と云ってくれる人の気持ちが、先生に云われたときよりもずいぶん深くわかる。この仕事なんかでは特に、独りではないから。勇気のようなものにつながる気がすることさえある。苦しいのはみんな同じ。裏を返せば誰でも経験できるくらいの、そんな大したことない苦しみである。「自分に同情するな」とはノルウェイ永沢さんでしたっけ?「あなたは立派な人ですよ」とワタナベくんでなくても云ってしまいそうになります。
まあ気分を。気分を笑って、それが出来れば、こう噴水のきらめきを見て、晴れ渡る青々とした天を見つめつづけたとて、世界に余計な意味を付け足そうとするわたしのこのどうしようもない醜悪を、可愛いもんよと、フィジカルを、安くも高くも見ず、メタフィジカルとて同じ、こう、ぐるっと。もうちょい。なんとか出来そう、なんですけれども。
そうよ、もうちょいのとこでは、あるのよね。
ダメなときに、ぽーんと抜けられる思考の癖を。

それにしても天気がよろしい。
みなさん、雨にも風にも負けず。
ごきげんよう。

投稿:by 未映子 01:00 AM [心と体] | 固定リンク

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